作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

女性と家庭

2005年08月30日 | 日記・紀行

家庭というものは、女性の知恵によって創られる。しかし、それを壊すのもまた、女性の愚かさである。(箴言14:1)

あまりに神秘に過ぎて、わたしには理解できない四つの道がある。空を飛び行く鷲の道。岩の上を辿る蛇の道。船が海を越えて進む道、そして、男と女が愛に落ちる道。(箴言30:18~19)

不実な妻の行いはどんなものか。不義を犯した身体を洗い、そして彼女は言う。「わたしは何も悪いことはしていない」と。(箴言30:20)

働き者の妻を見出すのはどんなに難しいことか。彼女は真珠よりも、宝石よりももっと尊い。(箴言31:10)

久しぶりに、『箴言』の断章をいくつか読んだ。女性についての善も悪もよく見つめていると思う。

『箴言』の最後の章は優れた女性を称え、彼女のために捧げられている。聖書の中にこうした女性観を読むのも楽しい。

総選挙の公示を前にして、党首たちの公開討論をテレビで見た。現在の政治家よりも、五倍も十倍も優れた指導者たちが、日本の政界のひな壇に並ぶ日の来ることを期待したい。しかし、日本の教育と文化の現実を見るとき、希望は失せる。

いわし雲のきれいな空。

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メル友

2005年08月27日 | 日記・紀行

パソコンでインターネットをはじめてから七年くらいになるけれども、これまでなんとなく面倒くさくて、いわゆるメール友達というものを作ってこなかった。自分の勉強に忙しく、それに哲学や宗教に興味や関心のある友など、そうおいそれとありそうにも思えなかったから。

特に日本人は宗教に関しては深い精神的な傷を負っている。最近ではオーム真理教やその他の新興宗教の引き起こしている問題があり、さらには、太平洋戦争の敗北の結果として天皇の人間宣言がある。日本国民はさまざまに「宗教」に裏切られてきた結果、簡単に宗教を信じられなくなっている。日本人の多数にとっては、すでに宗教の信用は地に落ちてしまっている。宗教などに関心を示すものは、胡散臭い目で見られる。

その結果として、日本人は「黒い花」を持たない民族に、形而上学を持たない即物的な民族になってしまった。その結果、日本国民の精神は空虚さに満ち、品性を失い、人間関係はすさみ、家族や兄弟は絆を失い、互いに敬愛の感情も持てず、物質的には豊かではあるけれども、国民の幸福感は、あまたの経済小国にも及ばない。若者から気品と落ち着きが消え、焦燥と潤いのないささくれ立った表情が目立つ。

岩下壮一の『カトリックの信仰』を読む。明治の時代や戦前には日本にはこうした人物を生む余地を持っていたと思う。戦後の教育では池田大作のような人物や信者がのさばっても、岩下壮一や波多野精一といった人物は生まれないようになっているのかも知れない。日本国民にとって悲しむべきことである。教育や精神的な文化的な風土が根本的に変質してしまったのかも知れない。

岩下のキリスト教論については彼の教会観以外はほぼ同意できる。幸いなことに聖書そのものにはどこにもカトリックに帰依せよとは書かれてはいない。確かに、ペテロは信仰と教会の巌、土台であるとしても、今日のカトリック教会がペテロの教会を継承しているかどうかわからない。とにかく、聖書そのものには、どこにもカトリックに帰依すべしとは書かれていない。聖書はたとえすべての教会が朽ち果てたとしても、一点一画も失われない。教会がなくとも聖書は存続しつづけるが、聖書なくして教会は存続できない。聖書は教会を生むが、今日のどんな教会も聖書を作れない。唯一の権威は聖書のみ。これがカトリック教会に権威を認める岩下と私の見解を異にするところである。

私にとって聖書の共同体とは、すなわち天にある神の国が降り来るべきこの世の「神の国」は日本以外にはありえない。私にとって聖書の「イスラエル」は「日本」に置き換えて読まれるだけである。ただそれだけで、ユダヤ人やギリシャ人の聖書は、日本人の聖書ともなる。聖書の神は、ユダヤ人のみならず人類の神である。これは創世記を読めばわかる。当然に日本人の神でもある。

偽りの宗教、偽りの指導者がすっかり消え失せた百年後五百年後千年後の日本国と日本国民に残されるのは聖書のキリスト教だけだと思う。引き続き、ヘーゲル哲学を導きの糸として、聖書のキリスト教を研究しつつ、自分の思想を確立して行きたいと思う。

これからは、少し暇を創って、宗教や哲学について議論を楽しめる「メル友」も探して行こうと思う。単独ではあっても、社会的動物でもあるから。しかし、果たしてこの国にそんな友がいるのかどうか。

追記

新しく結成された国民神道の、いや間違った、国民新党のホームページに小泉首相が主人公の四コマ漫画が掲載されていました。とても面白い漫画で笑ってしまいました。

 

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ニフティの退会

2005年08月26日 | 日記・紀行

バイクのオイル交換に行く。

2002年から会員になってきたNIFTYに退会の連絡をとる。最近はココログもホームページもほとんど更新することもなかったから。とりあえず、ぷららのホームページとGOOとブログ中心に行くつもり。また、再開することがあるかも知れないし、ないかも知れない。

台風は当地を直撃することなし。台風一過の秋空といううわけには行かず、相変わらずの暑さ。

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平穏無事

2005年08月24日 | 日記・紀行

図書館から借りていた本を返却する。我が市の図書館には、あれだけ巷で取り上げられたフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』という本さえない。

先に確か舟橋市かの図書館の女性司書が、西尾幹二氏や井沢元彦氏ら「新しい歴史教科書を作る会」のいわゆる保守派著作家のメンバーの作品を破棄したということで裁判沙汰があった。私は西尾氏らの「保守思想」に必ずしも同意するものではないが、しかし、言論の自由をはじめとする、出版、結社、集会などの自由の侵害されることに、なによりも懸念を覚える。我が公共図書館にそうした偏向のないことを期待したい。ほんの小さな侵害の芽にも敏感でありたい。公共図書館のあり方についても、市はもっと市民の意見を聞き、その運営ももっとオープンなものにして行く努力をすべきだろう。自由ほど貴重なものはないから。

二十一世紀の日本の国家戦略についても考えて行きたい。

基本的には、西洋型立憲君主制。自由と民主主義が国是。参議院の廃止か削減。国会議員の半減など。

台風11号が接近しつつあるとのこと。イスラエルのガザ入植地完全撤退についての小論を宗教ブログに書く。

明日もできるだけ晴れますように。

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大文字焼き

2005年08月17日 | 日記・紀行

 

大文字焼きの送り火があった。これまでも、いろんなところから送り火を眺めてきたが、昨日はビルの一室から、左大文字を斜めに見た。これまでも賀茂大橋や出町柳の公園、鴨川の堤防、吉田神社など、さまざまなところから、それも一人で見ることもあったし、誰かと一緒に見ることもあった。

この大文字送り火を眺める位置は、その場所は、その時々の私の生活と境遇を示している。これから何回、どこで誰と見ることになるのか、それは私のこれからの運命次第だと思う。

フクヤマの『歴史の終わり』を少し読み始めた。ほとんど自分が予想した通りの内容である。

人類社会は、その政治形態を「民主主義」に収斂させて行く。社会の基本的な矛盾はをこの民主主義という政治制度によって解決しつつ進んで行くから、民主主義は人類の最終的な政治形態であって、これ以上の政治制度はなく、したがって、これ以上に歴史的な変化はない。その意味で、人類の民主主義の実現は、歴史の終わりを意味するという主張である。

時期的にもこの本が出版されたのは、旧ソ連をはじめとする、いわゆる共産主義諸国が東欧をはじめ世界的な規模で軒並みに崩壊して、歴史的にも、自由民主主義国家が普遍的な広がりを持って受け入れられた時期である。それで実際にも説得力を持った。

本書の中にも繰り返し論及されているが、人類の歴史の目的に「自由」の実現を見る見方は、カントの『世界公民的見地における一般史の構想』に始まり、それはさらにヘーゲルに受け継がれて、歴史に理性を見るというヘーゲル独創の歴史観に発展させられたものであって、周知の歴史観である。

しかし、この歴史観は、ショウペン ハウェルをはじめとして、その母国西欧には意外と反対者が多いようである。特に実証主義哲学の国アメリカでは不人気なようである。しかし、私は、基本的にこのヘーゲルの歴史観を肯定し、継承している。 

日本では中川八洋氏などがこのヘーゲルの「進歩史観」に熱烈に反対されているようだが、不勉強のため、まだまともに中川氏の著作は検討したことがないので、今のところなんとも言いようがない。

実は、20年ほど前に私も、フクヤマ氏と基本的には同じ観点で小論を書いていた。その文章もいずれ探し出してこのブログにでも載せたいと思うが、私がそのとき主張しようとしたことは、議会制民主主義社会では、政党の交代などによって、社会内の基本的な矛盾を解決しながら進んで行くから、もはや古典的な意味でのプロレタリア独裁などの革命は不必要で、これからも長く議会制民主主義社会が続いて行くことを主張したものである。これはまた共産党不要論でもあった。

   

 



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民主党に対する失望

2005年08月12日 | 政治・経済

 

岡田民主党には失望した。岡田克也氏が党内に存在する旧全逓の影響色濃い労働組合の郵政民営化反対勢力を押さえきれなかったからだ。郵政民営化の党内の反対勢力をコントロールできないで、年金や医療の改革はできない。

最終的な問題は、民主党と自民党という政党組織の中で、そのトップである小泉純一郎氏と岡田克也氏の改革に対する意識が、どちらが強いものであるかという差である。改革に向けた信念の強度の違いである。指導者の意思、それが政党を規定する。

郵政民営化反対派の亀井氏や、また、それを支持する西尾幹二氏や中西輝政氏などの尊敬すべき極右系の学者たちは、小泉首相の改革の意思を「狂信的」だとして、貶めようとさえしているが、私はそうは思わない。小泉首相にせよ、竹中平蔵大臣にせよ、郵政民営化の日本の経済構造に対する、さらには政治構造の改革におけるその意義を理性的に認識したうえで主張している。その論理的な帰結をきちんと了解した上での主張であれば、それは「狂信」とは言わない。

論理を持って反論せず、あるいはできないからこそ、大衆の感情に訴えて貶めようとするやり口のように思われる。学者に相応しくないと思う。

民主党は将来の日本の二大政党の一翼を担うべき責任を託された政党だと思っている。経済構造において勤労者、消費者と、資本家、経営者との利害が矛盾し対立している以上、基本的に民主党は消費者、勤労者の利益を代弁すべきだと思う。しかし、今回の郵政民営化問題は、国家国民の普遍的な利益として、国益として追求しなければならないテーマである。そのことを岡田民主党は理解せず、労働組合の特殊利益を擁護する立場に終始している。これでは、国民は民主党を選択することに躊躇するだろう。

郵政民営化問題は、それが国家国民の普遍的な利益として認識できているか否かという認識能力の問題であり、また、意思として岡田克也氏の改革の意思と小泉首相の改革の意思のどちらが強いか、信念が深いかという問題である。一部の学者や反対派から『狂信的』と揶揄されるくらいの確信がなければこの改革はやり遂げられない。岡田氏にはこの『狂気』がない。

一時

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新しい社会、新しい政治

2005年08月11日 | 日記・紀行

 

小泉首相が反対派に譲歩し、妥協に妥協を重ねて骨抜きにされてきた郵政民営化法案が参議院で否決された。そこで、小泉首相は衆議院の郵政解散に踏み切った。参議院を解散できない以上、止むを得ない選択であったと思う。その後の世論調査でも、国民には一般的に肯定的に受け取られているようである。

 

これまでの政治が、政治家があまりに古かった。本来、理念や価値観に基づいて結集されるべき政党が、そうではなく、談合的な利益集団になっていたことである。小泉首相が、全選挙区に民営化賛成候補を擁立して、郵政民営化に賛成か反対か論点、争点を明確にして総選挙に挑もうとしていることは評価できる。

 

これまで、日本の政党政治は政策の内容に基づいて結集されて来なかったから、今回の総選挙は、政治家の思想や価値観の差異がはっきりして、国民も自分たちの選択や価値観がより明確になり、それが政治家の選別に反映されることになる。情実がらみの従来の政治手法から、日本の政党政治が政策本位の新しいものに変化して行くきっかけになる可能性がある。

 

そして、何よりもインターネットをはじめとする情報社会の進展によって、それぞれの政党や政治家の政策がより容易に伝達されるようになったことである。郵政民営化についての政党や政治家の考え方は、インターネットでそれぞれの政党や政治家のホームページを通じて具体的に知ることができる。われわれ国民、有権者はそれを調べて、国家と国民の将来についてどういう選択がもっともベストであるかを、自らの責任でよく考えて投票すればよいのである。

 

小泉郵政改革の実際の政策担当者である竹中平蔵氏らの考え方、政策の一端なども、ネットで検索して調べれば、かなりの情報が得られると思う。『竹中平蔵大臣の「構造改革」日記』などのサイトもある。ITの普及には、明暗それぞれ両面はあるが、情報公開が進み、より公正な社会の実現して行くことが期待される。

部屋の鍵を落とした。落としたことさえ気がつかなかった。それが善意の人に拾われて、警察署に届けられていた。その人の名はわからない。こんなときには、つくづく比較的に善意の人の多い高い倫理水準の日本社会に住む幸福を思う。私のだらしなさを反省し、神と見知らぬその善意の人に感謝する。

  

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入道雲

2005年08月10日 | 日記・紀行

 

 

時折激しい夕立が降ったりするものの、連日晴天が続く。きれいな青空が広がっている。昨日は長崎の原爆犠牲者の慰霊祭があった。六十年前の広島も長崎も今日と同じように美しい青空が広がっていただろう。さもなければ、原爆は投下されなかった。原爆の被害を「効率的」にするためには、投下地が晴天でなければならなかったから。小倉の市民は、その天候のゆえに急遽投下予定地から外されて、過酷な運命から免れた。

 

夏の太陽の光熱で大気が不安定なのだろう。高空で入道雲が刻々と姿を変えて行く。その純白の清らかな美しさはくらべるものがない。それにしても、夏の大空に舞い上がる巨大な雲柱に入道雲とネーミングしたことに限りないユーモアを感じる。もちろんこの雲が純白で聖人のように清らかであるためではなく、そのむくむくと湧き上がる雲の様子が、坊主の頭のように怪しげだったために名づけられたのだろう。秋空のいわし雲と同じく、その雲の造形の妙とともに、命名にも興趣を感じる。

 

青空にせよ樹木にせよ、夏は彩りが豊かだ。世界は色彩に満ちている。この色彩の原理は光である。そして、光が粒子と波という矛盾する性質を併せ持っていることもよく知られている。ニュートンはプリズムによって白光をさまざまな色彩に分析して見せた。光には速さがあり、それが電磁波であることもわかっている。

そして、アインシュタインはその有名な公式 E = m c^2 , によって 物質が巨大なエネルギーを秘めていることを明らかにした。この公式には、物体の質量に秘められたエネルギーが、光の速度 = C の自乗に比例するという法則が明らかにされている。光の速さがどれほどの大きさであるかを想像すれば、物質の秘めている巨大なエネルギーに、恐怖さえ感じる。

 

アインシュタインやニュートンたち物理学者は、純粋に自然の神秘を解明しようとして、実際その法則性を、自然の姿の一部を明らかにすることに成功した。この物理科学の成果を政治と軍事の世界で利用し、その法則性の真理を原子爆弾によって実証したのが広島と長崎の事件である。

 

なぜ東洋は、こうした自然科学の牛耳を取れず西洋に後塵を拝さなければならなかったのか。少年時代から持ちつづけた私の問題意識はまだ、解消していない。自然科学の世界のみならず、旧態依然とした政治の世界の人間。政治においても宗教においても科学においても哀れむべきノー天気な東洋人。イラクも日本も西洋文明に敗北したのだ。この事実を直視することなくして未来はない。

 

おりしも、昨日はあの青空から、宇宙からディスカバリーが無事に帰還した。日本人野口聡一さんが乗っている。イラクのテロリストたちも一刻も早く無駄な流血騒ぎは止め、自然科学の世界で西洋人と闘争したらどうか。政治の世界のみならず、科学の領域でも日本もイラクも敗北したのだ。それを認めることから出発すべきである。

 

 

 

まもなく「終戦記念日」が来る。敗戦を終戦と言い訳することを許している国民。敗戦の痛みをこそ永久に忘れないために記念しなければならないのに。

 

 

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サイトの変更

2005年08月08日 | 日記・紀行

 

長い間、NIFTYを利用していたが止めようと思う。現在自分が使用しているプロバイダは、他にぷららもあるが、こちらは個人用でNIFTYは仕事用に利用している。しかし、実際は、NIFTYはほとんど休止の状態である。これからもさしあたっての近い将来に、活用することもありそうにない。

 

NIFTYに載せていたホームページを無料ホームページに移さなければならない。そして、NIFTYを止めれば、ココログも当然に使用中止になる。ココログに載せていた日記もGOOなどのブログに移して行くつもり。サイトの住所はどこにするか、まだ決めていない。GOOの無料ホームページを利用しようと思っている。

今日もよい天気で、昨日と同じく美しい青空。蝉時雨。

 

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立秋の日

2005年08月07日 | 日記・紀行

 

今日はよい天気だった。NTT西日本の営業の方が来られて、この地域も光ファイバーが利用できるようになったそうである。現在のADSLで、大容量のダウンロード以外はそんなに不自由はしてしていないので、変更は焦ってはいなかった。光ファイバーにしても料金はほとんど変わらず、むしろ安くなるようなので、変更の手続きをした。

 

NTTの民営化のときも、政治的に問題になっていた。NTTの改革も、きわめて不徹底で不完全な民営化だったと思う。しかし、それなりに競争原理が働いて、消費者の一人として、その恩恵を曲りなりに受けていると思う。

道路公団の民営化にせよ、郵政の民営化にせよ、正しい政治的な解決は、国民に大きな利益をもたらす。特殊な一部の団体の利益を優先する不合理な政策は、結局、国民全体と国家の将来の損失となる。より理想的な問題解決の失敗は、年間3万人に及ぶ自殺者を生んでいる劣悪な政治に再びつながって行く。

 

今回の郵政民営化の問題は、単に郵便局の問題だけではなく、効率の悪い社会主義的な「官僚政治」の打破と言う課題を含んでいるだけに、参議院での否決は、日本の政治の進路を大きく変更するものとなる。

 

この問題については小泉首相を支持していることはすでに明らかにした。国民全体の利益を優先的に考える改革派の首相や政治家をどれだけ多く国民が持てるかに国民の幸福は左右される。森喜朗前首相のような自分の腹(私腹)にしか目の行かない政治家しか持てない国民は不幸である。

 

図書館からフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』が入荷したという連絡が入ったので取りに行く。

雲一つない快晴で、六時近くでもまだ日差しは強い。本を借り出してから、ホームセンターに立ち寄り、蚊取り線香を買う。家ではほとんど蚊にかまれることはないが、涼しい風を入れるために、窓を開ける必要があるかも知れない。それで、念のために蚊取り線香を用意しておくことにする。

いつものように小畑川沿いに右京の里から竹の里通りをまっすぐに西へ、灰方まで出る。このあたりまで来ると、西の方に大原野が見渡せる。イチョウの木で蝉に代わってヒグラシが鳴き始めていた。青々とした稲穂が広がっている。自転車の散歩が一番快適な気がする。人類の文明も、自転車の発明程度で終わっていれば、もっと幸福だったかも知れない。自動車という利器を発明したばかりに、化石燃料の浪費、地球温暖化を招くことになった。

 

畑に植わったトマトの苗木から、トマトに特有の青臭い香りが流れてくる。子供のころ母親に連れられて帰った田舎の家の庭で嗅いだ青いトマトの匂いの記憶があまりに鮮明で、この匂いを嗅ぐと、いつも、なんとも切ない郷愁を引き起こされる。夏にはこの青いトマトの香り、春はレンゲ畑が幼い頃の天国の記憶をよみがえらせる。

 

大原野の景色は、いつ見てもきれいだ。秋も、夏も、春もそれなりに風情がある。今日は、北に入道雲が空高く伸び、夕日を浴びて輝いていた。昨日の広島原爆投下の多くの記念番組の連想で、きのこ雲を思いだした。もちろん、入道雲は美しく、きのこ雲の不気味さはない。

 

畑の間を自転車で走り抜けているとき、なぜか、蕪村の「春風馬堤曲」のことを思い出した。タンポポはなかったが、赤と黄の葉鶏頭がきれいだ。ラベンダーの草むらも見えた。風が涼しい。途中、大歳神社で、その縁起を読み、十輪寺に業平寺と書いてあったので、そちらの方に向かったが、途中の坂道が億劫になり次の機会にする。善峰寺にせよ勝持寺にせよ多少の坂道は覚悟しなければならない。

 

昨日の広島原爆投下犠牲者の追悼記念式について。

追悼は当然だが、解明されなければならないのは、なぜ日本政府はポツダム宣言の受け入れでウロウロしたのか。戦争終結の意思決定がなぜそれほど遅れたのか、こうした問題が徹底的に究明されなければならない。

 

それに日本政府はアメリカ原水爆開発の情報をなぜ、入手できなかったのか、なぜ、ソ連を戦争仲介者として当てにし、ソ連の満州侵攻を予期できなかったのか。こうした問題点をこそ、テレビや新聞で、問題が最終的に解明されるまで、取り上げ徹底的に分析されなければならない。

そこから浮かび上がってくるのは、日本政府の、外務省や参謀本部の情報戦における無能力である。この無能力こそが筆舌に尽くしがたい犠牲と苦悩を国民にもたらした根本原因である。アメリカに対する腐った犠牲者意識はもういいかげんに捨て去ったらどうか。

にもかかわらず、マスコミも学者も、旧日本軍、大日本帝国政府の欠陥と無能力、問題点の解明とその国民的啓発に向かおうとはしない。

最後に、切実な哲学的問題。戦争は悲惨である。そんなことは、わかりきっている。にもかかわらず、人類は有史以来、戦争を克服できないでいる。なぜなのか。人間の生まれながらの悪の本性を克服できないという厳粛にして悲惨な人間の現実がある。そして、人間はこの現実を自覚しない。平和の祈りはある。しかし、戦争は止まない。なぜか。

 

 

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