作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

歴史の探求

2008年10月27日 | 日記・紀行

歴史の探求

このブログの記事のなかでも、これまで小野小町や西行や在原業平などの事跡を取りあげたことがある。とは言え、もともとそうした歴史上の人物に私がとくに興味や関心をもっていたというわけでもなく、ただ昔に学校で習った日本史や古典の中に、それら聞き覚えていた人物の名前があったにすぎない。

日々の散歩や散輪に出かけるおりに、昔授業で教わった歴史上の、すでに過去になったそうした人々の足跡が、たまたま訪れる近所の寺社に残されているのを知って、興味ひかれて少し調べてみようと思い立ったのがきっかけになった。また最近のインターネットの発達もあって、文献や資料に当たるにも調べやすくなったということもある。

先に業平卿の人物の背景について調べていたときに気がついたのだけれども、とくに奈良朝から平安朝への移行期が、それ以降の日本史の基礎を据えるような重要な歴史的な転換期に当たるのではないか、と感じたことである。

そんなことは日本史の常識かもしれないが、学校教育で私の受けた日本史や古典の授業などは通り一遍で、また青年時代にそれだけの理解力もなかったということもあるのだろうけれども、私の歴史認識などその程度のものだった。これまでとくに歴史に興味や関心を駆り立てられると言うこともなかった。

しかし今こうして、未来の時間よりもむしろ過去の時間の方が長くなっていることを実感し始めると、すでに歴史の彼方に隠れてしまった過去の人々の面影が、私自身の過去の時間の延長に色濃く浮かび始めてくるのをどうしても感じる。

近所などを散策していて、藤原乙牟漏様などの旧跡などに出くわすと、そこにすでに眠りに就いている人々の姿が、先に逝った父や母の向こうに現れてきて、若かりし昔よりはよほど歴史に断絶感のなくなっていることに気がつく。

桓武皇后陵や業平卿の終焉の地とされる十輪寺や西行がそこで剃髪したらしい勝持寺などを訪れて見たりするとき、そして、その折りにあらためて彼らの生きた時代の背景なども調べてみると、今まで無造作に頭の中に散らばっていた彼らの人物像が、それぞれ生きてつながってくるようでなかなか面白く興味深くなってくる。

とくに業平たちの生きた平安時代の初期は、「伊勢物語」などの舞台でもあって、業平と同じ時代に生きた藤原高子小野小町などの人物像の輪郭をもっと深く明確に浮き彫りにしたいという誘惑にかられる。現在のような曖昧模糊のままでは何となく物足りないような気がする。

また、現在の私には在原業平の背後にちらちら瞥見しうるに過ぎない空海や最澄などの面影の方に、むしろ強く惹かれるような気がしている。彼らはいずれも日本史上の頂点に位置するような人々でありながら、その実像についてあまりに疎い自身の現実に驚いている。そのせいか遅まきながらも学生時代の不勉強のやり直しをかねて、この時代を中心に調べなおして見ようと思うようになっている。

幸いにして今は昔とちがってネットの発達によって、文献資料は――もちろんその精確さについては批判的に吟味されなければならないとしても、よほど手に入れやすくなっている。それを実際のフィールドワークで確認してゆくのも、歴史科学の探究として充実した時間になりそうだ。

折りしも今年は源氏物語千年紀とされている。けれども、その作者である紫式部について、その実像については、ただ昔に「紫式部日記」の断片を読んだ記憶がある程度のものでしかない。小説よりもむしろ歴史に惹かれるのは私の性だとしても、今さらながら学生時代に怠った歴史についての空白が多すぎる。生きた証に少しでも埋めてゆくために、自分なりに調べてゆこうかと思っている。

歴史の帳に隠れておぼろげにしか見えていなかった人々の姿を、より明らかに捉えることは興味の尽きないことかもしれない。さしあたってとくに、最澄、空海の生きた平安初期に焦点を絞るべきだろうか。いずれにしてもどれだけ時間を要するかは分からない。そろそろやって行こうかと思う。また、もし同好の士がおられれば歴史散策などにご同行していただければとも思っている。

 

 

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短歌と哲学(4)

2008年10月23日 | 芸術・文化

短歌と哲学(4)


ここで古典作品の二三を検討することで、短歌における芸術と哲学の関係について考察してみたい。

まず『伊勢物語』の中からいくつかの作品を取りあげてみる。

第九十七段  四十の賀の歌

むかし、堀川のおほいもうち君と申す、いまそかりけり。四十の賀、九条の家にてせられける日、中将なりける翁、

櫻花ちりかひ曇れ老ひらくの来むというなる道まがうがに

この和歌の中にも多くの事柄が語られている。「堀川のおほいもうち君」という人物が、「むかし」という言葉によって、歴史的に存在した人物として記録されている。この太政大臣が藤原基経であること、そして、基経の四十歳の誕生を祝う祝賀会が九条通にあった基経の屋敷で開かれていた事実も歴史的な背景を探ることによって明らかになっている。しかし、和歌、短歌としては、そうした個別具体的な歴史的な真実についての知識や認識を和歌の鑑賞の必須要件としているわけではない。

確かにこの和歌には、「太政大臣」という平安時代の官職制度や、中将という地位にあった在原業平とおぼしき人物など、これらが短歌の背景であり舞台となった歴史的な事実も記録されているし、またこの短歌を手がかりにさまざまな歴史的な真実を探ることもできる。

しかし、言うまでもなく和歌によって詠われている主題は、そうした個別具体的な事実を超越したところに成立する。それは観念的に昇華された普遍的な真実であり、そこに芸術としての意義もある。この短歌においても、桜花の散り舞い落ちる道という具体的な美的な形象のうちに「老い」への道程を断ち切ることを願う人間的な真実が詠い込まれている。

一個の独立した芸術ジャンルとしての短歌は、三十一文字の裡に言い現された美と真実の統合のうちに、そのとき歌人が揺り動かされた心への実存的な共感に、その価値を見出すのだろう。もちろん、それが時代と個人のその歴史的な記録性としての価値をもつとしても、それは従属的な副次的なものである。

次の歌は、儀礼的な環境で詠まれた先の四十の賀の歌よりは、真率な感情が詠われている。

第百二十五段(伊勢物語)

むかし 男わづらいて 心地死ぬべくおぼえければ

つひに行く道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを

ここでは、人間にとって絶対的な制約である死が歌の主題になっており、それがひとりの人間に対してどのように臨んだかを和歌の詠唱という形式において明らかにされている。哲学が散文的に概念的に死の意義を論じるのに対して、短歌においては直観的に感覚的に訴える点において、そこから受ける印象は哲学以上に強烈であるといえ、また概念的ではないだけ大衆的でもある。

この歌には死が何らかの具体的な表象において描かれてはおらず、もっぱら死という普遍的な人間の真実に「きのうけふ」直面した人間の心情が率直に詠われているだけである。
業平はもちろん自然発生的な感情に駆り立てられてこの和歌を詠ったのであって、現代的な意味で死を哲学的な自覚において作歌したとは考えられない。

しかし、もし「死」が植物、動物をはじめあらゆる生命として存在の、したがって同時に人間としての究極的な原理の一つで絶対的な限界であるとするなら、業平によって詠まれたとされるこの短歌の主題は、まぎれもなく哲学と共通している。

死は確かに個別具体的な「事実」ではあるけれども、その事実も、またその際に人間にもたらす精神的な「感動」も、それが「短歌」という形式において作られることによって、死のもつ意義を感情的にまた反省的に捉えることができる。それは言語をもつことによって本来的に「観念的」な動物となった人間のみに可能なことである。人間の感情はすでに言語を介在させたものになっている。言語をもたない動物は「死」を反省的に捉えることはできない。

すでにここでは短歌が芸術と哲学の接点において詠われていることは明らかである。万葉歌人にはまだ死をこのように反省的に捉える段階には達していなかった。実際「死」というような哲学の主題ともなりうる事柄が、業平によって象徴的に感情的に詠われはじめたことに短歌の発展が見られるといえる。

ただ短歌においてはそうした抽象的な主題が、感覚的に感情的に表象することに意義がありまたそこに限界もある。個別芸術としての短歌はそれに満足するしかないが、しかし、業平の時代とは異なって、はるかに深刻で分析的な意識を持った現代人が歌を作るときには、そこにより自覚的に哲学的な主題を短歌に設定することもできるだろう。

西行の『山家集』の中には次の歌がある。

六波羅太政入道持経者千人集めて、津の国和田と申す所にて供養侍りけり。やがてそのついでに万燈会しけり。夜更くるままに、燈火の消えけるを、各々点しつぎけるを見て

862   消えぬべき  法の光の  燈火を  かかぐる和田の  泊まりなりけり

西行や紫式部の和歌は、もはや万葉歌人のように天真爛漫のものではありえない。彼らの歌には当時の時代思潮である仏教思想が浸透している。仏教の観念を意識した人間によって詠まれている。その意味で歌人もまた時代と民族の子である。時代の不安に仏教に救いを求めて出家した西行の意識が、この和歌の中にも色濃く反映している。

当時の没落しつつあった貴族社会に流布していた末法思想の不安な世相の中で、万燈会に点された灯火が今にも消え入るように揺らいでいる。和田の泊まりの海面は、そのおびただしい灯火を映している。それを見た西行の不安な心象風景が、美しく妖しく幻想的に詠まれている。

この短歌の詞書きには、この歌の詠まれた背景がくわしく語られている。それによって私たちはこの和歌の詠われた背景をくわしく知ることによって、この和歌の鑑賞においてより深く味わうことも可能になる。

時代の混乱と不安の中におかれたこの現世で、西行が出会い見つめた美しい光景の一瞬がこのように詠まれることによって、一個の短歌の作品として象徴的で普遍的な独自の存在価値をもった創作として記録されている。

西行は平安期末の京都を中心とした日本という特殊な環境に生きたのであり、それが彼の運命であったのだが、それは西行に限らず、どんな人間においても、その生存は特定の地理的な場所と歴史的な時間の制約にある自然的および社会的な環境の下に生きざるをえない。場所と時間は人間がその生活を営む舞台である。

現代に伝わる万燈会

人間は時代と空間に規定されている。個人はすべて時代と民族の子である。そして、短歌はそのような運命におかれた人間の生存の記録としての意義ももちうる。西行のこの歌はそれを示している。

これらの三つの作品によっても、伝統的な従来の短歌が、今日でいう哲学的な主題をどのように取りあげているかを見ることができる。とりわけ西行の「消えぬべき」などの短歌は、芸術と哲学の境界の上に咲いた美しい花といえる。

最後にもう一つ言い置かれなければならないことは、あるいは、言うまでもないことかもしれないが、西行であれ業平であれ、彼らの和歌に彼らの置かれた社会的な地位や身分が反映されていることである。

当時の社会の中では彼らは貴族階級に上流階層に属し、彼ら自身は生産的労働に直接的に従事しなくてもよい身分にあったらしいことである。生活に余裕がなければ、彼らのような歌もまた詠まれることはなかった。その意味でも、彼らの詠唱はこの上ない贅沢の上に成り立った産物であるということができる。


(きわめて荒削りで不十分ですが、和歌、短歌における哲学の可能性を理論的に検討してみようと試みたものです。 )

 

 

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短歌と哲学(3)

2008年10月22日 | 芸術・文化

 

短歌と哲学(3)

文学は言語のもつリズム、音韻によって本来的に音楽性を含んでいる。また言語は概念と表裏一体である同時に、たとえ抽象的ではあってもその表象が色彩や形象をもつ点で美術の性格の側面も併せもっている。それゆえ言語芸術である文学は芸術と哲学の境界に位置する。

その文学の一ジャンルである短歌は、もちろん個別芸術としてそれ自体の自立的な完全性をもち、独自の価値を追求する。その自立的な完全性は、短歌の形式である三十一文字のもつ音韻とリズム、その言語のもつ表象の象徴性のなかにある。

しかし、文学としての簡易な様式のゆえに短歌は、ちょうど画家にとってのスケッチやデッサン、あるいは音楽家にとっての練習曲のような役目も果たしうる。ちょうど画家がデッサンやスケッチにおいて絵画の基礎的な訓練を怠らないように、またピアニストがバッハなどの練習曲につねに慣れ親しむように、短歌の制作において日常生活の中から素材を発掘し、メモをとりながら主題を発想し、同時に言語の表象を彫琢し、用いる概念を洗練する。

また、その制作の推敲の過程で感性を鋭くし作品としての造型性を深めて、芸術品の創作の価値と能力を向上させてゆくなかで、どのジャンルに属する芸術においても修練としての効用をもちうるのである。もちろんその質的な内容の向上のためには、短歌においても、あらゆる芸術がそうであるように、一定以上の量的な訓練の消化を必要とすることは言うまでもない。

短歌の制作のみならず一般に芸術品の制作において、人間は文化的な社会的な存在として自然や同類である他者に関係する。人間は社会的動物であると同時に文化的な動物として、歴史的に社会的に形成された何らかの認識や行動の枠組みを学習しながら成長する。文化とはそうした思考と行動の様式でもある。

その典型が言語である。言語は人類の歴史的な産物であり文化の頂点にたつ。そして個人は日本語なり英語なり特定の言語を思考の枠組みとして取り入れることによって社会的な存在として生きる。

その意味では文化とは、人間が世界を眺めるときの「先入観」を形作るものである。そうした認識のための枠組としての道具、「パラダイム」は歴史的に社会的に作られるのであるが、その文化も弁証法的であって、人間は文化を形成するとともに、またその属する文化によって規定もされる。すべての個人は民族の子、時代の子として属する文化のもつ価値観、行動様式などの影響を受ける。 

短歌は日本を象徴する一つの文化である。その風土と歴史のなかで発展してきたもので、長く深い伝統をもっている。短歌は日本人が自然や人間などの世界を芸術として捉える一つの型である。

日本人の感覚が短歌において捉えうるものは、その生活の舞台である独自の地理や気候や風俗であり、自然や社会の物象であり事象である。歌人にとってそれらの事物、現象は、その背後に存在するもののシンボル、象徴として現れてくる。そのとき象徴されるものは、現象の背後に隠れている普遍的で恒久的なものとしての本質あるいは概念である。歌人が作歌においておいて捉えようとするものは、その象徴によって映されるさまざまな現象の背後に存在する本質もしくは概念である。

というよりも、歌人が言語によって事物の姿を捉え映そうとするとき、自ずから本質的で普遍的な事柄を現すことになる。なぜなら、言語は本来的に普遍的で抽象的な事柄しか言い現しえないからである。

そして、短歌においてもこの普遍的な事柄の言い現しにおいて、感動の基礎にあった感覚の対象としての個別具体的なものは、その作品で言い現そうとしている事柄すなわち概念の裡に保存されアウフヘーベンされている。そして、そのとき短歌はもとの個別具体的な素材から切り離されて、それ自体の独立した価値をもつにいたる。それが完成された芸術品としての短歌である。このとき短歌は、哲学の目的でもある概念を事柄として捉えることができる。ここに短歌における哲学の可能性を求めることができるのではないだろうか。

もちろん、従来の普通の歌人は歌人として心に受けた感動を言葉に言い表すだけであって、こうした哲学的な自覚は歌人にとって本来の作歌の目的ではない。カントは物自体は認識できないものとして不可知論に終始したけれども、また、現象の総体に本質を見るヘーゲルは汎神論者に誤解されるということはあったとしても、芸術であれ哲学であれ、それらが本来的に捉えようとしたものは、現象に象徴されるものの背後に存在する恒久的で普遍的なものである。この点において短歌も簡易な形式ではあるけれどもその他の芸術や宗教、哲学と同じ意義をもつことができる。

 

 

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森元首相の戦後教育批判

2008年10月21日 | ニュース・現実評論

 

<森元首相>「戦後教育の過ち」日教組を批判

自民党の文教族で、総理大臣在任中は、もっとも無能な総理大臣と言われて支持率も最低だった森喜朗元首相が、日本の戦後教育を批判しているらしい。

だが果たして、この森喜朗氏に戦後の日本の教育について批判する資格があるのだろうか。

日教組の教育に対する批判は国民がよく知っている。むしろ、戦後の日本の教育にもっとも責任のあるのは、日教組以上に文部省、文部科学省の無能かつインモラルな官僚たちと自民党文教族政治家たちではないのか。

森元首相は、世論の尻馬に乗ってすでに池に落ちたイヌ日教組批判をして自分たちの責任を棚上げにする前に、戦後教育のみじめな現実を前に跪いて、まず自民党の戦後の文教政策そのものを文部科学省の役人たちと一緒に反省してからの話ではないだろうか。しかしその反省をするにも能力がいる。

 
<森元首相>「戦後教育の過ち」日教組を批判(2008年10月20日 22時26分毎日新聞)
 自民党の森喜朗元首相は20日、名古屋市での講演で、日本教職員組合について「親や子供を殺すようなことが珍しくもない世の中になったのはなぜか。やはり戦後の日教組教育の大きな過ちだ。それが民主党の支持団体じゃないか」と批判した。同党では、中山成彬衆院議員が同様の日教組批判などで失言をし、先月末に国土交通相を辞任している。  森氏は、衆院解散・総選挙については「(年内選挙であれば)常識的には11月30日投開票になるが、国際金融問題で主要8カ国(G8)などの首脳会合をやろうと、ブッシュ米大統領が呼びかけている。麻生太郎首相も少し悩みが多いかと思う」と述べた。【近藤大介】

 

 

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オルフォーさんに

2008年10月20日 | Weblog

 

オルフォーさん、はじめまして。コメントありがとうございました。たぶん西尾幹二氏の「インターネット日録」のリンクから来られたのだと思います。

あなたは、西尾幹二氏を「興味深い人物」だとおっしゃられていますが、私にはなぜ戦後の日本には西尾幹二氏に類するような人材が少ないかという問題意識に連なります。

ただうかつにも、10月18日の日録を読むまで、西尾氏が大江健三郎氏と同学年であるとは知りませんでした。私の印象では、昭和の政治家の岸信介氏や民法学者の我妻栄氏のような、旧制高等学校の卒業生のように戦前の教育制度の下で成長されたというイメージを漠然と西尾氏に感じていたのです。

しかし、ご自身のブログのなかで西尾氏が「私は大江とは違う意味でだが、むしろ自分を「戦後型」だと考えている。社会科学的発想というものが身についている。階級意識がない。民主主義をとても大事に思っている。」と述べられて、西尾氏がご自分をいわゆる「戦前型」の保守主義者と一線を画されようとしている点にも共感しました。

私も「戦前型」保守主義を無批判に受容しようというのではありません。ただ、戦後が「たらいの水と一緒に赤子も流してしまう」ように、戦前の良き面をも否定してしまった。その結果として戦後は戦前にも劣ることになっているという認識があるからです。戦前の日本の良き伝統はむしろブラジルやアメリカの日系人や韓国や台湾の旧統治国に一部残されていると思います。

現在の日本の文化状況に対して――そのなかにはNHKなどのマスコミも含まれますが、かって三島由紀夫が批判したような愚劣な市民社会文化と衆愚民主主義を国家がどのように批判しアウフヘーベンしてゆくか、この点でも西尾幹二氏は実に貴重でかけがえのない働きをしておられます。いつの日か「ネット文化」の中からも徹底的なマスコミ批判の嵐が巻き起こることを、そして、それがまともな日本の文化文明の復興につながることを期待しています。

最近のアメリカの金融崩壊についても、かねてからグローバリズムとナショナリズム、あるいはパトリオチズムとの関係で、その矛盾が明らかになることは予測されたことでした。

その意味で今回のアメリカの金融崩壊は、アメリカのグローバリズムを無批判に受け入れようとしていた日本の政治に対する一つの警告にはなるのでしょう。ただ、グローバリズムのもつ意義を全面的に否定し去るのも正しくないのではないでしょうか。グローバリズムがこれまで全世界で一定の影響力をもってきたことにも、それなりの根拠や意義があったからだと思います。グローバリズムの意義とは何であったのか、それを限界とともに見極めることも大切ではないでしょうか。

アメリカの大統領共和制はむき出しの「市民社会国家」です。それは経済的には典型的な「資本主義社会国家」であり「市場原理主義国家」として現象してきます。その意味で日本やイギリスなどヨーロッパ諸国の「立憲君主制国家」はアメリカのようなむき出しの「市民社会国家」に対する批判としての存在価値をもちます。
『至高の国家型態』

アメリカの「市場原理主義」に対して日本は「立憲君主制国家」として主体的に批判的に対応してゆく必要があります。西尾幹二氏の小泉郵政改革に対する批判はそうした点に意義もつものではないかと思います。ただ『小泉郵政改革』の意義についての評価の点で私は西尾氏と若干意見を異にするのかも知れません。

民主党に対する失望
小泉首相は英雄か

最近の若者にどのように西尾幹二氏が受け入れられているのかは、うかつにもよく知りません。ただ、立憲君主制国家の保守という点で西尾幹二氏の思想家としての存在価値は極めて高く貴重でかけがえのないものです。

 

 

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オルフォーさんに

2008年10月20日 | ニュース・現実評論


オルフォーさん、はじめまして。コメントありがとうございました。たぶん西尾幹二氏の「インターネット日録」のリンクから来られたのだと思います。

あなたは、西尾幹二氏を「興味深い人物」だとおっしゃられていますが、私にはなぜ戦後の日本には西尾幹二氏に類するような人材が少ないかという問題意識に連なります。

ただうかつにも、10月18日の日録を読むまで、西尾氏が大江健三郎氏と同学年であるとは知りませんでした。私の印象では、昭和の政治家の岸信介氏や民法学者の我妻栄氏のような、旧制高等学校の卒業生のように戦前の教育制度の下で成長されたというイメージを漠然と西尾氏に感じていたのです。

し かし、ご自身のブログのなかで西尾氏が「私は大江とは違う意味でだが、むしろ自分を「戦後型」だと考えている。社会科学的発想というものが身についてい る。階級意識がない。民主主義をとても大事に思っている。」と述べられて、西尾氏がご自分をいわゆる「戦前型」の保守主義者と一線を画されようとしている 点にも共感しました。

私も「戦前型」保守主義を無批判に受容しようというのではありません。ただ、戦後が「たらいの水と一緒に赤子も流し てしまう」ように、戦前の良き面をも否定してしまった。その結果として戦後は戦前にも劣ることになっているという認識があるからです。戦前の日本の良き伝 統はむしろブラジルやアメリカの日系人や韓国や台湾の旧統治国に一部残されていると思います。

現在の日本の文化状況に対して――そのなか にはNHKなどのマスコミも含まれますが、かって三島由紀夫が批判したような愚劣な市民社会文化と衆愚民主主義を国家がどのように批判しアウフヘーベンし てゆくか、この点でも西尾幹二氏は実に貴重でかけがえのない働きをしておられます。いつの日か「ネット文化」の中からも徹底的なマスコミ批判の嵐が巻き起 こることを、そして、それがまともな日本の文化文明の復興につながることを期待しています。

最近のアメリカの金融崩壊についても、かねてからグローバリズムとナショナリズム、あるいはパトリオチズムとの関係で、その矛盾が明らかになることは予測されたことでした。

そ の意味で今回のアメリカの金融崩壊は、アメリカのグローバリズムを無批判に受け入れようとしていた日本の政治に対する一つの警告にはなるのでしょう。た だ、グローバリズムのもつ意義を全面的に否定し去るのも正しくないのではないでしょうか。グローバリズムがこれまで全世界で一定の影響力をもってきたこと にも、それなりの根拠や意義があったからだと思います。グローバリズムの意義とは何であったのか、それを限界とともに見極めることも大切ではないでしょう か。

アメリカの大統領共和制はむき出しの「市民社会国家」です。それは経済的には典型的な「資本主義社会国家」であり「市場原理主義国 家」として現象してきます。その意味で日本やイギリスなどヨーロッパ諸国の「立憲君主制国家」はアメリカのようなむき出しの「市民社会国家」に対する批判 としての存在価値をもちます。
『至高の国家型態』

ア メリカの「市場原理主義」に対して日本は「立憲君主制国家」として主体的に批判的に対応してゆく必要があります。西尾幹二氏の小泉郵政改革に対する批判は そうした点に意義もつものではないかと思います。ただ『小泉郵政改革』の意義についての評価の点で私は西尾氏と若干意見を異にするのかも知れません。

民主党に対する失望
小泉首相は英雄か

最近の若者にどのように西尾幹二氏が受け入れられているのかは、うかつにもよく知りません。ただ、立憲君主制国家の保守という点で西尾幹二氏の思想家としての存在価値は極めて高く貴重でかけがえのないものです。

 

 

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きれいな満月

2008年10月13日 | 日記・紀行

きれいな満月

この連休は美しい秋晴れの日が続いた。体育の日の今日草取りに山畑に行く。怠けて放っていたニンジンの周囲の草取りをする。ブロッコリー、大根、水菜、壬生菜、菊菜、タマネギなどの芽は、ズボラにわか百姓をも免じてそこそこに芽を出していた。自然は慈悲深い。農家のように生活がかかっていないからのんきなものだ。秋ナスとシシトウと最後の葉生姜を抜いて帰り、食卓に添える。

日が落ち、夕闇が濃くなってくると、東の空に満月が輝きはじめる。空から落ちてくる月の光はわが姿を影絵のように道ばたに写しだした。象牙を丸く掘り出したような月が浮かんでいる。地球のようには青くはない。紫式部や西行も見た月だ。

ここしばらく、マスコミはどこでもアメリカの「金融恐慌」を取りざたしている。プロテスタント・アメリカに対する罪と裁きということか。そして昨日、そのアメリカはなりふり構わず、テロ国家北朝鮮を指定リストから外した。そして、アメリカに泣きつくしかない日本は、いつものように悪女のように愚痴の泣き言をたれるばかりだ。口に出しては誰も言わないが哀れなものである。

また三浦和義氏がロスアンジェルスの拘置所で自殺したことが報じられていた。取り立てて語るほどのことでもないかもしれないが、それでもエポックを象徴する小さな事件として記録しておいてもよいかと思った。

三浦氏の事件についてはさまざまな点から論評できるだろうし、またその論評自体が評者の立場や思想をあらわすことになるだろう。

三浦氏はよかれ悪しかれ日本の戦後を象徴する人物としてみていた。ある社会に病理が伏在しているとすれば、おりに触れて吹き出物がある個所から現象してくるものである。

太平洋戦争の日本の敗北とその後のアメリカ占領軍統治。その帰結としての「半植民地文化」、その土壌に咲いた戦後日本文化を象徴する仇花。アメリカ文化の表面的な模倣と日本人の民族性の一面とがミックスされた土壌の上にのみ咲く。

三浦氏が犯罪者であったかどうかは分からない。しかし、三浦氏の言動はやはり戦後日本人のものであったと思う。そして、日本の司法においては無罪が宣告されたが、アメリカの司法当局は死に至るまで追求の手を緩めなかった。アメリカの「半植民地文化」の申し子が、もう一つのアメリカによって裁かれようとしていたのである。アメリカは広く懐も深い。それを知らずして傲った戦前の日本は戦いを挑んで破れた。これが私にとっての三浦氏の死のもつ意義である。

日本の戦後はまだ終わらない。太平洋戦争の敗北以降の、戦後という区分とその終焉についての定義は人によってさまざまだろうけれど、少なくとも私には戦後はまだ終わらない。

日本の戦後の終焉とは、日本国内からアメリカ軍基地がすべてなくなり、戦前の日本のように、自国の軍隊の独力で国土の防衛を果たす日である。その日が来るまで私には日本の戦後は終わらない。

今晩、NHKで――NHKも公営放送として少なからず問題を感じているが今ここでは触れない。もちろん評価できる点もある――『月と地球46億年の物語』という番組が22時からあり、月探査機「かぐや」が伝えてきた映像とデータにもとづいた月と地球の新しい宇宙像を伝えていた。

今夕おりしも山合の畑から見た白い月も、昔かぐや姫が月の世界から天上の使者の迎えに来るのを知ってひどく泣きじゃくったのと同じ月だ。かぐや姫はこの洛西の竹林のどこかに生まれ育ったそうだ。

[短歌日誌]⑤2008/10/13

満月の浄き世界を捨ててまで穢土の翁媼に泣いてすがりし

 


 

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短歌と哲学(2)

2008年10月10日 | 芸術・文化

 

芸術作品に共通する特徴の一つとして、その軽やかな美しさというものがある。その典型が音楽である。音楽はあらゆる芸術の中でももっとも抽象的で、それゆえあらゆる現実存在の重苦しさからは解き放たれている。それは時間と空間のもっとも抽象的な世界へと私たちを誘うものであり、音楽は一つの啓示である。少なくとも啓示とはどのようなものであるかを予感させるものである。音楽はその意味で純粋な形而上の世界のミメーシスであるといえる。

文学もまた芸術の一つのジャンルとして、言語の表象とリズムによる「影の国」を形成する。それは音楽よりは具体的ではあるかもしれないが、それでも「影の国」としてあるいは「光の国」として、現実存在から自由に解き放たれた精神はその饗宴に遊ぶ。

そして、それぞれの芸術もまた多くの分野で特殊な発展を遂げている。音楽にも交響曲のような重厚長大の作品から小夜曲にいたる小品までさまざまな様式がある。絵画も同様で巨大な壁画、天井画からデッサンやスケッチの類までさまざまである。

短歌という様式はもちろん文学の中の一ジャンルではあるけれど、また詩歌に属するが、とくに五七五七七音と三十一文字という日本語に特有の音韻にそって歴史的に発展してきた。それゆえ当然のことながら、その形式のもつ特殊性のゆえに、短歌においては長編小説のように深刻な人間ドラマや哲学的な主題をその中で具体的に展開することも追求することもできない。

しかしまた、その軽薄短小としての形式として弱点は、一方では長所とも利点にもなりうる。短歌の近隣芸術である俳句などと同様に、その形式の簡易さ単純さゆえに、より大衆的な要素を備えている。実際にも短歌は俳句などとならんで日本においては、農民、商人、教師、主婦などの勤労者、大衆の間にもっとも広く普及している伝統的な芸術様式である。

短歌については、今においてももっともその本質を規定しているのは、やはり古今和歌集の仮名序の中に紀貫之が語っている次の言葉だろう。貫之は次のように述べている。

「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事わざしげき物なれば、心に思ふ事を見る物きく物につけていひ出せるなり。花になく鶯、水にすむ蛙の聲をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をもいれずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和げ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。」

だからこの本質を外れるものは、もはや短歌ではないといえるかもしれないが、しかし、この本質を原点としながらも、短歌がその歴史の中でさまざまに発展してきたことも事実である。それは和歌の初心としての万葉集から始まり、古今集などのさまざまな勅撰和歌集へと、さらに歴史的にさまざまな停滞と変革と発展を遂げながら今日に至っている。

その中で初心を失い完全に様式化されてしまう時代の来ることも避けられない。独自のみずみずしい豊かな発想も失い、マンネリズムにおちいって芸術としても停滞してしまったと言われる古今集以降、あるいは江戸期を経て、今日に至るまで短歌の世界もさまざまな革新の試みがなされてきたようである。学校における文学史の学習でも、とくに近代においては明治維新後の西洋文化の影響を受けて正岡子規らによってなされた短歌・俳句の革新運動がよく知られている。

そうした歴史的な発展の足跡については、別に専門書で調べていただくとして、この小論で明らかにしておきたかったことは、要するに単なる自然に対する叙情や恋愛感情の発露に過ぎないと思われてきた短歌にも、ただに芸術的な意義のみならず、宗教的な、さらには哲学的な短歌としての可能性を見出しうるのではないかということである。

この立場は、従来の伝統的な短歌の立場に立つ人にとっては「邪道」であるかもしれないけれども、短歌のそうした可能性の一つの方向を追求できないか、哲学の立場からそれを問うのも自由であるはずだ。

この発想をもつようになっていた背景には、国民的な歌人である西行の和歌はすでに単なる美的な叙情にとどまらず宗教的な感情や認識をその和歌に示していることがあった。

さらに直接の契機になったのが、日経新聞の毎週木曜日の夕刊に、「現代短歌ベスト20」と題して佐佐木幸綱氏が入門講座を連載されていたのを読んだことがある。その中でとくに渡辺直己、故宮柊二氏の短歌を詠んで啓発されたことである。

そこで取りあげられた現代短歌に、美的な感情表現と同時に、何よりも短歌が人間の日々の生活の中で実存的な記録性をもちうることに気付かされたからである。確かにそれらに着目することを短歌入門の契機とするのは、短歌への道としては本来的でもオーソドックスでもないかもしれない。

一方で、概念のもっとも無味乾燥の世界に終始するのが哲学である。そうした仕事の中で短歌は比較的に短時間のうちに芸術的な表現欲を充足させてくれる貴重な形式である。その点において時間にも余裕の少ない者にも都合がよい。また、短歌の日常的な制作が、その制作上での修練が、言語のもつ表象力や概念の彫琢、吟味の素養の上で果たしうる意義も、また、さまざまな発想や認識の記録としても、決して小さくはないと思われることである。


 

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短歌と哲学(1)

2008年10月09日 | 芸術・文化

 

1507    雲につきてうかれのみゆく心をば山にかけてをとめんとぞ思ふ

西行は山の麓に流れ行く雲を見ている。と同時にその雲に誘われるように自分の心に漂泊への思いの兆し始めているのを自覚している。もちろん私たちには西行がどのような場所でこの歌を詠じたのか知るよしもない。

峠を上りつめたところ正面にその山容を眺めたのか。しかし、この歌は、時の過ぎゆくままに流れゆく雲と、その一方で時間を超越したかのごとくに泰然自若として不動の姿を見せている山との、その静と動のコントラストをしっかりと捉えているのであるから、この和歌を詠じた主体である西行自身が動いていてはその対比は捉えきることはできない。

おそらく、隠棲していた庵の窓から、流れゆく雲と、それを遮りつなぎ止めるような大きな山を西行は眺めていたのかもしれない。この歌から読みとる情景は私たちに自由に想像できるし、またそうするしかない。けれども、ただ、この歌から確実に読みとれるのは、流れ行く雲が旅や漂泊に対するやむにやまれぬ憧憬に西行を誘うその一方で、その心を押さえ殺そうとしている西行自身の矛盾した心である。

雲に付き従って行こうとする心、それは旅に出ること、また歌を詠じることであったが、それを「うかれのみゆく」と詠うことによって、仏道修行の真摯さや信心の堅固さを象徴する山と比較している。そして西行は自らを責めているのである。

1508    捨てて後はまぎれし方はおぼえぬを心のみをば世にあらせける

世間を捨てて出家してからは、世俗の煩わしい出来事や執着に思い乱れることはなくなったけれど、ただそれでも、わが心は妻と娘を置き去りにしてきた世の中にいつまでも残されたままである。

このような中古の和歌を深く正当に鑑賞するためには、西行の生きた平安末期という世紀末的な時代の転換期の背景を知っておくことも必要なことだろう。出世間の願望は、すでに平安の貴族である光源氏に象徴的に見られたように、仏教思想の流布とともにまず支配層から浸透していった。そして貴族の社会から武士の時代に移行するとともに禅仏教の思潮が色濃くなってくる。

西行も聖と俗の二律背反をよく自覚し、西方浄土への悟りへの道程の中で、出家と漂泊の間に揺れ動く矛盾する自らの心を詠うことを和歌の主題としていた。だから西行の時代においては、和歌はすでに古今、万葉の時代の伝統的な自然美や単なる恋愛感情の詠唱の段階から、宗教的な感情や表象を主題とする、いわば形而上的な対象を和歌の主題にするという段階に入っていたのである。

[短歌日誌]②2008/10/09

ふたたび「マディソン郡の橋」をDVDに見て

アイオワの夏の宵に深南部米国人の熱き情語りたる

 

 

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ヒヨドリバナ

2008年10月01日 | 日記・紀行

 

今日から十月、神無月である。神無月とは日本全国の神社に祭られている神々が、この月に出雲大社に集まるためにいなくなることに由来するそうだ。その真偽はとにかく、そこに古来からの土着的な宗教の起源について何らかの真実が語られていそうで奥ゆかしい。

陽暦ではただの10月で数字の順位が示されるだけで味も素っ気もないけれど、歴史的にはそのほとんどを陰暦の下に暮らしてきた日本人にとっては、当然のことながら、その呼称の裏には人々の季節感や生活感、自然観が籠められている。

陰暦の月呼称と別称
http://www.taka.co.jp/okuru/engi/inreki01.htm

はるか昔、出雲地方から日本全国に散らばった豪族たちが、自分たち氏族の出自と団結を確認するために、年に一度自らの出身地に帰り集結するという、民族の遠くはるかな記憶がそこに刻み残されているのかもしれない。

山畑へ行く。青紫蘇がいよいよ薹がたち実を付けはじめて、もはや柔らかく薫り高い若葉がなくなり始めて残念に思っていたところ、青紫蘇の実がいい佃煮になり鉄分も豊富であることを教えられた。それで、ざるに一杯ほど摘んで帰ることにする。

自宅に戻ってから、その青紫蘇の実を採っていると、指先が濃い茶色に染まるほどだった。それは葉や実に含まれる鉄分によるものかもしれないと思った。そして、教えられたとおりに、油と醤油と酒と味醂で――あいにく切らしていたので黒砂糖を代わりに、佃煮にした。

美味しいご飯に合う。鉄分の不足しがちだといわれる日本の女性におすすめかもしれない。今年の夏、この青紫蘇は冷や奴などにもよい香りを添えてくれた。

                                                   

また、それほどたくさん育ったわけでもないけれど、小さな畑の一角から葉生姜を引き抜いて帰った。洗ってそれに八丁みそを付けて食す。ささやかな山の幸であり味わいではある。
はたして、いつの日か本格的に農に打ち込める日は来るのだろうか。それも神様の思し召ししだいか。

何をきっかけに見て知ったのか、アフリカの若い娘から詐欺メールが届いていた。さまざまなところから送られてくるスパムメールに現代人の精神状況の一端が知られる。最近の犯罪も「ネット文明」と決して無関係ではないと思う。それは人間を獣性に駆り立てる。

注文していた『HYMNS  ANCIENT  &  MODERN  NEW  STANDARD』が届く。

[短歌日誌]①2008/10/01

山合の道を歩いているとき、白い素朴な花に出くわした。一見フジバカマの風情で一瞬歓んだけれど、色が白くて赤みがない。花先が絹綿のようでふっくらとしているからオトコエシのようにも思われない。家に帰ってからネットで調べてみると、どうやらヒヨドリバナと言うらしい。その呼び名は可愛いけれど、花の姿とどうしても結びつかない。ただ、暮れなずむ山野の中で、その野草の花の白さだけが印象に残った。

 

初秋の人影もなき山野辺に名も知らぬ花の潔く白けし

 

 

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