作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ブログ開設一周年

2006年06月23日 | Weblog

 

今年も紫陽花の季節を迎えた。今月末でこのブログを開設してから、ほぼ一周年を迎える。昨年の今ごろ、このブログを書き始めたときのことは、今もよく覚えている。雷が鳴っていたこと、操作ミスで、書きかけた原稿を一瞬のうちに失ってしまったことなど。それも、ブログ日記には記録してある。

この日記には、結局これからも、理念との戯れを記録することになると思う。私のイデーとは何か。それは、「自由にして民主的な立憲君主国家」である。その建設のために、私の生涯が捧げられるはずである。ただ、それが絶対的なイデーであることはまだ証明できていない。まだ、直観のレベルである。


それはとにかく、昨年に、この日記を書き始めたとき、ブログを書いてから、バイクのオイルの交換に洛西のバイク店に行った。その待ち時間の間に、散歩がてら小畑川沿いを散策したときに、青サギが小魚を啄ばもうとしているのを、しばらくたたずんで見ていた。あのときの青サギの姿もはっきりと記憶に残っている。私たちは不可逆の、一回性の生を生きざるを得ないが、生涯の時間の一瞬を永遠に記録したいという願望を誰しもが持っている。

そして、私たちはこの流転止まない世界を、言葉の威力によって、永遠の記憶の中に釘で打ちつけようとする。芸術や宗教や哲学は、有限の存在である人間が、永遠の神の領域に舞い上がろうとする試みである。

私たちの世代にとって、パソコンやインターネットは、生涯の後半になって出てきた道具である。何十万、何百万という人が、ブログという手段を通じて、それぞれの思いを披露している。それによって、コミュニケーションが著しく進む可能性を持ちえたことは、本当に素晴らしいことだと思う。

そして「文は人なり」ということわざがあるように、「ブログは人なり」といえると思う。ブログを書く人は、自分の書き残したブログを携えて、やがて神の裁きの前に立つことになる。ブログはある意味では、この世からあの世へと移るときに、神に差し出す通行証明のようなものである。
もちろん、神の眼には、いっさいが明らかであるから、特にブログなども必要はないのだろうけれども、ブログは、神ならぬ人が人を見るときの手がかりにはなる。

 

ブログを書き始めてから、ほぼ一年。その中で特に印象に残っっていることは、私のブログにコメントをいただいた吉田正司氏が、ガンで亡くなられたらしいことだ。吉田氏とコメントをいくつかやり取りして以来、時折、氏のブログを訪れるようになった。そして間もなくそこで、吉田氏が重病に陥っていることを知った。私は、よほど何らかの言葉を吉田氏に送ろうかと思ったが、まだ、余りにも私と吉田氏と交わした議論は少なかった。まだそれほど深く氏と議論した仲でもなかったので、私が躊躇している間に、あっという間にお亡くなりになったらしい。

 

吉田氏は私とは同世代らしく、また、私と興味や関心を共有するところもあるようで、将来何かのテーマで議論できることを期待もしていた。だから、驚くと同時に残念な思いもした。問題意識を共有するというのは議論の前提であるけれども、類が友を呼ぶというのが、なかなか難しい。

 

吉田氏の生きておられる間に、私のお見舞いでも送って読んでいただけなかった。それが、今も心残りになっている。ブログ上で、ほんの一瞬すれ違っただけで、もちろん一面識もなかったが、それでも、これも仏教で言う「他生の縁」があったからなのだろうと思う。弟さんが、ブログを続けられているようである。

コメント (6)
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