言論の自由と権力の倫理 ― 日本保守党の飯山陽氏提訴で考えること
冬が去り、春を迎えようとする最近になって、日本保守党がイスラム思想研究者・飯山陽氏を相手取って、合計約1000万円の損害賠償を請求する民事訴訟を起こしたことがYOUTUBEなどで知られています。訴因は、飯山氏による日本保守党に対するさまざまな言論上の批判が理由とされています。
一私人が名誉毀損を理由に提訴されることは決して稀ではないですが、この件は明らかに性質の異なる問題です。というのも訴訟の原告は公党である日本保守党であり、被告はイスラム研究者で、一個人で私人という立場にあるからです。ここには、「政党といった公共性の高い存在が、一私人の言論に対して司法を使って応答する」という、民主社会の根本原則が問われるという深刻な構図があるからです。
言論の自由とは、もちろん、ただ何でも好き勝手に発言する権利ではありませんが、言論の自由は、近代市民社会において、公権力から個人の思想や表現活動を守る防波堤として制度としても確立されています。現行の日本国憲法においても、第二十一条で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」 「2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」と規定されています。
J.S.ミルが『自由論』のなかで述べたように、たとえ間違っていると思われる意見であっても、それを抑圧するのではなく自由に議論の場に置くことで、真理が明らかになってきます。真理とは与えられるものではなく、多様な意見の議論の中で研鑽され、浮かび上がってくるものです。
政党や政治家が自らに対する批判的な発言を「ただ、たんに自らに不都合である」として合理的な、客観的な根拠も十分な説明もなく、そのまま訴訟で排除しようとする行為は、歴史的にもまがりなりにも成立している「言論の自由」の制度的な意義そのものを否定することになりかねません。
今回の提訴は、近年国際的に問題視される「SLAPP訴訟(Strategic Lawsuit Against Public Participation)」に典型的にみられるものに近いと思われます。SLAPP訴訟とは、公共の問題について意見を述べる個人に対し、法的手段で経済的・心理的圧力をかけ、意見の表明を萎縮させることを目的とした訴訟です。
民主主義社会において最も重要なのは、国民一人ひとりが公共の問題について自由に意見を述べ、議論に参加できる環境です。もし政党が自らに対する批判的意見に対して司法権力を用いて威圧的に応じるのであれば、それは権力者による自由の抑圧にほかなりません。
公党には、民意を代表し、公共政策を立案・遂行するという大きな責任があります。その言動や政策が批判されることは、むしろ健全な民主主義にとって必要不可欠なものです。政党が「名誉を毀損された」という理由で批判を司法を手段として封じようとするのは、自らの説明責任を放棄する行為であり、倫理的にも問題は大きいと思います。
ここには、「政治に携わる者はいかなる批判に耐えるべきか」という問題もあります。政党のような公共的な存在、機関はその普遍性ゆえに、さまざまな個人の個別的な自由な思考、言論と対立する場面が多いですが、そのとき重要なのは「反論」や「説明」であって、決して「抑圧」や「弾圧」であるべきではありません。
このような訴訟は、直接の被告だけでなく、広く社会全体に「発言すれば訴えられるかもしれない」という萎縮効果を与えてしまいます。とくに日本社会では、「空気を読む」とか「波風を立てない」といった文化的傾向が強く、その結果として自己検閲が日常化しやすい土壌もあります。
このような状況で言論を訴訟によって抑えようとする動きによって、市民社会の活力が削がれ、「異論なき社会」や「死に絶えた民主主義」がもたらされることが深刻に懸念されます。私たちの望む社会の平和で安全な秩序が、国民の、無批判な沈黙によってもたらされたものであってはなりません。
民主主義とは、多様な立場や意見がぶつかり合いながらも、互いの存在を認めあい、議論によって合意を形成していこうという考え方です。批判を排除することは、民主主義を自己否定することにほかならないと思います。
飯山陽氏の発言がどれほど厳しいものであったとしても、それに対して政党がとるべき行動は、「論理的に言論で反論すること」であるべきはずです。訴訟という形で沈黙を強制するやり方は、自由や知性にふさわしいとは思えません。
私たちは、飯山陽さんが日本保守党から訴えられるという深刻な事件が生じた今、あらためて「言論には言論で応じる」という民主社会の基本原則を改めて確認し、その価値を守り抜くことが大切だと思います。新しくできた日本保守党には、島田洋一氏や河村たかし氏や小坂英二氏といったすぐれた活動家がいます。しかし、彼らの政治的な主張がどのようなものであれ、飯山陽氏の批判に対して日本保守党が司法という手段によって言論を事実上抑圧するようなことはあってはならないと思います。「言論の自由」の価値を理解しない、「保守」を自称する百田尚樹党首のもとで彼らが活動するのは日本の「悲劇」と言えるかもしれません。またそうした手段を取る日本保守党の現状に、内部の日本保守党員のなかから批判の声が上がらないのもおかしいと思います。もし日本保守党が開かれた民主的な政党でないとすれば、民主主義を尊重する日本国民は日本保守党を支持しないだけのことでしょう。