作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

8月30日(金)のTW:内村鑑三日記。対支問題。

2013年08月31日 | 歴史

「日本に取り目下の重大問題は対支問題である。若し此問題が満足に解決し得なければ日本に由々しき一事件が起るであらう。米国に於ける共和党の大勝利と支那に於ける南京政府の出現とは日本の安全を脅す事非常である。日本国民は此事に気附いてゐないらしい。


そして此難局に当たりて日本を指導し得る政治家は今の所見当らない。日本に歴史哲学者がゐない。故に斯かる場合に世界の大勢に処するの道を示す者がない。縦しあっても国民に之に傾ける耳と心がない。困った者である。自分は日本の衰運に傾くを見るに忍びない。時に地団駄踏んで悲しむ。


然し益無しである。」1928(昭和3)年11月23日(金)内村鑑三


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8月29日(木)のTW:内村鑑三日記。排日法。

2013年08月30日 | 歴史

「然れども自分が我国の基督教会の教師達に就て解し得ざる事は、彼等が排日法に由て日本が米国に辱かしめられし事に就て別に憤慨せざる事である。是れ自分のみならず自分を知る誠実なる米国人が不思議に思ふところである。彼等の内の一人の如きは(彼は日本在留の宣教師である)自分に告げて曰うた、


「何故日本人は此事に就て怒らないのである乎。若し西郷大久保が生きて居たならば、日本は米国に対し直に国交を断絶し、戦争を辞さないであらう」と。――1925(大正14)年11月9日(月)内村鑑三


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海、丹後神崎海水浴場

2013年08月27日 | 日記・紀行

 

海、丹後神崎海水浴場

 

昨年の夏から、年に少なくとも一度は海に行こうと決心していたのに、今年も雑用に追われている間に、瞬く間にこの夏も終ろうとしていることに気づいた。どうやら今年も海水浴の機会も失ってしまったようだ。

静岡の遠州浜に近いところに暮していたことがある。海がすぐ近かったので、朝な夕な、遠く沖合の太平洋の水平線を行き交う船を眺めながら、潮風に吹かれながら、夕陽や朝日を浴びて砂浜や黒松林をよく散策した。潮風の香りの記憶と、砂浜にうち寄せる浪に足裏の洗われる心地よさをその時に覚えてから、京都に戻ってきても未だにいつまでも海を忘れられないでいる。       

このまま思い立たなければ今年の夏も機会を失ってしまいそうで、平日に時間の空いているこの日に決心して海を見に行くことにした。それも前日である。太平洋岸の広大な水平線を眺めたいけれども、京都からの日帰りにしか時間に余裕がないとすれば、日本海側に出るしかない。

地図で適当な海水浴場を探したが、今年はまず交通の便も無難そうな若狭湾沿いの丹後神崎海水浴場を選んだ。

朝の間に雑用を済ませて出た。食事も摂っていなっかったので、京都駅の構内にあった食堂で蕎麦で昼食を済ませた。十三:二五発の特急5号城之崎行きで、とにかく出発した。

電車の窓から眺める田圃の少し色づき始めた丹波の景色も、夏の終わりというよりもむしろ秋の兆しを思わせる。出発も遅れたので、現地の小さな古い駅舎に着いた頃はもうすっかり昼下がりで、海水浴を十分に楽しむためにはやはり遅すぎる。

駅前の並木道に鳴いていた蝉の声もおとなしく、すでに夏の盛りではない。駅近くの案内板に従ってまっすぐに浜に向かう。遙か昔に兄たちと一緒にここに泳ぎに来たことがあるかもしれない。途中ふとそんな既視感にとらえられる。かなり歩いて公園らしき松林が見え、そこを抜けると海が見えた。この海水浴場は予想したより砂浜は広く長い。そして遠く小高い青い山にその砂浜は切られて尽きている。思ったよりも美しい浜辺だった。

さすがにお盆を過ぎた海には、海水浴客はいなかった。浜辺に沿って設営された海の家にも海水浴客はおらず、業者らしい男や夫婦が、脚立を引出してカナヅチで、トタン屋根や柱などを取り外したりしていた。今年の夏も終わったのだ。

海辺にはモーターボートを楽しんでいるらしい行楽客が一組だけ遠くに小さく見えただけである。波は少し高いようだった。できれば海で泳ぎたかったが、今年は思い立ったときにはすでに時期も外れて遅く諦めざるを得なかった。 来年はきっと日本海か太平洋岸か海に出て泳ごうと思う。

護岸のコンクリートの上に腰を下ろし、しばらく海と波と遠く沖合に霞んで浮かぶ小さな島を眺めていた。うち寄せる波は美しく見ていて厭きない。山並みの緑とよく晴れた空が美しい色彩の調和を見せている。

泳ぐことも出来ないなら、せめて砂浜の感触を足に楽しもうと、靴を脱ぎ裸足になって砂浜に降りた。そして、さっき遠く小さく見えたモーターボート遊びをしている一行の様子が手に取るように見える地点に近くまで歩いた。

そこから長い砂浜を折り返した。日差しを今度は顔にまともに浴びることになった。日に焼けると思いながら帽子も脱いで、今年の行く夏を惜しむつもりで眩しい陽の光を全身に浴びながら、うち寄せる波と戯れながら、足の裏に砂と潮を踏みしめてゆっくりと長い砂浜を戻った。リュックを置き去りにしたままの、海の家の前のあの古びた旗がすっかり遠く小さく見える。

 

 

Carole serrat Un Apres-Midi,La Mer

 

 

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8月26日(月)のTW:世界史と理性

2013年08月27日 | 歴史

太陽系の運動は不変の法則にしたがって行われている。すなわち、この法則は太陽系の理性である。しかし、太陽も、この法則に従って太陽の周りを回っている遊星も、この法則についての意識を持ってはいない。それで自然の中に理性があるとか、自然が一般的法則によっていつも支配されているとかいう a


思想には、我々は一向に驚かない。我々はこのような思想には慣れているので、それを別に大したこととも思わない。にもかかわらず、私がこの思想の歴史的ないきさつを述べるのは、このように今日の我々には陳腐に見える思想でも、必ずしも世に行われていた訳ではなく、したがってこのような思想の出現は


むしろ人間精神の歴史に一時期を画したものだという歴史の教訓に注意を促すためである。アリストテレスは、この思想の創始者アナクサゴラスについて言っている。彼は酔いどれたちのなかで一人素面の人のように見えた、と。アナクサゴラスのこの思想はソクラテスに受け継がれた。


そしてこの思想は一切の出来事を偶然に帰したエピクロスを除けば、およそ哲学における支配的な思想となった。プラトンはソクラテスに言わせている。「私はこの思想を知って歓んだ。そして理性に従って自然を解釈し、特殊なもののなかには特殊な目的を、全体の中には一般的な目的を指示してくれる


一人の教師を見出したと信じた。私はどんなことがあってもこの期待を捨てまいと思った。けれども、私がアナクサゴラス自身の書いたものに熱心に当たってみて、彼が理性の代わりにただ空気だとか、エーテルだとか、水などといった、外的原因だけを挙げているのを知って、どんなに失望したことか」と。


すなわち、ソクラテスがアナクサゴラスの原理に見出した不満が、原理そのものにあるのではなくて、むしろ具体的自然に対する原理の適用上の欠陥、つまり、自然がこの原理に基づいて理解され、把握されておらないこと、一般にその原理が抽象的に見られているに過ぎないということ、


自然がこの原理の発展として、理性に基づいてそこから産み出された一つの組織として捉えられていないという点にあることが分かる。【A:原理としての理性の哲学的考察】


次に問題になるのが、理性が世界を支配しているというこの思想の型態が、進んで適用されて我々に周知の思想に関連している点である。――すなわち、世界が単に外的な偶然の原因に委ねられているものではなくて、むしろ摂理が世界を支配しているという宗教的真理の型態をとる場合である。(s36 )


ところで、ある摂理が、それも神の摂理が世界の諸々の出来事を支配するという真理は、理性が世界を支配しているという先の原理に対応している。なぜなら、神の摂理とは、その目的、すなわち世界の絶対的な、理性的な究極目的を実現するところの無限の力という面から見た智慧であり、


理性はまったくに自由に自分自身を規定するところの思考だからである。けれども、ここでふたたびアナクサゴラスの原則に対するソクラテスの不満と同じ形で、この信仰と我々の原理との差異、とういうよりもむしろ対立が現れてくる。この信仰もまた同様に漠然としたものであり、摂理一般への信仰と


呼ばれるものであり、それは進んでさらに規定されたものとなり、全体への適用、すなわち世界史への全行程への適用となるところまで行かない。しかし、歴史を説明すると言うことは、人間の情熱、その天才、その活動の力を明らかにすることを意味する。そしてこのような摂理の規定性(歴史の実現過程)は


通常、摂理の計画と呼ばれる。けれども、この計画は我々の眼には隠されているとされ、これを認識しようとすることは僭越なこととされている。理性がどういう形で現実の中に啓示されているのかについてのアナクサゴラスの無知は無邪気なものだった。彼を始め一般にギリシャにおいては、


思想の意識はまだ幼稚だった。彼はこの一般的な原理を具体的なものに適用し、具体的なものをその原理から認識することは出来なかったのである。ソクラテスがはじめてこの点で一歩を進め、具体者と一般者との結合を遂行した。従ってアナクサゴラスは、


必ずしもこのような適用に反対の立場をとったのではない。ところが今いう摂理に対する信仰は、少なくとも一般的には適用に反対しており、摂理の計画の認識に対して反対している。というのも人々が摂理の存在を認めるのは、特殊な場合だけであって、それは敬虔な心の人が、個々人の突発的な事故の中に


偶然ではなく神意を視るような場合に過ぎないからである。しかし、このような目的はそれ自身限られた狭い範囲のものであり、単に一個人の特殊な目的に過ぎない。 ところが我々が世界史において問題にするのは、民族という個体であり、国家という全体である。だから単に抽象的な無規定的な信仰に


かかづらわっているわけにも行かない。むしろ本気に歴史の中における摂理の道程、その諸々の手段、現象を認識することを問題にし、それを上述の一般的な原理に関係づけることを問題にしなければならない。(ibid s 38 )


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8/11TW:井上毅の憲法草案(明治憲法の原点)

2013年08月12日 | 国家論

 

@soratine

shuzo ati@soratine

現行の日本国憲法【昭和憲法】を改正するに際しては、井上毅や伊藤博文らを中心とする明治憲法の制定過程を綿密に 検証して、その意義と限界を確認して平成の新憲法に生かして、より完全なものにしていく必要がある。とくに、明治憲法の否定的側面を歴史の検証のなかで明 確にしてゆくこと。

 

8月11日

@soratine

shuzo ati@soratine

明治八年以来、井上毅は岩倉具視と大久保利通の二人の指導者に尊重され、井上もまた、この両名に対して献身的な努 力を捧げてきた。 これらの指導者亡きあと、この先覚者たちの理想を生かし、その計画を実行することができたのは、一に井上の援助の賜物であると、後に伊藤博文は語った。

 

8月11日

@soratine

shuzo ati@soratine

井上毅が提出した明治憲法原案では、一般国民は「臣民」とは表現されておらず、「国民」と書かれていた。さらに、出生ならびに地位いかんにかかわらず、すべての国民は法の前において平等であるという原則が明白に述べられていた。

 

8月11日

@soratine

shuzo ati@soratine

ジョセフ・ピタウ【井上毅と現代日本の形成】 p.tl/TytM


8月11日

@soratine

shuzo ati@soratine

とつ国の 千草の糸をかせぎあげて やまと錦に織りなさましを
井上毅が意図していたのは、新しい西欧の思想を、二千五百年の長い歴史によって培われた日本の伝統的な国体に対する考え方を変えることなく、取り入れてゆくことであった。


8月11日

@soratine

shuzo ati@soratine

「日本国憲法の改正とヘーゲルの自由の哲学」日本国憲法の改正にあたってはヘーゲルの「法の哲学」、彼の国家哲学と自然法思想をアウフヘーベンしていることが... blog.goo.ne.jp/askys/e/0afbe5

 

 

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8月10日(土)のTW:日本国憲法の改正とヘーゲルの自由の哲学

2013年08月11日 | 国家論

池田信夫氏は安倍首相が消費税増税の可否を慎重に判断しようとしている理由をわかっていながら、それを正しく伝えようとしていない。内閣参与浜田宏一氏や高橋洋一氏の判断が正しい。 blog : 安倍首相の「自滅する選択」 - ライブドアブログ p.tl/fus3


「明治自由憲法を破壊した国家改造運動」という観点から、日本の憲法制定史を再検証する必要がある。いずれにしても、ヘーゲルの国家哲学、自然法思想を研究し、アウフヘーベンしていない日本国憲法改正案は価値がない。明治自由憲法 p.tl/cpbfab


グナイストとかシュタインなどと言った二流の学者ではなく、彼らの先生であるヘーゲルにまでさらに遡ってなぜ改正日本憲法を研究しようとしない。井上毅クラスの憲法学者が現れるまでは、下手に憲法を改正しない方がいい。明治自由憲法 p.tl/dcpbfab


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8月4日(日)のTW:民族は歴史から何を学びうるか

2013年08月05日 | 歴史

実際、歴史はしばしば道徳的教訓のために編纂された。しかし善人が心情を高め、また児童の道徳的教育にあたり立派なことを児童の頭に染み込ませておくために、善人の例を用いるべきだとは言いうるとしても、民族や国家の運命、それらの利害、それらの状態や葛藤などは道徳とは領分がちがうのである。a


人々は君主、政治家、民衆に向って、歴史の教訓から汲むべきだと説く。けれども経験と歴史の教えるところこそまさに、人民や政府がかって歴史から何ものをも学ばなかったということであり、また歴史から引っ張り出されるような教訓にしたがって行動したこともなかったというそのことなのである。b


各時代はそれぞれ特有の境遇を有し、それぞれ極めて個性的な状態にあるものであるから、各状態の中で各状態そのものによって決定されなければならないものであり、またそうしてのみ決定され得るものである。世界のいろいろな出来事の雑踏の下では、一般原則もいろいろな類似の関係への回想も  c


何の役にも立たない。なぜなら色褪せた回想などといったものは、現在の生命と自由に対しては何の力も持たないからである。(歴史哲学上s28)


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8月3日(土)のつぶやき

2013年08月04日 | ツイツター

Yahoo!みんなの政治 - 麻生太郎副総理が、憲法改正に関連しドイツのナチス政... - 政治投票 p.tl/vhEm


秋の増税判断が最大の試練 財政支出は政権にリスクも - ZAKZAK zakzak.co.jp/society/domest… @zakdeskさんから


残念ながら今の日本に安部晋三氏以外に政治を託せる人材はない。秋の増税判断がアベノミクスの最大の試練。この判断の適否で日本の命運が決まる。高橋洋一氏、内閣参与浜田宏一氏を支持する。【秋の増税判断が最大の試練】財政支出は政権にリスクも - p.tl/Py5s


秋に消費税増税の決定が認められる条件。【浜田内閣官房参与】「GDP4%成長なら消費増税も」 p.tl/PhKf


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8月2日(金)のTW:#平田篤胤、#歌道大意、#反省的歴史

2013年08月03日 | ツイツター

近代デジタルライブラリー - 平田篤胤著『印度蔵志 』p.tl/Zwwo


近代デジタルライブラリー - 平田篤胤著『歌道大意』 p.tl/Pvi4


【パチンコ合法は日本だけ!?】日本以外ではアメリカのグアムなどにパチンコ店が存在しているが賭博として位置づけられ規制、台湾では、法律上で禁止。かつては多くのパチンコ店が存在した韓国でも、2006年からはパチンコが法律により全面禁止になっています。

shuzo atiさんがリツイート | 3 RT

b)反省的歴史
第二の種類の歴史は反省的歴史と呼ぶことができる。それは叙述が時間の関係に拘束されることなく、精神の点で現在の時代を超越するような歴史である。この第二の種類の歴史の中では全く異なる種類のものが区別される。


 
 
 
 
 
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