作雨作晴

日々の記憶.....

9月18日(火)のつぶやき

2018年09月19日 | ツイツター
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9月17日(月)のつぶやき

2018年09月18日 | ツイツター
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9月16日(日)のつぶやき

2018年09月17日 | ツイツター
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§281c〔 最悪の制度としての君主選挙制〕

2018年09月15日 | 国家論

 

§281c〔 最悪の制度としての君主選挙制〕

⎯   Deswegen  darf  auch nur  die Philosophie diese Majestät denkend betrachten, denn jede andere Weise der Untersuchung als die spekulative (※1) der unendlichen, in sich selbst begründeten Idee hebt an und für sich die Natur der Majestät auf. 


⎯ したがって、哲学のみにこの君主の尊厳を思考として考察することが許される。というのも、透視的な(※1)無限の自己創造的な理念(の概念的な把握)以外の他のどのような研究の方法も本来的に(必然的に)、(君主の)尊厳の本性を廃棄してしまうからである。


⎯ Das Wahlreich scheint (※2)leicht die natürlichste Vorstellung zu sein, d. h. sie liegt der Seichtigkeit des Gedankens am nächsten; weil es die Angelegenheit und das Interesse des Volkes sei, das der Monarch zu besorgen habe, so müsse es auch der Wahl des Volkes überlassen bleiben, wen es mit der Besorgung seines Wohls beauftragen wolle, und nur aus dieser Beauftragung entstehe das Recht zur Regierung.

⎯  選挙君主制(選挙公国)がもっとも自然な考えであるようにみえる(※2)。言い換えれば、それが思想の浅薄さに最も近いところにあるということである。君主の配慮すべきことは、国民の関心事と利益であり、そうして、また国民の福祉の世話を誰に委ねたいかは国民の選択に委ねなければならないし、そして、この委託のみから統治の正当性が生まれるのだからと。

Diese Ansicht, wie die Vorstellungen vom Monarchen als oberstem Staatsbeamten, von einem Vertragsverhältnisse zwischen demselben und dem Volke usf., geht von dem Willen als Belieben, Meinung und Willkür derVielen aus - einer Bestimmung, die, wie längst betrachtet worden, in der bürgerlichen Gesellschaft als erste gilt oder vielmehr sich nur geltend machen will, aber weder das Prinzip der Familie, noch weniger des Staats ist, überhaupt der Idee der Sittlichkeit entgegensteht.


こうした見方は、君主についてそれを最高の公務員とみなす考え方や、君主と国民との間の関係を契約とみなす考え方などと同じように、多数者の利便、思い込み、恣意としての意志から出てくるものであり、⎯ このような考えは、ずっと前に考察されたように、市民社会において第一のものとして認められ、あるいはもっとさらには市民社会においてのみ通用するような考え方であるが、しかしそれは家族の原理でもなければ、まして国家の原理でもなくて、むしろ概して倫理の理念に背くものである。

⎯  Daß das Wahlreich vielmehr die schlechteste der Institutionen ist, ergibt sich schon für das Räsonnement aus den Folgen, die für dasselbe übrigens nur als etwas Mögliches und Wahrscheinliches erscheinen, in der Tat aber wesentlich in dieser Institution liegen. Die Verfassung wird nämlich in einem Wahlreich durch die Natur des Verhältnisses, daß in ihm der partikulare Wille zum letzten Entscheidenden gemacht ist, zu einer Wahlkapitulation, d. h. zu einer Ergebung der Staatsgewalt auf die Diskretion des partikularen Willens, woraus die Verwandlung der besonderen Staatsgewalten in Privateigentum, die Schwächung und der Verlust der Souveränität des Staats und damit seine innere Auflösung und äußere Zertrümmerung hervorgeht.


選挙君主制が諸制度の中で最悪のものであるということは、すでに、もろもろの経験からも悟性推理にとっても明らかになっている。ところで、その事実はただ偶然的なものか、見かけだけ本当らしいものに見えるけれども、実際にはしかし、この選挙君主制という制度そのものに本質的に存在しているものである。

選挙君主制においては、すなわち国家体制(憲法)は、特定の意志が究極の決定要因になるというその関係の本性からいって、一つの選挙協定によって、すなわち、特殊な意志の方向性に国家権力が支配されることになる。そこから、特殊な国家権力が私有財産へと転じ、国家の主権の弱体化と喪失、そして、その結果として国家の内部からの解体と、外からの破壊がもたらされることになる。



アメリカやロシアなどの大統領制をとる共和国は、君主を選挙で選出するという意味で、ここでヘーゲルのいう「das Wahlreich 」(選挙君主制・選挙公国)にほかならない。ロシアのプーチン大統領やアメリカのトランプ大統領の例に見るように、
悟性推理にすら、事実に強制されて大統領制(君主選挙制)が劣悪なものであることを理解している。

また「学者」でありながら、そうした観点からしか君主制を理解できず、日本の皇室を批判して止むことのない日本の多くの憲法学者たち、また彼らによって権威とされている憲法学者の樋口陽一氏などにとっては、君主としての天皇についても「最高の国家公務員」とか「国民のロボット」といった見方しかできない。


 (※1)die spekulative

ここでは「透視的な」と訳したけれども、多くの翻訳では「思弁的な」と訳して済まされている。しかし、それでは単に語句をドイツ語から日本語に置き換えただけで、その実質的な理解は得られないと思う。

die  Weise der Untersuchung  als  die spekulative  der unendlichen, in sich selbst begründeten Idee」「透視的で無限な自己自身に根拠をもつ理念としての研究の方法」とはヘーゲル哲学の体系そのもののことにほかならない。そこに明らかにされているヘーゲルの論理学のように、絶対的に必然的な弁証法的な展開についての洞察、透視なくしては、君主の尊厳の価値も理解し得ないのだ、というのだろう。

※2)sheinen  〜にみえる

ヘーゲルにおいては、sheinen はあまりいい意味には使われない。「外見上はそう見えるが、実際は〜〜である」としてヘーゲルらしく現象と本質との関係において事柄が見られている。



 
 
 
 
 
 
 
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9月8日(土)のつぶやき

2018年09月09日 | ツイツター
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§281b〔君主の世襲制の根拠〕

2018年09月08日 | 国家論

 

§281b〔君主の世襲制の根拠〕

Geburts- und Erbrecht machen den Grund der Legitimität als Grund nicht eines bloß positiven Rechts, sondern zugleich in der Idee aus. - Daß durch die festbestimmte Thronfolge, d. i. die natürliche Sukzession, bei der Erledigung des Throns den Faktionen vorgebeugt ist, ist eine Seite, die mit Recht für die Erblichkeit desselben längst geltend gemacht worden ist.

出生と相続は、単なる実定法の根拠としてのみではなく、同時に理念のうちにある根拠として(世襲の)正当性を構成する。
⎯  確定した王位継承を、すなわち自然な継承を通して、王座の就任をめぐる派閥の抗争は予防されるということは、それはずいぶん前から世襲そのものに対して正当に主張されていた一面である。

Diese Seite ist jedoch nur Folge, und zum Grunde gemacht zieht sie die Majestät in die Sphäre des Räsonnements herunter und gibt ihr, deren Charakter diese grundlose Unmittelbarkeit und dies letzte Insichsein ist, nicht die ihr immanente Idee des Staates, sondern etwas außer ihr, einen von ihr verschiedenen Gedanken, etwa das Wohl des Staates oder Volkes zu ihrer Begründung.

この一面はしかしながらただ帰結に過ぎない。それが根拠としてうけとられると君主の尊厳を(小理屈の)推論の領域に引き摺り下ろしてしまうことになる。この前提のない直接性と、そして究極の内在性という(君主の尊厳の)性格が、国家の内在的な理念ではなくて、尊厳の外にある何かに、尊厳とは異なった思想の一つに、国家もしくは国民の福祉とかいったものに、君主の尊厳の根拠が与えられることになる。

 Aus solcher Bestimmung kann wohl die Erblichkeit durch medios  terminos gefolgert werden; sie läßt aber auch andere medios terminos und damit andere Konsequenzen zu, - und es ist nur zu bekannt, welche Konsequenzen aus diesem Wohl des Volkes (salut du peuple) gezogen worden sind.
 
確かにこのような判定から、媒辞を通して(理由づけられて)、世襲が導き出されるかもしれない。;しかし、それはまた、他の媒辞をも、そして、そのために別の結果をも許すことになる。 - そして、民衆のこの福祉 (salut du peuple) という理由づけから、どんな結果がもたらされたかはあまりにもよく知られている。
 
 
 
 
ここでヘーゲルは、君主の世襲制の根拠は何か?君主の地位が世襲される理由は何なのか、を問題にしている。多くの場合、君主の地位の世襲が、君主の地位の交替に際しての、君主の地位をめぐる党派間や派閥間の抗争をめぐる混乱や軋轢の生まれるのを予防することができるといったことを理由とするものである。たしかに、君主の地位を巡って権力闘争に火がつけられて、その結果として悲惨な現実がもたらされたことは、我が国の壬申の乱にその例をみるように歴史的にも明らかである。
 

しかし、そのような有限な理由づけは、君主の地位の尊厳の根拠を、他にも、たとえば「国民の福祉」のためといったことに理由を求めることを許すことになる。それは世襲される君主の地位の尊厳の根拠の一面に過ぎないし、そうした有限な根拠は、君主の世襲についての正当な根拠にはならないという。実際にも、たとえば「民衆の福祉」 (salut du peuple)という大義をもって行われたフランス革命が、その結末に血を血で洗う権力抗争をもたらした歴史的な現実をヘーゲルは目撃している。

 

§281b〔君主の世襲制の根拠〕

 

 

 
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8月26日(日)のつぶやき

2018年08月27日 | ツイツター
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天橋立海水浴紀行

2018年08月18日 | 日記・紀行

 

天橋立海水浴紀行
2018年8月18日(晴)


1台風

今年も夏も終わりを迎えようとしていた。しかし、平日の時間は使えないために、たとい小旅行を試みるとしても土日の週末を利用するしかない。今年の夏も海に行く予定としては、当然にお盆前を考えていたけれど、あれこれ忙しさに紛れているうちにお盆も過ぎてしまった。

今年は大文字の送り火も、テレビの中継で眺めながら過ごした。蒸し暑い夏の一夜を、送り火を人混みに紛れて眺めながら過ごすリアル感はないけれども、涼しい室内に居ながらにして、大文字や舟形、法のなどの送り火を視界も遮られることなく、また、送り火の点火に松明をもって山腹を走り回っている地元のボランティアの方々の様子も中継放送では具体的に見ることができる。

ちょうどお盆が終わりかけた頃に、台風二十号が日本列島の太平洋岸に接近しつつあることが天気予報で報じられていた。それでもまだ南海洋上遠くの位置だったので、ここ数年夏には泳ぎに行っている日本海側にはほとんど影響がないだろうと思っていた。

それで、海を見にゆく日をこの週末と決めたが、当日になってあらためて念のために現地の海水浴場の状況を確認してみようと、観光協会のホームページを調べてみると、海水浴場は高波で遊泳禁止になっていた。

今年は海水浴は断念するしかないと思ったけれど、念のためにと思い天橋立の観光協会に電話を入れると、そこでは遊泳ができるとのことだった。由良や神崎は波が高いらしい。天橋立まで出れば海水浴もできるかもしれない。しばらく迷っていたが思い切って出発した。現地についた時にたとい遊泳禁止になっていたとしてもそれも仕方がない。それで考え直して、行き先を天橋立に変更し、あらためてリュックの中の荷物を整理し直して自宅を出た。


2京都駅

京都駅は週末の人出で雑踏がひどかった。ここ数年の観光ブームのせいか、いたるところ外国人の姿が目についた。それも一見して外国人だとわかる欧米人だけだから、外見からだけではほとんど日本人を区別もつかない中国人や朝鮮人の観光客を勘定に入れると相当の数になるだろう。

地下鉄に京都駅まで乗り込んでいたときも、私の隣席に座ったのは、中国人の祖父母孫など三世代の家族連れの一行だった。よく見ればどことなく民族的なあるいは文化的な差異らしいものを感じて中国人風には見えるのだけれど、一見しただけではわからない。しかし日本語を堪能に話していても、どう見ても中国人にしか見えないということもある。というよりも、中国人も朝鮮人も、また東南アジア人も人種的には日本人とほとんど区別がないということなのだろう。

3 観光列車

福知山で乗り換える時に、ホームには京都丹後鉄道の観光用列車が停車していた。その外装とインテリアがユニークで面白かった。日本では有名な列車設計者の設計になるそうである。それに乗り換えて終着駅の天橋立に向かう。



3少女

ちょうど向か合わせの座席が残されていただけだった。それで仕方なくそこに座ったけれど、二つ目ぐらいの停車駅から二組の母娘連れの客が乗り込んできて、向かいの席に座った。列車が動き出して間も無く、女の子はカバンの中から弁当を取り出して食べ始めた。プラスチックのスプーンでオムライスを食べている。食欲は旺盛のようだった。

4天橋立

目的地である天橋立駅に近づいた頃の車外の風景がどんなものだったのか、その記憶は残っていない。天橋立の駅に着いた時は昼下がり、空には青空が見えていた。まだ暑い夏の日差しがそそいでいて泳ぐには差し支えもなさそうだった。天橋立は小さな駅で、構内は行楽客で少し混雑していた。とにかく海水浴場を目指して歩き始めた。ただその方角が正しいのかどうか少し不安だった。すぐに神社か寺のお堂か区別がつかないような境内に入った。枝枝にぎっしりとお神籤の結いつけられた背丈ほどの小さな木々に出くわした。明治維新を遂行した狂信家たちが現れるまでは、日本では長い間、神社と仏教は平和に共存していたのに。


5海水浴場

途中で出会った貸出サイクリングの回収に当たっていたおばさんに海水浴場の方向を尋ねると、この境内を抜けて青い橋を渡った向こうにあるとのことだった。

しばらく歩いてゆくと水着姿の子供たちも行き来していて、海水浴場の近いことを思わせた。やがて欄干が青い色に塗られた橋が見え、その向こうに水着姿の海水浴客のいる海水浴場が見えた。

以前に訪れた丹後神崎や由良の海水浴場のように浜辺には海の家らしきものはなかった。水着に着替えるところがないか探していると無料の更衣所の表示が見えたのでそこへ行って水着に着替えた。荷物の預かり所もすぐに見つからなかったので、また、そんなに大層な荷物もなかったので、着替えると荷物をそのまま持って出て、波の打ち寄せる心配のない砂浜においてから、波打ち際に出た。

それほど大きな浜ではなかったけれど、打ちつづく松林を浜の背中にした美しい海水浴場だった。海水で顔を洗い身体を水に馴らしてから海の中に入いった。由良や神崎ほどには遠浅ではなく、少し沖に出るとすぐに海底に足が届かなくなった。空も青くよく晴れていて気持ちがいい。少し沖合に出ていつものように仰向きになり、照りつける日光に顔をさらしながら、しばらく波に揺られるままになった。

浜辺に沿って沖を平泳ぎやクロールで何度か往復したのち、少し沖合に繋留してある黄色の飛び込み台にあがって、そこで仰向けになって日を浴びた。髪をポニーテールにした色の浅黒い男とその連れらしい外国人が飛び込み台の向こう端に座っていた。波に揺れる飛び込み台のうえで、打ち付ける波の音を聴きながら今年の行く夏を楽しんだ。二時間ほど経て海から上がった。温水シャワーで潮水を洗い流して浜辺を後にした。


 

6夕日

天橋立は観光地としても名を知られている。日本三景の一つにも数えられている。しかし、この地を訪れたことは記憶にない。いまだ「股のぞき」は体験したことはないし別段に体験したいとも思わないけれども、そのためにはケーブルカーで高台の公園まで登らなければならない。海水浴を楽しんだ後は松林の延々とつづく砂洲をカメラを下げて歩いて行くだけで、日帰りの旅行では、行き着く先にある一宮籠神社まで足を延ばす時間はない。松林にすでに夕日が西から差し込んできていて美しい。秋になってまた再訪してもいいと思った。その時は紅葉や秋の七草も見られるかもしれない。



帰途の特急の時刻が気になって、「岩見重太郎試し切りの岩」や「橋立明神」「磯清水」などを見届けただけで、松林を途中に折り返して帰った。「磯清水」を見た時に手水場に柄杓が並べられてあったので湧き水を飲んでしまった。確かに塩気のない真水だったが、飲用ではないという表示に気づくのが遅かった。遥か昔の子供の頃に仇討の講談か漫画か何かで聞き知った覚えのある岩見重太郎という名前を見てどこか懐かしい気がした。

 

 

天橋立海水浴紀行
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8月15日(水)のつぶやき

2018年08月16日 | ツイツター
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§281[国家の団結を守る君主]

2018年08月15日 | 国家論

§281[国家の団結を守る君主]

Beide Momente in ihrer ungetrennten Einheit, das letzte grundlose Selbst des Willens und die damit ebenso grundlose Existenz, als der Natur anheimgestellte Bestimmung, - diese Idee des von der Willkür Unbewegten macht die Majestät des Monarchen aus. In dieser Einheit liegt die wirklicheEinheit des Staats, welche nur durch diese ihre innere und äußereUnmittelbarkeit der Möglichkeit, in die Sphäre der Besonderheit, deren Willkür, Zwecke und Ansichten herabgezogen zu werden, dem Kampf der Faktionen gegen Faktionen um den Thron und der Schwächung und Zertrümmerung der Staatsgewalt entnommen ist.


不可分の統一のなかにある二つの要素、つまり意志の究極の何らの制約もないそれ自体と、そして、それでもって当然に、自由な規定にある自然として何らの制約もない現実の存在、⎯⎯(すなわち)恣意によっては動かされないこれらの理念(考え方)が君主の威厳を構成している。
この統一において、国家の現実の団結は存在するのであり、これらの国家の内部および外部の可能性の直接性を通してのみ、この団結こそが、恣意性や、目的や、見解などがさまざまに導き出される特殊性の領域において、王座をめぐる派閥と派閥との闘いや、国家権力の弱体化や崩壊から免れさせるのである。




君主制の意義についてのヘーゲルの評価は上述にみるように的確であると思う。それに対して共産主義者のマルクスなどは、君主制の否定的側面のみをみて、肝心のその意義を正しく理解できなかった。またマルクス主義の影響を強く受けた日本の多くの戦前戦後の知識人も、憲法学者樋口陽一氏や故奥平康弘氏などの憲法学に見られるように、戦前の国体主義者たちによって歪められた「天皇制」という現象に囚われて、「君主制」の意義を正しく理解できず、「たらいの水と一緒に赤子も流してしまう」ことになった。在野であれアカデミズムであれ、日本の憲法学者たちも今一度ヘーゲルの「法の哲学」を再検証されて、折しも今上陛下の御譲位をお迎えしようとしている時に当たって、君主制の意義を、日本の「皇室」についての正しい理解を深められることを期待したいものです。


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8月7日(火)のTW:#朝日新聞#日本社会の劣化

2018年08月08日 | ツイツター
 
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「作雨作晴」記事一覧20180604〜20180725

2018年07月31日 | Weblog

 

 「作雨作晴」記事一覧20180604〜20180725

 

 
 
 
 
 
 
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§280 Zusatz.[君主と完成された国家組織体]

2018年07月25日 | 国家論

 

§280

Zusatz.
Wenn man oft gegen den Monarchen behauptet, daß es durch ihn von der Zufälligkeit abhänge, wie es im Staate zugehe, da der Monarch übel gebildet sein könne, da er vielleicht nicht wert sei, an der Spitze desselben zu stehen, und daß es widersinnig sei, daß ein solcher Zustand als ein vernünftiger existieren solle, so ist eben die Voraussetzung hier nichtig, daß es auf die Besonderheit des Charakters ankomme.

§280 

補註[君主と完成された国家組織体]

人はしばしば君主に反対して次のようなことを主張する。国家がどのように成り行くかは君主によって偶然に依存するようになってしまうとか、国家において悪い君主が作り上げられるかもしれないし、君主が国家の頂点に立つだけの十分な価値にふさわしくないかもしれない。また、そのような(国家の)状態を合理的なものとして現存させようとするのは愚かしいとかいった反対論である。そうだとしても、君主の性格の特殊性に帰着するような(そうした反対論の)前提はここではまさに無意味である。

Es ist bei einer vollendeten Organisation nur um die Spitze formellen Entscheidens zu tun, und man braucht zu einem Monarchen nur einen Menschen, der "Ja" sagt und den Punkt auf das I setzt; denn die Spitze soll so sein, daß die Besonderheit des Charakters nicht das Bedeutende ist. (96)

一つの完成された国家組織体のもとにあっては、ただ、形式的な決断をなす頂点のみが重要であり、そして、君主に対しては、「然り」と言うただ一人の人間を、そして一者がその上に座する場所を、人々は必要としているのである。そもそも頂点とは、性格の特殊性が重要なものではなくなるようにあるべきものだからである。

Was der Monarch noch über diese letzte Entscheidung hat, ist etwas, das der Partikularität anheimfällt, auf die es nicht ankommen darf. Es kann wohl Zustände geben, in denen diese Partikularität allein auftritt, aber als dann ist der Staat noch kein völlig ausgebildeter oder kein wohl konstruierter. In einer wohlgeordneten Monarchie kommt dem Gesetz allein die objektive Seite zu, welchem der Monarch nur das subjektive "Ich will" hinzuzusetzen hat.

君主がなおこの最終決定についてもっているものは、その特殊性が個性的なものであるような何かだが、それは認められないものである。たしかに、この君主の特殊性のみが立ち現れくる状態がありうるかもしれないが、しかし、その場合は国家がいまだなお完成されていないか、あるいは、十分によく構築されていないかである。よく秩序だてられた君主制においては、客観的側面である法律のみが意味をもっていて、君主はただそこに主体的な「私が決する」を追加しなければならないだけである。

(96)

in der 2. Aufl. lautet diese Stelle: "Es ist bei einer vollendeten Organisation des Staates nur um die Spitze formalen Entscheidens zu tun und um eine natürliche Festigkeit gegen die Leidenschaft. Man fordert daher mit Unrecht objektive Eigenschaften an dem Monarchen: er hat nur Ja zu sagen und den Punkt auf das I zu setzen. Denn die Spitze soll so sein, daß die Besonderheit des Charakters nicht das Bedeutende ist. Diese Bestimmung des Monarchen ist vernünftig, denn sie ist dem Begriffe gemäß; weil sie aber schwer zu fassen ist, geschieht es oft, daß man die Vernünftigkeit der Monarchie nicht einsieht. Die Monarchie muß fest in sich selbst sein, und was der Monarch ... "


(96)注


第二版では、この個所は次のように書かれてある。「一個の完成された国家の組織にあっては、ただ形式的に決断する頂点のみが重要であり、そして激情に対する自然の防波堤のみが重要である。人々はしたがって君主に客観的な資質を不当に要求する。君主はただ言うべき「然り」と一者が座る「場所」をもつのみである。というのも、頂点とは、性格の特殊性が重要なものではなくなる、ということでなければならないからである。君主のこの規定は理性的である。なぜなら、それが概念に適っているからである。しかし、君主は理解するのが困難であるから、人々が君主制の合理性を理解できないことがしばしば起こる。君主制はそれ自体において堅固でなければならず、君主は何を...」

 


ヘーゲルのここでの問題意識は「一個の完成された国家の組織体とはどういうものか」である。
狂信的に、悟性的に理解された「民主主義」は、しばしば大衆の津波のような本能的自然の激情の奔出という事態を招く。その限界は、秩序の崩壊した戦場などにおいて、兵士たちの婦女子に対する暴虐といった現象にもたちあらわれる。

よく完成された有機的な国家組織というのは、群衆のもつこうした粗暴な自然的な激情に対する有効な防波堤を築いて、国民一般の自由を、とくに婦女子の安全を確保しなければならない。女性が夜中に街中を安全に歩ける社会はある意味では自由な社会である。

畏れながら「病弱」であったり、「不徳」であるという「特殊な性格」をもった君主が現実に現れるという偶然性は完全にはなくならない。しかし、それは、不徳漢の政治家や、腐敗した官僚や、堕落した裁判官が、現実において権力を掌握する可能性が完全に無くならないのと同じである。

しかし、よく構築された優れた有機的な国家組織は、権力の分立と「真理としての法の支配」を確立することによって、君主や政党や政治的指導者たちの個人的な特殊な性格によって恣意的な統治を許すことなく、国民の自由と安全を最大限に実現して行く。完成された「立憲君主国家体制」のめざすところもここにある。ヘーゲルが「立憲君主国家」の完成が近代の理念であるというのもそういう意味である。 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
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作務衣

2018年07月22日 | 日記・紀行

作務衣

連日の全国的な猛暑。京都もその記録的な暑さでニュース番組にも常連になっている。トップも気象関連と熱中症の報道ばかり。私たちが若い頃は、日射病とか言っていた。西日本豪雨に被災された現場はどれだけ過酷か、想像するばかり。


また、こんな酷暑の予想される再来年の八月に東京オリンピックの開催など、正気の沙汰とも思えない。誰がどのような権限で開催日時を決定したのか?

今からでも開催日時の変更は⎯⎯せめて二ヶ月ほどの延期だからできないはずはないと思うけれど。

前回の東京オリンピックは清々しい秋空の下で開催された。その記憶は今も鮮明に残っている。なぜ「天高く馬肥ゆる」爽やかな秋空のもとでスポーツの祭典を開かないのか、と素人考えでも疑問に思う。

先週あたりまでは、憲法論議の参考になればと思って、ヘーゲルの「法の哲学」の国家論の個所で気になったあたりを拙劣ながらも訳しながら、時には自分なりの注解なども書いてブログに公開していたが、ここしばらくは休んでいる。§279 Zusatz.[国家の人格としての君主] - 夕暮れのフクロウ https://blog.goo.ne.jp/aowls/e/74c5674f9d046890a8b75ae8a8cf252a

仕事で汗をかいても外から帰宅すると浴室で水を浴び、室内を締め切ってクーラーを自動かドライに設定して小一時間もすると、すっかり快適な環境が出来上がる。

それでも半ズボンにTシャツもいまひとつ暑苦しく、浴衣も取り出して部屋の中で着たがこれも今一つで、ホテル仕様のガーゼ地の寝巻などを取り出して着て過ごすのが少しだらしのない気もするが案外リラックスできる。

ただ袖口に締まりがなく、ちょっとした作業をするにもやりにくい。かといってたすき掛けをするほどでもない。部屋でネットなど見て気楽に時間を過ごすには、この寝巻姿で十分だけれど、ふと、作務衣というのがあることを思い出して、ネットで気に入りそうなのがあったので、少し値ははったけれど思い切って注文して見た。【日本製】伝統の作務衣久留米紬織 さわやかな着心地の綿織物(濃紺・明紺・黒)(S寸~3L寸) 岩田呉服店 (京都 九条) https://www.kyoto-wel.com/item/IS81297N00034.html

そしてここ二、三日、部屋にいるときは作務衣を着て過ごしている。寝巻もくつろげるし悪くはないけれど、私の手に入れた作務衣は、動作をする際に寝巻のような不自由さもなく快適だ。これならもっと早く手に入れておけばよかった、というのが感想。これからも夏には重宝する一品になると思う。

 
 
 
 
 
 
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7月14日(土)のつぶやき

2018年07月15日 | ツイツター
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