作雨作晴

日々の記憶.....

リコちゃん

2020年09月16日 | 日記・紀行

 

リコちゃん

犬のミカンちゃんも、猫のノエルももう天国に行ってしまったけれど。一年ほど前に新しくきたリコちゃん。家に帰ったときにはいつも、全身で歓びをあらわして出迎えてくれる。初めて出会った時にはひどく吠えられた。犬種はパピヨンとかいうらしい。

本日令和2年9月16日水曜日、菅義偉内閣が船出した。

コメント

藤田伊織氏、コメントお知らせへの御礼の返事 2020年09月12日 | Weblog

2020年09月12日 | Weblog

 

無能力と雑用のために長らくサボってきたこの日記ブログですが、ブログ「夕暮れのフクロウ」に久しぶりに記事を投稿したので、この日記ブログにも転記しておきました。もう少し勤勉な日記ブログになるように心がけたいと思います。

>>  <<

 

藤田伊織 様、コメントへのお知らせ、ありがとうございました。以前にもコメントいただいていたようですが、

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第十六節[契約の履行] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/lHCXp6

気づくのに遅れ、また雑用などで御礼の遅れましたことお許しください。コメント欄にお礼とお返事を申しあげようと思ったのですが、それも冗長なものとなってしまい、あらためて記事として投稿させていただきました。

引用
>> <<

『法の究極に在るもの』のウェブページ公開 ( [藤田伊織](http://wisteriafield.jp/law-ultimate/index.html) )
2020-09-03 13:45:56

尾高晴雄の『法の究極に在るもの』を読んで、著作権が切れていることを知って、電子データのテキストを作ってウェブ公開しました。
これは、高橋和巳の「悲の器」の英訳公開を進めていて、同小説の主人公が失脚後「法の究極」について書こうと、いってたので、調べたとこと、『法の究極に在るもの』に出会った次第です。小説では、文学部の哲学科の教授が死亡した話が出て来ますが、尾高先生とは、状況は一致しません。複数の学者の状況を重ね合わせているようです。
尾高先生はヘーゲルやフィヒテのことを厳しく批判していますが、そこが面白いところです。

『法の究極に在るもの』のリンク ( [藤田伊織](http://wisteriafield.jp/law-ultimate/index.html) )
2020-09-03 13:48:13
です。
それから、高橋和巳の「悲の器」はここです。
[http://wisteriafield.jp/vesselofsorrow/vosindex.html](http://wisteriafield.jp/vesselofsorrow/vosindex.html)

>> <<

藤田様のお仕事によって、尾高朝雄の労作『法の窮極に在るもの』がデジタル化され、WEBページに公開されるというまことに貴重な貢献をなされていることを知りました。尾高の著書『法の窮極に在るもの』も、残念ながら最近ではほとんど読まれる機会も失われつつあるのではないかと思います。その著作のなかに小さな誤解などが見当たるとしても、全体としては名著といえると思います。藤田様のお仕事により、より多くの人に読まれる機会の増えることは喜ばしいことです。

最近では法曹界でも「立憲主義」などが流行のようですが、しかし近年の法学者、憲法学者たちはヘーゲル哲学やいわゆるドイツ観念論哲学の素養とは全く無縁のところで「憲法学」に従事されておられるようです。この点がヘーゲル哲学やドイツ観念論哲学の研鑽の上に築かれた尾高朝雄らの法学と現代日本の三文的法学者、憲法学者たちとの違いかなと考えたりします。戦前教育を受けた尾高朝雄などとは異なって、今日の日本のアカデミズムの世界では、ヘーゲル「法の哲学」批判を試みたことがなくとも、法哲学者、憲法学者として通用するようですから。もちろん、これは浅学かつ知見の狭い私の個人的な意見に過ぎません。

私もまた、この尾高の『法の窮極に在るもの』によって、ヘーゲルの「概念」観がアリストテレスの「形相」(eidos)に見事に一致していることに気づかされました。ただ、アリストテレスの「形相」(eidos)を、ヘーゲルが自身の「概念観」として、自覚的に受け継いだものかどうかは、私の浅学ゆえに今のところ確認はできておりません。

私もまたアリストテレスさえろくに知らずして「哲学研究者」を自称しながら過ごしてきましたから、決して偉そうなことは言えません。「哲学研究入門者」とでも自称するのが正確なところかもしれません。

ただ、いずれにしても尾高朝雄のこの本については、私のツイートでも批判しておきましたが、たとえばヘーゲルの「現実」概念に対する尾高の批判が的外れなものであるように、残念ながら今も昔も大学教授たちのこうした不十分な理解によるヘーゲル批判、あるいは曲解が、このことはヘーゲルの「弟子」であることを自称した共産主義者マルクスなどについても言えると思いますが、ヘーゲル哲学に対する一般人の誤解や偏見を生むことになるのだと思います。

ただ、この尾高の作品『法の窮極に在るもの』についても、この著作の意義と限界、もしくはその錯誤を的確に指摘し批判するには、尾高朝雄以上の能力、素養がその批判者に要求されることからも分かるように、誰にでもできることではないとは思います。

いずれにしましても、藤田様のお仕事によって、尾高朝雄の『法の窮極に在るもの』がさらに広く多くの方々によって読まれることになるのは、日本の法哲学や学術一般の水準の向上に大きく貢献することになるのではないかと思います。

絶版になったり、またその価値も広く知られずして図書館の片隅に埋もれてしまっているような「名著」を、これからも藤田様のような篤志家によってデジタル化、電子書籍化されるなどしてWEB上でも広く日本国民に知られ、また読まれるようになれば、その使命を真に十分に果たせないでいる今日の劣化した日本の大学、大学院の無能力を少しでも補ってゆく上で、その意義は決して小さくはないと思います。

この尾高朝雄の『法の窮極に在るもの』についての本格的な書評は私もまだ未だ実行し得ておりませんが、さしあたっての批判は私のブログやツイッターでは以下のような論考でおこなっています。

尾高のヘーゲル批判への評注 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/4yIpi9

[夕暮れのフクロウ(尾高)](https://blog.goo.ne.jp/aowls/s/%E5%B0%BE%E9%AB%98)

取り急ぎ、私のブログへのコメント、お知らせへのお礼まで。
 
 
 
藤田伊織氏、コメントお知らせへの御礼の返事 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/HHEAGF

 

 

コメント

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第十六節[契約の履行]

2020年08月10日 | 哲学一般

 

§16

Die im Vertrag enthaltene Willenserklärung ist noch nicht die Verwirklichung und Ausführung des Übergehens meiner Sache oder Arbeit an den Andern. Dieser Übergang aus dem Grunde des Vertrages ist die Leistung.

第十六節[契約の履行]

契約のうちに含まれる意志の表示は、いまだなお、私の物や労働の他人への移行を実現し実行するものではない。契約に基づくこの移行が 給付Leistung.)である。

Erläuterung.

Mein Versprechen im Vertrag enthält, dass ich etwas durch meinen Willen aus der Sphäre des Meinigen aus­geschlossen habe und zugleich habe ich anerkannt, dass es der Andere in die seinige aufgenommen hat. Weil nun, dass etwas mein sei, so weit es von mir abhängt, in meinem Willen seinen Grund hat, so ist durch den Vertrag die Sache bereits Eigentum des Andern geworden. Insofern ich also das im Vertrag Be­stimmte dem Andern nicht leistete oder ihn nicht in Besitz setzte, so würde ich sein Eigentum verletzen. Ich bin also durch den Vertrag selbst zur Haltung desselben verpflichtet. (Erwerb durch Testament.)

説明

契約における私の約束は、私が或る物を私の意志によって私の所有する領域から除外したことを含んでおり、そして同時に、すでに他人がそれを彼自身のものにしてしまっていることを認めている。何か或る物が私のものであるということは、そのことはさらに私の意志にかかっているのであり、いまや私の意志にその根拠をもつのだから、契約を通してその物はすでに他人の財産になってしまっている。それゆえにもし私が契約において他人に約束したことを実行しないか、もしくは、それを他人に引き渡さなかったりすれば、私は他人の財産を損ねてしまうことになる。だから私には契約自体によってその約束そのもの果たす義務がある。(遺言による取得)

 

コメント

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第十五節[譲渡から契約へ]

2020年08月03日 | 哲学一般
 
§15

Zu einer Veräußerung an einen Andern gehört  meine  Einwilli­gung, die Sache ihm zu überlassen, und  seine  Einwilligung, sie anzunehmen. Diese gedoppelte Einwilligung, insofern sie ge­genseitig erklärt und als geltend ausgesprochen ist, heißt  Ver­trag  (pactum).

第十五節[譲渡から契約へ]

他人への譲渡には、私の所有物を他人に譲ることについての私の 同意と、それを引き取ることに他人が 同意していることが含まれている。この二重の同意は、それらが相互に表明され、有効であると宣言されているかぎり、契約(pactumラテン語)といわれる。
    
Erläuterung.
 
 Der Vertrag ist eine besondere Art, wie man Eigentümer einer Sache wird, die schon einem Andern gehört. Die früher auseinander gesetzte Art, Eigentümer zu werden, war die unmittelbare Besitznahme von einer Sache, die res nul­lius war.
 
説明
 
契約は、すでに他の誰かに所有されている物の所有者になるための特殊な方法である。以前に分析した所有者になるための方法は、無主物( res nul­lius)である物を直接に占有することだった。
 
 1) Als die einfachste Art des Vertrages kann der  Schenkungsvertrag  angenommen werden, in welchem nur Einer eine Sache an einen Andern überlässt, ohne den Werth derselben ersetzt zu erhalten. Eine gültige Schenkung ist ein Vertrag, weil der Wille beider dabei sein muss, des Einen, dem Andern die Sache zu überlassen, ohne etwas dafür zurückzunehmen, des Andern, die Sache anzunehmen.
 
 
1)もっとも単純な契約の方式としては、贈与契約(Schenkungsvertrag)を考えることができる。贈与契約においては、一方の当事者のみが物件を提供し、他方の当事者は受領するだけで、同等のものは返されない。有効な贈与は契約である。というのも、そこでは一方は他方に対して何ら代償もなく物件を譲与し、他方は物件を取得するという両方の意志がそこになければならないからである。
 
 — 2) Der Tauschvertrag  besteht darin, dass ich von meinem Eigentum einem Andern etwas unter der Bedingung überlasse, dass er mir eine Sache von glei­chem Werth dafür gibt. Dazu gehört die doppelte Einwilligung eines Jeden, etwas wegzugeben und dagegen das vom Andern Gebotene anzunehmen. 
 
⎯ 2)交換契約(Tauschvertrag)は、私の所有物の或る物ものを、それと同等の価値のある物件を私に与えるという条件のもとに、他者の誰かに譲渡することで成立する。そこでは、誰かに或る物ものを引き渡すかわりに、他の人の提供するものを手に入れるという両者の二重の同意を必要とする。
 
— 3) Kaufen  und  Verkaufen  ist eine be­sondere Art von Tausch, von Waren gegen Geld. Geld  ist die allgemeine Ware, die also, als der abstrakte Werth, nicht selbst gebraucht werden kann, um irgend ein besonderes Bedürfnis damit zu befriedigen. Es ist nur das  allgemeine Mittel,  um die besonderen Bedürfnisse dafür zu erlangen. Der Gebrauch des Geldes ist nur ein mittelbarer. Eine Materie ist nicht an und für sich, als diese Qualitäten habend, Geld, sondern man lässt sie nur durch Convention dafür gelten.
 
⎯ 3)買うこと売ることは、商品と貨幣とを交換する交換の特殊な様式である。貨幣は一般的な商品である。したがって抽象的な価値として、それによって特殊な欲求を満たすためにそれ自体を使用することはできない。貨幣はそれでもって特殊な欲求を充足させるための単なる 一般的な手段  でしかない。貨幣の使用は、単なる媒介的な手段である。一個の物質は本来的にこのような性質をもつた貨幣ではなく、そうではなく、人間はある物質を慣例によって貨幣として通用させるのである。
 
 — 4) Die  Miete  besteht darin, dass ich Jemand meinen Besitz oder den Gebrauch meines Eigentums überlasse, mir aber das Eigentum selbst vorbe­halte. Es kann dabei der Fall sein, dass derjenige, dem ich etwas geliehen habe, mir genau dieselbe Sache zurückgeben muss, oder dass ich mir mein Eigentum vorbehalten habe an einer Sache von der nämlichen Art oder von dem nämlichen Werte.(※1)
 
 ⎯ 4)賃貸借(Miete)は、誰かが私の財産を所有したり、あるいは使用することを私は認めているが、しかし、財産そのものは私が保留していることである。そこには、私が或る物を貸したことのあるその人が私にまったく同じ物件を返さなければならない場合と、同じ種類の、あるいは同じ価値の物件で私の財産を留保する場合などがありうる。

 
※1
本論の対象は、すでに諸論において明らかにされているように、人間の意志であるが、人間の意志は物を対象とする場合と人(他人)を対象とする場合がある。人間の物に対する意志は占有から所有へと進展するが、その過程で必然的に社会的動物としての人間は他者を介して物を対象とすることになる。ヘーゲルの論考を読解するうえで大切なことは、叙述の進展のなかに概念の必然的な、演繹的な導出を確認しつつ読むことである。

人間の意志は物を対象として所有することになるが、やがて第三者としての他人を介しても物を所有することになる。その際に必然的に契約の概念が導き出されるとともに、物の所有の交換の過程で特定の物質が一般的な(普遍的な)商品として収斂してくる。それが貨幣としての金である。

人間の意志と物との関係については「法の哲学」第一章 所有 §41  以下に詳細に分析されている。すでに高度に発展しつつあった市民社会における「契約」の概念についても、第二章 契約 §72 以降に分析されている。

 

コメント

ポンペオ米国務長官の対中演説要旨

2020年07月24日 | ニュース・現実評論
 
  ポンペオ米国務長官の対中演説要旨                
           
                                      2020/7/24 8:26  日経新聞(2020/7/24 12:31更新)                                

ポンペオ米国務長官の中国に関する演説の要旨は次の通り。
中国との闇雲な関与の古い方法論は失敗した。我々はそうした政策を継続してはならない。戻ってはならない。自由世界はこの新たな圧政に勝利しなくてはならない。
米国や他の自由主義諸国の政策は中国の後退する経済をよみがえらせたが、中国政府はそれを助けた国際社会の手にかみついただけだった。中国に特別な経済待遇を与えたが、中国共産党は西側諸国の企業を受け入れる対価として人権侵害に口をつぐむよう強要しただけだった。
中国は貴重な知的財産や貿易機密を盗んだ。米国からサプライチェーンを吸い取り、奴隷労働の要素を加えた。世界の主要航路は国際通商にとって安全でなくなった。
ニクソン元大統領はかつて、中国共産党に世界を開いたことで「フランケンシュタインを作ってしまったのではないかと心配している」と語ったことがある。なんと先見の明があったことか。
今日の中国は国内でより独裁主義的となり、海外ではより攻撃的に自由への敵意をむき出しにしている。トランプ大統領は言ってきた。「もうたくさんだ」と。
対話は続ける。しかし最近の対話は違う。私は最近、ハワイで楊潔篪(ヤン・ジエチー中国共産党政治局員)と会った。言葉ばかりで中国の態度を変える提案はない、相変わらずの内容だった。楊の約束は空っぽだった。彼は私が要求に屈すると考えていた。私は屈しなかった。トランプ大統領も屈しない。
(中国共産党の)習近平総書記は、破綻した全体主義のイデオロギーの真の信奉者だ。中国の共産主義による世界覇権への長年の野望を特徴付けているのはこのイデオロギーだ。我々は、両国間の根本的な政治的、イデオロギーの違いをもはや無視することはできない。
レーガン元大統領は「信頼せよ、しかし確かめよ」(trust but verify)の原則にそってソ連に対処した。中国共産党に関していうなら「信頼するな、そして確かめよ」(Distrust and verify)になる。
世界の自由国家は、より創造的かつ断固とした方法で中国共産党の態度を変えさせなくてはならない。中国政府の行動は我々の国民と繁栄を脅かしているからだ。
この形の中国を他国と同じような普通の国として扱うことはできない。中国との貿易は、普通の法に従う国との貿易とは違う。中国政府は、国際合意を提案や世界支配へのルートとみなしている。中国の学生や従業員の全てが普通の学生や労働者ではないことが分かっている。中国共産党やその代理の利益のために知識を集めている者がいる。司法省などはこうした犯罪を精力的に罰してきた。
今週、我々は(テキサス州)ヒューストンの中国領事館を閉鎖した。スパイ活動と知的財産窃盗の拠点だったからだ。南シナ海での中国の国際法順守に関し、8年間の(前政権の)侮辱に甘んじる方針を転換した。国務省はあらゆるレベルで中国側に公正さと互恵主義を要求してきた。
自由主義諸国が行動するときだ。全ての国々に、米国がしてきたことから始めるよう呼び掛ける。中国共産党に互恵主義、透明性、説明義務を迫ることだ。
現時点では我々と共に立ち上がる勇気がない国もあるのは事実だ。ある北大西洋条約機構(NATO)同盟国は、中国政府が市場へのアクセスを制限することを恐れて香港の自由のために立ち上がらない。
過去の同じ過ちを繰り返さないようにしよう。中国の挑戦に向き合うには、欧州、アフリカ、南米、とくにインド太平洋地域の民主主義国家の尽力が必要になる。
いま行動しなければ、中国共産党はいずれ我々の自由を侵食し、自由な社会が築いてきた規則に基づく秩序を転覆させる。1国でこの難題に取り組むことはできない。国連やNATO、主要7カ国(G7)、20カ国・地域(G20)、私たちの経済、外交、軍事の力を適切に組み合わせれば、この脅威に十分対処できる。
志を同じくする国々の新たな集団、民主主義諸国の新たな同盟を構築するときだろう。自由世界が共産主義の中国を変えなければ、中国が我々を変えるだろう。
中国共産党から我々の自由を守ることは現代の使命だ。米国は建国の理念により、それを導く申し分のない立場にある。ニクソンは1967年に「中国が変わらなければ、世界は安全にはならない」と記した。危険は明確だ。自由世界は対処しなければならない。過去に戻ることは決してできない。(ワシントン=芦塚智子)


ポンペオ米国務長官の対中演説要旨  :日本経済新聞 https://is.gd/0cB5Kh

Communist China and the Free World’s Future - United States Department of State 
https://www.state.gov/communist-china-and-the-free-worlds-future/ 

                                            


コメント

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第十四節[能力の譲渡]

2020年07月20日 | 哲学一般

§14

Dagegen kann ich den bestimmten Gebrauch  von meinen geisti­gen und körperlichen Kräften und die Sache, die ich in Besitz habe, veräußern.

第十四節[能力の譲渡]

それに対して、私の精神的な能力や肉体的な能力の一定の 使用 や私の所有している事物は譲渡することができる。

Erläuterung.

Nur einen beschränkten  Gebrauch seiner Kräfte kann man veräußern, weil dieser Gebrauch oder die beschränkte Wirkung von der Kraft unterschieden ist. Aber der beständige  Gebrauch oder die Wirkung in ihrem  ganzen  Umfange kann nicht von der Kraft an sich unterschieden werden. Die Kraft ist das Innere oder Allgemeine gegen ihre Äußerung. Die Äußerungen sind ein in Raum und Zeit beschränktes Dasein. Die Kraft an sich ist nicht erschöpft in einem einzelnen solchen Da­sein und ist auch nicht an eine ihrer zufälligen Wirkungen ge­bunden.

説明

ただ人間は彼の能力の 限定された 使用のみを譲渡することができる。というのも、この使用もしくは限定された活用は、能力とは区別されるからである。しかし、人間の能力の 全面的絶え間のない 使用もしくはその活用は、能力そのものと区別しえない。能力はその外化されたものとは反対に内的なものであり普遍的なものである。能力の外化は一個の空間と時間内における限定された存在である。能力それ自体は一個の独自のこうした存在の中で使い果たし切れるものではなく、そしてまた、その一個の偶然的な活用に縛られるものではない。

Aber zweitens, die Kraft muss wirken und sich äußern, sonst ist sie keine Kraft. Drittens macht der ganze Umfang ihrer Wirkungen die Kraft selbst aus, denn der ganze Umfang der Äußerung ist wieder selbst das Allgemeine, was die Kraft ist und deswegen kann der Mensch nicht den ganzen Gebrauch seiner Kräfte veräußern: er würde sonst seine Persönlichkeit veräußern.(※1)

しかし、第二に、能力は働かなければならず、自らを外化しなければならない。さもなければ、それはもはや能力ではない。第三に、能力の活用の全体が能力そのものを構成する。というのも、外化の全体は、やはりまた能力であるところの普遍的なものであり、そして、それゆえにこそ人間は彼の能力の全体の使用を売り渡すことができないのである。さもなければ彼は自身の人格を売り渡すことになるだろう。


(※1)
人間の能力の一部ではなくてその全面的な譲渡は、彼の人格を売り渡すことになる。
市民社会においては、人間の労働力は彼の人格からは切り離されて、一個の商品として市場において売買される。
みずからの全能力を譲渡する「奴隷制」とその部分的な使用を売り渡す近代の雇用関係、「賃金労働」との違いについては、「法の哲学§67」においてさらにくわしく明らかにされている。





コメント

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第十三節[譲渡できない品質]

2020年07月13日 | 哲学一般

§13

 Unveräußerlich  sind diejenigen Güter, die nicht so sehr mein Besitz oder Eigentum sind, als sie vielmehr meine eigenste Person ausmachen oder in meinem Wesen enthalten sind, als Freiheit des Willens, Sittlichkeit, Religion u. s. f.

第13節[譲渡できない品質]

私の所有物でもなければまた財産でもなく、むしろ私の独自の人格を構成するか、あるいは私の本質のうちに含まれるような性質のものは、たとえば、意志や道徳、宗教などの自由というものは、譲渡することのできないもの  である。

Erläuterung.

説明

Nur diejenigen Güter sind veräußerlich, die schon ihrer Natur nach äußerlich sind. Die  Persönlichkeit  z. B. kann ich nicht als etwas mir Äußerliches ansehen, denn insofern einer seine Persönlichkeit aufgegeben hat, so hat er sich zur Sache gemacht. Aber eine solche Veräußerung wäre null und nichtig. — Seine  Sittlichkeit  würde einer veräußern, wenn er sich z. B. gegen einen Andern anheischig machte, auf seinen Befehl alle möglichen Handlungen, Verbrechen so gut als gleichgültige Handlungen, zu vollbringen. Eine solche Verbindlichkeit hätte keine Kraft, weil sie die Freiheit des Willens in sich schließt, worin Jeder für sich selbst stehen muss.

その本性からいって外的であるような品質の物だけが譲渡することができる。たとえば 人格性 などは私にとって外的な物と見なすことは私にはできない。ある人が自分の人格性を放棄しているかぎりにおいて、彼は自分自身を物扱いすることになるからである。しかし、このような 譲渡は無効である。⎯ もし、ある人が他の人に対して、たとえば自分に可能なあらゆる行為を、つまらない行為からさらには犯罪でさえもうまくやり遂げることを、彼の命令にもとづいて引き受けるとしたならば、彼の 道徳性 は譲渡しうるものとなるだろう。このような約束はなんら拘束力をもつことはないだろう。というのも、各人が自身のために自ら立ち上がらなければならない意志の自由がその約束にはないからである。

Sittliche oder unsittliche Taten sind die eigenen Handlungen dessen, der sie begeht und weil sie so beschaffen sind, so kann ich sie nicht veräußern. — Auch meine  Religion  kann ich nicht veräußern. Wenn eine Ge­meinde oder auch ein Einzelner es einem Dritten überlassen hätte, dasjenige zu bestimmen, was ihren Glauben ausmachen sollte, so wäre dies eine Verbindlichkeit, die Jeder einseitig auf­heben könnte. Dem Andern, gegen den ich diese Verbindlichkeit eingegangen habe, geschieht damit kein Unrecht, weil das, was ich ihm überlassen habe,  nie sein Eigentum werden konnte. (※1)(※2)

道徳的または不道徳な行動は、それらを犯す人自身の行為であり、そのような性質のものであるから、私はそれらを譲渡することはできない。⎯ また、私の 宗教 も私は譲渡することはできない。もし、教会または個人が彼らの信仰を構成するものが何であるかの決定を第三者に委任していたとしても、それは一つの合意であって、各人はそれを一方的に放棄することができる。そのことで私がこの合意を引き受けた他者に対してもなんら不正は生じない。というのも、私が第三者に任せたことは、彼の財産には決してなり得ない  からである。


(※1)
前節では所有を放棄すること、譲渡すること、すなわち私の所有物を他人の占有する意志に任せることのできるものは「外的な物」であることが明らかにせられた。それに対し、本節において「内的な物」は、すなわち普遍的な自由意志や道徳性、宗教といった「私」に固有な人格を構成する精神的な財については、譲渡したり売り渡したりすることのできないものとされる。

ただ人格の放棄や売買は奴隷制のもとでは可能であったし、また道徳的な意志、良心や宗教の選択において、自己決定の意志や責任を放棄して、それを第三者に委ねる場合もあるが、その合意は、もっとも内面的な人格的な存在を外面的な財として取り扱うものである。それらは本来的に他人の占有することのできないものである。ただ、その合意は放棄できるものであり、それらは外的な財産にはなりえないから不正も生じない。

(※2)
譲渡されることのない人間に固有の権利と人格の放棄の詳細については「法の哲学§66」参照。




コメント

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第十二節[所有と譲渡]

2020年07月06日 | 哲学一般

§12

Ich kann mich meines Eigentums  entäußern und dasselbe kann durch meinen freien Willen an Andere übergehen.

第12節[所有と譲渡]

私は自分の財産を 譲渡 することができる。そして、私の自由な意志によって私の所有を他人に移動することができる。

Erläuterung.

説明

Meine Kräfte und Geschicklichkeiten (※1)sind zwar mein eigenstes Eigentum, aber sie haben auch eine Äußerlichkeit. Nach der abstrakten Bestimmung sind sie schon insofern äußerlich, als ich sie von mir, dem einfachen Ich, unterscheiden kann. Aber auch an sich sind die Kräfte und Geschicklichkeiten einzelne und beschränkte, die nicht mein Wesen selbst ausmachen. Mein Wesen, das an sich allgemeine, ist von diesen besonderen Bestimmungen unterschieden. Endlich sind sie in ihrem Gebrauch  äußerlich. Eben indem ich sie gebrauche, mache ich sie zu einer äußerlichen Form und das durch sie Hervorge­brachte ist irgend ein äußerliches Dasein.

私の能力と熟練はたしかに私自身に固有の資産であるが、しかしまた、それらは外的な側面ももっている。抽象的な規定からすれば、私はそれらを自分から、単純な自我から区別することができるという点ですでに外的なものである。しかし、能力と熟練はそれ自体において個別的でありかつ限定的なものであって、それらは私の本質そのものを構成するものではない。それ自体において普遍的なものである私の本質は、これらの特殊な規定からは区別される。最後に、それらはその使用に際しても外的である。まさに私がそれらを用いることによって、私はそれらに一つの外的な形式を与え、そして、それらを通して作り出されたものは一個の外に存在する或る物である。

Im Gebrauch liegt nicht die Kraft als solche, sondern sie erhält sich, ungeachtet sie sich geäußert und diese ihre Äußerung zu einem von ihr ver­schiedenen Dasein gemacht hat. Diese Äußerung der Kraft ist auch insofern etwas Äußerliches, als sie etwas Beschränktes und Endliches ist. — Insofern etwas mein Eigentum ist, habe ich es zwar mit meinem Willen verbunden, aber diese Verbin­dung ist keine absolute. Denn wäre sie eine solche, so müsste mein Wille seinem Wesen nach in dieser Sache liegen. Sondern ich habe meinen Willen hier nur zu etwas Besonderem gemacht und kann, weil er frei ist, diese Besonderheit wieder aufheben.(※2)

能力それ自体はその使用のうちに存在しているのではない。むしろ能力は自己を外化し、そして、むしろこれらの外化したものを自らとは区別される定在へと作り上げるにもかかわらず、能力は自己を保存している。能力のこの外化は、また、外的な或る物であるという点においては、限界のあるものであり有限のものである。⎯  或る物が私の資産であるかぎりは、たしかに私はそれを私の意志と結びつけてはいるが、しかし、この結合は絶対的なものではない。それがもし絶対的なものであるなら、私の意志はその本質からもこの事物のうちに存在していなければならないことになる。ところがそうではなくて、ここでは私は私の意志をたんに特殊な或る物へと作り上げるにすぎず、そして、私は自由であるから、この特殊性をふたたび止揚することができるのである。


(※1)
Meine Kräfte und Geschicklichkeiten「私の能力と熟練」
人間の能力や熟練は、人間の本質から、すなわち、その人格から切り離されて、外部に特殊な生産物としてそのうちに保存され、また、それは彼の人格とは無関係に他者に譲渡することも可能である。これらは経済学的な概念として、労働と労働力として捉えなおすこともできる。労働は能力や熟練の使用という外的な形式の側面であり、労働力は外的な生産物のうちに保存されている人間の能力や熟練である。

(※2)
この節における人間の能力や熟練についてのヘーゲルの考察は、マルクスの『資本論』などにおいて受け継がれて、さらに具体的に詳細に分析されている。マルクスは人間の労働と労働力の相違を詳細に分析して、商品交換における「使用価値」と「交換価値」の違いとして定式化した。



コメント

『時をかける少女』『吉原炎上』など

2020年07月05日 | 日記・紀行
時をかける少女ending

2020年令和2年7月5日(日曜日)曇りのち雨。

今日は東京都の知事選があり、また今月に入ってからは、中共政府は香港市民に対して「国家安全法」を交付し、しかも即日施行によってすでに多くの香港市民を拘束し、言論と行動の自由を奪っている。

東京をはじめとして日本の武漢コロナ・ウィルスも一向に収束する気配もない。今日の日曜日の昼間こそ雨は降らなかったけれど、空は厚い雲に覆われていた。この日記を記している夜半になって雨が降り出した気配。

日曜日の今日は在宅して、ネットで映画やアニメを久しぶりに終日見て過ごした。劇場で見るような大画面でもなければ十分な音響もないけれど、テレビ画面の大きさに色彩の濁りも音質の弛みもなくそこそこに廉価に映像を楽しめるのはうれしい。

これらの映画はすでにとっくの昔に上映されていたり世上に話題に上っていたのは知っていた。ただ劇場にまでわざわざ足を運ぶ気にもならず、そのまま見過ごしていた。しかし、今はネットの時代になって、過去の映画も気の向くままに部屋にいながらにして視聴できる。ネット上でダウンロードできる多くの映画やアニメの中からたまたま思いつきに選んだ。

『時をかける少女』を見た。原田知世主演で主題曲もよく知られている。これは1983年の作品だからもう40年近くも昔の作品ということになる。映画の中に出てくる風景がどこか懐かしい気がすると思っていたら、尾道市を舞台にしているとのこと。監督の出身地であることも知った。そういえば監督の大林宣彦氏ご逝去のニュースを何ヶ月か前に見たことも思い出した。

新海 誠監督のアニメ映画『天気の子』も見た。去年の作品なのか、この監督の最近作であるはずだ。

続いて、五社英雄監督作品の『吉原炎上』という映画をも見た。これも古い映画である。もともとこの監督の作品には惹かれるところがなかったのか、これまで一度も見たことはなかった。また映画通でもない私にはDVDの作品全集でも手に入れたいと思うような監督はいない。思い出すのもせいぜい成瀬巳喜男監督くらいか。

明治時代の吉原遊廓を再現したような大掛かりなセットは今日の映画ではなかなか造れないだろう。当時の遊郭の風情がどんなものだったのかわかった気になった。主演は名取裕子さんで、今もまだ現役の女優さんである。この作品の中に私には懐かしい根津甚八が出ていた。この男優の動静はここしばらく耳にしたことがなかったので、久しぶりに思い出してこの映画を見終えたのちにネットで調べてみた。

『吉原炎上』は1987年の作品で、男優の根津甚八さんは2016年、すでに4年ほど前に亡くなっておられたことを知った。道理でこの俳優について何の音沙汰も聞こえてこなかったはずだ。

それから最後に、宮崎駿監督のアニメ映画『風立ちぬ』を見た。これも数年前にはずいぶん世評に上っていたことは知っていた。主題曲に使われていた松任谷由美の「ひこうき雲」はいくどか聴いていたが見るのは初めて。

映画やアニメ作品について感想も記録しておきたいけれど、なかなかその気にもならず、また暇もない。ただ久しぶりの映画やアニメ鑑賞びたりの一日も悪くはなかった。




コメント

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第十一節[占有から所有へ、他人の承認]

2020年06月29日 | 哲学一般

§11

Der Besitz wird zum Eigentum oder rechtlich, insofern von allen Andern anerkannt wird, dass die Sache, die ich zur meini­gen gemacht habe, mein sei, wie ich eben so den Besitz der An­deren als den ihrigen anerkenne. Mein Besitz wird anerkannt, weil er ein Akt des freien Willens ist, der etwas Absolutes in sich selbst ist und worin das Allgemeine liegt, dass ich das Wol­len Anderer eben so als etwas Absolutes betrachte.

第十一節[占有から所有へ、他人の承認]

私が私のものに作りあげた事物が、他のすべての人によって私のものであることが認められている限り、その占有物は 所有物 になる、もしくは合法的なもの となる。それは私が他人の占有物を彼らの所有物として認めているのと同じである。私の占有物が 認められる のは、それが自由意志の行為であり、それ自体において絶対的なものであり、そのことのうちには私もまた他人の意志をおなじように絶対的なものと見なすという普遍的なものがあるからである。

Erläuterung.

Besitz und Eigentum sind zwei verschiedene Be­stimmungen. Es ist nicht notwendig, dass Besitz und Eigentum immer verbunden sind. Es ist möglich, dass ich ein Eigentum habe, ohne davon in Besitz zu sein. Wenn ich z. B. einem Andern etwas leihe, so bleibt dies immer mein Eigentum, ob ich es gleich nicht besitze. Besitz und Eigentum sind in dem Begriff enthalten, dass ich ein Dominium über etwas habe. Das Eigentum ist die rechtliche Seite des Dominiums und der Besitz ist nur die äußerliche Seite, dass etwas überhaupt in meiner Ge­walt ist. Das Rechtliche ist die Seite meines absoluten freien Willens, der etwas für das Seinige erklärt hat. Dieser Wille muss von Andern anerkannt werden, weil er an und für sich ist und insofern die zuvor angegebenen Bedingungen beobachtet wor­den sind. (※1)

説明

占有と所有は二つの異なった規定である。占有と所有がつねに結びついているという必然性はない。私は占有することなくして所有することもできる。たとえば、もし私が、他の誰かに何かを貸し出したばあいには、私はそれを占有することがなくても、これらは変わらず私の所有でありつづける。私が何かを支配しているという考えのうちには、占有と所有が含まれている。所有は支配の法的な側面であり、占有とは一般的に或る物が私の力のうちにおかれているという支配の外的な側面にすぎない。法的であることは私の絶対的な自由な意志の側面であり、自由な意志が或る物について法的なものとして宣言するのである。なぜなら、自由な意志は元来そういうものであり、かつ、さきに与えられた条件が守られているかぎり、これらの意志は他人から認められなければならない。

— Das Eigentum hat also eine innerliche und eine äußerliche Seite. Diese für sich ist die Besitznahme, jene der Akt des Willens, der als solcher anerkannt werden muss. Es scheint zufällig oder willkürlich, ob zu einer Besitznahme auch das Anerkennen Anderer hinzukomme. Es muss aber hinzukom­men, weil es in der Natur der Sache liegt. Anerkennen hat nicht den Grund der Gegenseitigkeit. Ich anerkenne es nicht darum, weil du es anerkennst und umgekehrt, sondern Grund dieses gegenseitigen Anerkennens ist die Natur der Sache selbst. Ich anerkenne den Willen des Andern, weil er an und für sich anzu­erkennen ist.

⎯ したがって所有には内的な側面と外的な側面がある。後者はそれ自体としては占取することであり、前者は、そうした(内的な)ものとして認識されなければならない意志の行為である。また一つの占取について他人からの承認がえられるかどうかは偶然かあるいは恣意のように思われる。しかし、それは事柄の本性のうちにあるものだから、もともと承認されなければならないものである。承認は相互性を根拠とするものではない。あなたがそれを認めるから代わりに私がそれを承認するというのではなく、そうではなくむしろ、これらの相互の承認の根拠は事柄の本性それ自体にある。私が他人の意志を承認するのは、それ自体が本来的に承認されるべきものであるからである。

(※1)
 insofern die zuvor angegebenen Bedingungen beobachtet wor­den sind.
「さきに与えられた条件が守られているかぎり」
とは、占有が自由な意志の行為であり、私が他人の意志を私の意志と同じように、絶対的なもの、普遍的なものとして見なすということ。




コメント

梅雨の季節に

2020年06月26日 | 日記・紀行

2020年令和2年6月26日金曜日、曇りのち雨

 

雨降りに すれすれの雲 流れけり

私が仕事を終えて病院を出るときには空はまだ翳っていたが、雨の降る気配はなかった。
しかし、松ヶ崎から宝ヶ池に抜けようとするときに、激しく雨が降り出した。少々の雨ならそのまま突き切って行くつもりだったけれど、このままならずぶ濡れになるのは避けられそうもない。
雨で流れの速くなった小川の岸に大きな樹木が植っていた。仕方なくその樹の下にバイクを止めて雨ガッパを取り出して着た。
川流れの袂にアジサイの花が群れ咲いているのに眼が止まった。そのときふと昔のことを思い出す。

若き日を  物語るかな  アジサイ花

メールで送ると返し

水鏡  姿写して  若返り

また

梅雨の雨 君が着くまで  降らないで

途中に激しく降り出した雨はとうとう、家に帰り着くまで止むことはなかった。

                                               
 
 
 
コメント

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第十節[意志と占有、その表示]

2020年06月13日 | 哲学一般

§10

2) Der Besitz muss  ergriffen  werden, d. h. es muss für die Ande­ren erkennbar gemacht werden, dass ich diesen Gegenstand unter meinen Willen subsumiert haben will, es sei durch  körper­liche Ergreifung,  oder durch  Formierung,  oder wenigstens durch  Bezeichnung  des Gegenstandes.(※1)

第十節[意志と占有、その表示]

2)財物は 取得 されなければならない。すなわち、私がこの対象を私の意志のもとに従属せしめていることを、身体的な取得 を通してであれ、あるいは、形成すること を通してであれ、あるいは、少なくとも対象に 表示する ことを通してであれ、そのことを私は他者に対して認知させていなければならない。


Erläuterung.

Der äußerlichen Besitzergreifung muss der inner­liche Willensakt vorangehen, welcher ausdrückt, dass die Sache mein sein soll. Die erste Art der Besitznahme ist die körperliche Ergreifung. Sie hat den Mangel, dass die zu ergreifenden Gegen­stände so beschaffen sein müssen, dass ich sie unmittelbar mit der Hand ergreifen oder mit meinem Körper bedecken kann und ferner, dass sie nicht fortdauernd ist.

説明

外的な占取には、その事物が私の物であることを表す意志の内的な行為が先行していなければならない。占有の第一の方式は身体による取得である。それには次のような欠点がある。取得する対象物は、私が直接に手をもって取ったり、あるいは私の身体で確保することのできる性状のものでなければならず、さらには、それらが永続的なものではないということである。

— Die zweite vollkomme­nere Art ist die Formierung, dass ich einem Dinge eine Gestalt gebe, z. B. einen Acker bebaue, Gold zu einem Becher mache. Hier ist die Form des Meinigen unmittelbar mit dem Gegen­stande verbunden und daher an und für sich ein Zeichen, dass  auch die Materie  mir gehöre. Zur Formierung gehört unter An­derem auch das Pflanzen von Bäumen, das Zähmen und Füt­tern von Tieren.

⎯ 占有の第二のより完全な方式は、私が一つの物に一つの形状を与えるといった形成を行うことである。たとえば、原野を耕したり、金で杯を作ったりすることである。ここでは、私の物であるという形態が直接に対象物と結びついており、そして、そこから本来的に その素材もまた 私に属しているという表示となる。この形成には、樹木を植えることや、動物を飼いならすこと、養育することも含まれる。

Eine unvollkommene Art des Landbesitzes ist die Benutzung eines Distriktes ohne seine Formierung, z. B. wenn nomadische Völker ein Gebiet zur Viehweide, Jägervölker zur Jagd, Fischervölker den Strand eines Meeres oder Flusses benutzen. Eine solche Besitznahme ist noch oberflächlich, weil die wirkliche Benutzung nur erst eine temporäre, noch nicht auf bleibende, an dem Gegenstand haftende Weise ist.

土地所有の不完全な方式は、土地を形成することなく土地を使用することである。たとえば、遊牧民が放牧のために牧草地を使用し、猟師が狩猟のために、漁民が海岸や河岸を使用する場合である。第一に、その実際の所有は一時的なものにすぎず、なお対象と密接にかかわる永続的な所有の様式ではないために、このような占有はやはり皮相的なものである。


— Die Besitz­nahme durch die bloße Bezeichnung des Gegenstandes ist un­vollkommen. Das Zeichen, das nicht, wie in der Formierung, zu­gleich die Sache selbst ausmacht, ist ein Ding, das eine Bedeu­tung hat, die aber nicht sein eigenes Wesen ist und wogegen es sich also als ein fremdes verhält. Aber es hat auch sonst eine ihm eigene Bedeutung, welche nicht mit der Natur des durch es bezeichneten Dinges selbst zusammenhängt. Die Bezeichnung ist also willkürlich. Von was ein Ding Zeichen sein soll, ist mehr oder weniger die Sache der Konvenienz.

⎯ 対象物へのたんなる表示による占有は不完全なものである。形成におけるように、所有物それ自体を同時に作り変えることのないような表示は、一つの意味をもつものであっても、しかし、その物自体の存在ではなく、したがって、それに対して表示は自らを疎遠なものとしてふるまう。しかし、表示はまたさらに、それを通して表示された物自体の本性とは結びつかない独自の意味をもつ。だから、表示は恣意的なものである。一つの物にどのような表示がされるべきかは、多かれ少なかれ便宜的なものである。


(※1 )
まず意志は物に対して「私の物にする」という意志として現れる。その取得の意志は、また、その物が私の意志の支配下にあることを他者に対して認知させなければならない。その他者への認知は三つの仕方によって行われる。一つは、身体による直接の取得、一つは、物自体に対する私の加工、形成による表示、一つは、たんなる標識によるもの。この一節は「法の哲学§54」の本文においては、占有の形式の、個別から普遍への進展として示されている。


 https://is.gd/LZhQC2

コメント

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第九節[意志と物]

2020年06月09日 | 哲学一般

§9

Die erst in Besitz zu nehmende Sache muss 1) res nullius (※1)sein, d. h. nicht schon unter einen andern Willen subsumiert sein.

Erläuterung.

Eine Sache, die schon eines Andern ist, darf ich nicht in Besitz nehmen, nicht, weil sie Sache, sondern weil sie  seine Sache  ist. Denn nehme ich die Sache in Besitz, so hebe ich an ihr das Prädikat, die seinige zu sein, auf und negiere damit seinen Willen. Der Wille ist etwas Absolutes, das ich nicht zu etwas Negativem machen kann. (※2)

第九節[意志と物]

所有において初めて取得される物は、1) 無主物(res nullius)  でなければならない。すなわち、すでに他人の意志のもとに属している物であってはならない。

説明

すでに他人のものである物を、私が取得して所有することは許されない。というのは、それが物であるからというのではなく、そうではなく 他人の物 だからである。つまり、私が物を取得して所有するということは、他人のもの という述語をその物から取り上げることであり、それによって、他人の意志を否定するからである。意志は、私の否定することのできない絶対的なものである。


(※1)
res nullius ラテン語、法律用語
無主物。放棄されたもの

(※2)
諸論の第一節でこの論考の対象が「人間の意志」であることが述べられているが、この人間の意志の概念は「法理論」へと進展して、その端初である所有(占有)の段階に入る。


                     夕暮れのフクロウ https://is.gd/hNoVam





コメント

ダビンチの生涯と芸術

2020年06月02日 | 日記・紀行



2020年令和2年6月2日火曜日、晴れ

YOUTUBE で、2019年度の国際共同制作番組「レオナルド・ダビンチ  万能の男が見た世界」を見ました。人類史上にも稀な才能の生まれた背景、その時代と風土の片鱗を知ることができました。自由なくしてダビンチのような人間の生まれ来るはずのないことも。

ちなみに、、YOUTUBE によって提供される表現の自由の恩恵ははかり知れません。しかし、全体主義的な国家体制においてはこの自由はありません。

中華人民共和国においては、日本のように YOUTUBE や Twitter などのSNS を自由に使うことができませんし、また、それらで自国の政府を自由に批判することもできません。そのために「言論の自由」や「民主主義」を主張することもできません。

昨年の今頃の6月に、香港では「逃亡犯条例改正」をめぐって大規模な反対デモが行われて、参加した女性がそのさなかに警備隊のゴム弾で片目を失明するということがありました。

長い間イギリスの統治下にあった香港では、犯罪者の引き渡しは「司法制度や刑事制度が確立された、人権の守られている国に限る」とされていたのですが、その「改正」によって中国へも「犯罪者」の引き渡しのできるようにしたものでした。

中国共産党政府の下では、「言論の自由」や「民主主義」の主張はできません。民主活動家、劉暁波氏が獄中に病没したように、「犯罪行為」と見なされて拘束されます。「逃亡犯条例改正」に対する香港市民の反対行動はそうした自由の失われることの危機感によるものです。この時、日本政府は香港情勢について「大変憂慮している」などと一応の懸念は示しました。しかし今も事態は決して改善されたわけではありません。

むしろ、今年になって中国の全国人民代表大会(全人代)が先月の28日に「香港国家安全法」の制定方針を採択したように、香港情勢はさらに悪化して深刻な危機を迎えようとしています。しかし、日本の「自由」の主張は口先だけのものであり、それを現実に保証するだけの実力はありません。


〇八憲章=中華連邦共和国憲法要綱 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/zDfjKM


コメント

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第八節[意志と所有]

2020年05月30日 | 哲学一般

§8

Der Wille, indem er eine Sache (※1) unter sich subsumiert, macht sie zu der  seinigen.  Der  Besitz  ist dies Subsumiertsein einer Sache unter meinen Willen.

第八節[意志と所有]

意志は一個の事物を自己のもとに従属化することによって、それを 自分自身のもの とする。所有物 とは、私の意志の下にある、一つの物件のこうした従属物のことである。

Erläuterung.

Zum Subsumieren(※2) gehören zwei Stücke(※3), etwas All­gemeines und etwas Einzelnes. Ich subsumiere etwas Einzelnes, wenn ich ihm eine allgemeine Bestimmung beilege. Dies Subsumieren kommt überhaupt im Urteilen vor. Das Subsumierende im Urteilen ist das Prädikat und das Subsumierte das Subjekt. Die Besitznahme ist das Aussprechen des Urteils, dass eine Sache die meinige wird.

説明

包摂には、普遍的なものと個別的なものという二つの要素が必要である。私が個別的なものに普遍的な規定を与えるときは、私は個別的なものをそのうちに包摂している。この包摂は一般的には判断のうちに現れる。判断において包摂するものは述語であり、包摂されるものは主語である。占有とは、その物件が私のものであるということを、判断に言い表したものである。

Mein Wille ist hier das Subsumierende. Ich gebe der Sache das Prädikat, die meinige zu sein. Der Wille ist das Subsumierende für alle äußerlichen Dinge, weil er an sich das allgemeine Wesen ist. Alle Dinge aber, die nicht selbst sich auf sich beziehen (※4), sind nur notwendige, nicht freie. Dies Verhältnis macht also, dass der Mensch das Recht hat, alle äußerlichen Dinge in Besitz zu nehmen und aus ihnen ein Anderes, als sie selbst sind, zu machen. Er behandelt sie damit nur ihrem Wesen gemäß.(※ 5)

私の意志はここでは「包み込むもの」である。私は物件に対して私のものであるという述語を与える。意志はそれ自体として普遍的な存在であるから、意志はすべての外にある物を包み込むものである。しかし、それ自身として自己を自己に関係することのないすべての物は、単なる必然的なものにすぎず、自由なものではない。それゆえに、この関係は、人間がすべての外にある物を占有する権利をもつこと、そして、それらを現在あるものとは別のものに作りかえる権利をもつことを意味する。そこで人間は物をただその本質にふさわしいように取り扱う。



(※1)Sache 
事物、事柄、「物件」

(※2)Subsumieren
subsumieren(より包括的な、抽象的な概念、命題、条項などの中に)
包含すること、包摂すること。
sub  下に
summieren まとめる、合計する、総括する

(※3)
Stücke 断片、条項
全体のうちの切り離された一個の部分。ここでは Moment と同義と考えていいと思う。概念を構成する要素は、個別、特殊、普遍。

(※4 )
Alle Dinge aber, die nicht selbst sich auf sich beziehen, sind nur notwendige, nicht freie.
ここに「物」との対比において、ヘーゲルの人間観の独自性がよく出ている。「物」はそれ自体として「自己に自己を関係させること」がないから必然性に支配される存在である。それに対して人間は、それ自体として「自己に自己を関係させる」存在、すなわち「自己を意識する」ゆえに自由な存在である。

(※5)
ヘーゲルはここで聖書の創世記第一章第26節〜第28節を念頭においていたのだろうか。

26
神はそして言われた。「私たちに形どって、私たちに似せて人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべてのもの、地に這うものすべてを支配させよう」。
27
そうして 神はご自身の形に人をつくられた。神のかたちに人をつくり、それらを男と女とにつくられた。
28
そして 神は彼らを祝福され、そして彼らに言われた。「生めよ、ふえよ、地を満たせ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地の上に動くすべての生きるものとを支配せよ」。






コメント