下に、小室直樹『日本人のための憲法原論』への感想を追記しました。
追記※20250707(月)
上記の本で小室の展開している議論は、ホッブス、ジョン・ロック、ルソー流の「社会契約論」を基盤としており、国家とは国民の自由意志の契約によって成立する人工的な構築物であるという理解に立脚しています。しかし、ヘーゲルはこのような契約論的国家観を「抽象的」かつ「恣意的」として明確に批判しています。国家とは単なる合意の産物ではなく、制度的・倫理的実体として理念的に自己展開していくものです。契約による国家は、一時的・不安定であり、理念国家の持つ内的必然性を欠きます。
小室のこの本で展開している議論は確かに「博識」にもとづいていますが、ヘラクレイトスの箴言を踏まえてヘーゲルは「博識はまだ科学ではない」とも言っています。科学として必然性を追求する意識もみられません。ヘーゲルの『法の哲学』を勉強しなかった小室は理解もできませんでしたから、ヘーゲルが『法の哲学』の中で、ホッブス、ジョン・ロック、ルソー流の「社会契約論」をその意義と限界を指摘してアウフへーベンして論証していることも知りません。だから、恥ずかしげもなく、こんなところでも『契約論的国家観』を繰り返し、日本国民に低劣な「契約論的国家観」を宣伝することになるのです。
また、小室の提案する「個人主義的人権理念の徹底」は、結局のところ「抽象的個人主義」に収束していくことになります。このことによって、個人は、国家の民族的な、歴史的な文脈のなかに位置付けられずに、単なる個人の権利の仲裁装置と化した国家のなかで生きていくことになってしまいます。
たとえば、憲法学者の樋口陽一氏のように、日本国憲法の「第一三条 すべて国民は、個人として尊重される。」という規定を、フランス流の抽象的な個人主義として持ち込み、「個人主義的人権理念の徹底」として我が国の憲法の中に持ち込むと、個人は日本国の歴史的な民族的な文脈から切り離されてしまいます。
国民は抽象的な個人として、民族的な気質や歴史的な人格形成の文脈からも切り離され、その結果として、国民は群衆の一人として、国家としての日本に帰属意識もアイデンティティーも持たない、根無草の国民が増えることになります。家族や会社や学校や地域社会のなかで日本に帰属意識もアイデンティティーも持たない、そうした根無草になった群衆の一人一人が、果たして「夢」や「仲間意識」や利己主義でない「倫理観」をもった国民になるでしょうか。
書評:小室直樹『日本人のための憲法原論』
小室直樹氏は、日本国憲法の問題を、日本人が西洋的な憲法理念を十分に理解・共有していないことに求めています。それは、「憲法の理念」が日本社会に対して外から導入された単なる規範であること、すなわち外在的な観念であることを前提にしています。
しかし、このような憲法理念を外在的な基準として位置づける理解そのものが誤りだと思います。ヘーゲルの『法の哲学』の立場においては、「国家理念」はあくまで内在的に展開する実体として捉えられます。国家とは、民族・文化・歴史が倫理的な実体として自己展開していくことによって初めて形成されるものです。
したがって、小室がいうような「理念の不在」を、日本社会にとって外的な理論や思想を単に「理解」し「取り込む」ことによって解決すべき問題とするのは、国家理念の真の本質を見誤っています。
小室の議論は、ルソー流の「社会契約論」を基礎としています。この立場では、国家とは「国民の自由な意志による合意・契約」によって成立し、その合意の理念的な理解が欠けているため憲法が機能していないと考えています。
これに対して、ヘーゲル哲学の立場では、国家を「合意」や「契約」に還元する見方については明確に批判しています。ヘーゲルによれば、国家は個人の恣意的な契約によって人工的に作られるのではなく、個人が倫理的な実体(家族や市民社会)を経て普遍的な理性と統合されていく有機的な実体としてとらえられます。
小室のモデルでは、理念については、あくまで「意識的に選択された規範」として理解されていますが、ヘーゲルの「法の哲学」の立場からすれば、真の国家理念は、意識以前の共同体的生活や制度的な枠組みそのものに内在しています。理念を「同意の不足」程度の問題としてとらえる限り、真の国家理念には到達できないでしょう。
小室が指摘する「理念の不在」においては、結局「個人主義的な人権観」や「民主的参加の理念」を十分浸透させるべき、という思想に還元されてしまうでしょう。この考えは「抽象的な個人主義」の理念の段階にとどまってしまい、歴史や民族、共同体的な連帯という具体的な倫理的実体を軽視するか、無視することになってしまいます。
ヘーゲルの立場からすれば、「抽象的個人主義」は理念国家形成を阻害することになります。なぜなら、国家は単なる個人の利益の調整機関ではなく、個人が国家の普遍的理念に内在的に結びつき、自己をその中で具体的に実現していくものであるからです。小室のいう「理念の不在」は、実際には抽象的な個人主義を強化する方向に向かうため、理念国家の視点、立場からはかえって国家の理念的な実現を妨げる要因になり得ます。
国家が実際に機能するためには、法律や制度が市民の道徳感情や、家族、職業など倫理的生活(Sittlichkeit)と内的につながる必要があります。小室の「理念の不在」論は、この倫理的実体としての制度や慣習を考慮せず、理念を外的な観念に還元しまい、単純に個々人の理念の無理解や契約同意の問題として矮小化することになります。
国家理念が実効性を持つためには、人々の生活と制度が理念と有機的に結びついていなければなりません。ヘーゲルの視点からは、国家理念の問題を「理解不足」や「教育不足」といった啓蒙的課題として片付ける小室の議論では根本的に不十分です。
小室が「理念の不在」として批判するのは、国民の憲法に対する理解の不足ですが、これは法の本質を個人の「恣意的な理解」に委ねる危険性を伴います。ヘーゲルは法の本質を「理性の自己展開」と捉え、法の妥当性をたんなる主観的同意に還元することを厳しく批判します。
法や制度の妥当性とは、主観的な理解や合意ではなく、理性的・論理的必然性に裏打ちされるべきであるとヘーゲルは主張しています。小室のように法の妥当性を「同意」や「理解」に還元すれば、結局、法は国民感情や政治的な都合によって容易に恣意的に変容しうる脆弱なものとなります。小室は「法の支配」の真意をとらえきれないでいます。
以上のように、小室が本書で主張する「理念不在論」は、国家理念を外的基準によって理解し、契約的合意という個人主義的な枠組みに還元してしまう限界を持っています。これに対しヘーゲルの理念国家論からすれば、理念とは外的理解や同意ではなく、民族的・歴史的制度の内的必然的な展開そのものです。
日本において憲法が機能していない問題を解決するためには、国家の理念を単に外部から輸入した「概念」としてではなく、日本民族の歴史的・文化的・倫理的な自己展開そのものとして再構築しなければなりません。そのためには、家族、市民社会、教育、文化制度と国家の統合的な倫理的な再構築が求められます。小室の議論は、このような根本的視点を見落としている点において、致命的な欠陥を抱えていると言えます。
※追記20250617(ご参考のために)
今日は憲法記念日 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/MSslzw