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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

国際法とアラスカ会談(プーチン・トランプ会談)と日本

2025年08月19日 | ニュース・現実評論

 

国際法とアラスカ会談(プーチン・トランプ会談)と日本


2025年8月15日、アラスカで行われたプーチンとトランプの米露首脳会談(いわゆる「アラスカ会談」)は、ウクライナ・ロシア戦争の停戦に向けた動きとして国際社会の注目を集めました。しかしながら、この会談には当事者であるウクライナは呼ばれず、会談の内容は、ロシアによる侵略行為を事実上容認する形となる危険性をはらんでいました。歴史を振り返れば、ヤルタ会談(1945年)において大国が小国の運命を一方的に決定した結果、冷戦構造が固定化され、小国(ポーランド)の主体性が奪われたという過去の事実があります。

2014年のクリミア併合および2022年のウクライナ本土侵攻により、ロシアは国連憲章第2条4項に明白に違反する侵略行為を行いました。これに対し、国連総会では繰り返しロシアを非難し、ウクライナの主権と領土一体の原則を支持する決議を圧倒的多数で採択しています。

アラスカ会談においては、トランプ大統領は、ロシアのこのような侵略行為を明確に糾弾せず、ウクライナを当事者として認めないままに会談は進められました。このことは、歴史的にはヤルタ会談において、チャーチル、ルーズベルト、スターリンらの大国の指導者たちが、ポーランドの扱いに見せたのと同様に、小国の主体性を奪ったままの和平という、かっての大国政治の再演を想起させるものでした。それが許されるなら、将来において同様のことが、たとえば核超大国アメリカと中国が、核戦力を保有しない軍事小国日本を差し置いて、その歴史的な処遇を取り決めるということも考えられます。

国際政治は常に「大国の政治」と「小国の自決権」という二つの矛盾する原理の間で揺れ動いてきました。ヤルタ体制におけるポーランド問題や、冷戦期のフィンランドに見られたように、大国は自らの勢力圏を確保するために、小国の主体性を制限し犠牲にしてきた事実がありました。

そうした経験から、国連憲章第1条2項や国連総会決議ES-11/1(2022)は、小国の自決権と主権尊重を国際法の根本原則として再確認しています。日本は、大国の権力政治と小国の自決権という二重構造の国際政治の現実において、国際法の立場を堅持し、正義に適った平和を追求すべきです。たんに形だけの平和を追求しても永続しません。

正義にかなう平和とは、1)国際法に基づく主権の尊重、2)当事者の自由意思に基づく合意、3)戦争犯罪の責任追及、という三要件を備えて初めて実現されるものです。アラスカ会談は、これら三要件を欠いており、「正義にかなった平和」の達成には役立ちません。日本は、この会談を承認することなく、国際法に基づく原則的立場を貫くべきです。

また、こうした国際法の理念を現実の外交政策として実行に移すためには、具体的には主に次の四つ政策が必要です。
1) 制裁と圧力の継続(特に輸出規制と第三国経由の監視)
2) 人道支援と復旧支援の拡充(エネルギー・医療・教育・地雷除去)
3) 戦争犯罪の責任追及(ICCとの協力、証拠保全)
4) 国際秩序の制度的再建(G7声明、国連総会、安保理改革)

これらの政策を体系的に組み合わせながら、日本は国際法の理念を現実にする外交を展開すべきだと思います。

 

 

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2025(令和7)年8月9日(土)曇り後雨。#長崎原爆忌。

2025年08月09日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年8月9日(土)曇り後雨。#長崎原爆忌。

 

今日は、長崎に原爆が投下されてから八十年目の午前11時2分。


あの日、巨大な爆風と熱線が街を飲み込み、多くの人々の身体と生活に、無慈悲な歯車の歯が食い込んだ。
火傷を負い、ガラスの破片が全身に突き刺さりながら助けを求めてさまよった人たち。


何の罪も責任もない子供たちが、父や母、兄弟姉妹の名を呼び、痛みと恐怖の中で彷徨った。
その夏の日から、今日で八十年。 


子供らの 阿鼻叫喚の 声聞こゆ
  長崎爆心 祈りの夜 

八十年 被爆者たちの 背と心
癒やされしかな 癒やされしかな


この日は、ただの年中行事や数字ではない。悲劇の二度と繰り返されぬことを。

 

 

 

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終戦80年の首相談話と日本の国民精神――村山談話、菅式辞をどう考えるか

2025年08月07日 | ニュース・現実評論

 

終戦80年の首相談話と日本の国民精神――村山談話、菅式辞をどう考えるか

1. 石破首相談話への懸念

本年の終戦記念日、石破茂内閣総理大臣がどのような談話を発するのか注目されています。報道によれば、閣議決定としての「首相談話」は取りやめる可能性もあり、形式は未定ですが、いずれにせよ何らかの発信は行われる見込みです。
一部の識者は、石破首相が1995年の村山談話や2010年の菅直人首相談話(全国戦没者追悼式辞)の精神を踏襲するのではないかと懸念しています。すなわち、戦争責任と加害責任を前面に押し出した「謝罪型談話」となる可能性です。

2. 村山談話・菅式辞の本質

まず、村山談話と菅式辞の核心を整理します。

1 侵略と植民地支配を認め、痛切な反省とおわびを表明
2 戦後日本の平和国家路線を確認
3 アジア諸国(とくに中韓)との関係改善を意図

菅直人首相の追悼式辞も、この精神をほぼ踏襲し、日本の加害責任を強調しました。
こうした談話の背景には、戦後GHQ占領期に形成された自己否定的な歴史観があります。戦後の歴史教育や知識人の多くは、マルクス主義的な階級国家観や唯物史観を前提に、国家を抑圧的な加害主体として描いてきました。村山談話や菅式辞は、この戦後史観を政治的言説として結晶させたものです。

3. 限定的意義と長期的弊害

もちろん、村山談話には次のような短期的・限定的な外交上の意義もありました。
• 中韓との関係改善を一時的に促し、摩擦を緩和した
• 日本の防衛が米国依存である現状で、低姿勢外交は一定の合理性をもった
しかし、こうした意義はあくまで短期的です。長期的には、国民精神に深刻な弊害をもたらしました。

1 国家の倫理的主体性を否定
◦ 国家は、個人道徳とは別の次元にある歴史的・制度的な主体です。
◦ 戦争は国際政治の力学の中で生じた必然的現象であり、個人の「良心告白」とは異なる問題です。

2 国民に原罪意識を植え付ける
◦ 「加害者史観」は未来世代にまで罪悪感を継承させ、自己肯定感を失わせます。
◦ 結果として、国家的活力や歴史的誇りが損なわれます。

日米戦争や大東亜戦争は、単なる善悪二元論で裁くべきではありません。ABCD包囲網や欧米列強の植民地秩序の中で、日本が直面した国際的圧力は世界史的必然の一部でした。

4. 未来志向の歴史認識に向けて

終戦80年の節目に必要なのは、過去を単純な善悪で裁くことではなく、世界史的視野で歴史を理解し、健全な国民精神を次世代に継承することです。
未来志向の首相談話は、こうした原則に立ちつつ、
• 戦没者への追悼と感謝
• 国際社会との協調への決意
• 自国の歴史的主体性と誇りの確認

などをバランスよく表現すべきでしょう。
日本が国際社会の中で尊厳ある国家として生きるためには、過度な自己否定に基づく談話から脱却する勇気が求められます。

歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン

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生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣

 

 

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2025(令和7)年08月05日(火)晴れ。#急性肺炎、#臨時国会

2025年08月05日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年08月05日(火)晴れ。  

久しぶりの日記ブログ「作雨作晴」への記事の投稿。

ここ数十年の間、とくに健康を害したこともなく、医者ともまったく無縁の生活を過ごしてきたのに、先月に夏風邪をこじらせて急性肺炎になり、生まれてはじめて一週間近く入院した。そのために、ネットもスマホでベッドの上で見るくらいで、記事の投稿などおぼつかなかった。

健康のありがたみもわからず、歳もわきまえずに無茶な生活をしたせいかもしれない。先の急性肺炎と関係があるのか、悪いことは重なるもので、今は腰に神経性の強い痛みが走る。それでも、机の前に座して記事などを書いたりするには、差し支えはない。
久しぶりの投稿です。今は互いに離れて住み、ご無沙汰したままの知人、友人や親族などへの音信代わりにもなると思います。

8月に入り臨時国会が開催された。8月1日から開催された臨時国会は、今日で終わるそうだ。参議院の正副議長選出や予算委員会での重要政策の議論が行われたが、短期間であったため、日米関税合意やガソリン暫定税率廃止法案などについての審議は十分に行われなかった。国民のために会期を延長して、重要法案を審議し可決を促進する、というやる気も国会議員にはないようだ。

 

 

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混迷を深める日本政治

2025年07月29日 | ニュース・現実評論


混迷を深める日本政治


2025年7月20日に実施された参議院選挙では、自民・公明の与党が敗退し、参政党や国民民主党が躍進しました。これは、日本政治が単純な与野党二極化ではなく、多党化・分極化に向かい、各党の主張が乱立することで混迷を深めている現状を象徴しています。具体的要因として、以下の諸点を指摘できます。

日本政治の混迷と低迷の要因

日本政治は戦後、GHQ占領下で導入された日本国憲法の下で「個人主義的自由主義」「戦後民主主義」を国家理念の基盤としてきました。しかし、これらの理念は共同体的価値や国家的伝統を軽視する傾向が強く、共通理念が希薄なために、政党や政治家が乱立する状況を生み出しています。

現在の各政党は、自党の明確な哲学的・理念的立場を打ち出せず、有権者から見て政党間の差異が不明瞭です。そのため、国民の政治参加意欲が低下し、政党への忠誠心が薄まり、浮動票が増加しています。

日本の政治文化は、有権者が政治において合理的判断ではなく、感情的・ポピュリズム的判断を優先する傾向が強まっています。そのため、「人気取り」の政策が横行し、国家理念に基づく合理的な政策形成が困難となっています。

理想の政治制度は、「強力で効率的な政府」を可能にする制度です。現代的解釈では、それは英国型や米国型に類似した二大政党制の形態です。対立する二つの大政党が存在し、政策が明確に対立軸を持つことで、国民の合理的な政治判断が可能になります。

日本政治の具体的改善案

現在の日本国憲法は個人主義的な自由に偏り、共同体の理念を欠いています。新たな憲法には赤尾秀一の提唱する「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」という国家理念を明記し、国家と国民が共有できる「倫理的共同体」としての国家像を具体化していくことが必要です。

また、政治の効率性・合理性を高めるため、選挙制度を二大政党が成立しやすい選挙制度にさらに改革し、政党助成制度を二大政党に収斂する方向で改正して、日本の混乱した多党化状況を解消し、明確な政党理念に基づく政権交代の可能な政治状況を実現して行く必要があります。

 

ご参考までに

日本国の「国家理念」の定式化とその意義について - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/LitYZk

保守自由党と民主国民党による日本政治 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/vzGJVb

赤尾秀一の思想研究 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/KXK6l3

「令和日本国憲法草案」について2 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/4lnP93

今日は憲法記念日 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/MSslzw

など、その他を参照していただければと思います。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十一節[現実性]

2025年07月25日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十一節[現実性]

 

§11

a) Das Dasein ist somit ein in sich geteiltes. Einmal ist es  an sich,  das anderemal ist es  Beziehung  auf Anderes. Das Dasein, mit diesen beiden Bestimmungen gedacht, ist  Realität. (※1)

第十一節[現実性]

a)したがって、定在はそれ自体のうちで分裂したものである。一方では「それ自体としてあるもの」(an sich)であり、他方では「他なるものへの関係」(Beziehung auf Anderes)としてある。この二つの規定において捉えられた定在が、「現実性」(Realität)である。

 

※1

Das Dasein(そこにあるもの、定在)は前節の§10においては単にある特定の質、規定性を帯びた存在にすぎなかったが、概念はより現実的な存在へと、さらに「現実性」(Realität)のある存在へと進展して行く。

たとえば、国家は、主権国家として自己完結的に存在する他国から独立した存在(an sich)であるが、 他方において、国家は国際社会において他国との外交関係や貿易関係を通じて規定され、経済的・政治的に相互依存(Beziehung auf Anderes)の関係にある。

 国家の現実性(Realität)とは、この主権的な自立性と国際社会との相互依存性という二つの矛盾した側面を同時に抱え込み、両者を統合した形でのみ成立する。自己内での対立(自立と依存)を調停し、統一することで、国家として「現実性」(Realität)をもつようになる。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十一節[現実性] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/dAz9Cn

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十節[定在]

2025年07月19日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十節[定在]


B. Dasein

B 定在

§ 10

Das Dasein ist gewordenes, bestimmtes Sein, ein Sein, das zu­gleich Beziehung auf Anderes,  also auf sein Nichtsein hat .(※1)

第十節

定在(そこにあるもの)とは、生成を経て、規定性を帯びた存在である。それは同時に、他者との関係性をもつとともに、すなわち自らの非存在(自らが存在しなくなること)との関係性をももった存在である。

※1

①【生成を経て規定された存在】

例えば、一人の「人間」は、ただ単に「存在(Sein)」しているだけではない。誕生というプロセスを経て存在し、成長や経験を通じて具体的な規定性を帯びていく。生まれた瞬間には無規定な可能性に満ちているが、成長するにつれて個性や性格、社会的役割などの「規定性」を獲得していく。例えば、「教師」「医師」「父親」「娘」「日本人」など具体的な規定性が現れる。

②【他者との関係性における存在】

人間の存在は常に他者との関係性の中で規定される。ある人が「教師」であることは、生徒との関係によって規定されるし、また、誰かが「友人」であることは、自分とその人との相互関係によって成り立つ。
このように、人間は単独で規定されるのではなく、家族、職場、社会、文化などの「他者」との関係の網の中でのみ意味を持つ。

 ③【自らの非存在との関係性(自己否定・限界性の認識)】

また、人間の存在は同時に、その存在の限界、つまり死や消滅(非存在という否定性を自らの内に抱えている。自分が生きていることを自覚するということは、同時にいつか必ず死ぬことを意識することでもある。
 例えば、重い病気にかかったとき、人間は自分の存在(定在)と同時にその非在(死、消滅)の可能性を強烈に感じる。このとき、「定在が自己の非存在との関係性を持つ」という哲学的概念が現実的に理解される。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十節[定在] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/FaM3nr

 

 

 

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憲法裁判所の条項を削除する

2025年07月17日 | 国家論

 

憲法裁判所の条項を削除する

 

先に提起した【令和日本国憲法草案】の第四章第九条、「(憲法裁判所)憲法秩序を守るため、憲法裁判所を設置し、違憲立法・行政措置を審査する。」
の条項を削除しました。

理由は、民主的な選出を十分に保障されない憲法裁判所の裁判官よる憲法判断の専制を防ぐためです。一方で「憲法裁判所」をいかにして「理性的な組織、制度」たらしめるかについて、いまのところ決定案がないからです。
裁判官の任命・人事制度に国会関与や国民審査を強化し、司法の透明性を高めながら、最高裁に 違憲立法審査権を付与して、判例の蓄積によって憲法秩序を守るようにしていく方がいいと思います。

【令和日本国憲法草案4】


【前文】

日本国民は、悠久の歴史と文化に根ざす共同体の一員として、天皇を国家統合の実体的存在と仰ぎつつ、国民一人一人の自由と尊厳、伝統と創造の調和を重んじ、自由で責任ある民主国家として、内に道義と秩序を保ち、外に独立と平和を全うする国家を建設することを宣言する。


【第1章 天皇】

第1条(国体の継承)
日本国は、万世一系の天皇を戴く国家である。天皇は日本国の元首であり、国家統合の中核的権威として尊崇される。
第2条(統治機能と象徴機能の調和)
天皇は、国の儀礼と象徴的行為を司るとともに、国家的危機においては議会と内閣の要請により特別に国家再統合の宣言を行うことができる。

【第2章 国民と共同体】

第3条(国民の義務と権利)
国民は、自由と権利を有するとともに、国家と共同体への奉仕、教育、納税、防衛の義務を負う。
第4条(家族・地域共同体の尊重)
国と地方自治体は、家族、地域社会、伝統文化を保護・支援する責務を負う。

【第3章 安全保障】

第5条(自衛の権利)
日本国は、国際平和を希求するが、独立国家として、侵略を防ぎ、国民を保護するための自衛権を保持する。
第6条(防衛軍の設置)
国会の承認により、日本国防軍を設置する。国防軍は専守防衛を基本としつつ、有事には国際法に基づき行動する。
第7条(非常事態条項)
国家の存亡に関わる緊急事態に際し、内閣は国会の承認のもとで一時的に法令を制定・停止する権限を持つ。

【第4章 統治機構】

第8条(三権の調和)
立法、行政、司法は分立しつつ、天皇の権威の下、国家目標の実現のために協働する。
第9条(削除)(憲法裁判所)
憲法秩序を守るため、憲法裁判所を設置し、違憲立法・行政措置を審査する。

【第5章 教育・文化】

第10条(国民精神の涵養)
国家は、公共の精神、道徳、歴史、文化への敬意を育成する教育を推進する。
第11条(大学・学術の独立)
学問の自由は保障されるが、国家・民族への責任を伴うものとする。

【第6章 憲法の護持と改正】

第12条(護憲義務)
すべての公務員は、本憲法の精神を尊重し、これを擁護する義務を負う。
第13条(改正の手続)
本憲法の改正は、国会の三分の二以上の賛成および国民投票の過半数によってなされる。
第14条(施行法の制定)本憲法に規定された国家機構、国民の権利義務、司法制度その他の統治機能の実施に関して必要な事項は、憲法施行法として別に法律で定める。これらの施行法は、本憲法の精神と条文に適合するものでなければならない。

 

 

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日本国憲法論メモノート1

2025年06月28日 | ツイツター

 

 

日本国憲法論メモノート1

X(ツイッター)@soratineと@myenzyklo  に投稿したメモを、このブログの方にも記録しておきます。
昔のツイッターとブログのGOOとが連携できていた頃は、ツイッターに投稿した記事も自動的にブログにも保存できていたので便利でした。
Twitter が X に変わってから、確かに言論の検閲はなくなったかもしれないけれど、新しくX に変わってから多くの点で使い勝手が悪くなったようです。


樋口陽一氏の憲法学は、日本国憲法の「護憲」的解釈を強く支持し、特に 立憲主義 と 憲法の平和主義 に重点を置いています。そのため、日本国をイギリスやアメリカ、イスラエルのような普通の主権国家へ改革する際の大きな障害となる点がいくつかあります。


樋口陽一氏の憲法解釈においては 「立憲主義=国家権力の制限」 という視点が強調されるため、国家が自己防衛のために持つべき 「積極的主権」(軍事的・経済的な主権行使)が制約される方向に議論が進みます。その結果、国家が 自律自律的に外交・防衛政策を決定する能力 を持つことが否定されます。


普通の主権国家は、自国の防衛や外交政策を自律的に決定する権限を持ちます。しかし樋口憲法学の枠組みでは、国家主権を制限すること自体が「立憲的」だと正当化されています。日本国の独立国家としての正当な国家主権の行使さえ制限され、日本国の主体性を回復する上での大きな障害となっています。


樋口憲法学では 憲法9条の平和主義 を絶対視し、憲法改正や防衛力強化に対して否定的な立場を取っています。 彼は日本国憲法9条を、「戦後日本の根本原理」 と捉え、軍事力を国家主権の不可欠な要素として位置づけることに強く反対しています。
そのため、自衛隊の存在や集団的自衛権の行使についても、極めて消極的であり、憲法改正論議に対しては基本的に「護憲」の立場から反対しています。


現実には、イギリス・アメリカ・イスラエルのような国家は、すべて強固な軍事力を持ち、それを国家主権の基礎としています。しかし、樋口氏の憲法解釈では、日本は「武力を放棄すること」が憲法の本質とするために、日本国の普通の主権国家としての在り方を否定することにつながっています。


もし、日本が普通の主権国家としての性格を取り戻すのであれば、安全保障政策を憲法の制約から解放し、国際環境に適応する形での国家戦略を立案できるようにすることが不可欠ですが、 しかし、樋口憲法学の枠組みでは、憲法の理念が優先され、国家の生存戦略が二の次にされてしまっています。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第九節[存在、無、生成]

2025年06月17日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第九節[存在、無、生成]

A. Sein, Nichts, Werden
A.存在、無、生成

§9
Das Sein(※1) ist die einfache inhaltslose Unmittelbarkeit, die ihren Gegensatz an dem reinen Nichts(※2) hat, und deren Vereinung das Werden(※3) ist: als Übergehen von Nichts in Sein das Entstehen, umgekehrt das Vergehen.
(Der gesunde Menschenverstand(※4), die einseitige Abstraktion sich oft selbst nennt, leugnet die Vereinung von Sein und Nichts. Entweder ist das Sein oder es ist nicht. Es  gibt  kein Drittes. Was ist, fängt nicht an. Was nicht ist, auch nicht. Er behauptet daher die Unmöglichkeit des Anfangs .)

第九節
存在 とは、単純で内容をもたない直接性であり、それは純粋な無を対立物としてもち、そして存在と無との合一が生成 である。無から存在への移行が発生(Entstehen)であり、その逆が消滅(Vergehen)である。
(いわゆる「健全な常識」は、それ自体が一面的な抽象化をしばしば行うように、存在と無の合一を否定する。「存在している」か「存在していない」かのいずれかであって、「第三のもの」はない 。「存在するもの」には始まりはなく、「存在しないもの」も始まりはない。したがって、常識は「始まり」は不可能であると主張する。)

 

※1
「存在(Sein)」はもっとも抽象的な思考のはじまりである。

※2
はじめの「存在」はあまりに空疎であるため、「無」と区別がつかない。

※3
抽象的な「存在」と「無」という静止的な概念は初めから「動き」をはらんでおり、その移行、運動による合一から「生成」という概念が成立する。「生成」は存在と無という対立する二者をそのうち含む。思考の弁証法的な運動がここからはじまる。無から存在への過程は発生であり、存在から無への過程は消滅である。これら「存在」「無」「生成」の三つの契機は、思考の弁証法的な運動の基本形でもある。ここから論理学が始まる。

※4
「いわゆる健全なる人間の理解」(常識)は、「存在」と「無」を絶対的に分けて、「あるかないか」「白か黒か」的にしか考えられない。これはのちに「悟性的思考」として、その限界が指摘される。
弁証法的な思考は動的に捉える。これは「アナログ」と「デジタル」との関係と同じで、たとえば磁石の陽極と陰極のように、常識、悟性は、両者を分断してとらえるが、実際には陽極と陰極との間には明確な境界はない。ヘーゲルはいわゆる「常識」をここで皮肉っている。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第九節[存在、無、生成] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/1e7964

 

 

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