作雨作晴

日々の記憶.....

ヘーゲル『哲学入門』序についての説明 一[知覚について]

2019年06月11日 | 哲学一般

 

Erläuterungen zur Einleitung

§ 1

Die Gegenstände sind das Besondere, was sie sind, durch ihre Bestimmung; ein sinnlicher Gegenstand z. B. durch seine Ge­stalt, Größe, Schwere, Farbe, durch den mehr oder weniger festen Zusammenhang seiner Teile, durch den Zweck, zu dem er gebraucht wird u. s. f. Lässt man nun die Bestimmungen von einem Gegenstand in der Vorstellung weg, so heißt man dies: abstrahieren.

Es bleibt ein weniger bestimmter Gegenstand oder ein abstraktes Objekt  übrig. Nehme ich aber in der Vorstellung nur eine einzelne solche Bestimmung heraus, so ist auch dies eine abstrakte Vorstellung. Der Gegenstand, in der Vollständig­keit seiner Bestimmungen belassen, heißt ein konkreter Gegen­stand. Abstrahlte ich von allen Bestimmungen, so bleibt mir bloß die Vorstellung des ganz abstrakten Objekts übrig. Wenn man sagt: Ding, so meint man wohl etwas Bestimmtes, aber man spricht von etwas ganz Unbestimmtem, da es unser Ge­danke ist, der ein wirkliches Ding zu dieser Abstraktion eines bloßen Dinges macht.

 

序についての説明

第1節[知覚について]

すべて対象とは、その/規定/を通して存在するものであり、特殊なものである。一つの感覚的な対象は、たとえば、その形体、大きさ、重さ、色彩によって、その部分の強くか弱くか結び合わされている固さによって、また、それらの使用される目的などによって存在するもので、いずれも特殊なものである。もし、人がその表象のうちにおいて、その対象からそれらの規定を取り去るとき、人はこのことを/捨象する/と言う。

そこにはわずかに規定された一つの対象が、あるいは/抽象的な客体 /が残されている。しかし、もし私が表象の中から、このようなただ一つの規定のみを取り出すとすれば、これもまた一つの/抽象的な表象 /である。
その規定において完全であるような対象は、/具体的な/対象と呼ばれる。もし私が/すべての/規定を捨象するなら、そこには私に全く抽象的な対象の表象が残されるだけである。

人が、//というとき、そこでは確かに人は何か規定されたものを/思い浮かべて/いる。しかし、人がまったく無規定な何かについて語るときに、そこで一つの現実の物を、一つの単なる物をこの抽象なものに変えてしまうのは私たちの思考である。

 

 Die sinnliche Wahrnehmung  ist teils äußerliche, teils inner­liche. Durch die äußerliche nehmen wir Dinge wahr, welche räumlich und zeitlich außer uns sind und die wir zugleich von uns unterscheiden. Durch die innerliche sinnliche Wahrneh­mung bemerken wir Zustände teils unseres Körpers, teils unserer Seele. Ein Teil der sinnlichen Welt enthält solche Ge­genstände und ihre Bestimmungen, wie z. B. die Farben, denen das Sinnliche zu Grunde liegt und die eine geistige Form erhal­ten haben.

Wenn ich sage: dieser Tisch ist schwarz, so spreche ich erstens von diesem einzigen konkreten Gegenstande; zwei­tens, das Prädikat schwarz, das ich von ihm aussage, ist ein all­gemeines, das nicht mehr bloß von diesem einzigen gilt, sondern mehreren Gegenständen zukommt.Das Schwarze ist eine ein­fache Vorstellung. — Von einem eigentlichen konkreten Gegen­stande wissen wir unmittelbar. Das unmittelbare Bewusstwer­den ist die Anschauung.


感覚的な知覚は、一方では外的であり、他方では内的である。
外的な感覚的知覚によって、時間的にも空間的にも私たちの外にあって、そして同時に私たちから区別される物を、私たちは知覚する。内的な感覚的知覚によって私たちは一方では私たちの身体を、他方では私たちの精神の状態を自覚する。感覚的な世界の一面は、このような(身体や精神の)対象を含んでおり、そして、それらの規定は、たとえば色彩のように、感覚的なものにその根拠があり、そして精神的な形式をすでに含んでいる。
「この机は黒い」と私が言うとき、私は最初に、この単一の具体的な対象について語っている。次に、私がそれについて表現している述語の「黒い」は一つの普遍的なものであり、それはもはやただ単にこの単一のものにだけに通用するのではなく、むしろそれ以上のさまざまな対象について当てはまるものである。黒は一つの単純な表象である。⎯ 一つの実際の具体的な対象については、私たちは直接的に知る。直観とは直接的に知ることである。

 

Eine allgemeine abstrakte Vorstellung hingegen ist eine vermittelte  Vorstellung, weil ich von ihr ver­mittelst einer andern weiß, nämlich durch die Abstraktion oder das Weglassen anderer Bestimmungen, die im Konkreten damit verbunden sind. — Eine konkrete Vorstellung wird analysiert, indem man die Bestimmungen auslegt, die im Konkreten ver­einigt sind. Die intelligible Welt erhält aus dem Geist ihren In­halt, überhaupt reine allgemeine Vorstellungen, z. B. Sein, Nichts, Eigenschaft, Wesen u. dgl. m.

 

それに対して、一つの普遍的で抽象的な表象は、一つの/媒介された/表象である。なぜなら、私はそれについては、他の表象を介して、すなわち、抽象することによって、あるいは、具体的なものにおいて、それと結びついている他の規定を省略することによって、知るからである。⎯ 一つの具体的な表象が/分析される/のは、具体的なものの中で結びついているさまざまな規定を人が分解することによってである。知的な世界はその内容を、ふつう純粋に普遍的な表象は、たとえば、存在、無、個性、本質などといったものは、精神から受け取る。


 

私たちの認識作用の最初の段階である知覚について分析する。知覚の対象は「物」である。現実の「物」はさまざまに規定された具体的なものであるが、その物からあらゆる規定を捨象してしまうと、そこには単なる、カントのいわゆる抽象的な「物自体」が残されるだけである。現実の具体的なものは、主語(主体)として私たちの意識の対象であるが、私たちの意識、精神はその知覚作用において、その述語において、さまざまに分析する。たとえば、一つの「物」である「塩」は、それは「白く」もあり「辛く」もあり、結晶体としては「立方体」でもある。

分析は悟性作用によるものでもあり、活けるものを分断して判断することである。

私たちの意識とその対象である「物」との弁証法的な関係を分析した精神現象学の「知覚」の段階について記述したものである。

 

 

 
 
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ヘーゲル『哲学入門』序 十二[意志と普遍]

2019年06月07日 | 哲学一般

 

§12[意志と普遍]


Dass aber der Wille /wahrhaft/ und absolut frei sei, kann das, was er will, oder sein Inhalt, nichts Anderes sein, als er selbst. Er kann nur in sich selbst wollen und sich zum Gegenstande haben. Es will also der reine Wille nicht irgend einen besondern Inhalt um seiner Besonderheit willen, sondern dass der Wille als sol­cher in seinem Tun /frei sei/ und /freigelassen werde/,oder dass der allgemeine Wille geschehe.
Die nähere Bestimmung und Entwicklung von diesem allgemei­nen Grundsätze des Willens stellt die Rechts- Pflichten- und Religionslehre dar.(※1)(※2)


第12節[意志と普遍]

しかし、意志が/真に/、かつ絶対に自由であるということは、意志自身として、意志の欲するものであり、あるいは意志の内容であって、それ以外にはあることのできないものである。意志はただ、自己自身のうちにおいてのみ欲することができ、そして自己を対象としてもつことができる。だから純粋な意志は、意志の特殊性のための特殊な内容をまったく欲していない。むしろ、意志自体はその行為において/自由であり/、かつ/自由に解き放たれている/ということ、あるいは普遍的な意志が生じていることである。意志のこの普遍的な根本原理についてのさらに詳しい規定と展開は、法律−義務−そして宗教についての教課のところで述べられる。

※1
重さが物質の根本規定であるように、真に絶対的に自由なものとして、自由は意志の根本規定であるが、この自由から意志は特殊性ではなく普遍性を求める。個人の、特殊な意志と普遍的な一般的な意志との関係を論じたカントの定言命法がここでも明らかに踏まえられている。法律や義務、宗教は人間の普遍的な一般的な意志を原理とするものだから。

※2
なにぶんにも拙訳のために誤訳の個所も多々あろうかと思います。ご指摘いただければありがたいです。これからも改善してゆきたいと思います。なお、こうしたヘーゲルの作品についても、Wikipedia のように、多数の人々の協力によってより完全な日本語訳が実現されてゆけば、そして、それが日本国民の共有財産となれば、どんなに意義あることだろうかと思います。




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ヘーゲル『哲学入門』序 十一[意志と恣意]

2019年06月04日 | 哲学一般

 

§ 11[意志と恣意]

Der Wille kann zwar mancherlei äußerlichen d. h. nicht aus sei­nem Wesen hervorgehenden Inhalt in sich aufnehmen und zum seinigen machen. Insofern bleibt er nur der Form nach sich ; gleich, nämlich, dass er sich bewusst ist, von jedem Inhalt so­gleich wieder abstrahieren und seine Reinheit wiederherstellen zu können, nicht aber dem Inhalt und Wesen nach. Er ist /inso­fern/ überhaupt nur /Willkür./(※ 1)

意志は確かに、多くの外にある、すなわち、意志の本質からもたらされたのではない内容を、自らのうちに取り入れて、そして、意志自身のものにすることができる。
意志がただ形式においてだけ自己同一性を保つかぎり、同じく、すなわち、意志は自らを意識して、すべての内容を、同時に、再び捨象して、そして意志の純粋さを回復することができる。しかし、それは内容と本質によるのではない。意志は、/そのようなものであるかぎり/一般的にただ/恣意/にすぎない。

※1
意志は意志の本質からもたらされたものでない内容、たとえば、不倫や殺人などの「悪」をも、意識して自らの意志とすることができる。またそれを実行することなく、その意志を捨て去って、もとの白紙へと意志の純粋さを回復することもできる。しかし、内容と本質からそのようにするのでないかぎり、一般的にはその意志は恣意といわれるものにすぎない。

 

 

 
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ヘーゲル『哲学入門』序 十[自由と普遍]

2019年05月31日 | 哲学一般

 

§10[自由と普遍]
Der freie Wille als frei ist ferner nicht an die Bestimmtheit und Einzelheit, wodurch ein Individuum sich von einem andern unterscheidet, gebunden, sondern er ist allgemeiner Wille und der Einzelne ist nach seinem reinen Willen ein allgemeines Wesen.(※1 )


さらに、自由な意志は自由として、個人が他者から自己を区別する規定性や個別性にしばられるものではないし、むしろ、自由な意志は普遍的な意志であって、そうして、その個別者は、その純粋な意志からして一個の普遍的な存在である。

※1
自由な意志をもつ人間は、自らのあり方や個性にもしばられない。一個の個別者としての人間は、その純粋な意志の面から見れば、本質的に普遍的な存在である。個人は自由であることを介して一般的な他者、普遍とつながっている。

Einzelheit
個性
noun: 個性, 人格, 主体性, 個人性

ein Individuum
原意は「二つに分解できないもの」
noun: 個人, 個体, 個, 個人個人, 私人

der Einzelne
一者、個人、個別者


 

 
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「作雨作晴」記事一覧(20190403〜20190531)

2019年05月31日 | ツイツター

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元外務官僚、河東哲夫氏の「皇室観」

2019年05月28日 | ニュース・現実評論

 

元外務官僚、河東哲夫氏の「皇室観」


たまたまネット上で次のような文章を読みました。元外交官の河東哲夫氏がご自身のホームページの中に書かれたらしいもので、現在の日本の国家公務員、官僚の意識、思想の断片でも知る上で参考になると思い取り上げました。


Japan and World Trends [日本語]: メルマガ文明の万華鏡第85号刊行

http://www.japan-world-trends.com/ja/cat-1/post_1871.php

引用

>>  <<


 はじめに
今月も話題の多い月ではありました。まず「令和」が一番なのでしょうが、これはもう1ヶ月も経つと日常化してしまいました。これからは新天皇・皇后、そして皇嗣ご一家も、世間から容赦ない目で見られていくことになるでしょう。退任の自由もなく、特別の権限もなく、ただ世論の批判の目にさらされる仕事というのは、酷なものです。

>>  <<引用終わり


上記の文章は、元外交官の河東哲夫氏が自身のホームページの中に書かれたもので、令和の時代が始まったことにちなみ、気楽に書かれたものだと思いますが、逆に言えば、ここに河東哲夫氏の皇室観、さらには氏の国家観が率直に現れていると思います。そこから読み取れる、河東哲夫氏の皇室観、国家観についての感想を述べておきたいと思います。

結論から言えば、率直にいって、この河東哲夫氏のような皇室観、国家観しか持ち得ない人物が、外務省などで官僚をやっていたということです。最近では国家公務員、官僚たちの資質能力も低下したらしく文科省や経産省など様々な不祥事も絶えないようです。

それはとにかく、上に引用した河東哲夫氏が現在の皇室について明らかにされている認識とは、つまり
「これからは新天皇・皇后、そして皇嗣ご一家も、世間から容赦ない目で見られていくことになるでしょう。退任の自由もなく、特別の権限もなく、ただ世論の批判の目にさらされる仕事というのは、酷なものです。」とのことです。

このような皇室観は、河東哲夫氏のみならず、世のいわゆる「人権教」信者の主張に共通するもので、その論理的な帰結は「天皇には人権がない」したがって「天皇制を廃止すべきだ」ということにでもなるのでしょうか。

河東哲夫氏は、それでは天皇陛下をはじめとする日本の皇室にどうあってほしいと思われるのでしょうか。河東氏の皇室観、国家観をぜひ具体的に明らかにしていただければありがたいものです。

また、河東哲夫氏にお伺いしたいのは、「新天皇・皇后、そして皇嗣ご一家」を「容赦のない目で見つめる」「世間」とは一体誰のことなのでしょうか、少なくとも私や私の周辺に知る限りに関してはそんな「容赦のない」目で皇室を見つめてはいないと断言できますし、

また「退任の自由もなく、特別の権限もなく、ただ世論の批判の目にさらされる仕事というのは、酷なものです。」と河東氏が言われるところの、皇族の方々に対して「批判の目をさらす」ところの「世論」とは一体に具体的に誰のことなのでしょう。まさか、「週刊文春」やその他の週刊誌の記者や読者のことを「世論」だとおっしゃているのではないと思いますが。

ここで河東哲夫氏は「世論の批判の目にさらされる仕事というのは、酷なものです。」などとひとかどの同情心を示しておられますが、氏は皇室の方々を我々一般国民と同列にしか見ることしかできないようです。少なくとも、私などは皇室の使命を果たされておられる皇族の方々に敬意を感じることしかないですが。また、皇族の方々がより良くお仕事のできるように環境を用意するのは国民の義務であると思っています。

天皇、皇后陛下のご良心が、私たち日本国民の「人権」(「人権教」信者の好きな「人権」という言葉をあえてここで使いますが)の下支えになっていることにどうして気づかないのでしょうか。

とは言え、河東哲夫氏のような皇室観、国家観をもった国家公務員、官僚は少なくないと思います。なぜなら、彼らの多くが、「天皇制と民主主義は両立しない」と東京大学で長年にわたって主張してこられた憲法学者、故奥平康弘氏や「天皇ロボット論」の憲法学者、樋口陽一氏らの「皇室観」「国家観」で教育されたままに上級公務員職についているからです。

それどころか、さらに彼らは皇室の官庁である「宮内庁」にさへ天下っているということです。いったいどうしたことでしょうか。

( ついでにと言っては何ですが、河東氏の メルマガ文明の万華鏡第85号刊行 での論考のその他の「日米同盟基軸論」などは、ほぼ同意できるものです。)

 

※追記20190528

上記の論考を書いた後に、さらに河東哲夫氏のホームページの中に、「天皇に人権はあるのか  令和を前に」  https://is.gd/ck1wMO  と題された、河東氏の皇室観をより明らかにされた論考のあることに気づき、それも読ませていただきました。しかし、河東哲夫氏の「皇室観」に対する感想は基本的には変わらないので、上の私の論考もそのままにしておきました。

 

 

 
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ヘーゲル『哲学入門』序 九[行為と行動]

2019年05月27日 | 哲学一般


§9[行為と行動]
Die /Tat/ ist überhaupt die hervorgebrachte Veränderung und Bestimmung des Daseins. Zur Handlung aber gehört nur das­jenige, was von der Tat im Entschlusse liegt oder im Bewusstsein war, was somit der Wille als das Seinige anerkennt.(※1)

第9節
/行為/とは一般的に存在するものに変化と規定を創り出すものである。しかし、行為に属するのは、決断のうえに行われた行動か、あるいは自覚された行動のみであり、それゆえ、意志が自己自身のものとして認識している行動のみである。

※1
行為(Tat)とは、明確な自覚と決断のうえに行われた行動(Handlung)  のことであり、だから意志はそれが自己自身のものであることを認識している。
意識とはそもそも「私」の自己内分裂によってもたらされたものであり、したがって、その行為が意識的に自覚的になされる行動であることに、動物とは異なった人間の行動のみの特殊性がある。

※2
ドイツ語や英語では、行為(Tat、 Deed)と行動(Handlung 、Act)の違いは明確に自覚されているようです。とくに意図や自覚をもって行われる行動が行為(Tat、 Deed)とされている。



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ヘーゲル『哲学入門』序 八[意志と罪責]

2019年05月22日 | 哲学一般


§8[意志と罪責]
Die /Schuld/ hat der Wille insofern, als: 1) seine Bestimmung nur von ihm /selbst/ zu der seinigen gemacht ist oder seinem Ent­schlusse angehört: ich habe gewollt; 2) insofern ein Wille die Bestimmungen /kennt/, die durch seine Handlung, wie sie in sei­nem Entschluss liegt, hervorgebracht werden oder die notwendig und unmittelbar mit ihr zusammenhängen.(※1)


意志は次のような限りにおいて、その/罪責/を担う。1) 意志の決定(Bestimmungen)がただ意志/自身/のみによって意志自身の物へと作られたものであること、あるいは、「私が欲していた」という意志の決断にもとづくものであること。;2)意志の行為によって作り出されたその意志の決定(Bestimmungen)が、行為が意志の決断のうちにあるように、必然的にかつ直接に意志と結びついたものであることを意志が/知っている/限りにおいて。

※1
人間はどのような場合に、責任が問われるか。その行為が彼の意志にもとづく決断によること、そのことを彼自身が「知っている」かぎりにおいて罪責を担わされる。意識の発達の不十分な動物や子供、精神病者などは責任を問われない。

追加(20190522)
※2
意志がその責任を問われる条件としてヘーゲルは、1)と 2)の二つの要件をあげている。第4節の[意志と行為]においてすでに明らかにされているように意志のもつ実行能力がその前提にあるが、意志による実力行使だけでは責任は問うことができない。

そのためには、1)意志そのものによる行為であって、それを「私が欲した」こと、さらに、2)その意志の行為としての結果(規定 Bestimmungen)が、意志と必然的かつ直接に結びついたものであることを「私」が「知っている」ことが必要である。

1)は意志の客観的条件、2)は意志の主観的条件ということができる。意志による行為が責任を問われるためには、この二つの条件が必要であり、「主観的」と「客観的」に並ぶ第三の条件はないから、罪責の条件を問うヘーゲルのこの考察の結論は必要十分条件を満たしているといえる。

※3
ヘーゲルの論考を追考する場合に注意すべきことは、その内容もさることながら、論考の「形式」を読解することである。この「形式」の必然性が内容を生む。ヘーゲルの文章については特に、論考の「形式」の必然性についての読解力が重要になる。拙訳についても鋭意、ヘーゲルの論考の「形式を読む」ことに努めてゆきたい。

※4
ヘーゲルなどの科学的(哲学的)な論考の読解については、かねてより哲学者、牧野紀之氏の提唱されている「形式を読む」姿勢を私も継承してゆくつもりです。私の拙き「研究遍歴」についてもいずれ本格的に反省すべき機会もあると思います。

 

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ヘーゲル『哲学入門』序 七[意志の抽象的自由]

2019年05月20日 | 哲学一般


§7[意志の抽象的自由]

Die/abstrakte Freiheit/des Willens besteht also in jener Unbe­stimmtheit oder Gleichheit des Ich mit sich selbst, worin eine Bestimmung nur ist, insofern er sie zur seinigen macht oder in sich setzt; zugleich aber darin mit sich selbst gleich bleibt und von jeder Bestimmung wieder abstrahieren(※1) kann. — Es können zwar dem Willen/von Außen/mancherlei Reizungen, Beweg­gründe, Gesetze vorgelegt werden, aber, wenn der Mensch den­selben folgt, so geschieht es nur, insofern der Wille selbst sie zu den seinigen macht und sich dazu entschlossen hat. — Dies ist auch der Fall mit den Bestimmungen des niederen Begehrungs­vermögens oder dem, was aus den/natürlichen/Trieben und Nei­gungen herkommt.



意志の/抽象的な自由/は、意志の無規定性のうちにあるか、あるいは、「私」の自分自身との相等性のうちにある。意志がある規定を自分自身のものとする限り、あるいは、その規定を自己のうちに設定する限りにおいて、「私」の中には一つの規定のみがある。同時に、しかし、そこでは自分は自身と同じままにとどまっていて、そして、それぞれの規定を再び捨象(抽象)することができる。意志には、/外から/さまざまな刺激や、動機、規則などが与えられることがあるが、しかし、人間はそれらに従うことになるのは、意志それ自体がそれらを自らのものとして決断する限りにおいてである。⎯ このことはまた、人間がより低級な欲求能力に規定される場合も、あるいは/自然の/衝動と性向から生じるものに規定される場合も同じである。


※1

意志の抽象的な自由は、意志が本来的に無規定なものであるとともに、また一つの規定を選択することができるところにある。また、人間の意志は規定することもその規定を捨象することもできる。

精神の「捨象(抽象)するabstrahieren」能力は、すなわち悟性的能力のことであるが ⎯⎯ ヘーゲルはこの能力の意義を高く評価するとともに、その否定的側面の重大性もさまざまに指摘している。人間のこの「捨象(抽象)するabstrahieren」能力をもっとも象徴するものは人間の自裁する能力である。人間はその意志の自由において一切を捨て去ることができる。


鳩山元首相と民主党の「世界市民主義」 など

 

 
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ヘーゲル『哲学入門』序 六[「私」の無規定性と規定性]

2019年05月16日 | 哲学一般
 
§6[「私」の無規定性と規定性]

Der eigentliche Wille oder das /höhere Begehrungsvermögen/ ist: 1) reine /Unbestimmtheit/ des Ich, die als solche keine Beschrän­kung noch einen durch die Natur unmittelbar vorhandenen ­halt hat(※1 ) und an und für sich sich gegen jede Bestimmtheit gleichgültig ist; 2) kann ich zugleich zu einer /Bestimmtheit/ übergehen und die eine oder andere zur meinigen machen, die ich als dann Wirk­lichkeit versetze.(※2 )


第6節

本来の意志あるいは/より高い欲求能力/とは、1)「私」の純粋な/無規定性/のことであり、無規定性とは、そのような何らの制限をもたないものとして、なお自然を通して直接にそこにあるような内容を持つこともなく、それ自体として本来的にどのような規定性にも関わりのないものである。   2)同時に、私は一つの/規定性/へと移りゆき、そして、ある規定かまたは他の規定を選択して自分のものとすることができ、そうして私はそれを現実に実現することができる。

※ 1
「私」、自我とは本来的に、純粋な白紙のように何の制限ももたず、また自然のような物質としての内容をもつものではない。カントの自我論、自然を超えた先天的な超越的自我論がふまえられている。「私」は何の制限をもたず、かつまた、一つの規定を選択して自分ものとすることができる点において自由なものである。「私」、自我の無制約性と自己規定性が、自由の根拠である。それに対し、前節の「衝動」は自然によって規定された「低い欲求能力」であって不自由なものである。

※2
意志の純粋な無規定性、あるいは「私」の純粋な自己の内部における「反省」についてのより詳細な考察は、「法の哲学」の第4節以下において行われている。
 
 
 
 
 
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ヘーゲル『哲学入門』序 五[衝動と反省]

2019年05月13日 | 哲学一般

 

§5[衝動と反省]
Die innerliche(※1 ) Bestimmung des praktischen Bewusstseins ist nun selbst entweder /Trieb/ oder /eigentlicher Wille/ Der Trieb ist ein natürliches Selbstbestimmen, welches auf beschränkten Gefüh­len beruht und einen beschränkten Zweck hat, über den es nicht hinausgeht, oder es ist das unfreie, unmittelbar bestimmte, /nie­dere Begehrungsvermögen/, nach welchem sich der Mensch als Naturwesen verhält. — Durch die /Reflexion/(※2) geht er über den Trieb und dessen Schranken auch hinaus. Er vergleicht ihn durch sie nicht nur mit den Mitteln seiner Befriedigung, sondern auch diese Mittel, so wie die Triebe selbst unter einander und mit den Zwecken seines Wesens(※3) und überläßt sich mit dem Schluss der Reflexion entweder der Befriedigung des Triebes, oder er hält sie auf und entsagt ihr.(※4)

§5

実行的な意識の内にある規定は今やそれ自身/衝動/であるか、あるいは/本来の意志/である。衝動とは自然による自己規定であり、そして、制限された感情にもとづいており、乗り越えることができない一つの限定された目的をもち、あるいはまた、それは不自由な直接的に規定された/低い欲求能力/であって、それによって人間は自らを自然の[動物的な]存在としてふるまう。⎯⎯ 人間は、/反省/を通してその衝動を乗り越えてゆき、そして、これらの制限をまた克服してゆく。人間は反省を通して、衝動とそれを充足させる方法とを比較するだけでなく、むしろ、衝動そのものをそれぞれ互いに比較するように、そして人間の存在の目的と比較するように、これらの方法も互いにまた比較する。そして反省の推理によって、自身を衝動の充足に委ねるか、あるいは、そうでなければそれを抑制し断念する。

※1
innerlich
adjective: 内的、内部の、内面的、 内在的
はその対義語である äußerlich と比較すると語義がより明確になる。
adjective 外部の、外的な、 対外の、外在的

内外を区別する基準は何か。それは「私」であり「自意識」である。

※2
Reflexion 反省
noun: 反射、 反省、 反映、映像、 反影、回想、反照、自省、省察、 思案

Reflexion 本来は反射の意。人間の意識が自己内分裂を遂げ、二つに別れることによって、相互に映し合うようになり、自己を自己として意識するようになる。この人間の意識の自己内分裂の意義をはじめて明らかにしたヘーゲル哲学においては、Reflexion 反省 は重要な意義をもっている。それは思考の始まりであり、人間と動物を本質的に区別するものである。

※3
Wesens あること、存在、実体、本質
mit den Zwecken seines Wesens 人間存在の目的、人間の本質的な目的と衝動とを比べて。

※4
衝動は、人間にとっては動物と次元を同じにする感情にもとづいた「低級な欲求能力」であるとされている。

 
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ヘーゲル『哲学入門』序 四[意志と行為]

2019年05月09日 | 哲学一般


§4[意志と行為]


Das praktische Vermögen bestimmt(※1 ) sich überhaupt innerlich, aus sich selbst. Der Inhalt seiner Bestimmungen gehört ihm an und es erkennt sie für die seinigen. — Diese Bestimmungen sind aber zunächst nur innerliche und also von der Realität der Äußerlichkeit getrennt, aber sie sollen äußerlich werden und sich realisieren. Dies geschieht durch das *Handeln,*(※2 ) durch welches die innerlichen praktischen Bestimmungen eine Äußerlichkeit, d. h. ein äußerliches Dasein erhalten. — Umgekehrt kann dies auch so betrachtet werden, dass eine vorhandene Äußerlichkeit aufgehoben und mit der innerlichen Bestimmung übereinstim­mend gemacht wird.(※ 3)

実行的な能力は、自身を一般的に内的に、自分自身から規定する。その規定の内容は、実行的能力自身に属しており、そして、それら諸規定を自分のものとして認識している。⎯⎯  これらの諸規定は、しかし、さしあたっては、内部にあるのみであって、そして、また外部の実在性からは分離されている。しかし、それらの諸規定は外部に現われなければならないし、そうして自らを実現しなければならない。このことは「行為」を通して現われる。行為によって内にある実行的な規定は一つの外的なものに、すなわち、外的な定在を手に入れる。⎯⎯ 逆にいえば、このことは、すなわち、手元にある外的なものを取り消して、そして、それを内的な規定と一致させることである考えることもできる。

(※ 1)ヘーゲル哲学において die Bestimmung  は重要な意味を持っている。bestimmen  規定すること、の本質的な意義は「あるものをして、無から有にすること」、「或る物ものをして或る物ものたらしめること」である。

 [die Bestimmung] 決定、規定、使命
noun: 決定, 決意, 決断, 決心, 結論, 決議, 不退転, 熱血, 熱情, 熱中, 結末, デシジョン, 熱心, 不退
 [bestimmen]決定する、規定する
verb: 定める, 決する


(※2)人間の実行的な能力(可能性)は「行為*Handeln,*」を通して外的な実在性を手に入れる。praktisch  とdas Handeln のおよその違いは以下のように理解すればいいと思う。

 [praktisch] 実用的、実行的
adjective: 実際, 実用的, 実践的, 事務的, 即物的, 技術的

 [das Handeln] 行動する、行為する
verb: 働く, ふるまう, 演じる, 演ずる, 立ち回る, 行動する, 立ち振る舞う

(※3 )人間の意識は、理論的*theoretischen*であるか実行的*praktische*であるか、であるが、意志においては実行的である。そして人間生活は本来的に実行的である。人間の内面的な意志は、外部に現れなければならない。それは「行為」を通して現れる。

 

 

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新緑の三千院

2019年05月04日 | 日記・紀行

 

新緑の三千院

学生時代の最後の正月に、アルバイト仲間と一緒に訪れて以来でした。昔の面影らしきものを思い出したのはわずか。

 

 

 
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ヘーゲル『哲学入門』序(§1〜§3)

2019年05月01日 | 哲学一般

 

G.W.F. Hegel

Philosophische Propädeutik

Erster Kursus. Unterklasse. Rechts-, Pflichten-, und Religionslehre.

Einleitung

 §1

Der Gegenstand dieser Lehre ist der menschliche Wille und zwar nach dem Verhältnis des besonderen Willens zum allge­meinen Willen. Als Wille verhält der Geist sich praktisch. Das praktische Verhalten, wodurch er in seine Unbestimmtheit eine Bestimmung oder an die Stelle in ihm ohne sein Zutun vor­handener Bestimmungen andere aus sich selbst setzt, ist von seinem theoretischen Verhalten zu unterscheiden.

ヘーゲル 『哲学入門』


第一課程、下級クラス、法律、義務、および宗教についての教課



この教課の対象は人間の意志であるが、それはまた、特殊な意志の普遍的な意志に対する関係からみたときの意志である。意志として精神は行動的にふるまう。/行動的な/ふるまいは精神の/理論的な/ふるまいからは区別されなければならない。行動的なふるまいというのは、精神が自らの無規定に一つの規定を自分自身から与えるものであり、あるいは、本来的に精神自らの関わりなくしてすでにある諸規定を他の諸規定に置き換えるものだからである。(※6)
 
※1   praktisch  についてはすでに「実践的」という訳語が確立しているが、
   ここでは「行動的」と訳した。文脈に応じて訳し分けていきたい。
※2   /  /に示された語は原文ではイタリック体。
※3    an und für sich  本来的に、潜在的かつ顕在的に、即かつ向自的に
※4   ohne sein Zutun vor­handener Bestimmungen  が具体的に何を意味するのかがわかりにくい。真、善、美における本能的な判断などのこ  とか。
※5  Verhalten  ふるまい、態度、行い、行動、
※6   精神における praktisch  行動的なふるまいと theoretischen 理論的ふるまいの区別がどこにあるのか、なぜ区別されなければならないの  か。

  精神はまず意志として現象するがそのときは行動的である。

§2

Das Bewusstsein überhaupt ist die Beziehung des Ich auf einen Gegenstand, es sei ein innerer oder äußerer. Unser Wissen ent­hält teils Gegenstände, welche wir durch sinnliche Wahrneh­mungen erkennen; teils aber Gegenstände, die in dem Geist selbst ihren Grund haben. Jene machen die sinnliche, diese die intelligible Welt aus. Die rechtlichen, sittlichen und religiösen Begriffe gehören zur letzteren.




意識とは一般的に、一つの対象と「私」との関係である。その対象が私の内部にあるものか、あるいはそれが外部にあるかにはかかわらない。私たちの知識には、一方では、私たちが感覚的な知覚を通して認識する対象が含まれているが、しかし他方においては、その知識の対象は精神自身に根ざしている。前者は/感覚的な/世界からなり、後者は/知的な/世界を構成する。法的な概念、道徳的な概念、そして宗教的な概念は後者に属する。(※ 1)

※1
意識とは私と対象の或るものとの関係のことであるが、その対象は目や耳、鼻などの感覚器官によって認識しうる外部にある対象と、善悪や真偽、美醜など、精神自身に原因をもつ内部にある対象とに分かれる。後者は知的な世界を構成する。

§3

In der Beziehung des Ich und des Gegenstandes auf einander ist Ich: 1) als passives und der Gegenstand als die Ursache von Bestimmungen in mir. In diesem Fall kommen die bestimmten Vorstellungen, die ich in mir habe, daher, dass unmittelbar vor­handene Gegenstände auf mich einen Eindruck machen. Dies ist das theoretische Bewusstsein. Sei es, dass es sich als wahrneh­mend oder als Einbildungskraft oder als denkend verhalte, so ist sein Inhalt immer ein schon gegebener und vorhandener und im Denken das an sich Seiende sein Inhalt. — 2) Hingegen er­scheint Ich als praktisches Bewusstsein, wenn die Bestimmungen des Ich nicht nur Bestimmungen seines Vorstellens und Den­kens sein, sondern in äußerliches Dasein treten sollen. Hier be­stimme ich die Dinge oder bin die Ursache von Veränderungen der gegebenen Gegenstände.

 


私と対象との相互の関係において、私は:1)/受動的/であり、そして対象は私を規定する原因としてある。この場合、私が私のうちに持っている規定された感覚は、だから、すでに直接にそこに存在する対象が、私の上に一つの印象を作ることからくる。これが/理論的な/意識である。その意識が/知覚/として、あるいは/想像力/として、あるいは/思考/としてふるまうとしても、つねに、その内容は与えられて、すでにそこにあるものであり、かつ、思考においては、その内容は、もともとに存在するものである。⎯ 2)それに対して、私を規定するものが、その表象や思考の単なる規定ではなく、むしろ、外にあるそこに存在する物へと移り行くとき、私は行動する意識として現れる。ここでは、私が物を規定し、あるいは、与えられた対象を変化させる原因である。

 
 ※
理論的意識と実行的意識。意識とは、私と私の内と外にある対象との関係についての感覚、知覚であり認識である。理論的意識は感覚、知覚、において受動的であり、それに対して、実行的意識は能動的であり、対象を変化させる原因でもある。ここでは、むずかしいことは何一つ言われていない。私たちの日常の意識を反省して、ただそれを定式化しているだけである。
 
 
 
 
 
 
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ヘーゲル『哲学入門』序 三[理論と行動]

2019年05月01日 | 哲学一般
 
§3[理論と行動]
 
 
In der Beziehung des Ich und des Gegenstandes auf einander ist Ich: 1) als passives und der Gegenstand als die Ursache von Bestimmungen in mir. In diesem Fall kommen die bestimmten Vorstellungen, die ich in mir habe, daher, dass unmittelbar vor­handene Gegenstände auf mich einen Eindruck machen. Dies ist das theoretische Bewusstsein. Sei es, dass es sich als wahrneh­mend oder als Einbildungskraft oder als denkend verhalte, so ist sein Inhalt immer ein schon gegebener und vorhandener und im Denken das an sich Seiende sein Inhalt. — 2) Hingegen er­scheint Ich als praktisches Bewusstsein, wenn die Bestimmungen des Ich nicht nur Bestimmungen seines Vorstellens und Den­kens sein, sondern in äußerliches Dasein treten sollen. Hier be­stimme ich die Dinge oder bin die Ursache von Veränderungen der gegebenen Gegenstände.
 

私と対象との相互の関係において、私は:1)/受動的/であり、そして対象は私を規定する原因としてある。この場合、私が私のうちに持っている規定された感覚は、だから、すでに直接にそこに存在する対象が、私の上に一つの印象を作ることからくる。これが/理論的な/意識である。その意識が/知覚/として、あるいは/想像力/として、あるいは/思考/としてふるまうとしても、つねに、その内容は与えられて、すでにそこにあるものであり、かつ、思考においては、その内容は、もともとに存在するものである。⎯ 2)それに対して、私を規定するものが、その表象や思考の単なる規定ではなく、むしろ、外にあるそこに存在する物へと移り行くとき、私は行動する意識として現れる。ここでは、私が物を規定し、あるいは、与えられた対象を変化させる原因である。
 
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理論的意識と実行的意識。意識とは、私と私の内と外にある対象との関係についての感覚、知覚であり認識である。理論的意識は感覚、知覚、において受動的であり、それに対して、実行的意識は能動的であり、対象を変化させる原因でもある。ここでは、むずかしいことは何一つ言われていない。私たちの日常の意識を反省して、ただそれを定式化しているだけである。
 
 
 
 
 
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