夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――

11月4日(日)のつぶやき

2018年11月05日 | ツイッター
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「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180808〜20181026

2018年10月31日 | Weblog

 

 「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180808〜20181026
 
 
 
 
 
 
 
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10月25日(木)のつぶやき

2018年10月26日 | ツイッター
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§286c 〔封建的君主制、専制政治の荒廃と破壊の歴史〕

2018年10月25日 | 法の哲学

 

§286c〔封建的君主制、専制政治の荒廃と破壊の歴史〕

Die ehemaligen bloßen Feudalmonarchien sowie die Despotien zeigen in der Geschichte darum diese Abwechslung von Empörungen, Gewalttaten der Fürsten, innerlichen Kriegen, Untergang fürstlicher Individuen und Dynastien und die daraus hervorgehende innere und äußere allgemeine Verwüstung und Zerstörung,

かっての単なる封建的君主制は、専制政治とおなじように、叛乱や支配者の暴虐、内乱、支配者個人や王朝の没落によってもたらされるこれら支配者の交替と、そして、そこから生じた国内外の一般的な荒廃と破壊を、その歴史の中で示している。


weil in solchem Zustand die Teilung des Staatsgeschäfts, indem seine Teile Vasallen, Paschas usf. übertragen sind, nur mechanisch, nicht ein Unterschied der Bestimmung und Form, sondern nur ein Unterschied größerer oder geringerer Gewalt ist. So erhält und bringt jeder Teil, indem er sich erhält, nur sich und darin nicht zugleich die anderen hervor und hat zur unabhängigen Selbständigkeit alle Momente vollständig an ihm selbst.

その理由は、国家事業を分割するこのような状態においては、国家事業の分担が家臣や高官などに任せられるために、ただ機械的になり、使命や形式の違いによってではなく、そうではなくその違いは単に権力が大きいかあるいは小さいかだけである。そうして、それぞれの部門は、自己を保持しながら、ただ自己のみを、そして、そこでは同時に他者を生み出すということはなく、それぞれの部門は、他と関わりを持たない独立したものとなって、すべての要素を完全に自己自身のもとに持つことになる。


封建的君主制や専制政治が荒廃と破壊の歴史をたどるのは、その体制の国家事業の分担が有機的な関係を失い、ただ権力の大小によって区別されるのみで、それぞれの部門が他者とは無関係な完全に自立した存在と化すためである。それぞれが独立してその生存をめぐって排他的に競合しあうことになるためである。フランス革命の末期にも権力は分裂して恐怖政治を招いて破滅することになる。認識論においては、悟性は分断(判断)をもたらし、理性は統一(宥和)をもたらす。



 
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10月22日(月)のつぶやき

2018年10月23日 | ツイッター
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§286 b 〔理性的な国家体制としての立憲君主制と公共の自由〕

2018年10月22日 | 法の哲学

 

§286 b 〔理性的な国家体制としての立憲君主制と公共の自由〕

Die monarchische Verfassung zur erblichen, nach Primogenitur festbestimmten Thronfolge herausgearbeitet zu haben, so daß sie hiermit zum patriarchalischen Prinzip, von dem sie geschichtlich ausgegangen ist, aber in der höheren Bestimmung als die absolute Spitze eines organisch entwickelten Staats zurückgeführt worden, ist eines der späteren Resultate der Geschichte, das für die öffentliche Freiheit und vernünftige Verfassung am wichtigsten ist, obgleich es, wie vorhin bemerkt, wenn schon respektiert, doch häufig am wenigsten begriffen wird.

長子相続にしたがって堅実に確立された継承へと、君主制の国家体制をつくりあげること、それをもって家父長的な原則へと、しかし、それも歴史的な起源としての家父長的な原則から、有機的に発展した国家の絶対的な頂点としての家父長的な原則へと、さらにより高められた規定に回帰させることは、歴史における最近の成果の一つであり、公共の自由と理性的な国家体制にとってもっとも重要な成果の一つである。ただそうであるとしても、前にも述べたように(§279、§281)、(君主制の国家体制は)かねてより尊重はされてはいても、それは往々にしてもっとも理解されることの少ないものである。



近代において有機的に発展した国家における頂点としての家父長的な原則について、すなわち、立憲君主国家体制としての君主制については、「公共の自由」と「理性的な国家体制」にとってもっとも重要な歴史的な意義をもつ成果としてヘーゲルは評価している。それと同時に「君主制の意義」がもっとも理解されることの困難なものであるとしている。

「公共の自由」に対する君主制の意義についてのこの指摘は、自由の価値を知る者にとってはとりわけ重要だと思います。

「天皇制」と民主主義は両立しない、と断言して亡くなられた東大名誉教授で憲法学者の奥平康弘氏がもし生きておられれば、「皇室」の存在と「公共の自由」との関係についてたずねてみたい。立憲君主国家体制における皇室の存在は「公共の自由」を毀損するかどうか?

 

 

 

 
 
 
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§ 286a〔君主権を客観的に保証するもの〕

2018年10月17日 | 法の哲学


§ 286a〔君主権を客観的に保証するもの〕

Die objektive  Garantie der fürstlichen Gewalt, der rechtlichen Sukzession nach der Erblichkeit des Thrones usf. liegt darin, daß, wie diese Sphäre ihre von den anderen durch die Vernunft bestimmten Momenten ausgeschiedene Wirklichkeit hat, ebenso die anderen für sich die eigentümlichen Rechte und Pflichten ihrer Bestimmung haben; jedes Glied, indem es sich für sich erhält, erhält im vernünftigen Organismus eben damit die anderen in ihrer Eigentümlichkeit.

 

王位の世襲についての合法的な継承など、君主権の客観的な保証は、この(君主権の)領域が、理性を通して規定された他の要素(行政権や司法権、立法権など)とは別個の現実性をもつように、同様に、他の要素も自己のためにその使命としての固有の権利と義務を持っているということのうちにある。
理性的な有機体においては、それぞれの肢体は、それ自身を自己のために保持するかぎりにおいて、まさにそのことによってその他の肢体もそれ独自の固有性を保持している。


ヘーゲルの国家論の特色は、その他の凡庸な憲法学者や国家論者と異なって、国家を一個の有機的な組織として捉える論理をもっていることである。有機体としての人体において、胃や心臓などの臓器は、腕や足などの肢体とは異なった独自の機能を持っているが、また同時に胃や心臓がなくなれば腕や足はその機能を果たすこともできない。それぞれは相互依存の不可分の関係にある。君主権も行政権や司法権と不可分な関係にありながら、同時にそれ独自の使命をもっている。ヘーゲルは以下の注釈において、往々にしてほとんど正しく十分に理解されることのない君主権の意義を明らかにしてゆく。

 

 

 

 
 
 
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§ 285〔君主権の普遍性、君主の良心と憲法〕

2018年10月13日 | 法の哲学


§ 285〔君主権の普遍性、君主の良心と憲法〕

Das dritte Moment der fürstlichen Gewalt betrifft das an und für sich Allgemeine, welches in subjektiver Rücksicht in dem Gewissen des Monarchen, in objektiver Rücksicht im Ganzen der Verfassung und in den Gesetzen besteht; die fürstliche Gewalt setzt insofern die anderen Momente voraus, wie jedes von diesen sie voraussetzt.

君主権の三番目の要素は、本来的に(必然的に、絶対的に)普遍に関係するもので、その普遍というのは、主観的な観点においては君主の良心の中にあり、客観的な観点においては、国家体制の憲法の全体の中に、そして法律の中に存在するものである。君主権が他の要素(行政や立法)を前提としているかぎりにおいては、その他の要素のそれぞれが君主権を前提とするのと同じである。



君主権もまたその他の概念と同様に三つの要素(Das Moment  ⎯ 普遍–特殊–個別)を含んでいる。君主権についての考察は、個別から始まる(§275以下参照)。もちろん総体としての個別はまた、そのうちに特殊と普遍を含んでいる。
 
自我(私、自意識)が個別的であると同時にまたもっとも普遍的であるように、君主権もまた個別的であると同時に普遍的な存在でもある。§275以下に君主権に含まれる個別性、特殊性を論証してきたヘーゲルはこの第285節以下において君主権の普遍性について論じる。

この君主権の普遍性は主観と客観の両面から考察される。その普遍性は主観的側面としては君主の自我、君主の良心のうちに存在し、客観的側面としては、国家体制の中に、憲法などのさまざまな法律のうちに存在する。

この君主権のうちに含まれる三つの要素(Das Moment  ⎯ 普遍– 特殊–個別)はまた、概念そのものがそうであるように、それぞれ区別されていると同時に、観念的に統一された有機的な存在として、それぞれは相互依存の不可分の関係にある。君主権は統治権や立法権なくしては存在せず、また立法権や統治権も君主権なくしては存在しない。
 
 
 
 
 
 
 
 
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10月9日(火)のつぶやき

2018年10月10日 | ツイッター
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§ 284〔立憲君主国家における君主の無答責〕

2018年10月09日 | 法の哲学

 

§ 284〔立憲君主国家における君主の無答責〕

Insofern das Objektive der Entscheidung, die Kenntnis des Inhalts und der Umstände, die gesetzlichen und andere Bestimmungsgründe, allein der Verantwortung, d. i. des Beweises der Objektivität fähig ist und daher einer von dem persönlichen Willen des Monarchen als solchem unterschiedenen Beratung zukommen kann, sind diese beratenden Stellen oder Individuen allein der Verantwortung unterworfen; die eigentümliche Majestät des Monarchen, als die letzte entscheidende Subjektivität, ist aber über alle Verantwortlichkeit für die Regierungshandlungen erhoben.

決定の客観性や、内容や状況の認識、法的なその他の決定の根拠など、すなわち、その客観性を証明できて、そして、したがって、それらが君主の人格的な意思とは別に区別される助言にその責任のみを帰することのできるかぎり、もっぱらこれらの諮問機関(内閣)もしくは諸個人(官僚)のみが責任を担う。最終的な裁可を下す主体としての君主に固有の尊厳性は、しかし政府の行動に対する全ての責任を超越したところにある。


立憲君主国家体制における君主の尊厳は、政府の統治行為に対して一切その責任を問われることがない。君主に対して諮問し助言する立場にある内閣や官僚がすべてその責を負う。

大日本帝国憲法下の日本も立憲君主国家体制を原理としており、したがって当然に君主である天皇は政府の統治行為に対して責任を問われることはなかった。

 
 
 
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§ 283〔君主と諮問機関とその官僚〕

2018年10月06日 | 法の哲学

 

§ 283〔君主と諮問機関とその官僚〕

Das zweite in der Fürstengewalt Enthaltene ist das Moment der Besonderheit oder des bestimmten Inhalts und der Subsumtion desselben unter das Allgemeine. Insofern es(※1) eine besondere Existenz erhält, sind es oberste beratende Stellen und Individuen, die den Inhalt der vorkommenden Staatsangelegenheiten oder der aus vorhandenen Bedürfnissen nötig werdenden gesetzlichen Bestimmungen mit ihren objektiven Seiten, den Entscheidungsgründen, darauf sich beziehenden Gesetzen, Umständen usf. zur Entscheidung vor den Monarchen bringen. Die Erwählung der Individuen zu diesem Geschäfte wie deren Entfernung fällt, da sie es mit der unmittelbaren Person des Monarchen zu tun haben, in seine unbeschränkte Willkür.

 

君主権に含まれている第二の要素は特殊の要素であり、もしくは、規定された内容であり、そしてそれを普遍の下に包摂することである。規定された内容が一個の特殊な存在を含む限り、それは最高の諮問機関であり諸個人である。それらは発生する国家業務の内容や、あるいは既存の必要性から客観的側面において必要とされる法的な規定、意思決定の根拠、それに関連する法令、様々な諸状況などを君主のもとに決するために持ち来る。これらの職務のために個人を選任することは、解任する場合と同じように、彼らはそこで君主の直接の人格と関係することから、君主の無制限な恣意に任される。


ヘーゲルの弁証法的な論理は、概念の進展に従ってつねに、普遍 ⎯→ 特殊 ⎯→ 個別 へと展開されます。普遍的な存在としての君主は、その概念の展開に即してさらに統治権へと、特殊な諮問機関としての内閣や官僚などを含む行政や立法、司法などの特殊な領域へと進展してゆきます。その概念が動的に立体的に必然的に展開されてゆく点がモンテスキューたちの三権分立論などと大きく異なるところです。また、ヘーゲルの概念論を誤解し、観念論Idealismusを理解しなかったマルクスなどの唯物論者たちは、このヘーゲルの弁証法論理をもって「論理的汎神論的神秘主義」とよび、倒錯しているとか神秘化しているなどと批判しています 。

※1

指示代名詞 es を、とりあえず「規定された内容」として訳しました。das Allgemeine が正しいのかもしれない。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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10月3日(水)のつぶやき

2018年10月04日 | ツイッター
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§ 282〔君主の尊厳と恩赦〕

2018年10月03日 | 法の哲学

 

§ 282〔君主の尊厳と恩赦〕

Aus der Souveränität des Monarchen fließt das Begnadigungsrecht der Verbrecher, denn ihr nur kommt die Verwirklichung der Macht des Geistes zu, das Geschehene ungeschehen zu machen und im Vergeben und Vergessen das Verbrechen zu vernichten.

君主の主権から、犯罪者に対する恩赦権が生じる。なぜなら、起きたことを起きなかったことにすること、そして、赦しと忘却において犯罪を消し去るという精神の力の実現は、君主の主権のみに属するものだからである。

Das Begnadigungsrecht ist eine der höchsten Anerkennungen der Majestät des Geistes.
- Dies Recht gehört übrigens zu den Anwendungen oder Reflexen der Bestimmungen der höheren Sphäre auf eine vorhergehende. - Dergleichen Anwendungen aber gehören der besonderen Wissenschaft an, die ihren Gegenstand in seinem empirischen Umfange abzuhandeln hat (vgl. § 270 Anm. Fn.).


恩赦権は精神の尊厳についてもっとも深く認識することである。− この権利は、ちなみに、より高い領域の規定をそれに先行する前の領域の規定へ適用もしくは反映させることである。このような種類の適用は、しかし、その経験的な範囲においてその対象を取り扱わなければならない特殊な科学に属している。(§270註釈、脚注参照)※1

- Zu solchen Anwendungen gehört auch, daß die Verletzungen des Staats überhaupt oder der Souveränität, Majestät und der Persönlichkeit des Fürsten unter den Begriff des Verbrechens, der früher (§ 95 bis 102) vorgekommen ist, subsumiert, und zwar als die höchsten Verbrechen, [und] die besondere Verfahrungsart usf. bestimmt werden.

− 国家一般の毀損、あるいは、君主の主権や尊厳、およびその人格性に対する侵害が先に(§95から§102まで)に示した犯罪の概念のもとに包摂されるのも、かつ同じく最高の犯罪として、(そして)特別な取り扱いなどが決定されるのもまた、このような適用に属する。※2

Zusatz.
Die Begnadigung ist die Erlassung der Strafe, die aber das Recht nicht aufhebt. Dieses bleibt vielmehr, und der Begnadigte ist nach wie vor ein Verbrecher; die Gnade spricht nicht aus, daß er kein Verbrechen begangen habe. Diese Aufhebung der Strafe kann durch die Religion vor sich gehen, denn das Geschehen kann vom Geist im Geist ungeschehen gemacht werden. Insofern dieses in der Welt vollbracht wird, hat es seinen Ort aber nur in der Majestät und kann nur der grundlosen Entscheidung zukommen.

補註

恩赦は刑罰を免除するものであるが、刑罰の権利を廃棄してしまうものではない。刑罰の権利は、むしろ残っており、赦免されたものはなお依然として犯罪者でありつづける。恩赦の恵みは彼がいかなる犯罪をも犯していないことを意味するものではない。この刑罰の廃棄は、宗教を通して行うことができる。なぜなら、起きてしまったことは、精神の中で精神によって起きなかったことにすることができるからである。このことが世俗において行われる限りにおいて、恩赦はただ(君主の)尊厳の中においてのみその場所をもち、そして、ただ(君主の)無条件の決定のみから生じることができるのである。

 

※1

「§270註釈、脚注」の個所において論じられているのは、宗教と国家との関係ですが、国家における君主の犯罪者に対する恩赦と、宗教における、神の悪人に対する罪の赦しとの、対比において考察されるべきものということだと思います。君主と国民、神と人との関係が、いずれも、より高い領域からより低い領域への適用、もしくは反映として論じられている(と思う)。君主の恩赦の権限ついての規定は、現行の日本国憲法においても、第七条の天皇の国事行為として、大赦、特赦、減刑などが行われることになっており、下位法として恩赦法があります。

※2

刑法第二編の「公益に関する重罪軽罪」の第一章、第七十三条から第七十六条に規定されていたいわゆる不敬罪としての規定、皇室に対する罪に関する規定は、GHQの占領統治下において改正されて削除されています。国家に対する犯罪、いわゆる国事犯については第二章以下に「内乱に関する罪」として規定されています。国家や君主に対する犯罪が特別なものとして扱われていることがわかります。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
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9月25日(火)のつぶやき

2018年09月26日 | ツイッター
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§281 補註〔国家体制における君主と支配者〕

2018年09月25日 | 法の哲学

 

§281  Zusatz.〔der Monarch  und   der  Herr  in der Verfassung

Wenn man die Idee des Monarchen erfassen will, so kann man sich nicht damit begnügen, zu sagen, daß Gott die Könige eingesetzt habe, denn Gott hat alles, auch das Schlechteste gemacht. Auch vom Gesichtspunkt des Nutzens aus kommt man nicht weit, und es lassen sich immer wieder Nachteile aufweisen. Ebensowenig hilft es, wenn man den Monarchen als positives Recht betrachtet.

§281 補註〔国家体制における君主と支配者〕

人が君主という概念を理解しようとするとき、神が国王を任命したのだということでは自分自身を納得させることはできない。というのは神は全てのものを、最悪のものすらもまた造ったからである。また効用の観点からいってもさらに納得しうるものではない。そしてその裏にはいつも再び欠陥を見せつける。もし人が君主について肯定的な正義(法)として取り扱ったとしても少しも役に立たない。

Daß ich Eigentum habe, ist notwendig, aber dieser besondere Besitz ist zufällig, und so erscheint auch das Recht, daß einer an der Spitze stehen muß, wenn man es als abstrakt und positiv betrachtet. Aber dieses Recht ist als gefühltes Bedürfnis und als Bedürfnis der Sache an und für sich vorhanden. Die Monarchen zeichnen sich nicht gerade durch körperliche Kräfte oder durch Geist aus, und doch lassen sich Millionen von ihnen beherrschen.

私が財産を持つことは必然的であるが、しかし、この特殊な占有は偶然的である。そして、同じように、(君主が)一者として(国家の)頂点に立たなければならないという正当性も、人がもしそれ(一者)を抽象的かつ肯定的に見なしても、また同じように偶然のように見える。しかし、この正当性は感じられた欲求として、そして本来的に(必然的に)事柄そのものの欲求として存在している。君主は肉体的な力や精神的な力において必ずしも際立っているものではないが、それでもなお幾百万の人々をして彼に服せしめている。


Wenn man nun sagt, die Menschen ließen sich wider ihre Interessen, Zwecke, Absichten regieren, so ist dies ungereimt, denn so dumm sind die Menschen nicht: es ist ihr Bedürfnis, es ist die innere Macht der Idee, die sie selbst gegen ihr anscheinendes Bewußtsein dazu nötigt und in diesem Verhältnis erhält. Wenn so der Monarch als Spitze und Teil der Verfassung auftritt, so muß man sagen, daß ein erobertes Volk nicht in der Verfassung identisch mit dem Fürsten ist.


いまもし人々が彼らの利益や目的、意向に反して自らを支配せしめている、と言うなら、これは条理に反している。なぜなら人々はそれほどまで愚かではないからだ。彼らの表向きの意識に反して彼ら自身を君主に服するように強制し、そして、この関係の中に彼ら自身を引き留めるのは、それは彼らの要求であり、理念の内的な力である。そこでは君主は国家体制の頂点として一部として現れるけれども、征服された民族の場合は、国家体制の中で君主と支配者は一致しない、と言わねばならない。


Wenn in einer im Kriege eroberten Provinz ein Aufstand geschieht, so ist dies etwas anderes als eine Empörung in einem wohlorganisierten Staat. Die Eroberten sind nicht im Aufstande gegen ihren Fürsten, sie begehen kein Staatsverbrechen, denn sie sind mit dem Herrn nicht im Zusammenhang der Idee, nicht in der inneren Notwendigkeit der Verfassung, - es ist nur ein Kontrakt, kein Staatsverband vorhanden. "Je ne suis pas votre prince, je suis votre maître", erwiderte Napoleon den Erfurter Abgeordneten.

戦争によって征服された地方で暴動が起きたとしても、それはよく組織化された国家における反乱とは異なる別のものである。征服された者たちは彼らの君主に対して反乱を起こしてはおらず、彼らは国家反逆罪に何ら関与しているわけではない。なぜなら、彼らは支配者と理念上の関係にあるわけではなく、支配者と国家体制の内的な必然性の関わりの中にもないからである。
そこにはただ一つの契約があるのみで、国家的な結合は何ら存在しない。
「私はお前たちの君主ではない。私はお前たちの支配者(主人)である。"Je ne suis pas votre prince, je suis votre maître"」ナポレオンはこのようにエルフルトの議員たちに答えたのである。

 

一つの国家体制(憲法)において、君主と支配者は必ずしも一致しない。このことはヘーゲルの時代にナポレオンがドイツとの戦争に勝利してテューリンゲン州の州都エアフルト(Erfurt)を支配した時のように、日本においても先の第二次世界大戦での敗北の結果、GHQのマッカーサーが天皇の上に立って主人として日本国民を支配した。

この時の日本国民とマッカーサーとの関係は、もちろん日本国民と天皇との関係とはまったく異なるものである。国家体制や憲法との関係において、天皇と日本国民は理念上の、国家的な結合関係にあるけれども、戦争に敗北した被征服民族としての日本国民と勝利者としてのマッカーサーとの関係はたんに支配と隷属の関係でしかない。しかし君主と国民との関係は、支配と隷属の関係ではない。

 

 

 

 
 
 
 
 
 
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