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夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十節[定在]

2025年07月19日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十節[定在]


B. Dasein

B 定在

§ 10

Das Dasein ist gewordenes, bestimmtes Sein, ein Sein, das zu­gleich Beziehung auf Anderes,  also auf sein Nichtsein hat .(※1)

第十節

定在(そこにあるもの)とは、生成を経て、規定性を帯びた存在である。それは同時に、他者との関係性をもつとともに、すなわち自らの非存在(自らが存在しなくなること)との関係性をももった存在である。

※1

①【生成を経て規定された存在】

例えば、一人の「人間」は、ただ単に「存在(Sein)」しているだけではない。誕生というプロセスを経て存在し、成長や経験を通じて具体的な規定性を帯びていく。生まれた瞬間には無規定な可能性に満ちているが、成長するにつれて個性や性格、社会的役割などの「規定性」を獲得していく。例えば、「教師」「医師」「父親」「娘」「日本人」など具体的な規定性が現れる。

②【他者との関係性における存在】

人間の存在は常に他者との関係性の中で規定される。ある人が「教師」であることは、生徒との関係によって規定されるし、また、誰かが「友人」であることは、自分とその人との相互関係によって成り立つ。
このように、人間は単独で規定されるのではなく、家族、職場、社会、文化などの「他者」との関係の網の中でのみ意味を持つ。

 ③【自らの非存在との関係性(自己否定・限界性の認識)】

また、人間の存在は同時に、その存在の限界、つまり死や消滅(非存在という否定性を自らの内に抱えている。自分が生きていることを自覚するということは、同時にいつか必ず死ぬことを意識することでもある。
 例えば、重い病気にかかったとき、人間は自分の存在(定在)と同時にその非在(死、消滅)の可能性を強烈に感じる。このとき、「定在が自己の非存在との関係性を持つ」という哲学的概念が現実的に理解される。

 

 

 

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憲法裁判所の条項を削除する

2025年07月17日 | 国家論

 

憲法裁判所の条項を削除する

 

先に提起した【令和日本国憲法草案】の第四章第九条、「(憲法裁判所)憲法秩序を守るため、憲法裁判所を設置し、違憲立法・行政措置を審査する。」
の条項を削除しました。

理由は、民主的な選出を十分に保障されない憲法裁判所の裁判官よる憲法判断の専制を防ぐためです。一方で「憲法裁判所」をいかにして「理性的な組織、制度」たらしめるかについて、いまのところ決定案がないからです。
裁判官の任命・人事制度に国会関与や国民審査を強化し、司法の透明性を高めながら、最高裁に 違憲立法審査権を付与して、判例の蓄積によって憲法秩序を守るようにしていく方がいいと思います。

【令和日本国憲法草案4】


【前文】

日本国民は、悠久の歴史と文化に根ざす共同体の一員として、天皇を国家統合の実体的存在と仰ぎつつ、国民一人一人の自由と尊厳、伝統と創造の調和を重んじ、自由で責任ある民主国家として、内に道義と秩序を保ち、外に独立と平和を全うする国家を建設することを宣言する。


【第1章 天皇】

第1条(国体の継承)
日本国は、万世一系の天皇を戴く国家である。天皇は日本国の元首であり、国家統合の中核的権威として尊崇される。
第2条(統治機能と象徴機能の調和)
天皇は、国の儀礼と象徴的行為を司るとともに、国家的危機においては議会と内閣の要請により特別に国家再統合の宣言を行うことができる。

【第2章 国民と共同体】

第3条(国民の義務と権利)
国民は、自由と権利を有するとともに、国家と共同体への奉仕、教育、納税、防衛の義務を負う。
第4条(家族・地域共同体の尊重)
国と地方自治体は、家族、地域社会、伝統文化を保護・支援する責務を負う。

【第3章 安全保障】

第5条(自衛の権利)
日本国は、国際平和を希求するが、独立国家として、侵略を防ぎ、国民を保護するための自衛権を保持する。
第6条(防衛軍の設置)
国会の承認により、日本国防軍を設置する。国防軍は専守防衛を基本としつつ、有事には国際法に基づき行動する。
第7条(非常事態条項)
国家の存亡に関わる緊急事態に際し、内閣は国会の承認のもとで一時的に法令を制定・停止する権限を持つ。

【第4章 統治機構】

第8条(三権の調和)
立法、行政、司法は分立しつつ、天皇の権威の下、国家目標の実現のために協働する。
第9条(削除)(憲法裁判所)
憲法秩序を守るため、憲法裁判所を設置し、違憲立法・行政措置を審査する。

【第5章 教育・文化】

第10条(国民精神の涵養)
国家は、公共の精神、道徳、歴史、文化への敬意を育成する教育を推進する。
第11条(大学・学術の独立)
学問の自由は保障されるが、国家・民族への責任を伴うものとする。

【第6章 憲法の護持と改正】

第12条(護憲義務)
すべての公務員は、本憲法の精神を尊重し、これを擁護する義務を負う。
第13条(改正の手続)
本憲法の改正は、国会の三分の二以上の賛成および国民投票の過半数によってなされる。
第14条(施行法の制定)本憲法に規定された国家機構、国民の権利義務、司法制度その他の統治機能の実施に関して必要な事項は、憲法施行法として別に法律で定める。これらの施行法は、本憲法の精神と条文に適合するものでなければならない。

 

 

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日本国憲法論メモノート1

2025年06月28日 | 国家論

日本国憲法論メモノート1

X(ツイッター)@soratineと@myenzyklo  に投稿したメモを、このブログの方にも記録しておきます。
昔のツイッターとブログのGOOとが連携できていた頃は、ツイッターに投稿した記事も自動的にブログにも保存できていたので便利でした。
Twitter が X に変わってから、確かに言論の検閲はなくなったかもしれないけれど、新しくX に変わってから多くの点で使い勝手が悪くなったようです。


樋口陽一氏の憲法学は、日本国憲法の「護憲」的解釈を強く支持し、特に 立憲主義 と 憲法の平和主義 に重点を置いています。そのため、日本国をイギリスやアメリカ、イスラエルのような普通の主権国家へ改革する際の大きな障害となる点がいくつかあります。


樋口陽一氏の憲法解釈においては 「立憲主義=国家権力の制限」 という視点が強調されるため、国家が自己防衛のために持つべき 「積極的主権」(軍事的・経済的な主権行使)が制約される方向に議論が進みます。その結果、国家が 自律自律的に外交・防衛政策を決定する能力 を持つことが否定されます。


普通の主権国家は、自国の防衛や外交政策を自律的に決定する権限を持ちます。しかし樋口憲法学の枠組みでは、国家主権を制限すること自体が「立憲的」だと正当化されています。日本国の独立国家としての正当な国家主権の行使さえ制限され、日本国の主体性を回復する上での大きな障害となっています。


樋口憲法学では 憲法9条の平和主義 を絶対視し、憲法改正や防衛力強化に対して否定的な立場を取っています。 彼は日本国憲法9条を、「戦後日本の根本原理」 と捉え、軍事力を国家主権の不可欠な要素として位置づけることに強く反対しています。
そのため、自衛隊の存在や集団的自衛権の行使についても、極めて消極的であり、憲法改正論議に対しては基本的に「護憲」の立場から反対しています。


現実には、イギリス・アメリカ・イスラエルのような国家は、すべて強固な軍事力を持ち、それを国家主権の基礎としています。しかし、樋口氏の憲法解釈では、日本は「武力を放棄すること」が憲法の本質とするために、日本国の普通の主権国家としての在り方を否定することにつながっています。


もし、日本が普通の主権国家としての性格を取り戻すのであれば、安全保障政策を憲法の制約から解放し、国際環境に適応する形での国家戦略を立案できるようにすることが不可欠ですが、 しかし、樋口憲法学の枠組みでは、憲法の理念が優先され、国家の生存戦略が二の次にされてしまっています。

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ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第九節[存在、無、生成]

2025年06月17日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第九節[存在、無、生成]

A. Sein, Nichts, Werden
A.存在、無、生成

§9
Das Sein(※1) ist die einfache inhaltslose Unmittelbarkeit, die ihren Gegensatz an dem reinen Nichts(※2) hat, und deren Vereinung das Werden(※3) ist: als Übergehen von Nichts in Sein das Entstehen, umgekehrt das Vergehen.
(Der gesunde Menschenverstand(※4), die einseitige Abstraktion sich oft selbst nennt, leugnet die Vereinung von Sein und Nichts. Entweder ist das Sein oder es ist nicht. Es  gibt  kein Drittes. Was ist, fängt nicht an. Was nicht ist, auch nicht. Er behauptet daher die Unmöglichkeit des Anfangs .)

第九節
存在 とは、単純で内容をもたない直接性であり、それは純粋な無を対立物としてもち、そして存在と無との合一が生成 である。無から存在への移行が発生(Entstehen)であり、その逆が消滅(Vergehen)である。
(いわゆる「健全な常識」は、それ自体が一面的な抽象化をしばしば行うように、存在と無の合一を否定する。「存在している」か「存在していない」かのいずれかであって、「第三のもの」はない 。「存在するもの」には始まりはなく、「存在しないもの」も始まりはない。したがって、常識は「始まり」は不可能であると主張する。)

 

※1
「存在(Sein)」はもっとも抽象的な思考のはじまりである。

※2
はじめの「存在」はあまりに空疎であるため、「無」と区別がつかない。

※3
抽象的な「存在」と「無」という静止的な概念は初めから「動き」をはらんでおり、その移行、運動による合一から「生成」という概念が成立する。「生成」は存在と無という対立する二者をそのうち含む。思考の弁証法的な運動がここからはじまる。無から存在への過程は発生であり、存在から無への過程は消滅である。これら「存在」「無」「生成」の三つの契機は、思考の弁証法的な運動の基本形でもある。ここから論理学が始まる。

※4
「いわゆる健全なる人間の理解」(常識)は、「存在」と「無」を絶対的に分けて、「あるかないか」「白か黒か」的にしか考えられない。これはのちに「悟性的思考」として、その限界が指摘される。
弁証法的な思考は動的に捉える。これは「アナログ」と「デジタル」との関係と同じで、たとえば磁石の陽極と陰極のように、常識、悟性は、両者を分断してとらえるが、実際には陽極と陰極との間には明確な境界はない。ヘーゲルはいわゆる「常識」をここで皮肉っている。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在  第一部 質  第八節[質]

2025年06月16日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在  第一部 質  第八節[質]

Erster Teil. Das Sein.  
第一篇  存在

Erster Abschnitt Qualität  
第一部  質

§8  
Die Qualität (※1)ist die unmittelbare Bestimmtheit(※2), deren Verän­derung (※3)das Übergehen(※4) in ein Entgegengesetztes ist.

第八節  
質は直接的な規定性であり、その変化は対立物への移行である。  
  

  
※1  
質(Qualität)とは、「あるものが何であるか」ということ。  

※2 
質は「直接的な規定性(unmittelbare Bestimmtheit)」と定義される。つまり、媒介されておらず、存在に直に結び付いており、その質が失われればその存在そのものが消滅する。

※3  
質の変化(Verän­derung)とは、あるものが、対立する他のものへと変化することである。たとえば、生から死ヘ、歓びから悲しみへ。また、水は、0℃以下で氷に変化する。 

※4 
Übergehen(転化・移行)は、存在するものが、自己を否定することによって他者へと変化する動きのこと。「存在」するものは、有限であるゆえに否定性を含み、その限界を超えると自己を否定して「他なるもの」「対立物へ(in ein Entgegengesetztes)」と転化する。

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在  第一部 質  第八節[質]

2025年06月16日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在  第一部 質  第八節[質]

Erster Teil. Das Sein.  
第一篇  存在

Erster Abschnitt Qualität  
第一部  質

§8  
Die Qualität (※1)ist die unmittelbare Bestimmtheit(※2), deren Verän­derung (※3)das Übergehen(※4) in ein Entgegengesetztes ist.

第八節  
質は直接的な規定性であり、その変化は対立物への移行である。  
  

  
※1  
質(Qualität)とは、「あるものが何であるか」ということ。  

※2 
質は「直接的な規定性(unmittelbare Bestimmtheit)」と定義される。つまり、媒介されておらず、存在に直に結び付いており、その質が失われればその存在そのものが消滅する。

※3  
質の変化(Verän­derung)とは、あるものが、対立する他のものへと変化することである。たとえば、生から死ヘ、歓びから悲しみへ。また、水は、0℃以下で氷に変化する。 

※4 
Übergehen(転化・移行)は、存在するものが、自己を否定することによって他者へと変化する動きのこと。「存在」するものは、有限であるゆえに否定性を含み、その限界を超えると自己を否定して「他なるもの」「対立物へ(in ein Entgegengesetztes)」と転化する。

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇 論理学 第七節 [論理学と真理]

2025年06月11日 | ヘーゲル『哲学入門』



ヘーゲル『哲学入門』 第二篇 論理学 第七節 [論理学と真理]  

§7

Die Wissenschaft setzt voraus, dass die Trennung seiner selbst und der Wahrheit bereits aufgehoben ist oder der Geist nicht mehr, wie er in der Lehre vom Bewusstsein betrachtet wird, der Erscheinung angehört. (※1)

第七節 [論理学と真理]

科学としての論理学は、自己自身と真理との分離がすでに止揚されていること、すなわち精神がもはや『意識の学(精神現象学)』において考察されるような仕方で〈現象〉に属していないことを前提としている。

Die Gewissheit seiner selbst umfasst Alles, was dem Bewusstsein Gegenstand ist, es sei äußerliches Ding oder auch aus dem Geist hervorgebrachter Gedanke, inso­fern es nicht alle Momente des An- und Fürsichseins in sich enthält: (※2)

自己自身の確信(自己のうちにある確実性)は、意識にとってのすべての対象を、すなわち外的な事物であれ、精神から生み出された思考であれ――を含んでいる。ただし、それが〈それ自体であること〉(Ansichsein)と〈それ自身にとってあること〉(Fürsichsein)のすべての契機を内に含んでいる限りにおいて、である。

an sich  zu sein oder einfache Gleichheit mit sich selbst;  Dasein   oder Bestimmtheit zu haben. Sein für Anderes; und   für sich sein,  in dem Anderssein einfach in sich zurückgekehrt und bei sich zu sein. (※3)
Die Wissenschaft  sucht   nicht die Wahrheit, son­dern  ist   in der Wahrheit und die Wahrheit selbst.(※4)

すなわち、「それ自体である」とは、自己と単純に一致していること、「現存在」や「規定性」をもっていること、「他なるものに対して存在していること」、そして「それ自身にとって存在すること」――これは、他なるもののなかにあっても、それが単純に自己へと立ち返り、自己のもとにあることである。
論理学は真理を 探し求める のではない。論理学は真理のなかにあり、それ自体が真理なのである。




※1
「論理学(Wissenschaft)」とは、ヘーゲル哲学においては体系的な自己展開を行う思考のことである。「Trennung(分離)」は、以前の段階(『精神現象学』)で「意識=主体」と「真理=対象」との対立構造にあったものが、それが「aufgehoben(止揚された)」ことによって、両者が弁証法的に克服されて、精神が自己自身のうちに真理をもつ段階に入ったことを意味する。
「現象(Erscheinung)」に属さない、ということは、現象界の背後にある理念的・概念的な真理の場に到達しているということ。

※2
〈それ自体であること〉(Ansichsein)とは、あるものが、それ自身であり、内在的に規定されている状態で、他者との関係性を持たない「存在そのもの」、客観的存在。
〈それ自身にとってあること〉(Fürsichsein)とは、主体が、自分を他者から区別して、自己を自己として意識している状態であり、自己意識や主体性、自律性を意味している。
Gewissheit seiner selbst(自己確信)とは、『精神現象学』でいう「自己意識(Selbstbewusstsein)」のことで、自己を「知っている」という主観的な確信・信念であり、そこにはあらゆる対象が含まれているが、それだけでは不十分であり、ここで主観と客観が統合されて「真に自己である存在(an und für sich)」であるときにはじめて「真理」となる。

※3
単なる「存在」ではなく、「他なるものとの関係性」を経て、「自分自身に戻ること(=自己同一の再獲得)」という理念の構造が予告的に述べられている。「客観(an sich)」→「主観(für sich)」→「統合・絶対(an und für sich)」というヘーゲル弁証法の三段階の構造が端的に説明されている。これは「理念(Idee)」のダイナミズムでもある。

※4
ヘーゲルはここで「思考(主観)と存在(客観)の一致」をあきらかにし、論理学とは真理の展開に他ならないという。カント以前の哲学では、真理は「対象を発見する」ものであったが、ヘーゲルにおいては、真理とは概念(Begriff)そのものの自己運動である。この前提の上に、その論理は、存在論ー→本質論ー→概念論ー→理念論 へと展開していく。


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書評:小室直樹『日本人のための憲法原論』

2025年06月09日 | 書評
 

下に、小室直樹『日本人のための憲法原論』への感想を追記しました。

追記※20250707(月)


上記の本で小室の展開している議論は、ホッブス、ジョン・ロック、ルソー流の「社会契約論」を基盤としており、国家とは国民の自由意志の契約によって成立する人工的な構築物であるという理解に立脚しています。しかし、ヘーゲルはこのような契約論的国家観を「抽象的」かつ「恣意的」として明確に批判しています。国家とは単なる合意の産物ではなく、制度的・倫理的実体として理念的に自己展開していくものです。契約による国家は、一時的・不安定であり、理念国家の持つ内的必然性を欠きます。

小室のこの本で展開している議論は確かに「博識」にもとづいていますが、ヘラクレイトスの箴言を踏まえてヘーゲルは「博識は科学ではない」とも言っています。小室は科学として必然性を追求する意識もみられません。ヘーゲルの『法の哲学』を勉強しなかった彼は理解もできませんでしたから、ヘーゲルが『法の哲学』の中で、ホッブス、ジョン・ロック、ルソー流の「社会契約論」をその意義と限界を指摘してアウフへーベンして論証していることも知りません。だから、恥ずかしげもなく、こんなところでも『契約論的国家観』を繰り返し、日本国民に低劣な「契約論的国家観」を宣伝することになるのです。

また、小室の提案する「個人主義的人権理念の徹底」は、結局のところ「抽象的個人主義」に収束していくことになります。このことによって、個人は、国家の民族的な、歴史的な文脈のなかに位置付けられずに、単なる個人の権利の仲裁装置と化した国家のなかで生きていくことになってしまいます。

たとえば、憲法学者の樋口陽一氏のように、日本国憲法の「第一三条 すべて国民は、個人として尊重される。」という規定を、フランス流の抽象的な個人主義として持ち込み、「個人主義的人権理念の徹底」として我が国の憲法の中に持ち込むと、個人は日本国の歴史的な民族的な文脈から切り離されてしまいます。

国民は抽象的な個人として、民族的な気質や歴史的な人格形成の文脈からも切り離され、その結果として、国民は群衆の一人として、国家としての日本に帰属意識もアイデンティティーも持たない、根無草の国民が増えることになります。家族や会社や学校や地域社会のなかで日本に帰属意識もアイデンティティーも持たない、そうした根無草になった群衆の一人一人が、果たして「夢」や「仲間意識」や利己主義でない「倫理観」をもった国民になるでしょうか。

 
 
 
書評:小室直樹『日本人のための憲法原論』


小室直樹氏は、日本国憲法の問題を、日本人が西洋的な憲法理念を十分に理解・共有していないことに求めています。それは、「憲法の理念」が日本社会に対して外から導入された単なる規範であること、すなわち外在的な観念であることを前提にしています。

しかし、このような憲法理念を外在的な基準として位置づける理解そのものが誤りだと思います。ヘーゲルの『法の哲学』の立場においては、「国家理念」はあくまで内在的に展開する実体として捉えられます。国家とは、民族・文化・歴史が倫理的な実体として自己展開していくことによって初めて形成されるものです。

したがって、小室がいうような「理念の不在」を、日本社会にとって外的な理論や思想を単に「理解」し「取り込む」ことによって解決すべき問題とするのは、国家理念の真の本質を見誤っています。

小室の議論は、ルソー流の「社会契約論」を基礎としています。この立場では、国家とは「国民の自由な意志による合意・契約」によって成立し、その合意の理念的な理解が欠けているため憲法が機能していないと考えています。

これに対して、ヘーゲル哲学の立場では、国家を「合意」や「契約」に還元する見方については明確に批判しています。ヘーゲルによれば、国家は個人の恣意的な契約によって人工的に作られるのではなく、個人が倫理的な実体(家族や市民社会)を経て普遍的な理性と統合されていく有機的な実体としてとらえられます。

小室のモデルでは、理念については、あくまで「意識的に選択された規範」として理解されていますが、ヘーゲルの「法の哲学」の立場からすれば、真の国家理念は、意識以前の共同体的生活や制度的な枠組みそのものに内在しています。理念を「同意の不足」程度の問題としてとらえる限り、真の国家理念には到達できないでしょう。

小室が指摘する「理念の不在」においては、結局「個人主義的な人権観」や「民主的参加の理念」を十分浸透させるべき、という思想に還元されてしまうでしょう。この考えは「抽象的な個人主義」の理念の段階にとどまってしまい、歴史や民族、共同体的な連帯という具体的な倫理的実体を軽視するか、無視することになってしまいます。

ヘーゲルの立場からすれば、「抽象的個人主義」は理念国家形成を阻害することになります。なぜなら、国家は単なる個人の利益の調整機関ではなく、個人が国家の普遍的理念に内在的に結びつき、自己をその中で具体的に実現していくものであるからです。小室のいう「理念の不在」は、実際には抽象的な個人主義を強化する方向に向かうため、理念国家の視点、立場からはかえって国家の理念的な実現を妨げる要因になり得ます。

国家が実際に機能するためには、法律や制度が市民の道徳感情や、家族、職業など倫理的生活(Sittlichkeit)と内的につながる必要があります。小室の「理念の不在」論は、この倫理的実体としての制度や慣習を考慮せず、理念を外的な観念に還元しまい、単純に個々人の理念の無理解や契約同意の問題として矮小化することになります。

国家理念が実効性を持つためには、人々の生活と制度が理念と有機的に結びついていなければなりません。ヘーゲルの視点からは、国家理念の問題を「理解不足」や「教育不足」といった啓蒙的課題として片付ける小室の議論では根本的に不十分です。

小室が「理念の不在」として批判するのは、国民の憲法に対する理解の不足ですが、これは法の本質を個人の「恣意的な理解」に委ねる危険性を伴います。ヘーゲルは法の本質を「理性の自己展開」と捉え、法の妥当性をたんなる主観的同意に還元することを厳しく批判します。

法や制度の妥当性とは、主観的な理解や合意ではなく、理性的・論理的必然性に裏打ちされるべきであるとヘーゲルは主張しています。小室のように法の妥当性を「同意」や「理解」に還元すれば、結局、法は国民感情や政治的な都合によって容易に恣意的に変容しうる脆弱なものとなります。小室は「法の支配」の真意をとらえきれないでいます。

以上のように、小室が本書で主張する「理念不在論」は、国家理念を外的基準によって理解し、契約的合意という個人主義的な枠組みに還元してしまう限界を持っています。これに対しヘーゲルの理念国家論からすれば、理念とは外的理解や同意ではなく、民族的・歴史的制度の内的必然的な展開そのものです。
 
日本において憲法が機能していない問題を解決するためには、国家の理念を単に外部から輸入した「概念」としてではなく、日本民族の歴史的・文化的・倫理的な自己展開そのものとして再構築しなければなりません。そのためには、家族、市民社会、教育、文化制度と国家の統合的な倫理的な再構築が求められます。小室の議論は、このような根本的視点を見落としている点において、致命的な欠陥を抱えていると言えます。
 
 
※追記20250617(ご参考のために)
 
今日は憲法記念日 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/MSslzw
 
「令和日本国憲法草案」について2 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/4lnP93
 
 
 
 
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2025(令和7)年06月03日(火)雨。聖書とヘーゲル哲学

2025年06月03日 | 日記・紀行

2025(令和7)年06月03日(火)雨。聖書とヘーゲル哲学


久しぶりに終日雨が降り続いた。

X(ツイッター)@myenzyklo でノートを取りながら、ヘーゲルの宗教哲学の最終章「第三部 絶対宗教  Ⅲ 3一般的現実性への精神的なものの実現」(木場深定訳)の個所を久しぶりに再読する。


「問題はただ、感情の内容が真理であるかどうか、それは思考において真実の内容として証示されうるかどうか、ということだけである。哲学は主観そのものが感じるところのものを思考し、そして感情と折り合うことを主観に委ねる。このように感情は哲学によって拒否されはしない。むしろそれはただ哲学によって真実の内容を得るのである。

しかし思考が具体的なものに対して対立し始める限り、思考の過程はこの対立を克服して、これを宥和に到達させることである。この宥和が哲学である。哲学はその限り神学である。それは神の自己自身との、また自然との宥和を提示する。すなわちそれは、自然・他在そのものが神的であり、そして有限精神が一部は自己自身において自己を宥和に高め、一部は世界史においてこの宥和に達することを示すのである。」

聖書の研究のためにヘーゲル哲学に入ったことは正しかったとあらためて思う。ヘーゲル哲学は聖書の真理の論証である。宗教と同じく、あるいはそれ以上に哲学もまた深い精神的な充足をもたらす。聖書が先でヘーゲル哲学は後だ。ヘーゲル哲学はなくても聖書はあるが、その逆はない。

 

 

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三人の国家観

2025年05月28日 | 国家論

 

三人の国家観


丸山眞男の国家観: 

⑴ 丸山における国家とは、自律的自我が制度的に共存・対話する空間である。戦前の国体国家における「国家による人格吸収」を批判し、国家とは個人の自由と責任によって支えられる制度的枠組みであるとした。
⑵ 個人は国家の中に没入すべきではなく、制度を通じて批判的・公共的関与を行うべきである。ここには「理念としての国家」や「宗教的正統性としての国家」は存在しない。

西田幾多郎の国家観:

⑴ 西田は『国家と宗教』(1941)において、国家とは歴史的世界の自己表現であり、宗教的統一を内包する理念的全体であると論じた。彼の「場所の論理」においては、個人と国家は外在的な関係ではなく、絶対的一者の場所における自己相即的関係にある。
⑵ 国家は「永遠の今」における倫理的自己形成の場であり、個人はそのなかで歴史的使命を果たす存在である。つまり国家は倫理的・宗教的・歴史的理念としての現存在である。

和辻哲郎の国家観:

⑴ 和辻は『倫理学』『人間の学としての倫理学』において、人間は「間柄的存在(betweenness)」であり、国家はその最も具体的かつ歴史的な形態であると説いた。
⑵ 特に『国体の本質』(1940)では、国体とは抽象的理念や法的構成ではなく、伝統・文化・宗教を通じて形成された倫理的実体であり、国民と国家は切り離せない「倫理的一体」として存在する。 国家は理念であると同時に、生きられた歴史・文化の身体でもある。

 

 

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玉木雄一郎氏の国家観──山尾志桜里氏の参議院選挙擁立をめぐって

2025年05月19日 | 国家論

 

玉木雄一郎氏の国家観──山尾志桜里氏の参議院選挙擁立をめぐって
──制度国家(Staatsmaschine)と理念国家(Ideenstaat)

 

最近になって国民民主党の玉木雄一郎党首が、山尾志桜里氏を来るべき参議院選挙の候補者に擁立したことで、とくに男系男子の皇統を守ろうとする伝統的な国家観を確信する「保守層」から反発の声が上がっているようです。

山尾志桜里氏はさる15日にも、ご自身のSNSに、「女系天皇の議論を避けつつ、女系天皇の選択肢を排除する進め方は間違っている」と投稿したことで、玉木雄一郎代表から注意を受けたそうです。

山尾志桜里氏は、過去にも女系天皇容認の立場を明確にしており、いわば「歴史的皇位継承の本質を制度化された差別と見なす立場」に立つ政治家です。それはグローバルな人権思想とも接続する「リベラル国家観」に根差した発言です。

しかし、男系男子による皇位継承の問題は、単なる制度論やジェンダー問題ではなく、国家の連続性とその神話的・歴史的正統性(ヘーゲルの言葉でいえば「国家理念」)にかかわる核心的な問題です。したがって、ここでの立場表明は、政治家の「国家の起源」や「国家の歴史的連続性」や「制度と国民精神との関係」についての基本的信念を明らかにするものです。

したがって、国民民主党が、山尾志桜里氏を擁立することで、「伝統国家」の守護を標榜する保守層の精神的な期待に添える政党ではないことが結果として明らかになったということです。この問題は単なる候補者選定の失策ではなくて、国民民主党の国家観そのものの曖昧性を示すものともいえます。

国民民主党は、これまで玉木氏の主導で「103万円の壁を今年から178万円を目指して引き上げること」とか「ガソリンの暫定税率を廃止すること」などの主張を掲げて実務的な政策を推進してきました。これらは国家の「制度のマネジメント」として重要であり、財務省の出身である玉木氏は、行政の合理的運営には優れた感覚と能力を持っているのかもしれません。

しかし、これらの政策は「制度のマネジメント」としては機能していても、その政策は「国家理念」を根拠にしておらず、それゆえに玉木氏は実務的な政策能力はとにかく、皇位継承のような理念的問題になると、軸がブレるか、曖昧にする傾向があります。玉木氏は、国家を単なる「政策運営の対象」と見ており、国家を歴史的に精神的に担う主体としての政治家としての自覚意識が弱いと思います。その結果、山尾志桜里氏の参議院選挙候補の擁立問題のように「国家理念の共通土台」を見誤るという政治的な直感力が欠けていることが明らかになったと言えます。

主観的には玉木氏は、選挙上の短期的な話題性や山尾氏の知名度に期待した可能性があります。しかし、山尾氏のもつ過去の政治的行動や急進的なリベラル言説などは、あきらかに保守層に強い不信感を抱かせる要因となっています。
むしろ、山尾氏のような有名人でなく無名の一般人であっても、保守層の理念を、たとえば皇位継承の正統性などに共感する姿勢を明確に持つ候補者であれば、逆に「希望の芽」として評価され得たかもしれません。この点において玉木氏の判断は、「国家観の整合性」よりも「短期的メディア効果」を優先するというという倒錯に陥った可能性が高いといえます。

日本国の国家理念の核心には、「歴史と断絶せず、文化とともに存続する象徴的共同体としての皇室」があり、この核心をどう扱うかは、政治家たちの「哲学」を問う試金石でもあります。玉木氏の選択は、その問いに対する十分な回答を示さなかったのみならず、保守層の信頼を毀損し、国家理念を軽視したと受け止められても仕方がないと言えます。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義2]

2025年05月15日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義2]

Erläuterung.

説明:

Die Logik enthält das System des reinen Denkens. (※5)
Das  Sein  ist  1) das unmittelbare; 2) das innerliche; die Denk­bestimmungen gehen wieder in sich zurück. (※6)Die Gegenstände der gewöhnlichen Metaphysik sind das Ding, die Welt, der Geist und Gott, wodurch die verschiedenen metaphysischen Wis­senschaften, Ontologie, Kosmologie, Pneumatologie und Theo­logie entstehen.(※7)

論理学は純粋な思考の体系をふくんでいる。「存在」とは(1)直接的なものであり、(2)内的なものである。;ここで思考の規定はふたたび自己の内へと戻ってくる。伝統的な形而上学の対象は物であり、世界であり、精神、および神であって、そこから存在論、宇宙論、精神論、神学といった形而上学のさまざま分野が生じてくる。

3. Was der  Begriff  darstellt, ist ein  Seiendes,  aber auch ein  We­sentliches.  Das Sein verhält sich als das unmittelbare zum We­sen als dem mittelbaren. Die Dinge sind überhaupt, allein ihr Sein besteht darin, ihr Wesen zu zeigen. Das Sein macht sich zum Wesen, was man auch so ausdrücken kann: das Sein setzt das Wesen voraus. (※8)

概念 が示すものは、存在するもの( Seiendes )であり、同時に本質的なもの( Wesentliches )でもある。存在は、間接的なものである本質に対して、それ自体は直接的なものである。物は一般に存在するものであるが、ただ、その存在によって自らの本質を示すものである。存在は自らを本質へと高めるが、また同じく、存在は本質を前提としているということもできる。

Aber wenn auch das Wesen in Verhältnis zum Sein als das vermittelte erscheint, so ist doch das Wesen das ursprüngliche.  Das Sein geht in ihm in seinen Grund zu­rück; das Sein hebt sich in dem Wesen auf.(※9)

しかし、たとえ本質が存在との関係において媒介されたものとして現れるとしても、本質こそがやはり根源的なもの である。存在はその本質においてその根拠に回帰する。存在は本質において自己を止揚するのである。

Sein Wesen ist auf diese Weise ein gewordenes oder hervorgebrachtes, aber viel­mehr, was als Gewordenes erscheint, ist auch das Ursprüng­liche. Das Vergängliche hat das Wesen zu seiner Grundlage und wird aus demselben.(※10)

このようにして、その本質は生成されるものであり、また生み出されるものでもあるが、しかしそれ以上に、生成されたものとして現れる本質もまた根源的なものである。移り行くものは、本質をその基礎にもち、それから生じる。

Wir machen Begriffe. Diese sind etwas von uns  Gesetztes,  aber der Begriff enthält auch die Sache an und für sich selbst. In Verhältnis zu ihm ist das Wesen wieder das gesetzte, aber das Gesetzte verhält sich doch als wahr. (※11)

私たちは概念を作る。この概念は私たちによって「定立されたもの」であるが、しかし、また概念はもともと事物それ自体をも含んでいる。その概念に対して、本質はあらためて定立されたものであるが、しかし、定立されたものは、それでもなお真理である。

Der  Begriff  ist teils der  subjektive,  teils der  objektive.  Die  Idee  ist die Vereinigung von Subjektivem und Objektivem. Wenn wir sagen, es ist ein bloßer Begriff, so vermissen wir darin die Realität. Die bloße Objekti­vität hingegen ist ein Begriffloses. Die Idee aber gibt an, wie die Realität durch den Begriff bestimmt ist. Alles Wirkliche ist eine Idee.(※12)

概念 は一面においては 主観的 であり、一面においては 客観的 である。 理念 とは主観的なものと客観的なものの統一である。 もし私たちが、それは単なる概念にすぎない、と言うときには、そこには現実性が欠けていることを示している。それに対して、単なる客観性は概念を欠いている。しかし理念は、現実が概念によってどのように規定されるかを示すものである。すべての現実的なものは理念である。

 

※5
Die Logik enthält das System des reinen Denkens.
論理学は純粋な思考の体系をふくんでいる。

ヘーゲルにおける「論理学(Logik)」は、通常の形式論理学とは異なって、存在そのものの根底にある「純粋思考(das reine Denken)」を、すなわち、「思考の概念的運動」そのものを問題にしている。「純粋」というのは、思考そのものの内在的な自己展開には、経験的な、感性的な要素は関わらないからである。
ヘーゲルの全哲学体系はこの「論理学」に始まり、それは「概念の自己運動としての実在」が、つまり「理念(Idee)」への発展過程として示されている。
たとえば「存在」→「本質」→「概念」と進む弁証法的展開は、現実世界のすべてを根底で支える論理的な構造であって、それが「純粋思考の体系」として捉えられている。

※6
Das Sein ist 1) das unmittelbare; 2) das innerliche; die Denkbestimmungen gehen wieder in sich zurück.
存在とは(1)直接的なものであり、(2)内的なものである。思考の規定は再び自己の内に戻ってくる。

ここでは「存在(Sein)」のもつ二重の性格が述べられる。
まず、unmittelbar(直接的な)というのは、何の媒介もなく、ただそこに「ある」ものとしての存在であり、それはもっとも抽象的な起点であり、感覚的な「ある」である。
innerlich(内的な)というのは、この存在が、たんに外部に感覚的に現れるだけでなく、思考によって反省(反射)的に捉えられたときには、内面性をもつものとして、存在はその内に折り返して、自己反省して、本質(Wesen)を洞察する。

思考の運動としては、「思考の規定(Denkbestimmungen)」がただ他者を規定するだけではなく、自らに戻ってくる(内面化する)という動きである。思考は、存在のたんなる外面を超えて、存在するものの中へと進んでいく。これは「自己への反射(Reflexion in sich selbst)」でもあり、ここから本質論へ入る。

※7
Die Gegenstände der gewöhnlichen Metaphysik sind das Ding, die Welt, der Geist und Gott ...
伝統的な形而上学の対象は物、世界、精神、神である。

ヘーゲルはここで伝統的な「形而上学(Metaphysik)」の四つの主要な対象領域をあげる。
Ding(物):存在の最小単位、物理的対象。ー→ Ontologie(存在論)
Welt(世界):物の全体構造としての宇宙。ー→ Kosmologie(宇宙論)
Geist(精神):人間の自己意識的活動、自由をもつ存在。ー→ Pneumatologie(精神論)
Gott(神):絶対的存在としての究極者。ー→ Theologie(神学)
しかしヘーゲルにとって、これらはすべて論理的に一つの体系の中で発展するもの、理念の自己展開として説明される。

※8
Was der Begriff darstellt, ist ein Seiendes, aber auch ein Wesentliches ...
概念が示すものは、存在するものであり、同時に本質的なものである。
「概念(Begriff)」は単なる言葉や定義ではなく、存在を自己運動によって本質化する動的な論理的な構造のことである。

Seiendes(存在するもの)とは、現実にそこに「ある」もの。
Wesentliches(本質的なもの)とは、そこに「あること」に内在している根拠や意味のこと。

たとえば、「レモン」という存在の本質は、リンゴやバナナといった他の果物と比較され関係付けられて、反省(Reflexion)され、柑橘類としてその酸っぱさや、黄色という色彩や、絵画や文学の素材などとしてレモンの本質が認識される。また、たとえば「国家」という存在は、ただ制度として存在するのではなく、その存在を通じて「自由」や「理念の実現」といった国家の「本質」を現すような論理的な構造をもっていることが洞察される。

 

※9
Das Sein hebt sich in dem Wesen auf.
存在は本質において自己を止揚する。

存在(Sein)はそのままでは感覚的に抽象的で空虚なものであり、それを思考の媒介を経て内面化、深化させたものが本質(Wesen)である。したがって、存在が本質へと移行する過程は、単なる否定ではなく、より深い真理としての「本質」のうちに、「存在」が保存され、止揚される運動ととして捉えられる。これは論理学において「存在論」から「本質論」への必然的な発展の論理として、「止揚(Aufhebung)」の具体的な事例として説明されている。

※10
Das Vergängliche hat das Wesen zu seiner Grundlage 
移り行くものは、本質をその基礎にもち、それから生じる。

「万物は流転する」というヘラクレイトスの立場を引き継いだヘーゲルは、「生成(Werden)」という動的過程を強調する。移ろいやすいもの(Vergängliche)は偶然的なものに見えるが、移り行くものの生成には、その事物の本質が現象してくる。一見「生成された(Gewordenes)」もの、つまり変化したもの、結果のように見える存在も、実は「根源的(ursprünglich)」な本質が自己展開したものにほかならない。
  たとえば、一つの国家制度が変化・崩壊したとしても、その現象の背後には「自由」や「理念国家」といった根本理念が本質が変容しながら働いている。
移ろいやすいもの(Vergängliche)は偶然的なものに見えるが、その生成を通して、理念の必然的な運動がそこに貫かれていると見る。

※11
aber das Gesetzte verhält sich doch als wahr.
定立されたものは、それでもなお真理である。

 本質も概念も思考主体によって主観的に「定立された(gesetzt)」ものであるが、しかし、
それは単なる主観の任意な思いつきではなく、対象そのものの真理を含んでいる。
つまり、本質(Wesen)も概念(Begriff)も私たちが「作る」ものであると同時に、そこには「客観的真理」が保存されている。そこでは主観と客観が止揚され統合されている。

※12
Alles Wirkliche ist eine Idee.
すべての現実的なものは理念である。

ヘーゲル哲学においては、Begriff(概念)は単なる主観的な思考の産物、観念ではなくて、主観的・客観的側面を統合したものである。その統合とされたものとしての、Idee(理念)は、現実(Wirklichkeit)を構成する原理である。
ここで言う「理念(Idee)」は、単なる理想や観念ではなく、概念によって貫かれた現実そのものであり、たとえば、「国家」という現実も、「法」や「自由」「倫理」といった概念によって規定され、そうである限りにおいて、国家は「理念的な実在」である。
逆に言えば、理念を欠いた現実(たとえば、倫理なき法、理念なき制度)は「真の現実」とは言えない。つまり真の「現実性(Wirklichkeit)」を持たない。

だから、理念を欠いた日本国憲法の上に立つ日本国家は「真の現実」ではなく、ヘーゲル哲学的な観点からみれば「現実性(Wirklichkeit)」を持たないということになる。

 

 

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牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 )

2025年05月10日 | 哲学一般

 


牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 )

 

以前に、ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

と言う論考の中で、かって東京都立大においてマルクス主義哲学者であった寺沢恒信の指導のもとでヘーゲル哲学研究の研鑽を積んだ許萬元と牧野紀之の二人の弟子が、あくでもマルクス主義の立場からですが、論理学や弁証法の研究において傑出した業績を残していることについて述べました。

寺沢恒信をはじめとするマルクス主義者たちは「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱をヘーゲル哲学研究の出発点としましたから、ヘーゲル論理学の研究分野において、あくまで「唯物論」という立場からそれなりの業績を残しています。


寺沢恒信氏の指導のもとでヘーゲル哲学研究に従事した許萬元と牧野紀之の2人を中心とするこの学派について「寺沢学派」と私は呼びましたが、「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」という問題意識からとはいえ、ヘーゲル研究において優れた業績をあげているからです。

牧野紀之氏自身は、六十年安保闘争世代の思潮の影響を受けて、当時は、ソビエト・ロシアや毛沢東の中国が「東風が西風を圧する」という、興隆しつつあった共産主義諸国に夢と共感を抱いたらしく、牧野紀之氏も20歳前後に、共産主義運動に参画するという目的をもって彼の哲学研究の動機としました。


この間の事情については、牧野紀之訳『精神現象学』の「訳者まえがき」の中で牧野氏自身が次のように述べています。

「では三浦氏自身の問題は何だったのでしょうか。氏はこう言っています。「少し分かり易く説明しますとね、僕たちの世代、あるいは次の世代もそうですが、一方では連合軍による占領と、他方で中国革命があって、また米ソの対立図式のなかで社会主義に対する憧れを持っている。しかしスターリニズムの実態がハンガリー事件やチェコ事件などを通じて明らかになると、次第に憧れが失望に変わっていって、既成の社会主義をそのまま受入れることができなくなる。」(四三ページ)


氏の心情を推察してかみ砕きますと、二十世紀の最大の社会問題であった資本主義か社会主義かの問題に最大の関心があり、その対立において社会主義に好感を持っていたということです。それは中国革命の道徳的な高さによって強められたということです。しかしソ連の社会主義(及び革命後の中国の社会主義) の実態を知るに及んでどう考えたらいいか迷うようになったということです。

思うに、この総論は日本の多くのヘーゲル研究家の共有する問題意識だと思います。私もここまでは三浦氏と同じです。しかしこの総論をどれだけ具体化して考え進めたか、これがその人の哲学を決定したのだと思います。前衛党の問題、その規律としての民主集中制をどう考えるか、理論と実践の統一をどう考えるか、政治と学問・芸術の関係をどう考えるか、こういった問題にまで具体化して考えたか。それを考える時にヘーゲルを参考にして考えたか、これが決定的だったと思います。」

(※ちなみにここで言う「三浦氏」とは、1995年に、出版社「未知谷」から、牧野紀之氏と同じように、ヘーゲルの『精神現象学』を翻訳、出版した三浦和男氏のことです。)

 

ここで牧野紀之氏 が「この総論は日本の多くのヘーゲル研究家の共有する問題意識だと思います」と書いているように、日本のヘーゲル哲学研究者の99%はマルクス主義者であって、彼らは自らの拠り所であった共産主義に対する夢が敗れた後に、マルクスが自らの思想の拠り所にしたヘーゲル哲学そのものにさかのぼって、「マルクス主義」の検証に取り組もうとしたのだ思います。

悪くいえば、マルクス主義の歴史的な政治的な破産に直面したマルクス主義者たち、この三浦和男氏をはじめ牧野紀之氏自身もそうだと思いますが、そうした破産に直面して、「マルクス主義」を再検証するという口実で、「ヘーゲル哲学研究」の中に逃げ込んだのだと思います。

市民社会の、いわゆる「資本主義社会」の中では、マルクス主義者たちは実際に使い者になりませんでしたから、彼らは「大学」や「アカデミズム」の世界に逃げ込んで、そこで「食い扶持」を見出すことになったともいえます。今日の「大学」「アカデミズム」の世界がほとんど「赤一色」「左翼一色」である理由もここにあるのではないでしょうか。

しかし、牧野紀之氏自身は、自身の初心に忠実に、自らの哲学研究において共産主義そのものを実践しようとしました。だから牧野氏自身はサラリーマンとしての「大学教授」という職に満足できませんでした。自から「鶏鳴学園」という私塾を作って、寺沢恒信から受け継ぎ、その上に自らの創意工夫を加えて発展させたヘーゲルのテキストの「読解技術」を── 具体的には「文脈を読む」とか「形式を読む」といった読解の技術を、自らの私塾「鶏鳴学園」に学びにきた生徒たちに伝授しました。また、自らも共産主義の実践として、「共同体」の創出などにも取り組みました。

鶏鳴学園で行われた牧野氏のヘーゲル哲学の原典購読は、たとえば一般のいわゆる「大学」「アカデミズム」におけるヘーゲルの原典購読の水準をはるかに超えるものでした。それが評判をよび定評を得ましたから、難解な「ヘーゲル哲学」を何とかものにしたいという若者、社会人などが集い、牧野氏からヘーゲル・テキストの「読解の技術」を学びました。

牧野氏自身は、「自分の哲学を作って生きる」という課題に忠実でしたが、牧野氏の生徒たちの中には「大学教授」として生活するという目的のために、牧野氏からヘーゲル哲学の読解の技術だけを、悪くいえば盗んで「大学教授」になるための「飯の種」として、ヘーゲル哲学の訓詁注釈のみに従事しました。ヘーゲル哲学研究を「自らの哲学を作る」という課題の手段とすることなく、ヘーゲル哲学を「談論風発」することだけが目的の、そうした風潮について牧野紀之氏は「サラリーマン弁証法」と揶揄しました。

少し論点が逸れてしまいましたが、この「寺沢学派」のもう一つ著しい偏向があるとすれば、この「寺沢学派」には、ヘーゲルの「法の哲学」に関連する研究業績が皆無であるということです。マルクス自身はヘーゲルの「法の哲学批判」を彼の「共産主義思想」の基礎にしましたが、この「寺沢学派」は「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」という動機にみずから限定しましたから、そのヘーゲル哲学研究が、ヘーゲルの「大小論理学」に集中したのは当然の帰結だとも言えます。その結果として、ヘーゲル「法の哲学」の国家理念に基づいた、新日本国憲法を構想できる者が、この「寺沢学派」には、誰一人としていなかった、ということにも現れています。

 

 

 

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牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)

2025年05月06日 | 哲学一般

 

牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)

 

牧野紀之氏は、世界観としては、唯物論の立場に立つ。それは牧野氏の経歴を見てもわかるように、彼の哲学研究が、共産主義運動への参画を根本的な動機としていたことから来るものである。この共産主義とはマルクス主義であり、毛沢東主義である。

マルクス主義や毛沢東主義は世界観の立場としては唯物論である。マルクス主義を初心とした牧野氏は終生にわたって唯物論の立場から離れることはなかった。これが彼の哲学の限界である。だから、牧野氏にとっては「世界には初めも終わりもない」。

かくして、牧野氏の指導教官であった東京都立大学の教授であったマルクス主義者の寺沢恒信のもとでヘーゲル哲学の研鑽に励んだ牧野氏は、その師と同じく「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱を、牧野氏自身の哲学研究の出発点しており、この立場を終生にわたって引き継いだ牧野氏は、したがって、「ヘーゲル哲学自体」の研鑽をどれほど深めようとも、絶対的観念論者ヘーゲルそのものの立場に立つことはなかった。

牧野紀之氏はいわゆる60年安保闘争世代に大学時代を過ごしており、その時代思潮に深く影響されている。それに対して、私は牧野紀之よりもちょうど一世代下の70年安保闘争の時代に学生時代を過ごした。しかし、もともと私のヘーゲル哲学研究の動機は「キリスト教の研究」にあったから、世界観の立場としては、マルクスの唯物論の立場を選択する動機も必然性もなかった。

ヘーゲル哲学そのものの世界観は、「絶対的観念論」とは言われるが、そもそも基本的にはこの「絶対的観念論」は唯物論をも止揚したものである。つまり、絶対的観念論とは、唯物論でもなければ、いわゆる観念論でもない。物質と観念がどちらが根源的かという問いには、究極的には確定できないとするのがヘーゲルの立場である。これを日本の伝統的哲学の立場から言うなら、「色心不二」の立場であって、色=物質、心=観念の二者は二つであって二つではないという立場とおなじである。色=物質、心=観念のいずれが根源的かという問題には結論がない。

もともと、「キリスト教の研究」を動機とした私の「ヘーゲル哲学研究」には、したがって、そもそもマルクスの唯物論の立場に立たなければならないという動機もその必然性もなかった。だから私はこのヘーゲルの立場、つまり「絶対的観念論」の立場をそのまま継承することになった。ヘーゲル哲学、その論理学そのものを何ら改造することなく、そのまま引き継ぐだけである。牧野氏のように唯物論の立場から改作する必要もない。ヘーゲル哲学を「唯物論の立場から改作する」というのは、むしろ改悪であり「非真理」への転落以外のなにものでもない。この観点から、マルクスの浅薄な「ヘーゲル概念論」理解を逆批判することになった。

とはいえ、牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解は、「唯物論」の立場からの改悪という根本的な欠陥を自覚して読解する限りは、我が国におけるこれまでのヘーゲル哲学のテキストのもっとも正統的な優れた読解の教本である。ヘーゲル哲学の読解のためのもっとも有効、有益な教本として、私たちは牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解を参考にできるし活用すべきものである。

 

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

 

 

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牧野紀之氏について(1、牧野紀之氏の経歴など)

2025年05月04日 | 哲学一般

 

牧野紀之氏について(1、牧野紀之氏の経歴など)

 

日記ブログ「作雨作晴」でも哲学研究ブログ「夕暮れのフクロウ」でも、多くヘーゲル哲学について論及しています。こうした私の「ヘーゲル哲学研究」は、哲学者の牧野紀之氏の「ヘーゲル哲学研究」を媒介にしていますから、私があらためて牧野紀之氏の「思想と哲学」について、批判的に考察することは、必要なことであり課題でもあるのですが、なかなか時間的に能力的にも実際に具体的に着手できませんでした。

しかし、この問題は「私の思想や哲学の立場」を明確するためにも、いつまでも先送りできることでもないので、少しずつでも着手していくつもりで、今日の記事になりました。こうした感想や考察を断片的にでも蓄積していって、それを手がかりとして、時がくればそれらを整理しまとめて、一つの必然的で体系的なまとまった考察としていきたいと考えています。

牧野紀之氏については、牧野氏自身がご自身のブログの中で明らかにされています。

牧野紀之 - マキペディア(発行人・牧野紀之) https://is.gd/89Z4qs

牧野紀之


2008年08月01日 | マ行

1、経歴等

1939年、東京に生まれる。
 1963年、東大文学部哲学科を卒業。
 1970年、東京都立大学博士課程を卒業。
 1971年、鶏鳴出版を始める。
 1973年、哲学私塾「鶏鳴学園」を始める。
 1976年、雑誌「鶏鳴」を創刊。
1990年、引佐郡引佐町(現在の浜松市北区引佐町)に移住。
 1991年、04月から哲学の共同生活を始めるが失敗。
2006年、ブログ百科事典「マキペディア」(創刊時の名は「マキシコン」)を創刊

2、思想遍歴等

 大学院卒業までの経歴については「勉強の思い出」を参照。

 60年安保闘争の中で直面した問題と取り組み、ヘーゲル哲学を介して考える中で、生活を哲学する方法を確立した。「生活のなかの哲学」「哲学夜話」(鶏鳴出版)。

 ヘーゲル研究の成果は訳書「精神現象学」(未知谷)「小論理学」(上下巻、鶏鳴出版)など。

 又、社会主義の根源的反省の中で、唯物史観の論理的再構成を目指す。「労働と社会」「ヘーゲルの目的論」(鶏鳴出版)など。

 それの延長線上で、マルクスとエンゲルスの自称「科学的社会主義」を再検討して、その証明の不十分性を指摘する。つまり、それは実際には「空想的社会主義」の1種でしかないことを証明。「マルクスの〈空想的〉社会主義」(論創社)。

 社会運動のあり方としては「本質論主義」を提唱し、具体化している。これと関連して、従来の社会主義運動で理論的検討の加えられなかった諸問題を解明。「理論と実践の統一」(論創社)。

 ドイツ語教師としての活動の中で、関口存男(つぎお)氏のドイツ語学を学ぶ。「関口ドイツ語学の研究」(鶏鳴出版)。

 教育活動では、初めは学校を低く見て私塾を目指してきたが、失敗してからは、学校の可能性を追求するようになる。

 哲学教育の目的を「各自が自分の考えを自分にはっきりさせ、更に発展させること」と定式化したこと、その中心的な手段としての教科通信を最大限に利用するようになったことで、新境地を開拓。「哲学の授業」「哲学の演習」(未知谷)。教科通信「天タマ」。

 ドイツ語の授業については、教科通信「ユーゲント」。

 2003年09~11月、浜松市積志公民館で哲学講座。「松の木」

 2004年04月~05年03月、地元の自治会長を務める。

 2010年04月~11年03月、地元の組長(事実上は自治会長に近い。隣の自治会と合併したために「組」になっただけ)を務める。「私の自治会長」を参照。

 2010年3月末をもって静岡大学情報学部でのドイツ語非常勤講師の仕事を終える。教科通信「ユーゲント」。

 70歳ころから「学問は一代、思想も一代」と考えるようになり、かつての間違いの根本は「生徒を集めよう」と考えたこと自体にあった、と考えるようになる。

2012年10月、最後の仕事と考える「大論理学」の翻訳に向けて舵を切る。
2012年11月、ヘーゲル「自然哲学」(序論)を訳し、pdf鶏鳴双書として出版。

2013年03月、pdf鶏鳴双書として「ヘーゲルの始原論」を出す。
2013年04月、「大論理学」の翻訳の前に、「小論理学」を見直して出す事とし、見直しを始める。
2013年06月、「関口ドイツ文法」を未知谷から出版。

3、直近の活動報告

 2013年04月から『小論理学』(鶏鳴版)の見直しを始める。同(未知谷版)を出すためである。
 原文のドイツ語を文法的に読むことがしやすくなったのを感ずる。「関口ドイツ文法」を出したためである。
 「ヘーゲルを読んで哲学する」点でも以前よりは前進したと思います。
 2014年7月現在、「現実性」論に入りました。
 2014年9月1日、「本質論」を終えて、暫時小休憩に入る。

 ☆ 「私の研究生活」(2014年10月24日)

 
4、業績一覧

5,社会的活動

 社会的発言は、主として、ブログ「マキペディア」「静岡県庁の真ホームページ」(2010年10月で終える)「浜松市役所の真ホームページ」を中心としている。
→私のブログ体験
私のブログ体験、その2
私のブログ体験(その3)

 社会は官と民から成り立つが、両者は並立しているのではなく、官の運営する枠組みの中で民が活動する、という関係にある。だから、その枠組み(法律で決まっている)と運営(担当者の考えと力量で決まる)を国民は監視し検討すべきであるという考えに基づいて、役所のカウンター・ホームページを作ることを提唱し、実行している。〔その後、「マキペディア」に集中)

2011年02月15日、浜松市長選挙への仮立候補宣言を発表。→「仮立候補関係の記事」
 同、03月25日、正式立候補は出来ず→「報告と御礼」

 (2008年08月01日現在。その後適宜加筆)

 

 

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