夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信]

2024年06月14日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信]

§42

Das Wissen der Vernunft ist daher nicht die bloße subjektive  Gewissheit,(※1)sondern auch Wahrheit, (※2) weil Wahrheit in der Übereinstimmung oder vielmehr Einheit der Gewissheit und des Seins oder der Gegenständlichkeit besteht.(※3)

第四十二節[理性の確信]
  
理性の知識は、したがって、たんなる主観的な 確実性 ではなくて、むしろ 真理 でもある。なぜなら、真理とは、認識されたことと存在とが、あるいは客観性とが一致していること、あるいは、むしろその統一のうちにあるからである。

 

※1
 Gewissheit 
確信、確実性。知識をもっていること。ここではまだその知識が主観性にとどまっている。

※2
Wahrheit
真実、正しいこと、真理。
主観的な確信が、存在や対象の客観性と一致すること、もしくは、存在がその概念に一致していること。

※3
先の第二段において、自己意識が「不幸な意識」に至るのは、人間の意識が本来的に自己内分裂をその特性としているからである。
分裂した自己意識は、自己自身との不一致や他者との関係における矛盾、信仰における不和などに、必然的に「不一致と矛盾」に陥るから「不幸な意識」とならざるをえない。
しかし、この「不幸な意識」も、主人と従僕との関係や労働を通して、その「疎外」も克服して、ここで自己意識は理性として、主観と客観との統一を、その確実性と真理を確信するようになる。

しかし、この段階では、理性もまだ「表象」の確信にすぎないから、『精神の現象学』においては、そこからさらにすすんで、自然や有機体(生命)の観察や実験へと、さらには、道徳や人倫の領域へと入り込んで、自らの意志や行動を通して世界を変革しようとしたり(「徳の騎士」と「世路」との対立)しながら理性から精神へと移行してゆく。
カントの啓蒙哲学やフランス革命も検証され、「絶対精神」の領域である芸術、宗教、哲学(絶対知)へと向かう考察がくわしく展開されている。しかし、この『哲学入門』ではそれらは一切省略されている。

 


この『哲学入門』の「精神現象論」においては省略されている、『精神の現象学』の「Ⅴ 理性の確信と真理」および「Ⅵ 精神」の内容については、梗概か要約としてまとめておきたいと考えています。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十一節 [理性が洞察するもの]

2024年06月10日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十一節 [理性が洞察するもの]

§41

Oder was wir durch die Vernunft einsehen, ist: 1) ein Inhalt, der nicht in unsern bloßen Vorstellungen oder Gedanken be­steht, die wir für uns machten, sondern der das an und für sich seiende Wesen der Gegenstände enthält und objektive Realität hat und 2) der für das Ich kein Fremdes, kein Gegebenes, son­dern von ihm durchdrungen, angeeignet und damit eben so sehr von ihm erzeugt ist.(※1)(※2)

第四十一節[理性が洞察するもの]

あるいは、私たちが理性を通して理解するところのものは、1) 私たちが自分たちのために作った単なる表象や思考のうちにはない内容ではなく、むしろ対象に本来的に存在する本質を含んだ、そして客観的な実在性をもった内容であり、また、2) 「私」にとってその内容は疎遠なものではなく、また誰かから与えられたものでもなく、「私」によって洞察されて取り入れられ、そして、まさにその結果「私」によって作り出されたものである。

 

※1
was wir durch die Vernunft einsehen
理性によって私たちが認識するものは、「私」によって探求されて手に入れ、生み出された主観的な内容であるとともに、客観的であり現実性をもった内容である。それは私にとってよそよそしいものではない。この理性の段階において主観と客観の対立は統一され宥和する。

※2  
理性のこの段階に至った自己意識は、個別と普遍との統一とその実在性は確信する。しかし、「現象学」の理性の項においては、そこから自然や有機体の観察や実験へと、さらには道徳や人倫の領域へと展開していく。そこでよく知られている「徳の騎士」(革命家、若者)が「世路」(現実の法則、大人)に敗北する論理などは、ここではすべて省略されている。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』  中級  第三段  理性  第四十節 [理性について]

2024年06月07日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』  中級  第三段  理性  第四十節 [理性について]

 Dritte Stufe. Die Vernunft.

§40

Die Vernunft ist die höchste Vereinigung des Bewusstseins und des Selbstbewusstseins oder des Wissens von einem Gegen­stande und des Wissens von sich. Sie ist die Gewissheit, dass ihre Bestimmungen eben so sehr gegenständlich, Bestimmungen des Wesens der Dinge, als unsre eigenen Gedanken sind. Sie ist eben so sehr die Gewissheit einer selbst, Subjektivität, als das Sein oder die Objektivität, in Einem und demselben Denken.(※1)

第三段  理性

第四十節[理性について]

理性とは、意識と自己意識の最高の統一である。つまり、対象についての知識と自己についての知識との最高の統一である。理性とは次のことを確信することである。すなわち、理性の規定が、私たち自身の思考として、まったく客観的であって、事物の本質についての規定でもあるという確信である。理性とは、一つの同じ思考にあって、存在や客観性とまったく同じように、自己自身や主観性を確信することである。

 

※1
「精神の現象学」の中で展開されているように、自己意識は長い格闘ののちに、ここにおいて理性の確信にたどり着く。
理性の規定は、客観的であり事物の本質であるとともに、それはまた自己自身や主観性との統一でもある。すなわち、真理であるという確信である。
「理性」は通俗的にも多用される概念であるが、ここでヘーゲルが規定しているように、哲学的には絶対知を把握する認識能力をいう。
自己意識が理性に至るまでにたどる道程は、『精神の現象学』においてはくわしく展開されているが、この『哲学入門』ではすべて省略されている。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十九節  [自己意識の普遍性2]

2024年06月05日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十九節  [自己意識の普遍性2]


§39

Das Selbstbewusstsein ist sich nach dieser seiner wesentlichen Allgemeinheit nur real, insofern es seinen Widerschein in An­dern weiß (ich weiß, dass Andere mich als sich selbst wissen) und als reine geistige Allgemeinheit, der Familie, dem Vater­land u. s. f. angehörig, sich als  wesentliches Selbst  weiß. (※1)(Dies Selbstbewußtsein ist die Grundlage aller Tugenden, der Liebe, Ehre, Freundschaft, Tapferkeit, aller Aufopferung, alles Ruhms u. s. w.)(※2)


第三十九節[自己意識の普遍性2] 

自己意識が他者のうちに自身の反映を認め(他者が私を私自身として認めていることを、私が知っていること)そうして、家族や祖国などに属する純粋に精神的な普遍性として、自らを本質的な自己として知るかぎりにおいて、この自らの本質的な普遍性によって、自己意識はただ現実的になる。(この自己意識は、すべての徳、愛、名誉、友情、勇気、すべての自己犠牲、すべての名声といったものの基礎である。)

 

※1
意識はまず欲望の対象としての物や他者を介して、自己意識を確立するが、この自己意識は主人と従僕との関係において、服従と労働を通して普遍的な性格を形成していく。
自己意識はここで単なる個別的な存在から、普遍的な自己意識として他者や家族や市民社会、国家との関係において自己を認識するようになる。

※2
この『哲学入門』の「精神現象論」では、『精神の現象学』の中には詳細に展開されている「理性」の段階に至るまでの、自由を求めて苦悩し格闘する自己意識のたどる道程が、ストア主義や懐疑主義へと歩む不幸な意識の行き詰まりと絶望が一切省略されている。

 

 

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ふたたび「自由と民主政治の概念」について

2024年06月03日 | 政治・経済

 

ふたたび「自由と民主政治の概念」について

 

私のブログ「作雨作晴」の今日の「このブログの人気記事?」の中に、「自由と民主政治の概念」という昔に書いた論考が上がっていた。あらためて見ると、2006年1月30日に書いた論考である。改めてその内容を確認しておきたいと思った。

その記事の論考で主張したことは、まず

1、日本国民のすべてが、日本国の国家理念として「自由にして民主的な独立した立憲君主国家としての日本」を自覚し、追求すべきこと、

2、「自由党」と「民主党」の二つの基本的な政党が、それぞれが国民政党として、「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」としての日本国の実現を目指していくべきこと、

この二点である。

当時の政治的な状況は、与党においては、自民党が小泉純一郎氏を党首として、首相の地位にあって、「郵政の民営化」を実行しようとし、その一方では、小沢一郎氏や鳩山由紀夫氏たちが結党した民主党にあって、前原誠司氏や岡田克也氏らがこの野党の政党幹部として、与党の政策に対決していた。

先に掲げた日本国の国家理念からも、日本の政党政治を健全なものとしていくためには、独立した立憲君主国家を追求する国民政党が日本の政治を担ってゆく必要があり、そのためには、まず民主党の内部から社会主義者や共産主義者たちの「全体主義」を清算して、当時の民主党を国民政党として生まれ変わらせる必要があることを訴えたものである。

民主党は、その党内に横路孝弘氏や赤松広隆氏など旧社会党出身者たちを多く抱えており、その一方では西村慎吾氏と松原仁氏らも同じ党内に所属していた。

この論考をブログに上げてから、すでに20年近くの歳月が過ぎようとしている。かって社会主義者や共産主義者の隠れ蓑となっていた「民主党」はすでになく、今はその系譜が「立憲民主党」という名前で生きながらえている。

私がこの論考で主張したことは、かっての民主党の国会議員の誰一人の耳にも届かなかったようだ。多少は期待した前原誠司氏などは、今は国民民主党も追い出されて政界をさすらっている。

その一方で、安倍晋三元首相が暗殺されていなくなった自民党はすっかりリベラル化して、保守党としての性格を失ってしまった。

日本国の国家理念が「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」にしかありえないことは、今ももちろん変わりがない。そして、日本国の政党政治が、いずれもが国民政党である「保守自由党」と「民主国民党」によって担われるべきであるという主張にも変わりがない。この二つの政党によって、「自由にして民主的な独立した立憲君主国家としての日本」を追求していくのである。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十八節  [自己意識の普遍性1]

2024年05月30日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十八節  [自己意識の普遍性1]

C. Allgemeinheit des Selbstbewusstseins

§38

Das allgemeine Selbstbewusstsein ist die Anschauung seiner als eines nicht besondern, von andern unterschiedenen, sondern des an sich seienden, allgemeinen Selbsts.(※1) So anerkennt es sich selbst und die andern Selbstbewusstsein in sich und wird von ihnen anerkannt.(※2)

C.自己意識の普遍性

§38[自己意識の普遍性1]
  
 普遍的な自己意識とは、他と区別された特殊な自己としてではなくて、本来的に存在している普遍的な自己 として、自己自身を直観することである。そのようにして普遍的な自己意識は自己自身を認めるし、また自己のうちに他の自己意識をも認め、自らもそのようにして他の自己意識から認められる。

 

※1
自己も他人もそれぞれが「自己意識」である点では何ら変わりがない。それゆえに「自己意識」は、「普遍的」である。この普遍性は自己意識にとってan sich(本来的)なものであり、類的なものである。
すべての概念は、個別性、特殊性と普遍性の三つの契機をもつが、この「自己意識」についても例外ではない。ただ、この第三十八節においては「自己意識」の「普遍性」が強調される。
「自己意識」と「他の自己意識」とに普遍性を認めることから、家族や故郷、同胞、祖国などの認識が生まれてくる。

※2
この「哲学入門」の対象は「人間の意志」である。この意志は自己意識から生まれてくるがその「普遍性」についても、これまでにも繰り返し論及されている。たとえば、ある黄檗宗のお坊さんが「己と他の己」と言ったことにも触れた。

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第三節 [個人の自由意志と法の普遍性] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/27gyy6ts

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十七節  [自由に移行するための自己放棄]

2024年05月23日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十七節  [自由に移行するための自己放棄]

§37

Diese Entäußerung der Einzelheit als Selbst ist das Moment(※1), wodurch das Selbstbewusstsein den Übergang dazu macht, all­gemeiner Wille (※2)zu sein, den Übergang zur positiven(※3) Freiheit.(※4)

第三十七節[自由に移行するための自己放棄]

自己としての個性を放棄することは、自己意識が普遍的な意志へと移行を成しとげるための、つまり積極的な自由へと移行するための契機である。

 

※1 
要因、契機(das Moment)
主人と従僕との関係において、従僕が主人に対する恐れから、自ら服従し自己の個性を放棄することで、従僕は服従と労働の中で自らの技能を磨いて自立性を高めていく。
「自己の個性の放棄」は従僕が自立していくための契機(要因)「das Moment」である。

※2
普遍的な意志(all­gemeiner Wille )
従僕は、服従と労働の中で自己中心の恣意や、個人的な欲望や意志をおさえて、普遍的な意志に移行する。普遍的な意志とは市民社会や国家などにおける共同体における意志である。

※3
積極的な自由(positiven Freiheit.)
ヘーゲルは自由を消極的(Negativ)と積極的(Positiv )の二側面で捉える。libertyとfreedom とのちがいと同じ。前者は、単なる束縛からの自由に過ぎないが、後者は、自己の意志をもって積極的に社会や国家にかかわっていくことの自由ともいえる。

※4
ヘーゲルの処女作『精神の現象学』の中で展開されている、ストア主義(Stoicism)から懐疑主義(Skepticism)、不幸な意識(Das unglückliche Bewußtsein)へ進みゆく道程の記述が、この『哲学入門』の第三十七節の「精神現象論」の説明ではその道程が完全に抜け落ちている。この過程で自己意識は行き詰まりと絶望をくり返しながら、理性的な意識へと克服の道を歩んでいく。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十六節 [恣意の否定と真の服従]

2024年05月17日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段  自己意識  第三十六節 [恣意の否定と真の服従]

§36

Der eigene und einzelne Willen des Dienenden, näher betrach­tet, löst sich aber überhaupt in der Furcht des Herrn,  dem inne­ren Gefühle seiner Negativität, auf. 

第三十六節[恣意の否定と真の服従]

しかし、一般的に従僕自らの固有の意志は、よりくわしく見てみると、主人に対する恐怖の うちに、つまり従僕のうちにある否定的な感情の中に消えてしまっている。

Seine  Arbeit (※1) für den Dienst eines Anderen ist eine  Entäußerung (※2)seines Willens_ teils an sich, teils ist sie zugleich mit der Negation der eigenen Be­gierde die positive  Formierung der Außendinge(※3) durch die Arbeit, 

他者に奉仕するための従僕の「労働」は、それ自体が彼の意志の「外化」であると同時に、彼自身の欲望を否定することであって、その労働を通して積極的に「外部に事物を形成」することでもある。

indem durch sie das Selbst seine Bestimmungen(※4) zur Form der Dinge macht und in seinem Werk sich als ein gegenständliches anschaut. 

そうすることによって、従僕自身は自らの内的な思いを物の形にまで作り上げ、そうして自分の作品の中に自分自身を一つの客観物として直観するのである。

Die Entäußerung der  unwesentlichen Willkür  macht das Moment des wahren Gehorsams aus. (Peisistratos (※5) lehrte die Athenienser gehorchen. Dadurch führte er die Solonischen Gesetze in die Wirklichkeit ein und nachdem die Athenienser dies gelernt hatten, war ihnen Herrschaft überflüssig.)

本質的でもないところの恣意を 捨て去ることは、真の服従のために不可欠の要素である。(ペイシストラトスはアテナイ人に服従を教えた。そうしてから彼はソロンの法律を実際に採用した。そうしてアテナイ人が服従を学んだ後は、もはや彼らに支配権力は余計なものになった。)

 

※1
die  Arbeit
 前三十三節でそれぞれの自己意識の間に存在する不平等から主人と従僕の関係が必然的に生じ、そこに奉仕や服従が生まれるが、従僕は奉仕のために 労働 に従事することになる。

※2
die  Entäußerung
「Entäußerung」もともとドイツ語で「外に投げ捨てる」という意味。
動詞「entäußern」「外部に表す」「(権利や所有権を)放棄する」

従僕は奉仕のための労働を通して、自己の意志や所有権を放棄する。これがこの文脈でヘーゲルが用いた「Entäußerung」の意味である。この労働、すなわち自己の「Entäußerung(外化・疎外)」を通して、個人がどのような事物にどのようにして自己を捧げるか、あるいはそのことで自己を喪失するか、また、それによってどのように他者に対して、社会や国家に対して関わっていくかなど、重要な問題が含まれている。

ちなみに、マルクスはヘーゲルからこの「Entäußerung」の概念を受け継ぎ、労働者が自らの労働力を資本家に売却することをもって、労働者が自己を「Entäußerung(疎外)」するとした。そしてこのことを、いわゆる「資本主義」の根本原理の一つとして捉え、この労働者の「疎外」の克服を社会主義運動の目的とした。

確かにマルクス主義には、そうした部分的な真理と意義は含まれているとしても、しかし総体としては、その目的を実現する手段として「プロレタリア独裁」を主張した点において、この思想と哲学はすでに歴史的にも理論的にも破綻している。
「樹の善し悪しは、その樹の結ぶ実によってわかる。」(ルカ書6:43)という実証主義からもそのことは明らかである。
「Entäußerung(疎外)」の概念については、また別個にさらにくわしく考察する機会があると思う。

※3
 die positive Formierung der Außendinge
その労働を通して積極的に「外部に事物を形成」する。
画家や彫刻家はその芸術作品の創造によって、自己の内部の思い「Bestimmung」を、その美や理念を、作品として外部に形成する。
トヨタ自動車は、その企業の従業員の労働を結集して、「レクサス」という自動車(Bestimmung)を商品として完成させる。
哲学者は自己の使命「Bestimmung」を国家において実現する。
内なる「Bestimmung」は「Entäußerung(外化)」される。

※4
 seine Bestimmungen
「Bestimmung」「目的」「使命」「役割」「定め」
「bestimmen」動詞「定める」「決定する」
「Bestimmung」は、個人が達成すべき目的や使命、役割を意味する。
人生の意味や目的について考察する際に必要な概念で、哲学や宗教において重要な意義をもつ。「Bestimmung」の概念については、これまでの註解においても、繰り返し取り上げてきた。

※5
Peisistratos ペイシストラトス
ペイシストラトス(Peisistratos、紀元前600年頃 - 紀元前527年頃)は、古代ギリシャのアテナイで重要な役割を果たした政治家。
「本質的でもないところの恣意を捨て去ること(die Entäußerung)は、真の服従のために不可欠の要素である。」
「自我」を捨て去る(die Entäußerung)ことは、他者との関係の中で、労働を通して自己意識が自己を見つけるために経験する過程である。個人は他者との関係の中で自己を見つけ、自己を実現する。
現代日本の教育の根本的な欠陥は、真の自己実現のために、「自我」を捨て去る(die Entäußerung)こと、「本質的でもないところの恣意を捨て去ること、真の服従」を教えないことである。その結果として「クズ的人格」が日本人に生まれてくる。

ペイシストラトス - Wikipedia https://is.gd/dIEdWA

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

2024年04月29日 | ヘーゲル『哲学入門』


ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

§35

Diese rein negative Freiheit, die in der Abstraktion von dem natürlichen Dasein (※1)besteht, entspricht jedoch dem Begriff der Freiheit (※2)nicht, denn diese ist die Sichselbstgleichheit im Anders­sein, teils der Anschauung seines Selbsts in andern Selbst, teils der Freiheit nicht vom Dasein, sondern im Dasein über­haupt, eine Freiheit, die selbst Dasein hat. Der  Dienende  ist selbstlos und hat zu seinem Selbst ein anderes Selbst, so dass er im Herrn sich als einzelnes Ich entäußert und aufgehoben ist und sein wesentliches Selbst als ein anderes anschaut. Der  Herr  hingegen schaut im Dienenden das andere Ich als ein aufgeho­benes und  seinen einzelnen Willen als erhalten  an. (Geschichte Robinsons und Freitags.)(※3)

 

第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

しかし、自然的な存在を捨て去ることのうちに存在する、この純粋に否定的な自由は、自由の概念とは一致しない。というのも、自由とは他者の存在内における自己同一性であり、一面においては、他の自己のうちに自分自身を直観することであり、一面においては、そこにある存在からの自由ではなく、そこにある存在一般のうちにある自由であり、それは自身の存在をもつ自由である。従僕 は自我をもたず、そうして自己自身に代えて他人の自我をもつのであり、その結果として従僕は、固有の自我としての自分を主人のうちに手放し、自身を主人に預けている。そうして彼本来の自我を他者として見ている。主人はそれとは反対に、自分の自由になる他人の自我を従僕のうちに見るとともに、彼固有の意志が従僕のうちに収まっている のを認めるのである。

(ロビンソン・クルーソーとフライデーの物語)

※1

Diese rein negative Freiheit , die in der Abstraktion von dem natürlichen Dasein
「自然的な存在を捨て去ることのうちに存在する、この純粋に否定的な自由」とは、要するに、我が命さえをも自ら投げ捨てることのできる「自由」のことである。これも確かに「一つの自由」ではあるが、しかし、それは葉隠的な「死の哲学」における自由であり、それを「否定的な自由」としてとらえている点においても、ヘーゲルの哲学は「死の哲学」ではなく「生の哲学」である。

※2
der Begriff der Freiheit   「自由の概念=真の自由」
ここでヘーゲルは「真の自由」すなわち「自由の概念」をどのようなものであると考えているかがわかる。真の自由は「何かを捨て去ること」にあるのではなく「他の存在のうちに自己の存在を保つこと」のうちにある。

参照:ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第三節 [個人の自由意志と法の普遍性] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/jFA85g

※3
「ロビンソン・クルーソー物語」イギリスの作家、ダニエル・デフォーの作品。主人公のロビンソン・クルーソーは船で遭難し孤島に漂着する。その島で生き延びていくなかで出会った原住民の一人フライデーは彼の忠実な従僕となる。主人と従僕の関係の具体的な例として、ヘーゲルはこの物語を取りあげている。「精神の現象学」においても、哲学的な主題の具体的な例としてギリシャ神話や聖書、「ラモーの甥」その他さまざまな文学作品をとり挙げている。

 

 

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飯山陽(あかり)さんを支持する理由について(R6 03/05 日本保守党 記者会見)

2024年04月19日 | 教育・文化

 

R6 03/05 日本保守党 記者会見

 

※20240418追記

 

飯山陽(あかり)さんを支持する理由について

先月の3月5日に、東京第15区の衆議院議員補欠選挙に立候補するにあたって、中東研究者の飯山陽(あかり)氏が日本保守党の江東区支部長に就任することになり、その際に党代表の百田尚樹氏と事務総長の有本香氏の二人を伴って記者会見が開かれました。その動画がYoutubeに上がっていたのでこのマイナーなブログにも共有させていただいておりました。その際に何かコメントを書きたいと思っていましたが、その時間もなかなか取れませんでした。

飯山陽氏にについては、YouTubeを始められた頃から、彼女の見識に触れ、感心してこれまでもそれなりに視聴させていただいていました。その中で、現在のどちらかといえばパレスチナ寄りの日本のアカデミズム界と、それと連携する外務省の一方的で公式的な中東政策、および、それを支えて来られた学者の池内恵氏や篠田英朗氏らに対して、飯山氏は自ら「場末の中東研究者」と称して批判的な見解をこれまでも明らかにされてきました。

私もそうした彼女の考えに少なからず共感してきましたが、しかし、百田直樹氏や有本香氏と飯山氏との接点についてはよく知りませんでした。だから、飯山氏が日本保守党の東京江東区の支部長に就任するというニュースをYouTubeで知って驚きました。

しかし、いずれにせよ飯山陽氏が日本保守党のような政党から出られて、少しでも国家としての日本が一つの家族のような性格を取り戻すのに貢献されるのは賛成ですし、日本国民がさらに一つの家族のようになれば、日本国民の幸せはより深まるだろうと思っています。

もともと日本保守党が生まれたのは、作家の百田尚樹氏とジャーナリストの有本香さんの提唱によるものですが、そのきっかけといえば、自民党が安倍晋三前首相の亡き後に稲田朋美氏や岸田首相らが中心になって国民多数の反対するLGBT法案を強行採決したことでした。

そもそも田中角栄政権以来、自民党は保守党としての性格をすっかり失っていましたが、岸田内閣の成立とLGBT法案などの強行採決によって、リベラル政党としてのその本質をさらにあらわにし始めたといえます。こうした自民党の傾向に対して、これまで自民党を支持してきた保守的な岩盤支持層を旧来より構成してきた人々が、自民党に対して反旗を翻し離反し始めたのだと思います。百田氏や有本氏らの行動はその現れだと思います。

もちろん博士号保持者の飯山陽博士と比較するにはあまりも僭越だと思いますが、私も「場末の哲学研究者」として、日本国の国家理念や政党政治のあり方について、それなりに関心をもち、また私のブログなどにこれまでもその考えを明らかにしてきました。

その中で、かねてより日本国民は「自由にして民主的な独立した立憲君主国家としての日本」を国家の理念として追求すべきだと考えてきましたし、その理念を具体的に実現していくためには、基本的に我が国の政党政治は「保守自由党」と「民主国民党」の二大国民政党によって担われるべきだと思い、またそのように主張してきました。そのせいもあって、来るべき東京第15区での衆議院議員補欠選挙に、日本保守党から立候補された飯山陽氏の主張には共感できるところも少なくありませんでした。

ところで日本国内の現在の支配的な政治思想は、多かれ少なかれマルクス主義の影響をそれも深刻に受けています。現首相の岸田文雄氏もその一人です。また日本共産党は言うまでもないですし、立憲民主党も「立憲共産党」と揶揄されていることからわかるように、それに引きづられています。

それを例えてみれば、ちょうど兄弟姉妹のたくさんいる大家族があったとします。そのうちのある一人が、長男が祖父母から譲り受けた田んぼとその屋敷を見て、自分にもなぜ遺産分けしてくれないといって、長男や祖父母に対して恨み憎しんでやまず、兄弟姉妹たちに対して家族の中でもいつも喧嘩腰の態度でいるようなものです。また、祖父は中国で悪いことをしたと、頭から信じ込んで祖父の置かれたさまざまな事情に思い至ることもありません。これではこの家族の中にはいつまでたっても和やかな家族愛は育まれることはないでしょう。

リベラルや共産主義の考え方や行動は、また、その源はマルクスの国家観や歴史観、それは階級闘争史観といわれていますが、その実際はこのようなものだと思います。私が今回の東京第15区の衆議院議員補欠選挙で、立憲民主党やその他の候補者ではなくて、日本保守党の飯山陽氏を支持するのも以上のような理由からです。

R6 03/05 日本保守党 記者会見 - 作雨作晴 https://is.gd/ZuayDw

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

2024年04月18日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

§ 34

Indem von zwei einander gegenüberseienden Selbstbewusstsein jedes sich als ein absolutes Fürsichsein(※1)gegen und für das andere zu beweisen und zu behaupten streben muss, (※2) tritt dasjenige in das Verhältnis der Knechtschaft, welches der Freiheit das Leben vorzieht  und damit zeigt, dass es nicht fähig ist, durch sich selbst von seinem sinnlichen Dasein(※3) für seine Unabhängigkeit zu abstrahieren.(※4)

第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

互いに対立して存在する二つの自己意識は、反対するにせよ賛同するにせよ、それぞれが一個の絶対的な自覚的な存在として、自己を他者に対して証明し主張するよう努めなければならないから、自由よりも生命を選び、その結果として自己の独立性のために自分の肉体的な存在を捨て去ることのできない自己意識は隷従の関係に置かれることになる。

 

※1
 ein absolutes Fürsichsein 一つの絶対的な「自覚的な存在」。意識の自己分裂の結果、自己を自己として自覚する。「独立的な存在」「自立的な存在」とも訳せる。

※2
自己意識は他の自己意識との対立を通して自己を確認する。

※3
「sinnlichen Dasein 感覚的なそこにある存在、肉体的な存在」
それぞれの「自己意識」の承認をめぐる闘争において、自由のために肉体的生命をすてることのできないものは、隷従の立場に陥る。

※4
これまでの叙述の展開からも分かるように、ヘーゲルの処女作『精神の現象学』で詳細に考察された意識の進展が、この哲学入門の第二課程の「精神現象論」おいて簡潔に叙述されている。意識は、「1、感性的意識」から「2、知覚」へと、さらに「3、悟性」をへて「自己意識」に至る。「自己意識」は「欲望」を経て、この第三十四節で「自己意識」は他の自己意識との関係に入る。それは対立的な関係であり「支配と隷従の関係」である。この過程をへて自己意識は第三段の「理性」に至る。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

2024年04月11日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

§33

Aber die Selbstständigkeit  ist die Freiheit nicht sowohl  außer  und von dem sinnlichen, unmittelbaren Dasein, als vielmehr in demselben. Das eine Moment ist so notwendig, als das andere, aber sie sind nicht von demselben Werte.(※1)

第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

しかし、自立するということは外部にあって 肉体的な直接的にそこにあるものから自由であるということではなく、むしろ内面における自由である。一つの契機は他の契機と同じように必然的なものであるが、しかし、それらの価値については同じではない。

Indem die  Ungleich­heit  eintritt, dass dem einen von zweien Selbstbewusstsein die Freiheit gegen das sinnliche Dasein, dem andern aber dieses gegen die Freiheit als das Wesentliche gilt, so tritt mit dem gegenseitigen Anerkanntwerdensollen in der bestimmten Wirk­lichkeit das Verhältnis von Herrschaft  und Knechtschaft  zwi­schen ihnen ein; oder überhaupt des Dienstes  und Gehorsams, insofern durch das unmittelbare Verhältnis der Natur (※2) diese Verschiedenheit der Selbstständigkeit vorhanden ist.

二つの自己意識のうちの一方は、肉体的な存在よりも自由を本質的なものとみなし、もう一方はそれに対して、自由よりも肉体的な存在を本質的なものとみなすという 不平等の  生じることから、お互いが認められたいという特定の現実のなかにおいては、両者のあいだに主人と従僕の関係が生まれてくる。言いかえれば、自立することについて、生まれつきの直接的な関係を通してこの区別が存在するかぎりは、奉仕服従 の関係が一般に生まれてくる。

 

※1
Das eine Moment ist so notwendig, als das andere
「一つの契機は他の契機と同じように必然的である」
私たちの自由には、「精神面の自由」と「肉体面の自由」があるということである。いずれの自由も人間にとって必然的なものであるが、いずれに価値を見出すかは同じではない。

※2
durch das unmittelbare Verhältnis der Natur
「生まれつきの直接的な関係を通して」
自然の世界においては、諸動物の間に典型的に見られるように、また人間の場合においてもそうだが、能力、素質、環境、遺伝などの側面において、剥き出しの不平等、区別が存在する。その結果として弱肉強食の関係が、主人と従僕の関係が生まれる。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十二節 [他者による「私」の自由の承認]

2024年03月30日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自意識 第三十二節[他者による「私」の自由の承認]

§32

Um sich als freies geltend zu machen und anerkannt zu werden, muss das Selbstbewusstsein sich für ein anderes als frei vom natürlichen Dasein darstellen. Dies Moment ist so notwendig, als das der Freiheit des Selbstbewusstseins in sich. (※1)Die absolute Gleichheit des Ich mit sich selbst ist wesentlich nicht eine unmit­telbare, sondern eine solche, die sich durch Aufheben der sinn­lichen Unmittelbarkeit dazu macht und sich damit auch für ein anderes als frei und unabhängig vom Sinnlichen. (※2)So zeigt es sich seinem Begriff gemäß und muss, weil es dem Ich Realität gibt, anerkannt werden.(※3)

第三十二節[他者による「私」の自由の承認]

自己を自由なもの として主張し、また認められるためには、自己意識は他者に対しても自然的な(必然性に支配された)存在から自由なものとして  自らを示さなければならない。この要素は自己意識の内部における自由と同じように必然的なものである。「私」と自己自身との絶対的な同一性というのは本質的に直接的なもの(媒介のないもの)ではなく、むしろ感覚的な直接性を揚棄することを通して同一性を実現するようなものである。そうして、また他者に対しても自己が感覚的なものに依存しない自由なものであることを明らかにする。かくして自己意識は自らが自己の概念にふさわしいものであることを示し、かつ他者からも自己意識は自由なものとして認められなければならない。なぜなら、そのことによって「私」に(自由の)実在性が与えられるからである。


※1
自己意識の概念とは、自己意識つまり「私」が自由である、ということである。個人が自由であることを自ら主張し、他者からも自由であることが認められるためには、第一に、自己自身の内部において自由であることを示すのみならず、第二に、他者に対しても自らが自然的な定在からも自由なものであること(als frei vom natürlichen Dasein)を明らかにしなければならない。この二つの要素は自己意識が自由であることを証明する上で、必然的なものである。

※2
「私」の自己自身との絶対的な同一性ということは、自己意識が二つに分裂していることによって生じるものであるが、それは直接的なもの(媒介のないもの)ではなく、つまり、自己意識そのものの「反省 Reflexion」を通して、「私は私である」という同一性が明らかになる。
感覚的な直接性を揚棄することを通して(durch Aufheben der sinn­lichen Unmittelbarkeit )というのは、たとえば「眼の前にあるチョコレートを食べるか食べないか、いったん欲望を中断して」ということである。

※3
自己意識、すなわち「私」がその概念にふさわしい「自由な存在」であることの実在性を得るためには、他者からもそのように認められなければならない。「私」が本質的に社会的な存在であるからである。

 

 

 

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同性パートナーは「犯罪被害給付金の支給を受けられる遺族」に該当するか。

2024年03月28日 | 教育・文化

 

令和6年3月26日に、「同性パートナーは「犯罪被害給付金の支給を受けられる遺族」に該当するか。」をめぐって、最高裁において下記のような判決が下されました。

この最高裁の判決は、下級審である名古屋高等裁判所において、原告が「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当すると主張して、遺族給付金の支給の裁定を申請したところ、愛知県公安委員会から、平成29年12月22日付けで、上告人は上記の者に該当しないなどとして、遺族給付金を支給しない旨の裁定を受けたことに対して最高裁に上告していたものに対して下されたものです。

この最高裁の判決の多数意見に対する私の意見は、結論から言えば、当判決の中で反対意見を述べられている裁判官の今崎 幸彦氏の意見に同意するもので、さらに付け加えれば、以下の理由からも、私はこの最高裁結審における多数意見に反対するものです。

最高裁の審理差し戻し判決の主たる理由は「「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当するか否かについて、更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする」とするものです。要するに、「同性パートナー」関係が、事実上「婚姻関係と同様の事情にあった者に該当しない」と判断した名古屋高裁の判決に対して、問題があるからさらに審理を尽くせと差し戻したものです。

それでは最高裁は名古屋高裁の判決の何を問題としたのでしょうか。最高裁のこの多数意見は「「犯給法」が犯罪被害等 を受けた者の権利利益の保護が図られる社会の実現に寄与することを目的とするものであり、犯罪被害者等給付金の支給制度の目的が、その改正によって、犯罪被害者等給付金の支給制度の拡充が図られたことから、被害者給付金の対象を広く解釈すべきだ」と判断し、同性パートナーに対しても、被害者給付金の対象とすべきだとするものです。

しかし、この最高裁の判決による審理差し戻しによっては、「同性パートナー」を現行憲法の「婚姻関係」とみなすという、事実上の違憲判断を行なうことになります。「犯給法」という下位法の法改正目的などを理由として、憲法および民法の上位法の改正手続きも無視したまま、現行法の通説に反する誤った違憲判断を事実上行なわせることになるからです。

問題は最高裁判所の判事たちの「多数意見」が、事実上「違憲判断」であるとみられるとき、あるいは最高裁判所の判決が、国民多数の意見、意識、または常識などに反する場合にはどうすべきか、ということです。「違憲立法審査権」の申し立てや、最高裁判所裁判官に対する国民審査という制度もありますが、なかなか実効的な制度ではないようです。そうした事後的な制度ではなく、最高裁判所裁判官の選出にももっと事前に国民が参画できるような制度改革はできないものでしょうか。

以下引用

>>  <<

言渡 令和6年3月26日

 

交付 令和6年3月26日

裁判所書記官

令和4年(行ツ)第318号

令和4年(行ヒ)第360号

判決

当事者の表示 別紙当事者目録記載のとおり

上記当事者間の名古屋高等裁判所令和2年(行コ)第23号犯罪被害者給付金不支給裁定取消請求事件について、 同裁判所が令和4年8月26日に言い渡した判決に対し、上告人から上告があった。よって、当裁判所は、次のとおり判決する。

主文

原判決を破棄する。

本件を名古屋高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人〇〇〇〇ほかの上告受理申立て理由について

1 原審の確定した事実関係等の概要は、次のとおりである。

(1) 犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律(昭和55年法律第36号。以下「犯給法」という。)は、3条において、国は、犯罪被害者(2条3項所定の犯罪被害者をいう。以下同じ。)又はその遺族(所定の者を除く。)に対し、犯罪被害者等給付金を支給する旨を規定し、4条1号において、そのうち遺族給付金は、犯罪行為(2条1項所定の人の生命又は身体を害する罪に当たる行為をいう。以下同じ。)により死亡した者の第一順位遺族に対し、一時金として支給する旨を規定している。

犯給法5条1項は、遺族給付金の支給を受けることができる遺族の範囲について、犯罪被害者の死亡の時において、「犯罪被害者の配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)」(同項1号)、「犯罪被害者の収入によって生計を維持していた犯罪被害者の子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹」(同項2号)、「前号に該当しない犯罪被害者の子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹」(同項3号)のいずれかに該当する者とする旨を規定し、同条3項は、遺族給付金の支給を受けるべき遺族の順位について、上記各号の順序とする旨を規定している。

(2)上告人 (昭和50年生まれの男性)は、平成6年頃に昭和37年生まれの男性(以下「本件被害者」という。)と交際を開始し、その頃から同人と同居して生活していたところ、同人は、平成26年12月22日、第三者の犯罪行為により死亡した。

 

(3)上告人は、平成28年12月12日、本件被害者の死亡について、上告人は犯給法5条1項1号括弧書きにいう「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当すると主張して、遺族給付金の支給の裁定を申請したところ、愛知県公安委員会から、平成29年12月22日付けで、上告人は上記の者に該当しないなどとして、遺族給付金を支給しない旨の裁定を受けた。

2 本件は、上告人が、被上告人を相手に、上記裁定の取消しを求める事案である。

3 原審は、上記事実関係等の下において、要旨次のとおり判断した上で、犯給法5条1項1号が憲法14条1項等に反するとはいえないとして、上告人の請求を棄却すべきものとした。

犯給法5条1項1号は、一次的には死亡した犯罪被害者と民法上の婚姻関係にあった配偶者を遺族給付金の受給権者としつつ、死亡した犯罪被害者との間において民法上の婚姻関係と同視し得る関係を有しながら婚姻の届出がない者も受給権者とするものであると解される。そうすると、同号括弧書きにいう「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」は、婚姻の届出ができる関係であることが前提となっていると解するのが自然であって、 上記の者に犯罪被害者と同性の者が該当し得るものと解することはできない。

4 しかしながら、原審の上記判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

(1)犯給法は、昭和55年に制定されたものであるところ、平成13年法律第30号による改正により目的規定が置かれ、犯罪被害者等給付金を支給すること等により、犯罪被害等(犯罪行為による死亡等及び犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族が受けた心身の被害をいう。以下同じ。)の早期の軽減に資することを目的とするものとされた(平成20年法律第15号による改正前の犯給法1条)。その後、平成16年に、犯罪等により害を被った者及びその遺族等の権利利益の保護を図ることを目的とする犯罪被害者等基本法が制定され(同法1条)、基本的施策の一つとして、国等は、これらの者が受けた被害による経済的負担の軽減を図るため、給付金の支給に係る制度の充実等必要な施策を講ずるものとされた (同法13条)。そして、平成20年法律第15号による改正により、犯給法は、犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族等の犯罪被害等を早期に軽減するとともに、これらの者が再び平穏な生活を営むことができるよう支援するため、犯罪被害等を受けた者に対し犯罪被害者等給付金を支給するなどし、もって犯罪被害等を受けた者の権利利益の保護が図られる社会の実現に寄与することを目的とするものとされた (1条)。また、平成13年法律第30号及び平成20年法律第15号による犯給法の各改正により、 一定の場合に遺族給付金の額が加算されることとなるなど、犯罪被害者等給付金の支給制度の拡充が図られた。

以上のとおり、犯罪被害者等給付金の支給制度は、犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族等の精神的、経済的打撃を早期に軽減するなどし、もって犯罪被害等 を受けた者の権利利益の保護が図られる社会の実現に寄与することを目的とするものであり、同制度を充実させることが犯罪被害者等基本法による基本的施策の一つとされていること等にも照らせば、犯給法5条1項1号の解釈に当たっては、同制度の上記目的を十分に踏まえる必要があるものというべきである。

(2)犯給法5条1項は、犯罪被害者等給付金の支給制度の目的が上記(1)のとおりであることに鑑み、遺族給付金の支給を受けることができる遺族として、犯罪被害者の死亡により精神的、経済的打撃を受けることが想定され、その早期の軽減等を図る必要性が高いと考えられる者を掲げたものと解される。

そして、同項1号が、括弧書きにおいて、「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」を掲げているのも、婚姻の届出をしていないため民法上の配偶者に該当しない者であっても、犯罪被害者との関係や共同生活の実態等に鑑み、事実上婚姻関係と同様の事情にあったといえる場合には、犯罪被害者の死亡により、民法上の配偶者と同様に精神的、経済的打撃を受けることが想定され、その早期の軽減等を図る必要性が高いと考えられるからであると解される。しかるところ、そうした打撃を受け、その軽減等を図る必要性が高いと考えられる場合があることは、犯罪被害者と共同生活を営んでいた者が、犯罪被害者と異性であるか同性であるかによって直ちに異なるものとはいえない。

そうすると、犯罪被害者と同性の者であることのみをもって「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当しないものとすることは、犯罪被害者等給付金の支給制度の目的を踏まえて遺族給付金の支給を受けることができる遺族を規定した犯給法5条1項1号括弧書きの趣旨に照らして相当でないというべきであり、また、上記の者に犯罪被害者と同性の者が該当し得ると解したとしても、その文理に反するものとはいえない。

(3)以上によれば、犯罪被害者と同性の者は、犯給法5条1項1号括弧書きにいう「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当し得ると解するのが相当である。

5 以上と異なる原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。 論旨は理由があり、上告理由について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、上告人が本件被害者との間において「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当するか否かについて、更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする。

よって、裁判官今崎幸彦の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。なお、裁判官林道晴の補足意見がある。

裁判官林道晴の補足意見は、次のとおりである。

私は、多数意見に賛同するものであるが、さらに以下の点を敷衍しておきたい。

犯給法5条1項1号括弧書きが遺族給付金の支給を受けることができる遺族の範囲を規定するものであることからすれば、同号括弧書きにいう「事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」の解釈は、その文理に加え、遺族給付金等の犯罪被害者等給付金の支給制度の目的を踏まえて行うことが相当である。多数意見が説示するとおり、同制度の目的は、犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族等の精神的、経済的打撃を早期に軽減するなどし、もって犯罪被害等を受けた者の権利利益の保護が図られる社会の実現に寄与することにあるのであり、犯罪被害者等基本法における同制度の位置付けや同制度が上記目的を達成するために拡充されてきた経緯等に照らしても、同制度の目的は重要というべきであって、これを十分に踏まえた解釈をすべきである。

そして、犯罪被害者等給付金の支給制度の目的に照らせば、犯罪被害者と同性の者であっても、犯罪被害者との関係、犯罪被害者と互いに協力して共同生活を営んでいたという実態やその継続性等に鑑み、犯罪被害者との間で異性間の内縁関係に準ずる関係にあったといえる場合には、異性間の内縁関係にあった者と同様に犯罪被害者の死亡により精神的、経済的打撃を受けるものと考えられるから、上記文言に該当するものとして、遺族給付金の支給を受けることができる遺族に含まれると解するのが相当である。なお、反対意見が指摘するように、犯罪被害者等給付金は損害を填補する性格を有するものであるものの、それにとどまるものではなく、同制度が早期に軽減を図ろうとしている精神的、経済的打撃は、加害者に対して不法行為に基づいて賠償請求をすることができる損害と厳密に一致することまでは要しないものと解されるが、上記の場合には、少なくとも加害者に対する不法行為に基づく慰謝料請求はすることができるものと解してよいように思われる。

多数意見は、その説示から明らかなとおり、飽くまでも犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族等への支援という特有の目的で支給される遺族給付金の受給権者に係る解釈を示したものである。上記文言と同一又は類似の文言が用いられている法令の規定は相当数存在するが、多数意見はそれらについて判断したものではない。それらの解釈は、当該規定に係る制度全体の趣旨目的や仕組み等を踏まえた上で、当該規定の趣旨に照らして行うべきものであり、規定ごとに検討する必要があるものである。

裁判官今崎幸彦の反対意見は、次のとおりである。

私は、多数意見と異なり、本件上告は棄却すべきであると考える。その理由は以下のとおりである。

1 犯給法は、犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族等の犯罪被害等を早期に軽減するとともに、これらの者が再び平穏な生活を営むことができるよう支援するため犯罪被害者等給付金を支給することとし(1条)、重傷病給付金、障害給付金と並べて遺族給付金を規定している(4条)。

遺族給付金の支給額は、政令により算定される基礎額に、「遺族の生計維持の状況を勘案して」政令で定める倍数を乗じて得た額とされている(9条1項)。このことは、遺族給付金が犯罪被害者遺族の生活保障を意識して設計されたものであることを示している。 他方、支給される遺族の範囲として、犯罪被害者の収入によって生計を維持していたことを要件としていないこと(5条1項) など、必ずしも遺族の生活保障の性格とは整合しない規定も置かれている。

また、労働者災害補償保険法による給付等や損害賠償を受けたときはその価額の限度において支給しないとする一方(7条、8条)、犯罪被害者が死亡前に負担した療養費用等について支給額を加算する規定を置いている(9条5項) ところなどは、遺族給付金が損害の填補としての性格を有していることを示すものといえる。もっとも、前述のとおり支給額はあくまでも法及び政令に従って機械的に算出された額であり、実損害に一致させることとはしていない。

2 犯罪被害給付制度については、福祉政策、不法行為制度の補完、刑事政策の要素も含みながら、犯罪被害者の現状を放置しておくことによって生じる国民の法制度全体への不信感を除去することを本質とするなどと説明されている。

 

ややわかりにくい説明との印象をぬぐえないのは、犯罪被害給付制度が各種政策の複合的な側面を持つすぐれて政策的色彩の強い制度であり、それゆえに国の一般 会計に財源を求める給付金も特殊な意味付けがされていることによるものであろう。このように、厳密な意味での遺族給付金の性質となると一口ではいい表し難いものがあるが、上述した一連の規定をみる限り、必ずしも徹底してはいない部分はあるものの、犯給法は、遺族給付金が犯罪被害者遺族に対する生活保障と損害の填補という2つの機能を十全に果たすことを通じ、上述したような制度の趣旨、ひいては法の目的が達せられることを期待しているものといってよいと思われる。

3 以上を前提に、まずは生活保障という観点からみた場合について述べる。前述したとおり、犯給法は遺族給付金の支給対象となる遺族について、被害者によって生計を維持することを要件としていないが(5条1項)、「子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹」(以下「子ら」という。)については、犯罪被害者の収入によって生計を維持していた者をそうでない者よりも先順位としている(2号)。

そのため、仮に1号にいう「犯罪被害者の配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)」に同性パートナー(「パートナー」の定義自体が一つの問題であるが、ここでは取りあえず「婚姻関係にある男女間と同様の事情にある共同生活者」という意味で用いる。) が含まれるとすると、それまで犯罪被害者の収入によって生計を維持していた子らは同性パートナーに劣後し、支給対象から外れることとなる。なるほど多数意見は遺族給付金の支給対象となる遺族の範囲を広く解するものであり、その意味では犯罪被害者にとり歓迎されるべきものであろう。しかし、その一方で、犯罪被害者相互の間に、潜在的にせよ前述のような利害対立の契機をもたらすものでもある。こうした結果が遺族を含めた総体としての犯罪被害者の社会的ニーズに応えるものであるかは、犯給法の解釈上重要な考慮要素と思われる。事が犯罪被害者の収入に依存していた子らの生活保障にかかわることであってみればなおさらである。そうであれば、まずはこうした犯罪被害給付制度の視点に立った論証が求められるはずである。

4 遺族給付金には損害填補の性格があることについても前述した。犯給法上同性パートナーに遺族給付金が支給されるという解釈を採るのであれば、犯罪被害者の同性パートナーが加害者に対し損害賠償請求権を有することが前提となるはずである。

私は、同性パートナー固有の権利として、精神的損害を理由とした賠償請求権については、もとより事案によることではあるが、認める余地があると考えている。しかし、財産的損害、とりわけ扶養利益喪失を理由とする損害賠償請求権については、民法752条の準用を認めない限りにわかに考え難いというのが大方の理解であろう。そうであるとすれば、犯罪被害者の同性パートナーに認められる損害賠償請求権は、仮に認められるとしても異性パートナーに比べて限定されたものとなる。それにもかかわらず、多数意見の見解によれば、同性パートナーは異性パートナーと同視され、同額の遺族給付金を支給されることになる。遺族給付金が損害填補の性格を有することを考えると、前提となる民事実体法上の権利との間でこのようなギャップが生じることは説明が困難と思われる。

5 社会への影響という観点からは、多数意見による犯給法の解釈は、他法令の解釈運用への波及の有無という観点から更に難しい問題をはらむ。

犯給法5条1項1号の「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」と同一又は同趣旨の文言が置かれている例は少なくないが、そうした規定について、多数意見がいかなる解釈を想定しているかも明らかでない。個別法の解釈であり、犯給法と異なる解釈を採ることも可能と考えられるとはいえ、犯給法の解釈が他法令に波及することは当然想定され、その帰趨次第では社会に大きな影響を及ぼす可能性がある。現時点で、広がりの大きさは予測の限りではなく、その意味からも多数意見には懸念を抱かざるを得ない。

6 結論として、犯罪被害者と同性の者は犯給法5条1項1号括弧書き所定の者に該当し得るとする多数意見の解釈には無理があるといわざるを得ない。多数意見は、犯罪被害者の死亡により精神的、経済的打撃を受け、その軽減を図る必要性が高いと考えられる場合があることは、犯罪被害者と共同生活を営んでいた者が異性であると否とで異なるものではないとしている。私は、これに異を唱えるつもりはないが、そのことと、犯給法の規定がそうした理念を矛盾なく取り込める造りになっているかは別問題である。

7 なお、多数意見は、上告人が本件被害者との間において「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当するか否かについて審理を尽くさせるために原審に差し戻すとする一方で、「事実上婚姻関係と同様の事情」という要件の中身については何も語らない。しかし、単なる同性同士の共同生活と何が異なるのかと考えてみたとき、それは決して自明ではないように思われる。婚姻は男女間のものとして歴史的にも法的にも観念されてきたのであり、同性同士の関係にも同様の法的保護を及ぼすという考えは最近のものである。同性同士の関係において何をもって 「事実上婚姻関係と同様の事情」と認めるかは、私はそれほど簡単に答えの出せる問題ではないと考えている。

この懸念が当たっているか否かはさて措くとしても、同性同士の関係における「事実上婚姻関係と同様の事情」は、多数意見によって新たに提示された概念であって、その中身を明らかにすることは、犯給法の条文の法令解釈にほかならないことを踏まえると、原審に差し戻すに当たっては、多数意見の考える解釈に従い、「事実上婚姻関係と同様の事情」の考慮要素を具体的に明らかにすべきであったと考える。

8 今回争点となった犯給法の解釈は、同性パートナーシップに対する法的保護の在り方という大きな論点の一部でもある。この論点は、社会におけるその位置付けや家族をめぐる国民一人一人の価値観にもかかわり、憲法解釈も含め幅広く議論されるべき重要な問題である。犯給法をめぐる検討も、そうした議論の十分な蓄積を前提に進められることが望ましかったことはいうまでもない。しかし、私の知る限り、そのような議論の蓄積があるとはいい難く、そのため、同性パートナーシップを現行法体系の中にどのように位置付けるか、他の権利や法的利益と衝突した場合にいかなる調整原理を用いるのかといった解釈上重要な視点はいまだ明らかとはいえない。そうした中で、個別法の解釈として同性パートナーへの法的保護の在り方を探る試みには相応の困難が避けられない。今後の立法や判例学説の展開により、近い将来新たな解釈や理解が広く共有され、多数意見の合理性を裏付けていくということはあり得ると思うが、現時点においては、先を急ぎすぎているとの印象を否めない。

以上の理由から、私は、同性パートナーは犯給法5条1項1号の「犯罪被害者の配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)」に該当しないと解するべきであると考える。そして、これまで述べたところによれば、このように解される同号が憲法14条に反するということもできない。したがって、以上と同旨の原判断は是認することができるから、本件上告は棄却すべきである。

最高裁判所第三小法廷

裁判長裁判官 林 道晴

裁判官 宇賀 克也

裁判官 長嶺 安政

裁判官 渡邉 惠理子

裁判官 今崎 幸彦

 

>>  <<

参考

名古屋高等裁判所「犯罪被害者給付金不支給裁定取消請求控訴事件」

裁判年月日    令和4年8月26日

裁判所名・部  名古屋高等裁判所  民事第4部

結果       棄却

判決全文  https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/434/091434_hanrei.pdf

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十一節 [自己と他者の自由について]

2024年03月16日 | ヘーゲル『哲学入門』

久しぶりのアップロード。いつ辿り着くか。

ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自意識 第三十一節[自己と他者の自由について]

§31

Diese Selbstanschauung (※1)des einen im andern ist 1) das abstrakte Moment (※2)der Diesselbigkeit. 2) Jedes hat aber auch die Bestim­mung, für das andere als ein äußerliches Objekt und insofern unmittelbares, sinnliches und konkretes Dasein zu erscheinen. (※3)3) Jedes ist absolut für sich und einzeln gegen das andere und fordert auch für das andere als ein solches zu sein und ihm dafür zu gelten, seine eigene Freiheit als eines fürsichseienden (※4)in dem andern anzuschauen oder von ihm anerkannt zu sein. (※5)


第三十一節[自己と他者の自由について]

ある者が他者の中に自己を見るというこの自己直観は、1) この自他同一性の抽象的な境界である。 2) しかし、それぞれは、また外部の客体として、つまり直接的で感覚的な具体的なそこにある存在として相手に現れるという意味ももっている。 3) それぞれは、それ自身として絶対的であり、また他者に対するところの個別者であって、そうしてまた、他者に対しても、一個のそのようなものとしてあることを要求し、そうして、そのために一つの独立した(絶対的かつ必然的な)ものとして彼自身の自由を、他者の中において直観すること、あるいは、自身が他者からもそのように認められることを要求する。

※1
Diese Selbstanschauung (この自己直観)は前節の“Es schauet im Andern sich selbst an.”(他者のうちに自己自身を見る)を受けている。ここでの自他の相互認識は意識の段階にあってまだ抽象的である。

※2
ここでのMomentは、FaktorとかUmstandの意で、「水は魚のMomentである」という意味で環境とか境界の意にとった。要素、契機、要因などとも訳される。

※3
自己も他者も、意識として観念的に抽象的に存在するのみではなく、肉体として感覚に捉えることのできる相互に具体的な客体である。

※4
als eines fürsichseienden「一つの独立した(絶対的かつ必然的な)ものとして」と訳した。
 
概念は、「an und für sich」な 存在 (潜在的から顕在的な存在へと、あるいは、無自覚から自覚的な存在へ)として発展するものである。その発展は、絶対的であり、したがって必然的であり、他者に依存しないから独立的である。

「an und für sich」をどう訳すべきか - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/tPnAPg

※5
自己と他者の自己意識はそれぞれとして絶対であり、その自己意識の「Freiheit 自由」は、それ自身においても絶対的であり、また他者からもその自由が認められることを要求するものである。  1) 普遍 →   2) 特殊  →  3) 個別 の進展の論理。

 

 

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