作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

民主党の倫理感覚

2010年04月28日 | ニュース・現実評論

首相「このまま頑張って」 小沢幹事長続投を支持(朝日新聞) - goo ニュース

 

ふつうの倫理感覚の持ち主であれば、あるいは、かっての自民党でさえ、政治家の秘書が逮捕されたりすれば、政治家は責任を取って議員の職を辞したものだ。それに比較しても、民主党の政治家たちの倫理感覚は何ともひどいというしかない。鳩山首相が母親からの政治資金の贈与を知らなかったと言い張り、個人献金に見せかけていたのに、政治資金法の違反の罪に問われず、総理の職に留まったままでいるのがすべての発端だった。首相がこれであるから、それ以下の者たちも、トップの首相に倣って、小沢一郎氏のように、秘書が検察に起訴されたくらいでは、職を辞して責任を取るということなど、考え及ぶこともない。

北海道教職組合(北教組)の委員長代理と経理担当が政治資金規正法(企業・団体献金の禁止)違反の罪で、起訴されたときも、献金を受けた民主党の小林千代美衆議院議員は離党も議員辞職もしなかった。これでは、自民党と比べてもあまりにも酷すぎる。日本国民の倫理感覚は、こうした「選良」たちを見本に今後さらに、ますます麻痺してゆくことになるだろう。国民は来るべき参議院選挙で、民主党に鉄槌を下さなければならない。

 

 

 

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京都における吉田松陰の足跡

2010年04月27日 | 歴史

                                                                                            上の写真は松陰の書簡「水火和合ノ論」                            http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/shouin/doc/kaisetsu_j/no07.html                                                      

                                                                     

京都における吉田松陰の足跡

久しぶりに、岩波の日本思想体系の中の『吉田松陰』の巻を取り出して読む。少なくとも、私にとって、この吉田松陰の『東北遊日記』や『西遊日記』などは、何よりも美しい詩的な作品として鑑賞できる。『西遊日記』は松陰二十一歳の時の作品、『東北遊日記』は松陰が二十三歳の時にロシアの南下に備えて、東北地方の地勢を探るための旅に出たときの克明な観察記録である。若き兵法家としての吉田松陰の才能が如実に示されている。

こうした紀行や日記を読むときにいつも痛感することは、また、それは福沢諭吉の著した『福翁自伝』などを読んだときにも思い知らされることでもあるが、幕末、明治維新期に至るまでに蓄積された、当時の日本の学術、文化伝統のそれ相応の高さである。吉田松陰、橋本左内、福沢諭吉、緒方洪庵、大槻文彦たちの当時の武士たちの意気と志の高さの一端を垣間見ることができる。

様々な時代に残された歴史的な記録を考察することは、現代に生きる私たちの時代を相対化して客観的に見るのに有益である。自己とその生きる時代を映し出す鏡があって、初めてそこに映し出された猿のような自画像も認識できる。とくに「民主主義」を金科玉条に生きてきた昭和の戦後日本人の退廃と堕落を自覚させられる。鏡がなければ自己の姿を認識できない。

私たちの受けて育った戦後教育を、歴史の普遍性という鏡に照らし出したとき、それが本質的にはどれほど醜く取るに足りないものであったかを初めて痛感させられる。私たちの受けて育ってきた教育や文化的な環境というものも、歴史における普遍という鏡によって客体化し、相対化することによってはじめて客観視できる。

戦後のいわゆる「民主主義」教育がどれだけの歴史的な人物を生み出したか、そのことによってはじめて歴史の評価を受けることになる。戦後世代の日本人に、はたしてどれだけ真に歴史の普遍的な評価に耐えうる人材を生まれ得たか。その成果の事例が鳩山由紀夫氏であり安部晋三氏などである。推して知るべし。                                         

松陰は、典型的な行動的人物である。それに比すれば、私は本質的にカント的な書斎人である。気質としては私と吉田松陰とは正反対の人間の型であるとしても、しかし、私が松陰の行動的な人生を愛し、評価していることも事実だ。松陰の本質が陽性であり、外向性を示すものとすれば、明らかに私のそれは陰性であり、内向性を示している。だから、私には無名性であることこそ、最高の報償である。このように気質や性格が反対方向であるとはいえ、私にとって彼の日記・紀行こそが真の文学作品としての意味を持つ。

ただ、松陰とは異なり、私はその行動力のすべてを著作に懸けるべきであるし、ある意味では、私の著作は本質的には、松陰と同等のエネルギーを秘めるべきものである。だから、私の内側に向けられたエネルギーは、条件さえ整うのなら、それは、いつでも、どこでも反転して、外側に向けられるはずである。それは、国家と社会をラディカルに変革する力を持たなければならない。カントの著作がそうであったように、もちろん、その弟子であるヘーゲルについては言うまでもなく、彼らや私の著作活動がそうした自覚の上に行われていることも、いまさら言うまでもない。それは、ちょうど聖書という一冊の本が、時と場所と人を得たとき、原子核のエネルギーが解放されたときのように、無限の変革の力の源泉になるのと同じである。

このように、吉田松陰は確かに私にとっては興味深い歴史的な人物であるが、さしあたっての時間を、吉田松陰の研究に専門的に振り向けることはできない。折に触れて、吉田松陰の事跡を、この京都においても探ってゆくつもりであり、その研究と認識の成果を、ブログ記事やホームページに蓄積してゆくつもりでいる。

吉田松陰は、京都に学校を建設して、そこに全国から「有用の人物」を結集することを計画していたらしい。この吉田松陰の考えは、もちろん彼の生存中に達成されることはなかったけれども、彼の弟子、品川弥二郎によって、尊攘堂として残され、今はその名残が京都大学の中に残されているという。現在の京都大学は、果たして吉田松陰の初志に叶うものになっているか。この「尊攘堂」は今も京都大学のキャンパスに保存され、その一部はホームページでも見ることができる。

京都大学附属図書館所蔵
尊攘堂 貴重資料目録

http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/sonjo/index.html

私自身は自己の本分を哲学にあると思っているが、歴史にももちろん、それなりに深い関心を持っている。幸いにも私の住んでいる京都には多くの歴史的な事跡が残されている。それもそのはずで、明治維新で東京に遷都されるまで、平安京以来、『京都は、桓武天皇が784年(延暦3年)の長岡京に続いて、794年(延暦13年)平安京に遷都したことに始まる千年の都である。』(ウィキペディア)

せっかくにこうした好立地に居住しながら、有効な歴史研究を実行できないでいるのは、私の無能力の故である。しかし、気持ちだけは、倦むことなく歴史研究を継続してゆくことはいうまでもない。もちろん、その際にも、私の唯一にして最大の師がヘーゲルであることはいうまでもない。彼の歴史哲学講義は、いうまでもなく、私自身の歴史研究が目指すべき頂上であることは言うまでもない。また、歴史研究のみならず、ヘーゲルの哲学大系自体が、哲学の徒である私の唯一にして最高の目標であることには変わりがないのである。

カメラとノートを下げて、最高の趣味として、京都の町の歴史探索に今でもいつでも繰り出さなければならない。その際に、自転車も大いに活用すべきであることはいうまでもない。私が京都に住んでいることの幸福を思う。

 

               

出典   http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/shouin/doc/big/0246021.html

 

 

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梨花一枝春帶雨

2010年04月18日 | 日記・紀行

二千十年四月十八日(日)小雨のち曇

玉容寂寞涙闌干 梨花一枝春帶雨

久しぶりに、学生時代の友人である東京のS・T氏から昨日留守電が入っていたので、今日のお昼頃に電話を入れる。久しぶりに彼の声を聞いた。昔のように若々しい彼の声である。彼は私の声を果たしてどのように聴いたことだろうか。

四時頃になってようやく山の畑に出かける。麦畑の間に雑草のはびこっているのに気づいて、雑草を取る。いつものように、山を散策する。イチジクとビワと桃と柿を果実として植えている。山を散策しながら、これらの果樹の生長を眺めるのが楽しみである。また、その途中に仲間の植えた果樹を眺めることができる。桃などが美しい花を咲かせている。本日の散歩で気づいたのは、白い花が咲いていたことである。これまでの散策では花をつけていなかったので、この果樹の存在に気づかなかった。今日は白い美しい花が咲いていたので、近くでブドウの樹の手入れをしていた人に確かめると、やはり梨の木であった。すぐに、白居易の長恨歌の中の「玉容寂寞涙闌干 梨花一枝春帶雨」の一句が浮かぶ。楊貴妃の美しさを露を帯びた梨の木の花にたとえたものである。その白い清楚な美しさは、桃の花の華やかさとは異なった美しさがある。いずれ私も余裕があれば、梨の木も植えたいと思っている。

                     

 

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西行再訪

2010年04月06日 | 日記・紀行

 

二千十年四月六日(火)晴

再び勝持寺を訪れる。前回に訪れたときほどには、花には絢爛さがなかった。それは巡り合わせであるから致し方ない。

最近は西行の歴史研究もさっぱりと進んでいない。

この日桜の花を中心に相当数の写真を撮った。いずれ、このブログにその写真も保存してゆくつもりである。

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自由民主党の崩壊と日本政治の概念

2010年04月05日 | 政治・経済

自民の鴻池元防災相が新党参加へ 自民執行部は慰留(共同通信) - goo ニュース

平沼・与謝野氏ら新党へ詰め 橋本大二郎氏の擁立検討(朝日新聞) - goo ニュース

 

鳩山邦夫氏や与謝野馨元財務相らが相次いで自由民主党を離党することによって、いよいよ本格的に自由民主党の崩壊が始まった。すでに、安倍、福田、麻生と三代続いた二世政治家たちが明らかにしたように、日本の政治において指導力を失い、中南米のバナナ共和国並みに劣化した統治能力しか示すことのできなかった自由民主党を、先の衆議院総選挙で政権の座から追い払ったことは、日本国民の意思による正しい選択であったと思う。

しかし、自由民主党に代わって登場した民主党が、きわめて問題の多い政党であることも、これまでの論考でも明らかにしてきた通りである。岡田克也氏、鳩山由紀夫氏、前原誠司氏らが日本の政治を担うにはどれほど子供っぽい政治家であるか、また、小沢一郎氏がどれほど問題の多い政治家であるかも論じてきた通りである。また、民主党が旧社会党左派勢力の隠れ蓑になっていることもわかっている。

しかし、それにもかかわらず、日本の政治に変化をもたらし、再構築してゆく上では、政権交代もやむを得なかったのである。彼らにも政権を担当させ、現実的な大人の政治家として成長させて行かなければならない。民主党の政権交代はもちろん、政治改革の端緒の始まりにすぎない。

さしあっては、渡辺善美氏らの率いる「みんなの党」を支持し、力を与え、将来の新自由党の母胎としてゆくとともに、現在の民主党も一刻も早く分裂させ、その党内から社会主義勢力を清算して、これも新民主党の準備をして行かなければならない。日本国民は、将来の日本政治を、この新自由党と新民主党に担わせるべく、日本の政党政治の概念を明確な目的意識としてしっかりと自覚して、一票の行使を通じてその実現を追求して行かなければならない。

 

 

 

 

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