作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

参議院選挙の投票基準

2007年07月31日 | ニュース・現実評論

領収書添付、全団体1円以上=政治資金規正法を再改正-自民方針 (時事通信) - goo ニュース

参議院選挙の投票基準

ある新聞社の掲示板で、参議院選挙の投票基準について、ある読者が次のような意見で投稿していました。それに対し私の投票基準は少し異なっていたので、以下のような意見を投稿しました。

引用>

あなたは投稿№00120.で 国政選挙について


社会保険庁の問題や「政治とカネ」の問題で、選んではならないと思う。権力闘争のためのスキャンダルで選んではならないと思います。
日本の将来の安全保障と繁栄をどう進めるのか、日本が毅然とした国になるためにはどうすべきか、という視点で選ぶべきだと思います。

と述べられていますが、私の考えは少し違います。『政治とカネ』で、さらには『酒と女』できちんとできない政治家は、『日本の将来の安全保障と繁栄』を確立することも『日本を毅然とした国』にすることもできないと思います。『政治とカネ』は、そこに政治家の人格と品格が現れる根本です。ですから私は『政治とカネ』の問題で政治家を選びました。そして、この『政治とカネ』で倫理を確立することが、憲法問題以上に、日本を戦後レジームから、さらには封建日本レジームから脱却させることであると考えています。ですから、私は今回は『政治とカネ』で投票しました。

>終わり

この問題は、どのような人間観を持つかにもよると思います。人間の能力と倫理の関係です。高い倫理には高い能力が伴うと原則的にはいえると思いますが、しかし、両者の間には必然的な関係がないというのが人間たるゆえんかも知れません。

極めつきのやり手で高度の手腕、力量があっても、平然と賄賂のやり取りをしながら、泰然としている人格もあります。また「英雄、色を好む」という言葉もあり、武家社会の人格を色濃く残した明治の政治家、伊藤博文などは「酔うては枕す窈窕たる美人の膝、醒めては握る堂々たる天下の権」と詠じているようです。同じ「長州」の後輩である安倍晋三首相も祖父の岸信介氏と同じく、清濁併せ呑む「大きな器量」の持ち主であることをめざしているのかも知れません。

また、真実のほどは分かりませんが、乃木希典将軍はその高潔な人格ほどには、軍事的指導力においては卓越していなかったともいわれています。

ところで、今日の日本の根本問題の一つに公務員制度の制度疲労の問題があり、いわゆる官僚の早期退職制度や「天下り」などによる弊害が国家の中枢を蝕みはじめています。とくにキャリア制度が破綻をきたしているのだと思います。いわゆる「高級」公務員のモラルも、地に落ちはじめているのではないでしょうか。公務員全体のモラルと士気を向上させるためにも、公務員制度の根本的な改革が必要であると思います。

とくに戦前の全体主義的な「愛国心」の反動か、公益よりも私利私益を優先する戦後の風潮が国民、政治家、公務員などに顕著であるとすれば、そうした状況下にあっては、「政治とカネ」を選挙の投票基準とすることも悪くはないと思います。事実、今回の選挙では多くの国民がそうしたのではないでしょうか。そして今回の選挙結果によって、国民の意思が少しは自民党指導部にも通じたようです。

安倍晋三首相は選挙の敗北を受けて、政治資金規正法案の再提出も考慮に入れているようですが、姑息だと思います。安倍首相の「美しい国」の「概念」には、「武士は食わねど高楊枝」とうい武士道の片鱗すら含まれていなかったようです。

 

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せいろん談話室への投稿

2007年07月28日 | ニュース・現実評論

せいろん談話室に、記事№0071、№0072を投稿したところ、記事№0093で花うさぎさんから、ご意見をいただきました。それに対する私の返事を、この日記ブログにも記録しておきます。

花うさぎさんへ

№00093花うさぎさん、ご意見ありがとうございました。


それとも貴方は「政治と金」は野党は関係ない、政権与党にだけ追求されるべき問題だとお考えですか?。

もちろん、政権与党のみが「政治とカネ」の問題で批判されるべきであるとは思いません。
日本人の政治文化については、投稿記事№0092にもKOOLKATさんが次のように述べられています。


かつて、ジョイントベンチャーの経営をしておりました頃、色々な人々が近ずいてきました。その頃、或る国政選挙運動が行われる中で、意見を言ってくる中の一人が、”誰それ候補の所は一級酒じゃが、誰それ候補は二級酒を出しよった”、と、低級な事を言ったときの事を、奇妙に今でも想い出す事です。

これが日本の政治の現実ではありませんか。こんな国民がいるから、政治に黒いお金がかかり、政治家が「お金に苦労」するのです。与野党ともに日本の政治家たちを「政治とカネ」の問題から解放してやるためには、日本国民の政治文化から変えてゆかなければなりません。

そして、現在のわが国の政党政治が、利権政治に堕していること、利権をめぐる談合政治に堕してしまっていることこそが問題なのです。土木建設業者や官僚たちが自分たちの利権を確保するために談合するのと同じです。それと同じことが政治の場面で行われているに過ぎません。そこに利権はあっても確固とした理念や哲学はありません。

この現状を打破するためには、権力のうまみを吸っている政治家たちを一度野に下して断ち切り、禁断症状を起こさせて、日本の政党政治を理念追求型に変革してゆく必要があります。

そのためには、現在の自由民主党を破壊して、結党以前の自由党と民主党(この民主党は現在の小沢民主党とはまったく関係がありません)とに分割分離させて、それぞれ理念として自由主義を重点に追求する政治家は自由党へ、民主主義を重点に追及する政治家は民主党に結集させて、それぞれの立場から、国民のために理念実現を競わせ、また、両者の間で政権交代を逐次行わせるのです。現在の与野党ともどもの「金権政治」を「理念追求型政党政治」に変革して行かなければなりません。そのための安倍政権批判であって、小沢民主党を支持するがゆえのものではありません。

安倍内閣や小沢民主党についての私の意見は次に書いてあります。

『日本国の洗濯と人を見る眼』
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20070703
『政治家と国民の茶番劇』
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20070613
『マスコミの堕落と退廃』
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20070608
『醜い日本人』
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20070507

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夕暮れの光明寺

2007年07月27日 | 日記・紀行

夕暮れの光明寺

丹波街道を抜けて、光明寺前あたりまで散輪。日差しを避けて出たので、門前に着いたときには、疾っくに寺門は閉められた後だった。日が落ちて蝉とヒグラシの鳴き声が寺の奥の森から聴こえて来る。

寺の駐車場の前の民家に、2007年夏、参議院選挙を目前にした安部晋三首相の選挙ポスターが貼られてある。タクシーの運転手が一人客待ちをしていただけで、人の姿はない。

私の記憶に間違いがなければ、確か山岸巳代蔵氏たちが第一回の特別講習研鑽会を開催したのは、この光明寺だったと思う。

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蝉の声

2007年07月24日 | 日記・紀行

早々と訪れた台風4号は去り、祇園祭も天神祭も終わって、今日は久しぶりに青空が広く見える。今朝はじめて蝉の声を聴く。三十分ほどにも満たない鳴き声で終わってしまったけれど、日差しにも夏の到来を実感する。今日明日にも梅雨明け宣言があるのだろう。

新潟沖地震などの現象は、ふだんには隠れていて私たちには見えていない本質を明るみに出す。その一つに日本の原子力発電の脆弱性の問題があった。改善されてきているとはいえ、その隠蔽的体質もまだ完全には克服できてはいないようである。もちろん、企業秘密や軍事科学の必要から、すべてを公開にはできないとしても、やはり公共的に必要とされる情報はもっと迅速に伝達されてよいと思う。自力消防についても弱点が明らかになった。「失敗は成功のもと」でもある。安全審査を国外の国際原子力機関(IAEA)頼みというのも情けない。経済産業省原子力安全・保安院がしっかり機能を果たすように行政のトップ(安部晋三首相および甘利 明経産大臣)はきちんと指示を出し、東京電力の経営者も自浄能力を本当に確立してほしい。 

また、私たちも「風評」に流され惑わされることなく、情報の正確な取捨選択よる一人ひとりの主体的な判断能力を培いたいものである。今回のように柏崎地方の温泉旅館に、何千件ものキャンセルがいっせいに発生するのは、パニックに近い過剰反応ではないだろうか。日本人のブランド志向などの裏返しでもあり、学校教育の欠陥、失敗事例の一つとして記録しておいてもよいかも知れない。

また、この地震のためにトヨタやホンダなどの日本のほとんどの自動車会社が、車を製造できず生産ラインを止めざるをえなくなったという。新潟、柏崎にあるリケンの自動車部品工場が地震被害にあったためである。もし地震がなければ、「地方」の一工場が、これほど自動車製造に影響力を持っていることにほとんどの人が気づかなかったのではないだろうか。

恥ずかしながら私も、このリケンというピストンリング製造会社が、理化学研究所と浅からぬ因縁のあることも、日経新聞のコラム「春秋」ではじめて知った。理化学研究所が、がん研究や遺伝子解析などの先端的研究で日本の産業に少なからぬ貢献をしていることは知っていたが、今回のリケンの柏崎工場の設立の由来を知って、あらためて先人の功績の大きさとその恩恵を思い知らされた。

今、「格差」「格差」と日本全国大合唱の感がある。しかし、この叫びの裏にある、国民の「ルサンチマン」については自戒を要する問題だと思う。

    いわゆる格差問題

そして、日本の「地方の疲弊」や「シャッター商店街」などが、小沢民主党や社民党の「格差是正」の選挙用スローガンとして叫ばれることも多い。

この「地域格差」や「所得格差」「雇用格差」などはもちろん放置されていてよい問題ではないけれそも、その対策法については熟慮を要する。いわゆる族議員や「官僚」の利権温存のための国民借金の莫大な赤字国債に頼る「格差是正」策がなんらの効果を生まないことは、自民党の旧経世会、小渕・橋本前首相などの自民党政治の地方交付金や農村整備事業補助金による失政で明らかになっている。小沢民主党が同じ轍を踏まないことを願いたいものである。

それよりも、地方の本当の自力復興の方策については、このリケンという先端的自動車部品メーカーが、その最適典型事例を示しているのではないだろうか。このリケンのように半導体や医療や遺伝子やその他に限らず、最先端を行く高度科学技術を活用できる工場や研究所が、新潟の柏崎のような全国の「地方」に無数に建設されてゆくことによって、自主自力による本当の「地方再生」が実現されてゆくのではないだろうか。

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ジーコとオシム

2007年07月21日 | 教育・文化

ジーコとオシム

昨年のワールド・カップでジーコ監督に率いられた日本サッカーが対オーストラリア戦で惨めな敗北を喫してから一年が経過した。

日本サッカー、対オーストラリア初戦敗退が示すもの

その後日本サッカーの監督は、ジーコからオシムに交代した。そうして現在新しい監督の下で、日本サッカーは新しい戦術を確立し始めているようである。

サッカーに限らず、野球でも、バレーボールでも、そして企業においても、さらには国家においても、すべて戦闘に従事する組織というものにおいては、その戦力は監督、指導者の力量に大きく規定される。チームの戦闘能力の6~7割は監督・指導者の力量によって決まるのではないだろうか。時には、勝つも負けるも監督しだい、指導者しだいという場合もあるだろう。

ジーコ監督からオシム監督に代わって、確かに日本チームのサッカーに戦術の型ができ始めたといえる。トルシエであれジーコであれ、戦術に「型」がなかった。最近のいくつかの日本チームの対外試合を見ても、素人目にもそれはわかる。監督としての資質、力量の優れているのは、その選手時代の力量はとにかく、いうまでもなくジーコではなくオシム監督のほうだろう。ジーコ監督はサッカー選手個々人の技量に頼って、チームとしての組織的な戦術と呼べるほどのものはとにかく確立できていなかった。またその必要についての問題意識自体がこの監督には希薄だった。その前のトルシエ監督にもそれほど明確に攻撃の型を追求しているようにも見えなかった。日本選手たちにそれを目的意識的に練習させてはいなかった。

だから、かっての対オーストラリア戦などでも、チームが勢いに乗って攻め続けているときはよいが、ひとたび選手たちの疲れがひどくなってきたり、攻め込まれて日本の陣形が崩れ始めたりすると、専攻の型を失って総崩れになった。

しかしオシム監督になって、専攻のための陣形が確立し始めているようにも見える。また、オシムのサッカーは基本に忠実であるようにも思える。日本選手たちもそれを守って、オシムの目指す日本型サッカーを確立し始めている。これまでの日本代表チームには明確には見られなかったものである。やはりオシム監督はこれまでに日本チームを任された外国人監督の中ではもっとも優れているのではないだろうか。オシム監督には、「オシム語録」などのいくつかの著書もあるという。まだそうした本を眼にしたことはないが、本来の監督であれば、サッカーに関する理論書、指導書を数冊でもものにしているだけの理論的な力量が当然の資格として何よりも求められるべきものである。

それでもなお、現在なお日本人チームに欠けていると思えるのは、サッカーの勝負の構造を論理的に分析し把握できる選手一人ひとりの能力ではないだろうか。体力と練習量だけでもある程度までは強くなることはできる。しかし、ワールドカップで優勝できるくらいになるためには、戦略と戦術を構想できる高度の論理的能力が、監督選手ともに必要である。アンダー20の若い選手には、その面に優れた能力を持った選手も見られはじめているようだけれども、まだ、現在のワールドカップ代表選手クラスの選手の多くは、本能的な才能と、ひたすらのがんばりだけの盲目的な練習に依存しても、理論によって自己の能力を開発して行くことのできるレベルの選手は少ないように思える。しかし、それでは本当に強いサッカーチームはできない。オシム監督にはそれが分かっていても、日本の選手たちがオシム監督の要請に十分に応えきれず、オシム監督をイラつかせている。

日本チームが本当に強くなるためには、日本の学校教育から、とくに国語教育から変えてゆかなければだめだ。もっとサッカー選手たちにも哲学教育を訓練し、彼ら一人ひとりの論理的思考力を高度のものにしてゆかなければ、日本チームは世界最強の仲間入りは本当にはできない。オシム監督になって改善されてきてはいるとはいえ、だから日本サッカーはまだ子供の、理論なき戦術にとどまっている。そして、この日本チームの弱点は、いうまでもなく、今なお国民や国家の弱点でもある。

それにしても日本の一部のサッカー選手たちにやめてほしいと思うのは、試合の最中に彼らがエヘラエヘラ笑い顔を折々見せることである。間抜けたように気が抜けるし、本当に真剣に戦っているのか疑わせもするからだ。それは選手たちにも不本意なことだろう。

日本、PK戦を4―3で制し準決勝へ…アジアカップ(読売新聞) - goo ニュース

 

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国民住宅(フォルクスハウス)――日本の科学と公共の意思

2007年07月19日 | 芸術・文化

国民住宅(フォルクスハウス)――日本の科学と公共の意思

新潟でまた地震があった。日本はそもそも地震列島とも呼ばれ、大陸プレートと海洋プレートがひしめきせめぎ合う地殻の上に国土がある。その上に生活する国民の運命の悲哀というべきか。いや決してそんなことはない。科学の発達した今日、地震による死亡事故などの大半は、国家と国民の危機管理能力の欠陥による人災である。

地震列島はその一方で、豊かな天然地下温泉を湧き出し、変化に富んだ美しい自然景観を造りだす。その天然の恵みは決して小さくはない。地下マグマの自然エネルギーを善用活用して国民の幸福に役立てるか、それとも、その前に、無力に手をこまねいて地震災害被害に泣くかは、国家と国民の危機管理能力しだいであるといえる。

日本などのような地震国では、そして、これほど深刻な環境問題を抱え込んだ現代においては、原子力発電以上に、国家プロジェクトとして強力に地熱発電の研究・開発に取り組まれるべきものである。地熱エネルギーの最大限の有効利用に取り組むべきである。そうしたことができないのは、科学技術などのハードの未発達に原因があるいうよりも、国家の組織機構に、政治や教育といったソフトに、国家の頭脳、その指導性に、行政に欠陥があるためである。経済産業省や国土交通省などの各省庁を横断して、欠陥の多い原子力発電に代わるものとして、地熱発電や太陽光発電、風力・海洋エネルギー発電などに強力に取り組まれていてよいはずである。

十余年前の阪神淡路大震災で、当時の村山富市首相の対応の遅れによる震災被害の拡大の教訓がいまだ十分に生かされていないように思われる。地震が起きてからの事後危機管理も充実させる必要のあることはいうまでもないが、不備を感じるのはとくに「事前の」危機管理である。

それにしても、ひとたび地殻が変動し、大地が揺らぐたびに家屋は倒壊し、そのために多くの犠牲者が出るというのはあまりにも惨めである。先の阪神淡路大震災でも、多くの家屋が全壊半壊し、その倒壊によって多くの人々が圧死した。そして、それに引き続く火災によっても多くの人が犠牲になった。今回の新潟沖地震ではそれほど多大な人的被害は出てはいないが、阪神淡路のような地震が来れば、日本のどこであれ、またふたたび家屋倒壊などに起因する大災害になりかねない。現代のような科学技術の発達した時代において、そうした人的被害を防ぎ得ないというのは、天災ではなく行政の不備による人災と考えるべきであろう。その根本的で重要な対策の一つに、住宅、工場、公共施設のさらなる耐震構造化を進めてゆく必要があると思う。

二十一世紀に入ろうという現代において、住宅家屋の倒壊による圧死というような後進的な災害が現代において繰り返されてよいのかという率直な印象を受ける。地震による被害が深刻なものになるのは、根本的には旧来の日本家屋の耐震構造があまりにも脆弱で、かつそれが放置されたままであるためである。それは素人目にもあきらかだろう。商店街を歩いてた婦人が商店の倒壊により下敷きなったり、また、お寺の屋敷が倒壊して老人が下敷きになって死亡するなどというのは決して天災などではない。商店や寺屋敷の建築物が耐震構造になってさえいれば防ぎえた人災である。

自然の威力を前に右往左往させらるのが人間の尊厳であるとは思わない。地震であれ台風であれそうした自然の威力に対抗し克服してゆくところに人間の尊厳があると思う。人間は神の子であり、「空の鳥と地の獣は海の魚とともにすべて人の手に委ねられている」(創世記9:2)。人間は自然の奴隷ではない。

国家の危機管理の問題である。危機管理には、事前危機管理と事後危機管理がある。以前と比較すれば改善されてきているとはいえ、とくに地震やテロ、戦争などの対策において、首相を頂点とした統一性のある事前・事後の危機管理対策が十分に構築されているとは思えない。とくにあまりにも貧弱なのが、「事前の」危機管理対策である。国家の頭脳としての意思決定と、その全国津々浦々への迅速な伝達を担う神経組織が十分に効率よく組織立てられているとは思えない。
 
これだけ国内に地震災害が多発することがわかっているのにもかかわらず、いまだ住宅や工場、原子力発電所などの公共施設の耐震化が十分に進んではいないようである。日本には地震に弱い老朽木造住宅がまだ1,000万戸あるともいわれている。建築基準法は改正されてきているとはいえ、こうした現状が放置されているのも、国家の危機管理能力の低さの現われではないだろうか。

こうした事前の危機管理対策が不十分であるとしても、それは日本の科学技術が未発達であるためではない。それよりも、縦割り行政や、公務員制度、旧弊の都道府県制度といった、危機管理を支える国家組織や体制機構など、政治や行政の劣悪さに起因する部分がはるかに多いのではないだろうか。国家を一個の有機体として、どれだけ美しく完全で効率的な国家体系にしてゆくかは国民自身の課題である。

その中でも、とくに緊急性のあるのは、震災による死亡事故の原因の大半を占める、旧来の木造日本家屋の老朽化した脆弱な住宅の耐震対策である。この弱点を克服しえていれば、地震後の火災発生件数も含めて、震災による圧死や焼死などの死亡者数もはるかに少なくなると思われる。

伝統的な木造家屋の耐震構造の弱点や欠陥を克服するために、国土交通省や産業経済省などが結集して、国家的な規模で「国民的家屋」のモデルを開発すべきではないだろうか。それによって、震度8ぐらいの地震にも十分に耐える耐震構造を持ち、生活上の利便性、効率性も極めつくし、なおかつ伝統的な日本建築の美しさも生かした、日本の風土、自然景観とも調和したモデル住宅建築を、国民住宅(フォルクスハウス)として、二十か三十程度も提示できないものだろうか。それを国家プロジェクトとして、安藤忠雄氏などの建築家をはじめ、美術家、耐震工学者、宮大工など国家の頭脳を総結集して設計できないはずはないと思う。必要なのは強力なリーダーシップである。

かって、ヒトラーのナチス・ドイツの下で、国民車(フォルクスワーゲン)とアウトバーンが整備されたという。ナチスドイツの国家犯罪は真っ平ごめんであるとしても、日本においても、国民住宅(フォルクスハウス)が構想されてもよいのではないかと思う。それが普及すれば、少々の地震にもびくともしない国民性が培われるとともに、何よりも、この上なく醜くなった現代日本の自然景観、都市景観の改善が見られるようになるはずである。

そうして現代日本人の殺伐とした精神構造を反映するかのような、むき出しの電柱と電線と雑然とした雑居住宅の醜悪さそのものも改善され、癒されてゆくのではないだろうか。それとも願わくは、地中海の美しい海に照り映えるギリシャの町並みと同じ美しさを、この日本に再現することを夢見るのは、かなわぬ一夜の夢物語に過ぎないか。

柏崎刈羽原発の防火体制 05年に不備と指摘 IAEA(朝日新聞) - goo ニュース

「補強する金なく」高齢者の家に犠牲集中…中越沖地震(読売新聞) - goo ニュース 

 

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バッハの言語――③無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ

2007年07月18日 | 芸術・文化

 

バッハの言語―――③無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ

Milstein's Last Public Concert at 83 Years Old: Chaconne (7.1986)

ヴァイオリンという弦楽器が奏でる響きが伝える世界は、純粋抽象の天上の世界で、時間的な系列における啓示である。その表現技法のおそらくこの上なく困難なこの楽曲を、たんなる技巧に陥ることなく、質朴だけれども深い彫りで骨太く演奏しているのは、円熟を迎えたロシアのヴァイオリン奏者ナタン・ミルシテイン。たった一丁の弦楽器ヴァイオリンが、主題とその変奏の反復のなかで、ヴァイオリンの持つ可能性を極限に至るまで引き出しすかのようにその魅惑的な声で歌う。

バッハの自我の感情の、明朗、活発、苦悩、歓喜などの無限の起伏が、音の連続と断続、対立と混交の中でさらに高みへと上りつめながら、時間の終焉に向かって私自身の自我と絡み合い、やがて一体化しながら流れてゆく。ヴァイオリンが、ここではバッハの魂のもう一つの声となって響いてくる。優れた作曲には天衣無縫という言葉があるように、思わせぶりな天才ぶった技巧や創作の跡はない。職人芸のようにすべてが自然で、破綻がなく神の創造物のようにそこにある。

それにしても音楽を、このもっとも抽象的な芸術を分析するのはむずかしい。的確に音楽作品の精神を分析し、把握し、評価するには長年の修練を要するのだろう。しかし、多くのカンタータを創作したバッハには、その歌詞による詩的表現に通じることによって、バッハの音楽の抽象的な内面の表現も、その象徴的性格の把握にもより明確に慣れることも容易になるだろう。それゆえソナタやパルティータにおける純粋な器楽演奏による精神的な内面性の表現についても、バッハの音楽の形式における絶対者の把握へと導かれやすいのではないだろうか。


もちろん、音楽は音楽として、ソナタやパルティータにおいては言語は音楽との結びつきが解かれ、自由により純粋に音調そのものとして、内面的な主観を表現するようになる。それゆえ、純粋音楽という「言語」を通じてのもっとも抽象的な感情把握には、もともとの天賦の感覚とさらなる高度の修練とが求められるに違いない。バッハ自身も、この器楽曲を練習課題曲としても作曲したのではないだろうか。それによって、バッハは今日においても最大の音楽教育者であり続けている。バッハの受容と止揚は、現代の日本でも最重要な課題であると思う。今日においてもそれなくして新しい音楽芸術の創造は不可能ではないだろうか。それはちょうどバッハがヴィヴァルディたちを梃子にして自分の芸術を完成させたのと同じだと思う。


 

 

 

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安倍晋三氏の「美しい国」

2007年07月12日 | ニュース・現実評論

参院選が公示、立候補受け付け始まる(読売新聞) - goo ニュース

首相は偽善者か?――安倍晋三氏の「美しい国」

今日、参議院選挙が告示された。7月29日に投票が行われ国民の審判が下される。安倍内閣が発足して10ヶ月、中間試験が行われることになる。私たちはこの内閣をはじめ、この国の政治をどのように評価するか、また、この国の進路をどのように定めるか、この国の舵取りをどうして行くか、国民の判断が問われるところとなる。

安倍内閣が発足して以来、私たちもこの内閣の行方を見守ってきた。「美しい国」という耳ざわりのよいスローガンを掲げ、インド、オーストラリア、ニュージーランドなどを繋いで「自由と民主の弧」の構築を掲げて、日本の歴代の首相の中でも若い安倍晋三氏は颯爽として登場してきた。もちろん、こうしたスローガン自体には誰も反対はしないだろう。北朝鮮すら自分たちこそが本当の「自由と民主主義の国」であると主張している。

この若い首相の主張する「美しい国」とはどのようなものだろうか。私たち国民も期待をしてそれを見つめていた。内閣にせよ女性にせよ、その本当の姿は、付き合いの時間の経過の中で明らかになって来る。物事の本質は、多くの現象の累積の中に、時間と歴史の進展のうちにその本質を、その本当の姿を明らかにしてゆく。

そして、安倍内閣が発足してほぼ十ヶ月、とくに安倍内閣の中で気がかりなのは、そして、その「美しい国」というスローガンにもっとも離反していると思ったのは、松岡利勝前農水相の政治資金収支報告の問題処理に当たっての安部首相の対応の仕方である。少なからず安倍首相の「美しい国」に期待を寄せていた私にとっても、失望したのは、その際の安倍首相の姿勢であった。そして、その後任に選出された赤城徳彦新農水相においても同じように持ち挙がった政治資金の管理と報告についての安倍首相の対応であった。

政治家や政党の政治資金に関して、松岡前農水相のときも、このたびの赤城新農水相の場合も、安倍首相はまったく同じ姿勢で対応した。私がもっとも失望したのは、先の松岡農水相の自殺を受けて衆議院に上程され新しく政治資金規正法が「改正」された際に、安倍首相は指導力をほとんど発揮することなく、自民党をはじめとする政治家たちと国民の遅れた政治文化の改革に強力に取り組もうとしなかったことである。

日本国の現状でもっとも醜い側面は、この政治家と国民の金にまつわる問題である。そこには、安倍首相は自民党の古く醜い政治家の慣行には、ほとんどメスを入れることなく、大勢に追随して、「領収証の添付は五万円以上」に、そして、規制の対象はすべての政治団体ではなく「政治資金管理団体のみ」というまったくのザル法を通過させて、国民の目を欺き、日本国のもっとも「醜い政治文化」の改革にも取り組もうとしなかった。安部首相のこの姿勢が明らかになることによって、安倍晋三氏の「美しい国」の「概念」はようやくその姿を明らかにし始めたのである。

新しい「改正政治資金規正法」のようなザル法に満足している国が、政治家や国民の現状が美しいとは思えない。安倍晋三氏の「美的感覚」を疑わざるを得ない。少なくとも、氏の美的判断能力を疑わざるを得ない。それとも安倍氏は、自分自身の実際の判断と異なる主張をする偽善者なのだろうか。

政治風土、政治文化の改革を中心的なテーマとして自覚し追求しなければならない。それが結果として、前松岡利勝農水相のような「政治と金」をめぐる悲劇を防ぐことになる。今回の赤城徳彦氏に同じ運命を繰り返させたいのだろうか。そんな些事のために有為な人材を歪め失うことほど、国家と国民にとっての損失はない。

安倍首相の美的判断能力が国民一般のそれと食い違うことになっているのは、赤城徳彦新農水相の場合と同じく、彼らが政治家の家系の二世三世議員として、旧来の日本の政治文化の環境の中にどっぷりと漬かって生まれ育ってきたためである。「政治と金」をめぐる日本の政治家たちの旧来の慣行が彼らにとっては生まれながらの環境になっている。必ずしも二世三世議員を完全に否定し去るつもりはないが、そのもっとも悪しき一面が出ていることは明らかである。

来る参議院選挙では、現在の自民党と公明党による安倍首相の連立内閣与党を、過半数割れにして野に下し、そして、それをきっかけに、自民党を結党以前の自由党と民主党へと分割して、政界を再編成してゆくことによって日本の政治はダイナミックに再生できる。若い安倍首相には、再び国民の付託に応えるときがくれば、再登場する機会もあるだろう。そして自由主義と民主主義の理念の実現を、自由党と民主党がそれぞれ担うことによって、日本国内の自由と民主主義をさらに充実してゆきながら、ユーラシア大陸にまたがる「自由と民主主義の弧」の建設に取り組んでゆきたいものだ。

 

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政治と金

2007年07月10日 | 宗教・文化

「政治とカネ」問題続々、政党は説明不足…参院選争点に(読売新聞) - goo ニュース

長官・次官、歴代8人返納拒否 年金記録紛失問題(産経新聞) - goo ニュース

政治と金の汚濁と腐臭にまみれた世界から国民はいつまで救われず、茶番を繰り返すのか。それはこの国民の倫理文化と無関係ではない。経済における小さな成功におごり、いくら富と知識を誇っても、倫理の根幹が腐っていれば、立ち枯れてゆくだけである。

 

 詩篇第三十七篇

ダビデの詩。

悪事を働く者のことで怒るな。
不義を行う者をねたむな。
彼らは草のように瞬くうちに刈り取られ、
草のようにすぐ枯れるから。

主に堅く信頼し、善きことを行え。
そうすればこの地に留まり、揺るぎなく暮らしてゆける。
そして、主によって深く歓べ。
あなたの心の願いを主はかなえてくださる。

あなたの道を主にゆだねよ。
そして主に依り頼め。
主が取り計らってくださる。

あなたの正しさは光のように輝き、
あなたの正義は真昼の中に明らかになる。

黙して主に向かい、主を待ち望め。
栄え誇る道を行く者や、
悪をたくらむ者のことでいらだつな。

怒りを静め、憤りを捨てよ。
悪をたくらもうとしていらだつな。

悪をたくらむ者は切り棄てられる。
しかし、主を待ち望む者は地を継ぐ。

しばらくすれば悪しき者は、姿を消している。
彼の立っていた場所を見よ。彼はもういない。

しかし、柔和な者は地を継ぐ。
そして豊かな平和に深い歓びを見出す。

悪人は正しい人にむかって、
歯ぎしりし、悪事をたくらむが、

私の主は彼を笑われる。
彼に定められた日の来るのを見るから。

貧しく虐げられた者を倒すために、
悪人たちは剣を抜き、弓を張り、
真っ直ぐな道を行く者を屠ろうとする。

しかし、彼らの剣は自らの心臓を貫き、
彼らの弓は折られる。

正しい人のわずかな持ち物は、
悪人たちの多くの富よりも善い。

悪人たちの腕はへし折られるから。
しかし、主は正しい人を支えられる。

主は無垢な人の日々を知っておられる。
彼らの資産は永遠のもの。

悪しき時にも失望することなく、
飢饉の年にも満ち足りていられる。

しかし、悪しき者たちは滅びる。
主の敵どもは太ったいけにえの羊のように、
煙となって焼き尽くされる。

悪人たちは借りても返さないが、
しかし、義しい人は憐れみ深く貸し与える。

祝福された者たちは地を継ぐ。
しかし、呪われた者は絶たれる。

勇者の歩みは主によって整えられ、
その辿り行く道を楽しむ。

倒れても決して打ち棄てられることはない。
主が彼の手を堅く支えられるから。

若い頃から年老いた今も、
私は見たことはない。
正しい人が打ち棄てられ、
その子供たちがパンを乞い求めるのを。

生涯憐れみ深く、恵み深くあれ。
そうすれば子供たちは祝福される。

悪を避け、善を行え。
そうすれば、永く住み続けることができる。

主は正義を愛されるから。
主はご自分に忠実な者を見捨てることなく、
彼らを永遠に守られる。
しかし、悪しき者たちの子孫は絶たれる。

義しい人は地を継ぎ、永遠に住む。

義しい人の口は智恵を語り、
彼の舌は正義を告げる。

神の律法は心に刻まれ、
彼の歩みは揺らがない。

悪しき人は義しい人を待ち伏せ、
彼を殺すことを狙う。

しかし、義しい人が悪人の手に陥ることを主は許さず、
義しい人は裁かれても罪に定められない。

主を待ち望み、主の道を守れ。
そうすれば主はあなたを高めて地を継がせる。
あなたは悪人が切り倒されるのを見るだろう。

無慈悲な悪人が野の木々のように、
うっそうと繁るのを私は見た。

しかし見よ、時が過ぎるともう彼はいない。
彼を捜しても、彼は見つからない。

純潔な人を覚え、正直な人を見よ。
終わりにはその人たちに平和が訪れるから。

しかし、背く者たちはともに滅ぼされ、
終わりには悪人たちは切り倒される。

義しい人の救いは主から、
主は苦難のときの砦。

主は彼らを助け、悪人どもから救い出される。
彼らは主に遁れるから。

詩篇第三十七篇註解

ダビデの教訓詩といってもよいかも知れない。とくに難しいことが書かれているわけではない。記憶して口ずさみやすいように、いろは歌のように、原詩では各句はアルファベット順に並べられている。拙訳ではそこまで訳しだすことはできない。

聖書全体と同じように、この詩篇第37篇のテーマも、善と悪を巡るものである。創世記のアダムとイブがエデンの園で、りんごの木から智恵の実を食べて善悪を知って以来、人類はそれを知ることによる呪いから免れることはできない。

そして、聖書の人間観というか世界観というものも一貫している。その基本的な思想は、善を行う者は救われ、悪を行うものは滅びるというものである。この見解に賛成するか反対するかはとにかく、これが聖書の、そしてまたこの詩篇の主張であることには変わりはない。

この詩篇の作者ダビデ王自身が、必ずしもこの詩の教訓のように、主なる神に生涯忠実に生きたわけではない。彼はバテシバを自分を妻とするためにその夫である部下のウリヤを殺した。その悪行の結果として、ダビデは愛する息子を失い、やがてその国には内紛がおきるにいたる。

しかし、そうした弱点があったにもかかわらず、ダビデ王が稀有に敬虔な王であり、賢明な指導者であったことは紛れもない。このイスラエル民族を始めとして、多くの聖書民族に共通する特徴は、その指導者たちがたんなる政治的な支配者ではなく、いずれも神に忠実な、敬虔で倫理的な指導者である場合が少なくないことである。

とりわけイスラエルは、その父祖アブラハムに始まり、モーゼという稀有の指導者を抱き、それ以来も多くの王や指導者を持ったが、その多くが神に忠実な敬虔で倫理的な指導者であった。イギリスのクロムウェルなどをはじめ、アメリカやその他の聖書民族もそうである。こうした伝統も他の諸民族と大きく異なるところである。

日本においても鎌倉幕府などに北條時宗のような禅宗に通じた指導者を持ったが、それはごく例外にすぎない。織田信長や豊臣秀吉をはじめ近代の伊藤博文などにいたるまで、実際の政治的な指導者の多くは本質的に倫理や敬虔とは無縁であった。それは東洋の仏教や儒教などの文化圏の政治の特徴でもあるともいえるし、今日においてもなお、これらの諸国家、諸民族の多くにおいては、政治は宗教的な文化とは無縁な背景において行われている。これも現代の日本の政治が品位を持たない理由のひとつでもあるだろう。

イスラエルをはじめ、多くの聖書民族においては、政治はこのダビデ王のような倫理観と心情を持って執り行われてきたのである。そのために、多少なりとも政治が形而上的な倫理的な色彩を帯びることになった。それは国民の倖不幸にもかかわることである。

もちろん、この詩篇をはじめ聖書そのものは政治や世俗のことについては本質的には無関心である。この第三十七篇においても、国家や民主主義などについて何らかの具体的な政治的な思想が語られているわけではない。しかし、人間に倫理的な敬虔を教えることによって、詩篇や聖書は文化そのものの根底に影響を及ぼしてゆくのである。

人間から悪は断ち切れない。そして、悪人の多くが栄え満ち足り、一方で敬虔な者の多くが苦難に遭い、苦悩に見舞われるのも事実である。それも世界の事実であるだろうし、それがゆえに神の存在が疑われもする。

しかし、そうした事実があるとしても、この詩篇はまた、ついの終わりには、悪人は雑草のように枯れ、大木が切り倒されるように滅びる一方、正義と憐れみに富み、主なる神に遁れる柔和で誠実な者たちは、時が来て主に救われて地を継ぎ、平和に歓び生きることになることを約束して慰めを与える。

 

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2007年07月07日 | 日記・紀行

                  

 

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今日は七夕。しかし、空は曇り空で、織姫も彦星も眺めることはできない。二人のプライベートなデートは他人が干渉する筋合いのものでもないから、かえって織姫もこの曇り空を喜んでいるかもしれない。昨年の七夕は晴れていたのかどうか、2006年7月7日の日記の記録もなく、この日をどのように過ごしていたのか、もう今では忘れてしまっている。その前年の2005年の七夕の日は曇っていたことがわかる。ブログではほとんど瞬時に過去の日記を検索できるのはうれしい。夕方から雷を伴ったかなり激しい雨が降っていたことが思い出される。  

西洋の文化の入った現代では、織姫は琴座のヴェガにあたる。西洋には西洋なりに、とくにギリシャ神話などに、この星の名の由来があるのだろうがわからない。映画「コンタクト」では地球外生命体からの発信音はこのヴェガから発せらることになっていた。実際はその可能性はほとんどゼロに近いのだろうけれども、本当に地球外生命体と交流できるなら、人類の世界観も根本的に変わるかも知れない。あるいは、そこで時間の限界を超えて、もう一人の自分に出会うことにもなれば、どんなに奇異な感じに打たれるだろう。  

伊勢物語には、七夕にちなんでまことに美しい物語が語り残されているが、現代はそうした物語は生まれにくい時代なのかも知れない。  

いと暑き頃、涼しき方にてながめ給ふに、池の蓮の盛りなるを見給ふに、「いかに多かる」などまづ思し出でらるるに、ほれぼれとしてつくづくとおはする程に、日も暮れにけり。蜩の声はなやかなるに、御前の撫子の夕映えを一人のみ見給ふは、げにぞかひなかりける。      

つれづれと  我が泣き暮らす  夏の日を
 

        かことがましき  虫の声かな  

蛍のいと多う飛びちがうも、「夕殿に蛍飛んで」と例の古言もかかる筋にのみ口馴れ給へり。

夜を知る 蛍を見ても  悲しきは
              

        時ぞともなき  思ひなりけり  

七月七日も、例に変わりたること多く、御遊びなどもし給はで、つれづれに眺め暮らし給ひて、星合見る人もなし。まだ夜深う、一所起き給ひて、妻戸押し明け給へるに、前栽の露いとしげく渡殿の戸より通りて見渡さるれば、出で給ひて、

七夕の  逢う瀬は  雲のよそに見て  
               

        別れの庭に  露ぞ置き添ふ  

七夕の日に正室紫の上の一周忌を迎えようとする源氏の君の寂しさを、さすがに紫式部はよく描いている。その果敢なさからやがて源氏は出家するにいたる。そういえば、来年は源氏物語の千年紀とかで何かと行事もあるらしい。久しぶりにこの巻を読んでみようかと思う。

 

 

 

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