作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

平穏無事

2005年06月29日 | 日記・紀行

 

「私の哲学史─ヘーゲル」を書き始める。同時に日記ブログも書いていく。先日から、無料ブログをいくつか用意して、哲学ブログ、芸術ブログ、日記ブログ、書評ブログ、現実評論ブログとして、それぞれの草稿をそこに書いて行くつもりだ。そして文章がある程度たまれば、さらに推敲して、自分のホームページに保存して行くようにする。

そのつもりで、それを実際に実行し始めたのだけれども、相当の分量を書いたところで早速、ちょっとしたミスで、すっかり記録が失われてしまった。こんなときには、とても疲労感が残る。

 

それで、これからは、万が一、そうした際にもバックアップを採れるように、まず「メモ帳プラス」というメモ帳ライクの、とても使い勝手の良いフリーソフトを見つけたので、あらゆる文章は、まず、このメモ帳プラスを使って書き、それで、無事終了した時点で、コピーして出版することにした。早く、文章を書く自分のスタイルを確立しなければならない。

 

それにしても、この「メモ帳プラス」という「なじょ」さん製作のフリーソフトはほとんど百%に近い満足度を与えてくれる。マイクロソフト社製の「メモ帳」とほとんど似ているが、日常使うのに必要な機能はほとんど完備している。良く見つけたと思う。VECTOR社の人気ソフトに決して上位にランクされていなかったと思う。

 

今日は午後、書くのに少し疲れたせいもあって、オイルの交換にバイク店へ行く準備をしていたところが、雷鳴がとどろきはじめた。しばらく迷ったが、糠雨が降っているようで迷ったが、中止することにした。とはいえ、明日になると必ず晴れるという保証があるわけではない。明日も同じ天気模様のようである。しばらくすると、二三度大きな音がして、近くに落雷したようである。そして、雨がかなり強く降り出した。中止にして正解だったと思った。

 

雷がかなり激しくなったとき、モニターを切って、机の上や書棚を整理しし始めたのだが、再び、パソコンの電源をONにすると、今度は画面が出てこない。落雷のときに電流に何か異常があったのかも知れない。スィッチを何度入れなおしてもうまく行かない。それで、再起動用のフロッピィを入れて立ち上げると何の苦もなく画面が現れた。どれぐらい手間がかかるのか面倒だなと思っていたので良かった。

 

閑話休題。
政治の話。
国民がもっとも幸福に暮らせる政治制度は、「立憲君主制」であると、私は思っている。現在の日本国憲法下の象徴天皇制は「西洋型立憲君主制」に近く、原則的には賛成であり満足している。ところが、西尾幹二氏やその友人である小堀桂一郎氏などは、そして、その弟子格である八木秀次氏などは、それでは不充分らしくて、明治の大日本帝国憲法下の「絶対制天皇制」にまで復古を企図しているようである。彼らと私と考えが異なるのは、民主主義と自由についての評価に差違があるためだと思われる。西尾幹二氏にはまだ自由についての正確な把握があるが、八木氏くらいになると怪しい。


とくに長谷川三千子氏などは自らの浅薄な民主主義理解を撒き散らしているようにさえ思われる。重要なのは、民主主義の概念の正確な理解である。戦後日本の「民主主義」から、民主主義の概念を勝手に憶測類推するのは間違いである。


むしろ逆で、戦後の日本の現行の「民主主義」が民主主義の概念から、批判されなければならないのである。佐伯啓思氏なども、戦後の日本の民主主義を批判しておられるようだけれども、お門違いと言うべきだろう。


その真の概念において理解された民主主義は、あまりに崇高で、日本国民にはむしろ、「猫に小判」「豚に真珠」と言ったところではあるまいか。民主主義は本来、個人の人格が確立された社会や集団にあってこそ機能しはじめてその意義を持つようになる。日本国民の水準は、まだ、真の民主主義の段階に達していない。そうでないから、多くの場合、誤解され誤用された民主主義が衆愚政治に化しているだけである。


早く日本にも国防軍が創設され、国家の防衛が国民の自発的な兵役の義務によってになわれるようになってほしい。自国の民主主義と文民統制に自信がないから、自前の軍隊を持つことに自信をもち得ないのである。自前の軍隊を持つことが怖いのである。憲法学者の奥平康弘氏や小林直樹氏らの「反戦平和主義」も問題である。専門家だからといって、本質的に正しい判断ができるとは限らない。彼らの利己主義は腐敗と退廃の元凶である。因みに、刑法学者の団藤重光氏なども死刑廃止論を唱えておられるが、愚かなことである。

 

裁判員制度が採用されて、法律の専門家である裁判官と一緒に裁判に一般市民が参加するが、専門家の裁判官よりも一般市民の常識のほうが往々にして正しい判断をするのと同じである。───

このあたりまで書いてきて、さっきは、ほんのちょっとした手違いで、一瞬にして、記録が消え去ってしまった。それを思い出しながら今一度書いているが、やはり最初の文章に比べて、張りと勢いがぜんぜん違うと思う。ただ、少なくとも、アイデアの種を残しておくために、何とか思い出しながら、再び今日の日記を書き上げた。さっきの失敗に懲りて、まず、メモ帳プラスで下書きしてから、これをブログに張りつけることにする。

 

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日記用ブログの作成

2005年06月26日 | 日記・紀行

日記用のブログを作成した。チョムスキー小辞典を読む。「歴史とは何か」のファイルが一瞬のうちに消失。それ以外は平穏無事。

メモ帳の便利なフリーソフトを見つけた。これからは、このソフトを常用させてもらうつもり。

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高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を(1)

2005年06月16日 | 教育・文化

高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を(1)

 

教室に爆発物が投げ入れられるという信じられない事件が起きた。

教育は国家の一大事であるので、私も少なからず関心を持っている。それで、こうした問題についてこれまでもいくつか発言してきたし、これからも発言して行きたいと思っている。それが現代の日本の教育の抱える問題の解明とその改善にいささかでも寄与するところがあれば幸いである。

事件を起こした少年が、彼の所属したクラスの同級生たちに対して恨みを持っていたことはわかる。もし彼が暖かい友情に囲まれ、周囲との人間関係に調和して、楽しく愉快に高校生活を享受していたのであれば、このような事件が発生することはなかった。この事件の物語る事実は、少なくとも推測させる事実は、この学校において存在した、生徒や教師の間の「索漠とした人間関係」であろう。

事実としてこの事件を起こした生徒がクラスの中で疎外感を持っていたことである。この感情には、生徒自身に原因があったのかも知れないし、また、クラスのほうに原因があったのかも知れない。恐らく、両方に原因があったのだろう。

しかし、生徒と学級のそれぞれに問題があったとしても、いずれにせよ、このように事件として顕在化することはまれである。光高校と同じように、全国に存在する多くの高校では、たとい、それぞれに何らかの問題を抱えているとしても、日常的に何とか処理し解決して行っているはずである。どんな高校であっても、生徒同士に、あるいは生徒と教師との間に全く問題がないということはありえない。

 

だから肝心なことは、生徒や教師の間にこうした問題が発生したときに、それをどのように対処し解決して行くかという問題処理のシステムが、それぞれの学校の中にきちんと存在していたか、そして、それが正しく機能しているかである。また、そのシステムが能力として正しく機能するように生徒や教師や保護者にきちんと日常的に教育されているかということである。光高校の場合はどうか。結果論としてであるが当然に、「否」である。ちゃんと機能していれば、今回のように事件として表面化することなく解決されていたはずである。

 今回のような光高校で起きた事件を単にこの高校だけの個別特殊な事件としてみなすべきなのか、あるいは、この特殊な事件の中に、普遍的一般的な性格を認識すべきなのか。それについては、単に光高校だけの特殊な事件としてのみ見ることは出来ないと思っている。今日の日本の青少年教育が、学校教育が一般的に抱えている普遍的な問題であると認識すべきだと考えている。

 

今回この光高校で起きたこのような事件は、そのほかのどんな高校でも、いつ、どこにでも起きても何ら不思議ではない普遍性を持っている。その根拠はここでは説明することは出来ないが、また、その論証はとにかく、こうした問題は、単に光高校だけの個別特殊問題として取り組んでも本質的な問題解決にはなり得ない。日本の抱える教育一般の問題として原因が究明され、問題が解決される必要がある。今日の学校教育が抱えている問題を象徴する事件の一つであると考えてよいと思う。

 

この事件から推測される問題を、一応確定しておこう。この事件の背後には、まず、この高校生自身に見られる倫理意識や道徳的自己規律の問題、あるいは、自己抑制能力の欠如といった生徒の家庭教育や家庭環境の問題がある。さらには、この生徒が今回のような「いじめ」にあったときに、生徒自身やさらに生徒の保護者である両親や学級担任教師、また学校側の生徒管理のなかでこうした問題の対処のし方についてきちんと教育されていたかという問題もある。そのほか多くの問題が含まれていると思う。これらはまた、現在文部科学省が問題にしている「学力低下」の問題とも無縁ではありえない。

ここでは家庭教育の問題について触れることはできない。
学校教育上の問題としては、この事件は本質的には今日においても相変わらず続いている「いじめ」と同じである。学校教育における生徒間、あるいは生徒と教師の間の人間関係の問題、倫理道徳の問題である。このような事件は、心理学者が特定の個人である犯罪少年の異常心理に対する処方箋を書いて済ますことの出来るような問題ではない。

 
なぜこうした事件が起きるのか。このような事件の発生を防ぐにはどうすればよいのか。さらには学校教育はどのようにあるべきか、そうした問題意識を持って、教育は、全国民的な課題として研究され、日常的に取り組まれる問題だろう思う。

この問題が示されているのは、学校教育における永年の病弊である。結論として言えば、現在の学校教育のにおいて、民主主義の倫理的内容が教育されておらず、また、内容のみならず制度としても、問題解決の方法としてもほとんど機能していないという現実である。
民主主義の思想と方法についての教育の必要が自覚されてもいず、文部科学省をはじめとする教育関係者も、その必要についての切実な問題意識を持つものがほとんどいないのが現実ではないだろうか。

 
学校教育の現場のみならず、どんな組織や団体にあっても、一般的な倫理的道徳的な規範と、共同体として必要な問題解決のためのシステムが存在しなければならない。ところが、現在の教育現場には、それらはなく、その機能も不全状態にある。

戦前の「教育勅語」の権威失墜と、上意下達の権威主義の教育システムの崩壊以来、それに代わる倫理道徳の規範と、学級や学校において発生するさまざまな問題を理性的に解決するシステムが、今日に至るまで教育現場にいまだ十分に確立していないという現実がある。これが問題なのである。

もっと民主主義の倫理規範としての意義を教育現場でも自覚する必要がある。そして、民主主義の方法を問題解決の手段として、その形式的方法を教育現場においても確立しなければならない。(この民主主義は、日教組や共産党の主張する「人民民主主義」ではもちろんない)。民主主義の精神と方法の真の活用が、こうした教育上の課題や問題に不可欠であること論証して行きたいと思う。

 

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