作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

真珠の耳飾りの少女

2006年09月29日 | 芸術・文化

真珠の耳飾りの少女

拡大図

ここに描かれているのは、明らかに妙齢の婦人ではない。幼児でもない。少女である。まだ女性になる前の。彼女は振り返るようにして、私たちを見ている。

その二つの瞳の視線が交流するその焦点は、この絵の前に立って少女を見つめている私の眼の位置に合わせられている。そのことによって、平面の運命を免れないこの絵が、彫刻のような三次元の立体感をかもし出し、あたかもこの少女と、同じ時間、同じ空間を共有しているかのような存在感に捉えられる。

少女は私を見ている。その瞳も、鼻も、やさしくあどけなく開いた色鮮やかで健やかな唇も、まだ小さく幼っぽく清らかで柔らかい。かといって幼児のそれでないこの少女の小ぶりな顔は、これからの彼女の成長を暗示するかのように、まだ開き切っていない莟のようにかわいらしい。内に静かに秘められた成長するエネルギーを感じる。

この少女のふたつの瞳は何を見ているのだろう。声を掛けられて振り返った一瞬を捉えたようなこの瞳は、否応なく私に彼女と二つの精神の出会いを自覚させる。それは、この絵に描かれた少女の心の、短い履歴を一瞬の内に想像させ、また、一方で、世の中の塵と芥に薄汚れてしまった私自身の過去の来歴を思い出させる。この体験は作品にこめたフェルメールのテーマなのだろう。

この少女は、教会に飾られたマリアではなく、地上に降りてきて私たちと生活をともにする少女マリアである。フェルメールはこの少女の面影に、明らかに聖母マリアを見ている。私たちの世俗の中のどこかに生きるマリアを思い出させる。

漆黒の闇のなかに、画面の左から差し込む光に照らし出されて浮かび上がる少女の肖像は、レンブラントの肖像画の技法と同じである。ターバンの先端と彼女の胸と背中によって、二等辺三角形に画面の中に大きく揺るぎなく据えられた構図は、単純で骨太く落ち着きを感じさせる。

トルコの民族衣装風の青いターバンと、銀の耳飾りの輝きと、白い襟は、互いに響きあって、この少女の純潔を印象づける。たしか白と青は伝統的にマリアを象徴する色彩ではなかっただろうか。

フェルメールという画家は、きわめて寡作な画家である。日本では人気のある画家である。この少女像はモナリザほど高貴ではないが、それだけ親愛感を抱かせる。さまざまな折りに触れたい名品である。

 

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大衆と哲学

2006年09月28日 | 哲学一般

 

哲学と大衆の関係について、ヘーゲルは彼の『小論理学』の第三版への序文の中で、キケロの言葉を引用しながら、次のように言っている。

「キケロは言っている。「哲学は少数の批評者に満足して、大衆を故意に避けるから、大衆からは憎まれいかがわしいものと思われている。したがって、もし誰かが哲学一般を罵ろうと思えば、必ず俗衆の支持をうることができる」と。哲学を罵るのに、その罵り方が馬鹿らしく浅薄なものであるほど、一般には受けるものである。というのは卑小な反感というようなものは、難なく共鳴できるものであるし、無知もわかりやすさの点では、これに引けは取らないから、この仲間となるからである。」(岩波文庫版50頁)

これらの文章を見ても、古代ギリシャ・ローマの昔から、ヘーゲルの時代も、哲学などはいかがわしいものと「俗衆」から思われていたことがわかる。何も現代に限ったことではないようである。ヘーゲルもまた彼自身のキリスト教研究を明らかにしたとき、学者ばかりではなく、俗衆からも多くの揶揄や非難をこうむっていたようである。もちろん、彼自身は真理は自己を貫徹するものであること、そして、時が来れば受け入れられることを確信していたが。

ただ何事においても非難はやさしく、創造はむずかしい。ヘーゲルのような哲学の立場に立つものは、神学者と哲学者の両陣営から批判を受けることになる。神学者の立場からすれば、彼の神学はあまりに哲学的でありすぎ、哲学者の立場からは、彼の哲学はあまりに神学的でありすぎると。

もちろん、これはヘーゲル哲学の欠陥ではなく、むしろ、彼の哲学の高さ、正しさゆえである。彼の哲学は神学者からも俗流哲学者からも理解されず、誤解され非難されもした。彼自身はそうした無理解に頓着しなかったけれども。

それにしても、現代においてはキリスト教などの宗教を研究するために、ヘーゲルの哲学が顧みられるということは「大学の府」などにおいてもほとんどないのではないか。クリスチャンやその他の宗教家であっても、この哲学者に論及するものもほとんどいないと思う。そうした問題意識すらもないようだ。彼の哲学の中心的なテーマは生涯キリスト教であったのに。

かって社会思潮を風靡したマルクス主義の関係から、ヘーゲルの「弁証法論理」が流行したこともあったが、そのほとんどは、唯物論者や共産主義者の立場からのものだった。

かって、私自身もブログで宗教について、とくにキリスト教などについてあつかましくも発言しようとしたとき、惜しくもさきに亡くなられたが、モツニ氏こと吉田正司氏から、「その資格として、田川建三氏や丸山圭三郎氏、ニーチェなどの読解が最低限要求される」という厳しい先制パンチをいただいたことがある。キリスト教や聖書の研究の導きとして、細々とヘーゲルを読みかじるぐらいのことしかできない私には、残念ながら、吉田氏とも対等に論議できずに終わってしまったけれども。http://blog.goo.ne.jp/aseas/e/264a6896e3ae29e528fdc97198dbc608

だから、もちろん自慢にもならないが、田川建三氏のみならず、カール・バルトやブルンナー、八木誠一氏、荒井 献氏など国内外の著名な現代神学などについて論じる資格は自分にはない。ただ、二十一世紀においても、今日なお、ヘーゲルの哲学は、キリスト教についての最高にして最深の宝庫であるとは思っている。

現代のキリスト者で、彼の哲学にかかわるものが少ないのには、ヘーゲルなどを紹介してきた日本の権威主義的な哲学者たちのせいもある。日本ではヨーロッパにおいて以上に、哲学は女性や大衆には取り付きにくく思われているようだ。惜しいことだと思う。ヘーゲル自身は、異性とお酒やダンスも愛好する、世事にも通じた偉大なる俗人だった。

ヘーゲルの哲学は、キリスト教や聖書、宗教一般の研究には必須の登竜門であると考えている。たとえば三位一体の教義などは、キリスト教にとって本質的ではあるけれども、この教義の生成についての歴史的な、論理的な必然性をヘーゲルほどに明確に論証した学説は知らないからである。バルトや八木誠一氏などは読んではいないが、これらの神学者たちには、おそらくヘーゲルほどには、父と子と聖霊の三者の論理を明らかにはできていないだろうと思う。(バルトや八木氏の研究者が居られれば教えてください。学問的な怠惰はお許しを。)

現代日本の多くの大衆的なクリスチャンが、ヘーゲル哲学などに論及することなどほとんど皆無であるのは、彼らの多くが信仰の立場に立ち止まり、そこに満足して、真理や学問の立場に進むだけの余力がないからなのだと思う。これは、国家国民の学術・文化の水準の問題としても残念なことではあると思う。(信仰と真理の関係については、いずれまた論じたい。)

参照  女系天皇と男系天皇──いわゆる世論なるもの

 

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天上の花

2006年09月22日 | 日記・紀行

 

台風も去って、秋らしいさわやかな日がやってきた。久しぶりに散歩に出る。散歩に出るのはほとんど夕方だけれど、最近は日の沈むのが早くなって、風光を十分に楽しむ時間も少なくなっていた。午前中に散歩(散輪)にでることはほとんどない。

朝早く用事があり、それもすぐに済んだのでその帰途散策に出る気になった。風は涼しくなったが、日の光は、まだ汗ばむくらい強い。光明寺の前から沓掛の方に向かう。夏の盛りには青々としていた稲田も、今ではよく色づいており、稲穂が重そうに頭を垂れている。もちろん、黄色く色づいてはいるが、その色合いはそれぞれの畑で微妙に異なっている。植えられた時期や品種、土地の栄養状態などが影響しているのだろう。

途中に見る花々の植生などもずいぶん変化しているのにも気づく。夏に咲き誇っていた菖蒲などは姿を消し、色づいた稲田のあぜ道でまず目に入るのは、曼珠沙華である。俗名は彼岸花。辞書によると曼珠沙華とはサンスクリット語の音訳だそうで、「天上の花」という意味だそうだ。その花の形はユニークで燃えるような形をしている。

お彼岸の時期に咲き、お墓参りの道々に人々が眼にしたせいか、何か縁起の悪いような花のように受け取られていたようである。私もこうしたイメージを母から受け継いだように思うけれど、死についての考え方が変わった今では、そうした「偏見」や「迷信」からは解放されている。純粋にきれいな花だと思うけれど、よく見ていると、何か妖艶な魅力を湛えているようにも思えて来る。それにしても、曼珠沙華(天上の花)とはなんという素晴らしい名前を与えられた花だろう。仏陀の故郷である灼熱のインドに咲いているこの花を想像する。

黄色く色づいた稲田を背景に、群落をなしているところでは、真っ赤に燃えるように咲き誇っている。今日明日が、この花のもっとも美しい盛りなのかもしれない。秋の紅葉にしろ、春の桜にせよ、そのもっとも美しい盛りに出くわすことは、なかなかむずかしい。この出会いの幸運の一瞬を思う。そばには露草も可憐な紫色に咲いている。コスモスも咲き始めた。

ダリアもさまざまな彩りで咲いている。まだ夏の名残もいたるところに目に付く。百日紅や朝顔もまだ夏が完全に終わったのではないことを教える。

少年の頃の昔、ガルシンというロシアの作家の短編小説を読んだことを思い出す。その標題は『赤い花』というものだった。精神病院に入院している青年が主人公で、彼にとっては病院の中庭に咲いている「赤い花」こそは悪の象徴で、人類のためにこの「赤い花」に象徴される悪と戦う。こういう妄想に彼は捉えられる。たしか物語の中では、この青年はこの赤い花をもぎ取ることで悪に勝利したことを確信し、安らかに死を迎えるという結末になっていたと思う。

この主人公と同じようにガルシンも若くして亡くなった。今では、この青年小説家の名前を知っている人はほとんどいないのではないだろうか。これを書いていて思い出したけれど、当時、私たちが使っていた国語の教科書には、確か同じ作家の作品で『信号』というヒューマニスティックな短編小説が採用されていた。今でも案外知られているのかもしれない。『猟人日記』の作者ツルゲーネフらとも交友があったと記憶している。

「赤い花」ということで取りとめもない連想をしてしまったけれど、天上の花の曼珠沙華、彼岸花は日本の秋の野原や稲田を飾る美しい花である。ようやく涼しくなりはじめた風と鰯雲の青空とともに、今年の秋の到来を心に刻みつける。

 

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タイ国のクーデタ事件に思う

2006年09月21日 | ニュース・現実評論

 

タイでクーデターが起きた。タイでは、この春先に行われた総選挙で、タクシン首相の不正に対する民衆の抗議があり、野党が不参加のまま選挙が行われた。それで憲法裁判所が総選挙の無効を裁定し、この秋に選挙のやり直しが行われるということを聞いていた。プミポン国王が仲介したためである。その際、あらためて立憲君主制の意義を確認した所だった。

 至高の国家形態

タイ国は一応は立憲君主国ということになっている。そのために今回のような軍部のクーデタにおいても、君主制の安定装置としての機能はやはり大きい。タイ国民の生活はそれほど混乱をきたしていないとのことである。


タイのクーデタについては、、私が学校を卒業して間もない頃のはるか昔にも、それは30年も昔のことだが、民主化を要求していたタイの学生たちが軍事政権のために拘束され、鎮圧されたというニュースを印象深く聴いたことがある。その時のことが今も記憶に残っていて、今回のニュースと重なる。

その時のクーデタ以来、この国ではかなり長い間、軍事政権が続いていたが、90年代に入って文民政治が実現し、ようやく民主主義政治を回復したと思っていた。この国のその後の目覚しい経済的な発展と中産階級の成長も伝え聞いていたので、民主主義政治がほとんど定着したと思っていた。それにもかかわらず、今なおクーデタのニュースが送られて来る。

こうした事件でやはり考えさせられるのは、アジア諸国で民主主義政治の定着することの難しさである。それはアフガニスタンやイラクなど中東においても同様である。周知のように現在アメリカは中東諸国の民主化をもくろんでいるが、文化や宗教や伝統の異なるイラクなどに民主主義体制を確立することの困難は歴然としている。科学技術などと異なって、精神文化を移植することは、本来不可能に近いほど困難である。欧米とは異なる伝統文化をもつ東アジアや中東諸国に民主主義を定着させることに難しさがある。中国は今なお共産党の一党独裁の国であり、北朝鮮も同様である。これらの国は実質的にはまだ封建体制に近い。歴史においては時間を飛び越えることは困難なのだ。


いずれにせよ、この事件は、タイ国においても民主主義体制とはまだ程遠いことを教えている。なぜなら、成熟し完成した民主主義国家においては本来クーデタなどということは考えられないからである。イギリスやアメリカやスイスでクーデタが起きることなど想像できるだろうか。

クーデタは民主主義のまだ未熟な国家や全体主義的な国家において起きるものである。わが国でも、戦前においては二・一六事件や五・一五事件など兵士の反乱があったし、政治家が殺された。これらのクーデタは、立憲君主制の明治帝国憲法下の議会制度の日本においても、まだ民主主義がきわめて不完全であったことの証明である。

戦後六十年、わが国の民主主義もきわめて不完全で未熟で偏頗なものではあるが、クーデタが起きるほどには機能不全に陥っていないということなのだろうか。しかし、だからといって現代の日本の政治が理想の民主主義からはほど遠いことも現実である。

これほどに学校教育が普及し、キャノンやトヨタなどの大企業を世界に送り出し、いくつかの分野で先端的な科学技術は世界でも最高の水準に達していても、民主主義の水準はまだ多くの場面で低い水準にとどまっている。政権交代が今なお実現していないのもその例である。君主制と民主主義は本来矛盾するものであって、その矛盾の統一の上に成立する立憲君主制は、とくに、日本のように過去に封建的体制が歴史的に長く続いた国では、成熟するまでにまだ歴史的な歳月が必要とされるということなのだろう。

科学技術教育と異なり、民主主義のような精神文化は、それだけ移植が困難なのだ。わが国の学校教育に見られるように、民主主義についての根本的な教育は、保守であれ革新であれ、いまだ極めて貧弱な段階にとどまっている。日本もまた今日なお、タイと同じアジアの伝統と文化の風土にあって、欧米に出自をもつ民主主義をみずからのものにすることはむずかしいようである。

『高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を』

 

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秋風が吹く

2006年09月09日 | 日記・紀行

 

九月に入り、少しは涼しくなった。風が秋らしくなった。温暖化や環境破壊など騒がれるようにはなったけれど、季節の流れの根本まで崩れたわけではない。
風に秋の到来を感じる。この感性は日本人にはなじみのもので、万葉集や古今和歌集に見られるように、奈良や平安の昔からのものである。
土佐日記の作者で、古今和歌集の編者でもあった紀貫之は、その昔の立秋の日に、貴族の若者たちの伴をして賀茂川の河原を散策したおり、秋を感じて詠んだ歌を残している。

河風の すずしくもあるか うちよする 

        浪とともにや 秋は立つらむ

川風が涼しいね。秋風に打ち立てられるようにして寄せくるさざ波が、いよいよ秋の到来を感じさせるよ。

古今和歌集に収められたこの歌が、いつ詠まれたのかは正確にはわからない。しかし、紀貫之は9世紀に生まれた人だから、すでに千年以上も昔の出来事である。詞書によれば、五条か六条あたりに貴族の屋敷が多かったから、貴族の青年たちと五条川原あたりを散策したときの歌かもしれない。賀茂川はもちろん今も流れている。けれども今は、京阪電車が走ったり、川沿いの道路を自動車が走るなど、その面影はすっかり変っている。私たちは、観念の中で往時を追憶できるだけである。

「土佐日記」のなかには紀貫之が大阪から京にいたるまで桂川を遡ったことが記録されている。桂川はその堤防の上はよく走る。もちろん今の桂川を舟でさかのぼることはできない。コンクリートで堰が造られたりして、舟のみならず魚すらも遡ることがむずかしい。

もし、行政の施策が行き届いていれば、紀貫之が生きた当時の美しい景観を保つことも可能なのだろうが、そうなってはいない。桂川で舟遊びができればどんなに楽しいだろうと思う。現代の市民が平安の貴族たちのように、その河原で散策を楽しめるようになるのは、まだ遠い先のことかも知れない。

JRの駅から自宅に至るまでには、まだかなりの稲田が残っている。やや色づき始めた稲田の間のあぜ道を風に吹かれて歩く。用水路に白い羽のセキレイが見える。
いつ南国に帰るのか、ツバメの夫婦も少し色づきはじめた稲穂の上をまだ飛び交っている。農家の人が作った小さな垣に白や紫の小さな朝顔がまとわりついている。朝顔を植えるのを忘れていたことを思い出す。来年は植えようと思う。もう夏の名残になってしまったけれど、露を帯びた朝顔の花を早朝に眺めるはすがすがしい。

オシロイバナも目に付くようになった。そのほとんどは赤か白の花である。近くを通りかかると、この花特有の香りが漂う。赤と白の縞模様をもった突然変異に交配した花を見るときもある。たまに見る黄色のオシロイバナがとても美しい。

 

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イザヤ書第二章

2006年09月07日 | 宗教・文化

イザヤ書第二章

永遠の平和と終末の日


アモツの子、イザヤがユダとエルサレムについて見た言葉。

終末の日、主の家の山は、山々の頂上に据えられ、峰々を越えて聳え立つ。
そして、すべての国々はそこに流れ来る。
そして多くの民が来て言うだろう。
来れ、主の山に、ヤコブの神の家に登ろう。
主は私たちに主の道を示される。
そうすれば私たちは主の道を歩むだろう。
主の教えはシオンから、主のみ言葉はエルサレムより来るから。
そして、主は国々を裁き、多くの人々に正義を示される。


彼らは剣を打ち直して鋤に代え、
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かってもはや剣を上げず、
戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、来れ。主の光の中を歩もう。

あなたはあなたの民を、ヤコブの家を捨てられた。
ペリシテ人のように東の国から占い師を呼び寄せ、
異邦人の子供らと睦んだからだ。


彼らの土地は銀と金であふれ、
財宝には限りがない。
彼らの土地は軍馬であふれ、
戦車には限りがない。
彼らの土地は偶像であふれ、
自分たちの手で、自分たちの指で造った物を伏し拝む。
こうして人間は卑しめられ、人は低くせらる。
主よ、彼らをお赦しにならぬように。

岩の裂け目に身を隠し、山の中に隠れよ、
主の恐るべき御顔と崇高と威厳を避けて。
人間の高ぶった眼は低くされ、
人間の横柄は卑しめられる。
その日には、ただ主のみが崇められる。


万軍の主が臨まれる日には、
誇り傲る者はすべて、
高ぶる者はすべて、主が恥をかかせるだろう。
聳え立つレバノンの杉とバシャーンの森の樫の木のすべて、
聳え立つ山々と高い丘のすべて、
聳え立つ塔と堅固な砦のすべて、
タルシシュの帆船と満艦飾の船もすべて、
打倒され、破壊され、沈められる。

傲り高ぶる人は引き倒され、
誇る者は卑しめられる。
その日には、ただ、主のみが独り崇められる。
偶像はすべて滅ぼし尽くされる。

主が立ち上がって大地を揺るがすとき、
栄光と威厳をまとった主の御顔を恐れて
彼らは、岩穴に大地の裂け目に身を隠すだろう。

その日には、自分たちが崇めるために造った金と銀との偶像を、
彼らはモグラやコウモリのために投じるだろう。

主が立ち上がって大地を揺るがすとき、
主の恐るべき御顔と崇高と威厳を避けて
岩穴に、崖の裂け目に逃げ込むがよい。

鼻に息するだけの人間に頼ることを止めよ。


イザヤ書第二章註解

アモツの子、イザヤが黙示のなかに幻に視たユダとエルサレムの姿を書き記したものである。紀元前七〇〇年頃にユダの国に生を享けたイザヤは、ユダの国と聖地エルサレムについてその理想を見た。そこでイザヤが視たのは、永遠の平和と終末の日の姿だった。
主の神殿のあるエルサレムの丘に、諸国民が集い来て上る。主の教えと御言葉はエルサレムより来るとイザヤはいう。二十一世紀に生きる私たちには、それがイエスによってすでに歴史的に実現されていることを知っている。

そして、主は国々を裁かれ、人々に正義を示されて、戦争が永遠に止む時の来ることも記している。人類にとって平和は、究極の理想と言える。プラトンやカントをはじめ、多くの哲学者が、人類にとっての平和の条件を研究してきた。カントはその著書『永遠の平和』を書いて、民主主義と世界政府を通じて人類の平和を追求しようとした。しかし、それは今日なお実現されていないことは、歴史の現実を見て周知のとおりである。

また広島や長崎で「永遠の平和」の誓いは、毎年述べられるけれども、それが夢想にすぎないことを、人類は現実と歴史によって教えられるのである。「平和主義者」がどれほどばら色に人類の未来を描こうと、戦争を無くせぬ人類の業の深さに、いずれ厳粛に頭をたれざるを得ない。

豹がその皮の斑点を消せないように、たとえ頭の中でどれほど平和を願おうと、人類はそのみずからの本性の中から戦争を消し去ることができないのである。人類の実際の歴史と厳粛な現実の前に、「永遠の平和」を語る空しさをやがて思い知らされることになる。                            
とすれば、科学技術を局限にまで発展させた二十一世紀の今日、軍事力を核兵器として実現した人類は、人類の最終戦争を戦わざるを得ないのかもしれない。この第二章の中で、イザヤが「主の日」として述べている「終末の日」とは、イザヤが人類のこの最終戦争を予見して語ったのだ。それは「怒りの日」「裁きの日」とも言われているからだ。

もちろん中国とアメリカ、あるいは、日本と中国が戦争するとしても、それはまだ人類の最終戦争ではないに違いない。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても惑わされてはならない。それらは起きざるを得ないが、まだ世の終わりではない」ともイエスは語っているからである。(マタイ書24:6)

イザヤ書によれば、人類が「永遠の平和」を手にするのは、哲学者の理論や政治家の構想した「世界政府」などによるのではなく、主が国々を裁き、正義を示されるときである。(第四節)

「あなたはあなたの民を、ヤコブの家を捨てられた。」

この一節は、前節とのつながりがよく分からない。前節でイザヤは、人類の恒久平和を預言しながら、ここから一転して、ユダヤ人の腐敗と堕落を告発しているからである。おそらく、イザヤの言葉の断片を編集して「イザヤ書」が造られたからかもしれない。
いずれにせよ、現代のユダヤ人である巨大な富と軍事力をもつアメリカが、その傲慢を募らせるとき、このイザヤの言葉は、その国と民に対する主の審判としての預言となる。

そして、「終末の日」、「万軍の主の日」には、岩の洞窟や大地の裂け目に身を隠すように忠告している。主の恐るべき御顔を避けるためにである。

「鼻に息するだけの人間に頼ることを止めよ。」

いずれ日本も、膨張する共産主義中国と民主主義アメリカの超大国の狭間で、国家としての自由と独立をいかにして確保してゆくかという切実な難問を突きつけられることになる。かってイザヤの祖国ユダも北の大国アッシリアの圧力の前に、国家の自由と独立を守るために苦闘したのである。そのときに、イザヤは、自由と独立を保つために、エジプトを頼らず主なる神にのみ畏れ待ち望むよう警告した。しかし、ユダ国はそのとき西の大国エジプトに頼った。そして結局、国家の滅亡は防ぎきれなかったのである。

このイザヤの政治学は、共産主義中国と自由民主主義アメリカの狭間におかれた日本の取るべき態度を示唆している。現代のエジプトである超大国アメリカにどこまで頼りきれるのか、わが国の政治家は政策を誤らないことである。

 

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紀子さま男子ご出産

2006年09月06日 | 日記・紀行

 

紀子さま、男子ご無事ご出産おめでとうございます。心より、お祝いとお慶びを申し上げます。

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アメリカ考②

2006年09月03日 | 歴史

日本とアメリカ

日本はアメリカの黒船によって徳川幕府の鎖国体制の眠りから目覚めさせられることになった。しかし、この徳川幕府の鎖国政策自体が、我が国にキリスト教が流入することによる徳川封建幕府体制の動揺を防ぐことを目的としたものであった。賢明な徳川幕府は、その鎖国によって、三百年にわたって国内に平和をもたらし、封建体制を持続させることに成功した。徳川幕府は日本国内のキリスト教のほとんど完全な禁圧に成功し、天草の乱以来、キリスト教徒は国内では、息を潜めて隠れて暮らさざるをえなかった。こうして国内から徳川封建体制を批判し、反抗して危機にもたらすような芽は完全に摘まれた。

もちろん徳川の幕藩体制も永遠の体制ではなかったのはいうまでもない。三百年に及ぶ安定した幕府の統治は経済の発展をもたらし、貨幣経済が浸透して、武士階級は商人階級の台頭にともなって動揺し始めていた。そうした時にペルー提督は来朝し、日本は日米和親条約の締結することによってついに開国する。幕府の国策はまだ鎖国であったから、この開国は止むに止まれぬものだった。

そのころの国際情勢にあっては、隣国の清においてはアヘン戦争が戦われ、屈辱的な賠償金の支払いや香港の割譲などヨーロッパ各国の市民社会は交易を求めてアジアの植民地化を進めていた。そうした中で、日本も独立を実現してゆくことが切実な課題になっていた。欧米諸国の圧力に対して不平等条約を結ばざるをえなかった。アメリカもスペインとの戦いに勝利していらい、フィリッピンなどの植民地化を進めていた。

明治の開国以来日本は、富国強兵政策を成功させ、かろうじて独立を保った。やがて日清、日露の戦争に勝利して中国大陸にその権益を拡大してゆく。そこで東アジアに進出していたアメリカと利害を巡って必然的に対立するようになる。このころロシアにおいては共産革命が成功してソビエト連邦が成立していた。そうして帝国憲法下の日本と自由主義国家アメリカが極東アジアにおいて三つ巴に覇権を競うことになる。

太平洋戦争

太平洋戦争をどのように評価するかは、どのような政治的立場にたつかによってさまざまだろう。ただ、当時の国際社会のイデオロギーとしては、共産主義のソビエトと毛沢東の中国、自由民主のアメリカと蒋介石の中国、それに、立憲君主国家の日本が存在し、それぞれが極東アジアで覇権を競い合っていた。日本は国内の民主主義がまだ十分に進展していなかったこともあり、ナチスドイツやムッソリーニのイタリアと三国同盟で手を結ぶことによって、全体主義に傾斜してゆく。

当時の日本においても自由民権運動によって大日本帝国憲法が制定されるなど国内の民主化はかなり進展していた。しかし、国軍の統帥権が、天皇に属するという名目で軍部そのものに委ねられ、軍隊の民主的な統制が完全に行き届かなかったように、不完全なものだった。民主主義の立場からみて、明治憲法の最大の欠陥であったといえる。それに当時の軍部にはすでに東郷平八郎や加藤高明のような人材はなく、軍部を抑えられる権威はもはや存在せず、制度としても文民統制が確立していなかった。そのために軍部の独走をゆるし、結果として、アメリカとの対立は避けられず、その後の日米開戦を防ぎきれなかった。自由と民主主義を世界において拡題してゆくという歴史的な使命をになうアメリカと総力戦を戦うことになる。

日本の敗戦

日本はアメリカをはじめとする連合国との戦争に敗北し、カイロ宣言とポツダム宣言を受諾する。それによって、政治経済的のみならず、文化的精神的な改造がアメリカを主導として行われる。その象徴が日本国憲法である。とくに太平洋戦争後のアメリカの占領統治によって、植民地文化の状況に日本は置かれることになる。歴史的に見ても多くの敗戦国に共通する、文化的精神的な混乱と退廃が今日も底流しているといえる。そして、敗戦から六十年、還暦という歳月を経て、日本はようやく自主憲法の制定する動きなど、日本の「内と外なるアメリカ」を見つめ清算して、当然の主権国家として日本人の自由と独立を回復する機運がようやく始まろうとしている。

 

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わたしは離婚を憎む

2006年09月01日 | 宗教・文化


わたしは離婚を憎むと、主なるイスラエルの神は言われる。
お前は邪悪を衣のように身にまとっている。だからお前の心が裏切ることのないように気をつけよ、と万軍の主は言われる。
(マラキ書第二章第十六節)

離婚とはある意味では裏切りである。結婚は神の前に交わした契約である。離婚はそれを破ることであり、裏切ることであるから。人間は心に悪を衣のようにまとっている。だから、その心が裏切って離婚という不正を犯すことのないように忠告する。主なる神が、離婚を憎むのは、人間に対する愛ゆえである。離婚がもたらす罪悪は深く、それは殺人にまで、母や父や娘や息子を殺すところまで行き着くから。秋田連続児童殺害事件

聖書の結婚観については、マルコ書第十章に、イエスの語った言葉として次のように明確に書かれてある。


①神は天地創造の初めから、人を男と女にお造りになった。
②それゆえ、父と母を離れて、男は妻と結ばれて、二人は一体になる。
③だから、彼らはもはや二人ではなく一つの身体である。
④神が結び合わせられたものを、それゆえ、人が離してはならない。

 

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