作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

歴史のIF

2007年06月14日 | 歴史

歴史のIF

個人の歴史と同じように、人類の歴史もまた繰り返すことの出来ない一回性のものである。
そして同時に、個人と同じように、人類もまたその歴史の途上でさまざまな岐路に立たされる。右へ行くべきか、左に行くべきか。

他の動物と異なって人間の特性がその自由な意志の選択にあることも事実である。「あれかこれか」の選択も、善悪の選択も人間の自由な意識の選択による。そこに正常な成人には責任問題も生じる。動物や子供にはこの自由がないから責任問題は問われない。しかし、人間の個々のその選択は自由であり偶然であるとしても、その結果の集積は人類の歴史的な必然として認識される。


だが、人間のみがその想像力によって、時間と空間の制約を乗り越えて、過去の選択を反省することもできる。私が今興味と関心を駆り立てられる問題の一つに、中国の現代史の問題がある。とりわけ、中国大陸に毛沢東の共産党政府が樹立される前に、中国共産党と蒋介石の国民党政府との内戦で、もし毛沢東の共産党中国ではなく、孫文の三民主義を引き継いだ蒋介石の国民党政府が中国大陸に支配権を確立していれば、現在の東アジアはどのようなものになっていただろうかという問題である。

あるいはルーズベルト大統領が、スターリンのソビエト連邦と立憲君主国家日本国の大東亜共栄圏との間に「敵性国家」の策定を過つことがなかったならばどうか。

21世紀の初頭に生きる私たちには、あれほど多くの「人民」がその革命と実現のために苦闘してきた共産主義国家の多くが、世界の国々から、その歴史から姿を消しつつあることも知っている。そして、現代では多くの旧社会主義国家において、自由と民主主義の名の下に市場主義、資本主義が取り入れられつつある。そして周知のように、中国もまた改革開放路線を選択し、社会主義市場化によって経済的にはきわめて奇形ながらも、いわゆる「資本主義国家」と実質的には変わらないようになっている。

むしろ、共産党政府の独裁によって政治的に自由に解放されていないがゆえに、「資本主義」が本質的にもっている弊害がいっそう深刻化しているようにも見える。共産主義が本来目指したはずの「人民」の経済的な平等も形骸化し、むしろ、他の民主主義国以上に、経済的な格差も深刻化しているという。共産党幹部らの深刻な腐敗なども漏れ伝えられてくる。


現代中国の重要な国策の一つに「一人っ子」政策がある。その膨大な国民人口を生産能力で養ってゆくことができないがゆえに取られた政策である。現代中国においても多くの共産主義国の事例にみられたように、共産主義は貧困の普遍化を招いただけで、国民の経済的な生産能力の増大に失敗したことは事実である。もし中国が、蒋介石の国民党政府が国内戦に勝利をえて、「資本主義的な生産様式」でもって、もっと早期に国富の増大に成功していたなら、現在のような厳しい「一人っ子政策」を余儀なくされていただろうか。

多くの人が見たと思うけれど、先日にどこかの民放テレビ番組で、中国の「一人っ子政策」の現状が報道されていた。伝統的に男尊女卑の傾向が強く、また、国民の老後の社会保障政策の貧困もあって、中国ではこの「一人っ子政策」の結果、男女の出生比率のバランスが大きく崩れてきているのだという。その結果、女の子だとわかれば、暗黙のうちに堕胎させられたり、捨て子にされたりして孤児になったりすることもあるという。

2007年5月18日の夜に、遼寧省瀋陽市で黄秀玲(ホワン・シューリン)さんが農薬を飲んで自殺したことが先の報道番組で報じられていた。わずか14歳の少女だった。学校の成績も好かったと言う。生まれてまもなく、彼女は実の両親から養子に出され、またその養父の病気のために、新しい養父母の元で暮らすことになった。しかし、その養父母も貧しく、秋冷さんはわずかのお金を持たされて、買い物に行かされたときに、空腹に耐えられず、そのスーパーでわずか15円のパンを万引きし、見つかって店の前に立たされたという。彼女の屈辱はどれほどのことだっただろうと思う。こうした事件も人類の間に起きている多くの悲劇のうちの小さな一つにすぎない。

それにしても、現代中国が歴史的に迂回することなく、もっと早い時点で豊かな社会を実現することができていれば、この黄秀玲さんのような死はなかったのではないか思うことである。しかし、それも所詮はむなしい歴史のイフに対する想像に過ぎない。


記事報道
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070523-00000003-rcdc-cn

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする