作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

テレビ報道局と東京大学の「偏向」

2024年09月28日 | ニュース・現実評論

 

テレビ報道局と東京大学の「偏向」

 

先日ネットを見ていて、たまたまニュース報道番組に以下のような投稿のあるのを知りました。その動画の中で、自民党総裁選の候補者である高市早苗氏が「総理大臣になっても靖國神社に参拝する」と断言していることに対して、キャスターである反町理氏は、この番組にコメンテーターとして出演していた中国人である東京大学の李昊准教授に「どのように思われますか」と問いを振り向けていました。

ここで反町氏は中国人コメンテーターである東大の李昊准教授に、我が国の首相候補者である高市早苗氏の「靖國神社参拝」について、ご意見のお伺いを立てています。反町氏は中国人である李昊東大准教授に、日本の内閣総理大臣候補者の靖国神社参拝の是非を聞いて何を聞きたいのでしょうか。

中共政府は李昊東大准教授の言動も監視しています。中国人である李昊東大准教授に言論の自由があるとでも思っているのでしょうか。彼が決まりきった反論で中共政府を代弁することは分かりきったことではないでしょうか。

この反町理氏たちらマスコミ記者に見るように、朝日新聞その他の日本のマスメディアは、日本国の首相、首相候補者、政治家たちが靖国神社に参拝することについて、かっての中曽根康弘元首相の靖国参拝の時に中共政府、朝鮮、韓国にご注進し、ご意見伺いして、それを政治問題化することに成功して以来、その習性は今なお止むことはないようです。日本の政治家たちの靖国神社参拝を政治問題化させたのは、朝日新聞などの日本のマスコミといわゆる「左翼」です。

相も変わらず、ここにも戦後日本が今なお引きずっているマスコミ界隈の実情が見られるようです。日本人の言論や宗教の自由に関わる問題を、中国人に尋ねてどうしようというのでしょうか。言論、宗教に対する中国国民の不自由をこの日本にも持ち込みたいとでも考えているのでしょうか。

反町氏から振られた問いに対して、中国人である李昊東大准教授は動画の中でおおよそ次のように答えていました。性懲りもなくここでも再び反町氏は自分でマッチしておいてポンプしています。(あ呆)

(宮本雄二元駐中国大使・元中国課長)
・・・・ましてプラス中国のああいう社会情勢ですから、そこにあの靖国を参拝することによって大きく刺激しますよ、中国の社会を。

(反町キャスター)
李昊さん、どうご覧になりますか、新総理の靖国に参拝というのは日中関係にどういう影響をもたらすと思いますか。

(李昊氏・東京大学大学院准教授)
あのま、私も中国出身ですけれども感情的に許せる要素はゼロですね。あれあの侵略者を神とたて祀っているところに日本の総理大臣が参拝するっていうのは、要するに、これまでの日本の大戦に対する反省っていうのは幾度どなく、あの表してきましたよね、日本は。それを中国の一部の人はきちんと理解してるんですけれども、それを全てむげにするものですよ。何も自分は反省してないと、侵略者を神として、あの尊敬してそれを拝みに行く。

(反町キャスター)
そっか、その話また出ちゃうんですね。靖国の話ずっとその話がぐるぐる回るんですよね。・・・・

 

この報道番組を見て、以下のような問題点を考えました。


第一に、この番組に中国人で東京大学の准教授である李昊氏を登場させて、この報道番組の意図する一方的な靖國神社観、歴史観を李昊氏に代弁させる番組構成になっているということです。また、出演者は他には、元外務省の中国課長(チャイナスクール出身)の元駐中国大使である宮本雄二氏と、中国研究者の興梠一郎氏だけです。

もし、この報道番組に公正を期するなら、靖国神社参拝の意向を明らかにした当事者である高市早苗氏を呼んで出演させて語らせるべきでしょうし、また、もし外務省出身者の意見を聞くなら、宮本雄二氏だけではなく、山上信吾元駐オーストラリア大使や埀 秀夫元中国大使らを出演させて、異なった立場、見解をもつ学者や外交官の意見をも番組の中で語らせることでしょう。

そうしてこそ、放送法第四条に規定する「政治的な公平」が守られることになるのではないでしょうか。それらを事実上行っていない以上、番組は「偏向」していると言われても仕方がないと思います。

さらにもう一つは、日本の国立大学であり日本国民の多大な税金によって運営されている東京大学において、このような歴史観をもった中国人の「学者」を東京大学大学院准教授として雇用し、彼に日本人の若者に対する教育活動に従事させているということです。

これらの事実によっても、現在のテレビ局や東京大学をはじめとするアカデミズムがどれほど「偏向」しているか、その実態の一端が明らかです。

放送法第四条には、次のように規定されています。


(国内放送等の放送番組の編集等)
第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 

【海産物輸入再開】習近平政権の新たな対日戦略と思惑 宮本雄二×興梠一郎×李昊2024/9/24放送<後編>

ちなみに、この番組で興梠一郎氏は国力と外交の関係について現実的な判断を示しています。それに対して、この元外交官の宮本雄二氏には、日本の外交官たちの非力、無能、たんなる社交家に堕している理由の根源が、核武装を含む日本国の軍事力、国力の欠如にあるということ、がわかっていません。

(興梠一郎氏)
だってフィリピン見てくださいボコボコに言われてるでしょ。
あれ米軍出てったってのもあるけど、やっぱ国力見てるんですよ。
要するに弱肉強食です。だから日本は優しい人が多いけど
世界は弱肉強食じゃないですか、結局。あのプーチン見て
くださいよ。ウクライナみたいになりたくないでしょう。
ということは、もう1回現実しっかり見て、世界も力が満ち溢れてると。
だから日本もねその右翼とか左翼とかそういうの分けないで。
そういう議論じゃないです。
リアリスティックに国力がないと中国は対話もしない。ええそれをもう1回
考えないとね。
 
(宮本雄二氏)
ただね、そのそ国力がなくなってもイギリスはね外交上大きな
発言権を出してきたんですね。ですから国力即外交力じゃないんですよね。
うんそこにはソフトパワーとしての外交というのがね存在するんで。
これをやっぱりは磨けばね。もう明日にでも来年でもソファアップするんですよね
そこにあの力を入れて欲しいという私の希望も・・
 
 
 
 
 
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2024(令和6)年09月27日(金)晴れ。#高市早苗、#自民党総裁選

2024年09月27日 | 日記・紀行

 

2024(令和6)年09月27日(金)晴れ。#高市早苗、#自民党総裁選

 

明日は自民党の総裁選の国会議員の投票が行われる。全国に105万人余りいるといわれる党員・党友による投票は今日26日までに締め切られる。

もちろん私は自民党員ではないけれども、ただ懸念されるのは、この全国に105万人余りいるとされる自民党員には日本国籍保有などの国籍が自民党員としての資格要件に挙げられているのだろうか、それも懸念されるところである。さもなければ、たとえば日本在住の中国人80万人全員が自民党員になれば、少なくとも理論的には中国人が日本国総理大臣の決定権を持つことになる。

それはとにかく、まともな国家の体を為していない敗戦から現在の日本国を、イギリスやアメリカやスイス、またイスラエルなどのような「普通の国家」に、「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」にしていくことを終生の課題としているような者にとっては、事実上日本国の内閣総理大臣を決することになる自民党総裁選挙にも無関心ではいられない。

とはいえ、日本国の政治的な改革も、きわめてかぎられた現在の政治家という人材をその手駒の中から選んでいくしかない。今日明日にでも日本国が「普通の国」になる夢物語はあり得ない。限られ与えられた条件の中から、ベストな選択しながら時間をかけて一歩ずつ進んでいくしかない。

現在の私の立場から見て、自民党総裁としてもっとも相応しい候補者は高市早苗氏である。彼女の掲げる政策についてここでいちいち検証しても意味はないが、ただ、高市早苗氏が総裁に選出され、小林鷹之氏をその内閣の主要閣僚に選べば、それが今可能なもっともベターな日本の選択になるように思われる。

 

日本の誇りを守りたい高市早苗VS日本の誇りを守れない反日政治家たち(刑法第92条と安保理改革への思い)

 

 

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2024(令和6)年09月26日(木)晴れ。#牧野紀之

2024年09月26日 | 日記・紀行

 

2024(令和6)年09月26日(木)晴れ。#牧野紀之

昨日、本が届いた。

牧野紀之 著『マルクスの空想的社会主義』(論創社2004・06・20)である。本当は、もっと早く手に入れて、私なりに「論評」すべきであったにも関わらず、今になってしまった。しかし、まだここしばらくは机上において、チラチラ覗き読みしながら、準備していきたいと思っている。時間がどれだけかかるかわからない。

というのも、私は『ヘーゲル哲学入門』の翻訳と註解をすでに初めており、それも第二課程の第一篇「精神の現象論または意識の科学」の「第三段 理性」のところまでで、「第二篇  論理学」以下はまったく手つかずのままに残っているからである。それを優先するつもりだし、また、これまで曲がりなりにも行ってきた翻訳と註解も決して満足のゆくものではなく、あらためて見直す必要もあるからである。また、これまで少しだけ手をつけただけに終わっている聖書の『詩篇』の翻訳と註釈にも取り組みたいといった思いもある。

「まえがき」だけ読んだ。

本書は「マルクスとエンゲルスの社会主義思想は空想的社会主義思想の一種でしかなかった」ということを証明することを目的としたものである。(まえがき1)

牧野氏自身は、マルクスやエンゲルスの社会主義思想はフーリエやオーエンたちの社会主義とちがって、空想的ではなく科学的であると信じてきた。しかし、現在はマルクスやエンゲルスの社会主義も「空想的」であると考えるようになった。だから本書は当然に牧野氏の「自己批判の書」でもある。(まえがき1)

「空想」と「科学」との違いを明確に判別するための基準が明らかにされなければならない。そのために、『空想から科学へ』『経済学批判の序言』さらに『資本論第一巻』のマルクス・エンゲルスの三つの著作に対する検証を行う。それは「弁証法的唯物論の認識論」の立場から原理的に考え直すことになる。それが本書の主たる内容になる。(まえがき5)

この牧野氏の自己批判に対し、これまで曲がりなりに行ってきた私のマルクス批判は、「実証的」であり新約聖書の「ブドウ樹の良し悪しは、その実を見ればわかる」といった、もっとシンプルな常識論、認識論からの批判だった。また、過去のマルクス主義の信奉者たちの行ってきた悪行と、共産主義政府の統治下に置かれてきた民衆の抑圧された不自由と貧困の現実も、マルクス主義の理論的実践的破綻をすでに証明している。

これまで牧野紀之氏は生粋の徹底したマルクス主義者だった。しかし、牧野氏は自己批判して、もはやマルキストではない。牧野氏によって「科学的社会主義」の思想的な根拠が否定されてしまった。とすれば、その他の世のいわゆる凡俗共産主義者、自称マルクス信奉者たちはこれから一体どうするつもりなのだろうか。

 

私のこれまでの論考の中にも、いくつかマルクスの思考の誤りを理論的に指摘しています。

§ 280b[概念から存在への移行] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2cyzsacj

事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/29z8dm77

価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2csnagrx

など。

日本には戦前の昔から伝統的にマルクス主義が広く深く浸透しています。アカデミズムやマスコミの世界はもうほんとんど赤の世界と言っていいほどではないでしょうか。だから、我が国には自称「マルクス主義者」たちは五万といるはずなのに、マルクスの考えの誤りについての私の指摘に対する反論は、いまだどこからも聞こえてきません。

 

 

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2024(令和6)年09月22日(日)秋分の日。雨のち曇り。#写真館

2024年09月22日 | 日記・紀行

 

2024(令和6)年09月22日(日)秋分の日。雨のち曇り。

 

朝、通り雨の雨脚の過ぎる音に目が覚めました。久しぶりの雨で耳に心地よく寝床で聴いていました。

今日のお彼岸の日に、たまたまアルバムを投げ込んだままにしていた大きなバックが眼についたので、思い出して懐かしく取り出して見ました。それなりに溜まった古い昔の写真のなかに私の高校、大学時代の写真などもありました。

このブログには、これまで金閣寺や天満宮、高山寺、コスモス園や嵯峨野などを訪れた時などに、その折々にカメラに撮った風景などを、日々の記憶としてこのブログにも残してきました。

しかし最近になって更新も減り、また、この日記ブログにはカテゴリーとして「写真館」という項目も作っているのに、それもまったく充実していません。

ほぼ半世紀も昔になった学生時代などの写真を久しぶりに見て、これらの写真もこのブログの「写真館」に残していくようにすれば、ブログ更新の機会も増えるし、それに今となっては全国に離ればなれになって住む、私のわずかな知人、友人たち、遠くの兄弟、親戚、娘や孫たちにとって、私的で個人的な私の消息報告のような役割も果たすこともできるだろうと思いました。もし、更新が一年以上ない時は、「はい、それまで」と思ってくださいまし。

プライベートな人物写真については、その必要も価値もないので、これまでほとんどその肖像を残していません。しかし半世紀近くも前の映像写真ならば、それほどプライバシーにも配慮する必要もないかも知れません。

それで、更新することの減った(暑さのせいもあります。言い訳、心身の衰えのせい ── 本音)この日記ブログに、手持ちの過去の写真を少しずつでも記録していくことにしました。そうすれば、いちいちアルバムを捲るよりも簡単に過去を回想できる利点もあるかも知れません。

 

「写真館」-作雨作晴 https://tinyurl.com/2yeubbuj

 

 

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あまりにも軽すぎる小泉進次郎氏

2024年09月09日 | ニュース・現実評論
あまりにも軽すぎる小泉進次郎氏

今、自民党の総裁選を目指して多くの候補者が名乗りを上げています。自民党の総裁は同時に日本国の首相であり、首相は言うまでもなく、日本国の最高指導者です。だから、日本国の首相の地位獲得をめざす自民党総裁選挙の候補者たちの資質、能力、および、それぞれの候補者のもつ思想と哲学(もし彼らにそういうものがあるとすれば)は、現在の日本国民のみならず、これから産まれくる将来の日本国民に対しても計り知れない影響を及ぼすことになります。

現在および将来の日本国民に及ぼすその影響が、恩恵であり福利をもたらすものであれば何も問題はないでしょう。しかし、自民党総裁の地位に就かんとする者の思想と哲学が誤ったものであり、その政治的な選択が正しくなければ、その結果として現在と将来の日本国民に及ぼす災厄は取り返しのつかないものになります。自民党総裁が日本国の最高指導者である内閣総理大臣、首相の地位に就くと予想されるからです。

たとえば、現在の岸田文雄首相が実質的に進めている「移民政策」もその事例の一つです。その「移民」が現在と将来の日本国民に及ぼす負担や困難、その災厄のことを考えると、現在の岸田首相のあまりに能天気で楽天的な「移民政策」に反対せざるを得ないものです。

さらまた現在の自民党の総裁選挙で候補者たちの政策上の論点に挙げられている一つに「夫婦同姓」があります。明治以降に百年以上続いてきたこの「夫婦同姓」の伝統と習慣を変えようとして「選択的夫婦別姓」を主張しているのが、小泉進次郎氏です。しかし、この「夫婦別姓問題」は、小泉氏が環境大臣のときに推し進めた愚策「レジ袋」問題とは比較にならないほど、現在と将来の日本国民の家族のあり方に深刻な影響をもたらすことになります。

日本国民の「姓氏」の問題は、単に平成、令和の時代に生きる現代日本人だけの問題ではありません。7 世紀の天武天皇の制定した「八色の姓」をはじめとして、日本の氏姓制度は、平安、鎌倉時代から今日に至るまで連綿として受け継がれてきたものです。

明治に入ってから、全日本国民が苗字を名乗るようになり、さらに1898年の明治民法によって、夫婦同姓が法的に義務付けられましたが、そこには家族単位での統一を重視し、家族の一体感を保持しようという価値観が根底にあります。
 
こうした制度の長い歴史と伝統にこめられた日本の先人たちの知恵を、いまだ若く経験も知恵も浅い小泉進次郎氏という自民党総裁候補者が自民党総裁に選ばれることによって壊されるようなことがあってはならないと思います。
 
高市早苗:選択的夫婦別姓について - 作雨作晴 https://tinyurl.com/2cljbzd6
 追記20240911

この小泉進次郎氏を支持し応援することを菅義偉元首相が明らかにしたそうです。菅義偉氏もまた日本国という「国家」やその歴史、家族といった問題について深く正しい認識をもっていなかったことは、これまでの氏の仕事ぶりからも明らかでした。「類は友を呼ぶ」というべきでしょうか。

不幸にも菅義偉氏が内閣官房長官として指揮、采配を振るったのは、平成から令和へと現在の上皇陛下がご譲位されたときでした。彼は安倍元首相とともに「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」という特別法を取りまとめましたが、そこで皇室典範に則った「譲位」という正しい用語を使わないで「退位」という誤った用語を法律の呼称に使用しました。

また上皇陛下の譲位と今上天皇の受禅によって分断されることなき皇位の継承を、退位と即位として分断して行うなど、歴史と伝統に対する無知と非常識でもって伝統破壊を行いました。

また、「選択的夫婦別姓」については、経団連の会長の十倉 雅和氏も政府に提言しているようです。十倉 雅和氏は住友化学の会長でもあるらしいですが、現在の日本の財界のトップは、昭和の時代の永野重雄、桜田武、土光敏夫といった、かっての財界の大物たちとはちがって、国家や伝統文化ということには無関心のようです。ただお金儲けさえできればいいから、だから国家体制のちがいや自由の問題も無視して、揉み手で共産中国に擦り寄って行くのかも知れません。最近の日本の財界の小粒な人物たちは救いようがないようです。


ちなみにドイツの哲学者ヘーゲルの家族観の一端をついでにご紹介しておきます。もし、ご興味をもたれる方がおありであれば覗いてみてください、

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十九節[家族への義務]
2022年05月24日 | ヘーゲル『哲学入門』

II. Familienpflicht
§49
Indem der Mensch gebildet ist, hat er die Möglichkeit zu han­deln. Insofern er wirklich handelt, ist er notwendig in Verhältnis mit anderen Menschen. Das erste notwendige Verhältnis, worin das Individuum zu Anderen tritt, ist das Familienverhältnis. (※1)Es hat zwar auch eine rechtliche Seite, aber sie ist der Seite der moralischen Gesinnung, der Liebe und des Zutrauens, untergeordnet.
Ⅱ. 家族への義務
第四十九節[家族愛について]
人間は教養を積むことによって、行為する能力を手に入れる。人間が実際に行動するかぎり、必然的に他者との関係に入る。個人が他者とかかわる最初にして必然的な関係は、家族関係 である。家族関係はなるほどたしかに法的な側面ももつが、しかし、それは道徳的な心情の側面に、愛と信頼の側面に従属している。

Erläuterung.
説明.
Die Familie macht wesentlich nur Eine Substanz, nur Eine Person aus. Die Familienglieder sind nicht Personen gegen einander. Sie treten in ein solches Verhältnis erst, inso­fern durch ein Unglück das moralische Band sich aufgelöst hat. Bei den Alten hieß die Gesinnung der Familienliebe, das Han­deln in ihrem Sinn, pietas.

家族は本質的にただ一つの実体のみから、一つの人格のみからなる。家族の成員はそれぞれお互いに対立しあう人格 ではない。不幸にも道徳的な絆が失われたばあいにはじめて、家族の成員は、法的な関係のような相互の人格が対立する関係に入る。古代の人は、家族愛の心情とそうした感情からの行為を、pietas(孝行)と呼んでいた。
 
Die Pietät(※2) hat mit der Frömmigkeit, die auch mit diesem Wort bezeichnet wird, gemeinschaftlich, dass sie ein absolutes Band voraussetzen, die an und für sich seiende Einheit in einer geistigen Substanz, ein Band, das nicht durch besondere Willkür oder Zufall geknüpft ist.(※3)

Die Pietät(ピエタ:敬虔)は、また、このことば(Die Pietät)でも表される信仰心と共通して、絶対的な 絆を前提とした公共性や、一つの精神的な実体を、一つの集団の中に本来的に存在する統一性をもっている。それらは特殊な恣意や偶然によっては結びついたものではない。

※1

家族関係は本質的には法的な関係ではなくて、愛と心情に基づいて相互に敬愛すべき関係である。そうした道徳的な絆が失われた時に、愛と心情に代わって法的な利害関係に変じる。
※2

Die Pietät 
畏敬、崇敬、孝順などと訳される。
十字架から降ろされたイエスを抱いて嘆き悲しむ聖母マリアの像は「Pieta」と呼ばれる。
ドイツのプロテスタント教において、形式ではなく愛と心情の純粋を重んじる Pietismus(敬虔主義)という宗教運動があった。哲学者カントやヘーゲルたちはそうした家庭環境に生育したといわれる。
※3

すべて個人はその誕生から、家族との関係に入る。母語と呼ばれる言語をはじめ、習慣、生活様式、さらに性格とよばれる資質さえもが、家族の環境の中で養われ規定される。家族(家庭)の決定的な重要性もここにある。
各人にとってその資質や能力は、どのような社会生活を生きるかを規定する基本的な要素といえるが、個人はそれを両親や家庭環境から受け継ぎ、またそれに規定される。
家族・家庭がもつそうした本質的な教育的環境は、いく世代にもわたって継承され伝授されてゆく。それは客観的なもので、それぞれに蓄積された家族・家庭のその差異は一世代や二世代ぐらいでは解消されないほど深刻に個人を規定するものである。
 
 
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