作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

哲学の伝統

2008年07月31日 | 哲学一般

哲学の伝統

哲学の伝統ということを考える。哲学という語彙を手近にある辞書で調べてみると次のようにある。

【哲学】
      ①世界や人生の究極の根本原理を理論的に追求する学問。
         「哲学者」「 哲学的」
      ②自分自身の経験などから作りあげた人生観、世界観。理念。「彼は哲学を持っている」 ▼ギリシャ語PHILOSOPHIA「愛智」から出た英PHILOSOPHYの訳語。(現代国語例解辞典)

言うまでもなく、哲学という概念が問題になるのは、日本においては明治維新以降になって、欧米からその文化と文明が流入してきてからの話である。哲学という用語が明治の哲学者、西周らによって翻訳されたのがはじめである。最近ではカテゴリーも狭まり、世界の究極の原理として、単に弁証法の論理を研究する科学のように扱われるようにもなってきている。しかし、かっては万学の女王だった。

それはとにかく、哲学の祖国といえばやはり古代ギリシャがすぐに思い浮かぶ。有史以来の有名無名の多くの存在の中でも、ソクラテスをはじめその弟子プラトンは哲学の父として人類の歴史に燦然と栄光を担ってきた。プラトンは、理想国家を探求して『国家』や『法律』などの本を書き、いわゆる「哲人政治」という概念を確立したが、彼やアリストテレスに始まるそうした哲学の伝統は西洋文化において、今日に至るまで何千年にわたって脈々と受け継がれている。近代において社会科学が、西洋に起源をもつことになった根拠もそこにある。

その一方において、キリスト教の伝統からは、トマス ・アクィナスの『神学大全』やアウグスチヌスの『神の国』に連なる思想的な系譜もある。

そこには哲学者の重要な使命として、国家の概念を追求するということが含まれている。西洋におけるそうした哲学の伝統の流れにあって、近代に至ってカントは民主主義の世界政府を構想し、その後を批判的に継いだヘーゲルは彼の『法哲学』において立憲君主制の意義を論証した。現代に至ってマルクスの『プロレタリア独裁政府』のような鬼子が生まれたりもしたけれども、人類の歴史は、カントの言ったように、自由の拡大の歴史であるといってもあながちまちがいではないようにも思われる。

普遍、特殊、個別の三段階の発展の論理もどきに言えば、はじめはただ一人の人間だけが自由であったのに、やがては幾人かが自由になり、そして、究極には万人が自由に解放されるという。歴史の発展の論理である。

その一方で、中国をはじめとするアジア諸国の民衆は、その長い歴史的な時間を、家父長的な専制君主の強圧的な統治の下で、抑圧的で過酷な不自由な生活に甘んじてきた。とくに圧倒的な伝統の重さをもった中国の異民族王朝。しかし、アジアの民衆も近現代になってようやく自由へと解放され始めた。

自由がどれほどに貴重なものであるかは、現在の北朝鮮をはじめ、かって東欧の過酷な独裁政治の歴史の体験からもわかることである。国家の形態や政治はそれほど民衆の日常生活の幸福に影響する。

自由と民主主義をかならずしも自国民の実力で獲得できなかったとはいえ、曲がりなりにもこれほど自由を享受することのできている日本国民は、世界的に見ても恩恵を受けている方だといえる。比較相対の問題で、最悪の劣悪政治とまでは言い切れない。現代でもなおスーダンや北朝鮮その他貧困と飢餓にあえぐ似たような国は多い。上を見ても下を見てもキリがないということか。

人類の歴史を総括的に見ても、自由と民主主義が充実するほど、国民生活は「幸福」なものになるようである。現代の日本の政治や社会の不幸も、多くの場面で「自由」と「民主主義」が正しく機能していないためであると考えられる場合が多い。その意味でも、「自由と民主主義」は政治の概念であるといえるのではないか。

そうした事実と観点をこれまで誰も言わないので、何度か繰り返し述べてきたが、現在の日本の政党政治を、「選挙談合利権型政治」から脱却して、それぞれ党是を自由主義と民主主義におく自由党と民主党を中心に再編成してゆくことである。そして、この二つの政党が交替しながら、国民ために自由と民主主義を理念として追求してゆく「理念追求型政党政治」に転換してゆかねばならない。

永年の間に利権利欲がらみで混沌としてからみ合ってしまった日本の政党政治で、それぞれの政党の理念をすっきり論理的なものにさせて行くことだ。政治家や国民がまず、この「政治の概念」をはっきりと自覚してゆくことである。そして、この概念を具体化し、深めてゆくことによってしか、政治家も国家、国民もその品位を取り戻すことはできない。

アメリカでクリントン氏と民主党の大統領候補者指名を激しく争って勝利を得たオバマ氏がヨーロッパを歴訪し、かってのケネディやレーガンにひそみ、ベルリンのブランデンブルク門の前で20万人の聴衆を前に演説を行ったという。日本の政治家たちもいつの日か、彼のように「哲学者」としても、大聴衆を前に演説する日の来ることを願いたいものである。

当然のことながら、政治家が政治に従事するのと、哲学者が政治に関与するのとでは立場も違えば観点も違う。しかし、少なくとも西洋では、ソクラテスやプラトン以来、哲学が政治を指導するというのは自明の伝統だった。その伝統の差異は、欧米の政治家の演説や議論と日本の政治家のそれとを比較して見れば一目瞭然である。

 

John F. Kennedy's speech in Berlin”Ich Bin Ein Berliner”

President Ronald Reagan "Tear Down This Wall" Speech at Berlin Wall

Highlights: President Obama's Berlin Speech
 

 

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戦争はなぜ起きるか

2008年07月25日 | 哲学一般

戦争はなぜ起きるか

hishikaiさん、丁寧なご説明ありがとうございました。「日本の伝統的な土俗的天皇信仰」が、やがて西欧列強との対決や日米開戦に帰結するというあなたのお考えの趣旨は理解できたと思います。

「日本の伝統的な土俗的天皇信仰」が、「戒律を廃した法の不在という「思考形式」」として拡大し普遍化し、やがてそれが漱石や伊藤博文らの天皇観をも淘汰してゆき、国民大衆の狂信的な排外主義として拡大し帰結したためだと理解しました。

ただ、このあなたの見解は、「国民大衆の下層からの強力な天皇信仰」が日米開戦の主要因と見ているらしい点では、日本国憲法の前文でも主張されているような「政府の行為によって」「再び戦争の惨禍が起こることのないやうにする」という戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が公式見解として打ち出している認識とは異なっているようです。

GHQが自らの憲法草案に織り込み、憲法の前文で厳かに宣言しているように、(それは単なるレトリックなのかも知れませんが)、日米開戦の主要因は、国民大衆にではなく政府(の指導者たち)にあると見ているように読むことも出来ますから。

日米戦争や日中戦争のように、「戦争がなぜ起きるか」という問題はそれほど難しい問題ではないと思います。それはちょうど、蛇や鷹などの生物が互いの生存を賭して戦うのと本質的には変わらないと思います。人間も含めイヌやブタなどの動物たちと同じように、現代の国民国家も、それぞれ本質的に排他的な独立した個体だからだろうと思います。

だから、戦争の本質を、国民大衆や哲学者、政治的指導者、好戦的な軍人などの、国民国家を構成する要素に見るのではなく、「国民国家」の存在自体が本質的にもつ論理に見るべきだろう思います。確かに、国民大衆や哲学者、政治的指導者、好戦的な軍人などは、国民国家を構成する重要な要素だと思いますが、それぞれの運動は本質的に偶然的です。ただそれらの集積が一つの必然として戦争が発生するのだと思います。

だから、hishikaiさんのように「伝統的な土俗的信仰習慣」の筋から日米開戦を見る見方も、私のように、国民の民主主義の能力から日米開戦に至る筋を見る見方も、かならずしも間違ってはいないと思います。戦争の要因は単一にとどまらず、さまざまの偶然的な複合的な要因が集積して、その結果、国家自体の論理として必然的に戦争が生じるのだと思います。

ただ、今のところ、その中でも、国家を構成する「市民社会」の論理、「人間の欲望」の論理、マルクス流に言えば、「資本主義の論理」がやはり、近現代の戦争の論理をもっともよく説明するのではないかと考えています。

                                       そら(ANOWL)

 

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hishikaiさんの「都下闃寂火の消えたるが如し」評(2)

2008年07月23日 | 歴史

hishikaiさん、コメントのコメントありがとうございました。

漱石の『私の個人主義』などは昔読んだ記憶はあるのですが、その細部は忘れてしまっています。

先の漱石の日記の見解の論理構造を整理されていると思いますが、hishikaiさんのおっしゃる「その原因の半分に明治以前からの庶民の土俗的信仰習慣の問題(この場合は庶民の側からの自発的な天皇信仰(の欠如)」が「戦後民主主義」はとにかく「日米開戦」にどのようにつながるのか、その論理が今ひとつピンときません。よろしければ、もう少し詳しく説明してください。

ちなみに私の場合は、伝統的に弱い「国民主権」が、結果として(おおざっぱな論理ですが)「日米開戦」や「官僚主権国家」を防ぎ得なかったと考えているからです。加藤友三郎や東郷平八郎元帥らが生きている間は、ワシントン会議に見られるように軍部の主戦論者に対する押さえは利いていたのです。彼らの死後はその重しもなくなってしまいました。しかしいずれにせよ、歴史にIFは禁物です。

そら(ANOWL)

 

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ナスビ

2008年07月23日 | 日記・紀行

ナスビ

駅を降りてから我が家へと向かう途中の景色も、一昔から見ればずいぶんに様変わりしたものだ。要するに畑や稲田などの農地が減って宅地が増えたということである。

市街の中心部に通勤通学する人たちのベッドタウン化が進みつつあるとはいえ、それでも市街地からは少し外れているので田圃はまだまだ残ってはいる。朝夕に徒歩か自転車で稲田の間を抜けるとき、青サギや白サギが田圃で餌を啄んでいる姿も見られるし、遠く南の方角から、青い稲を波打たせながら涼しい風が吹いてくるのを感じることもある。

そうして道々に農家の人たちの労働の結晶であるその青い稲田や畑を眺めたり観察したりしながら帰ることも多い。

水田の間に混ざってところどころにかなり大きなナスビ畑がある。農家が近隣のマーケットなどに、ナスビを商品として納入しているのだろうと思う。ナスビの葉や茎が畑の畝に見事に育っている。ナスビの茎や葉を支えるためにつるされた白い紐の、そのきれいに整然とした配列は、遠くから見ると製糸工場で紡織機が列んでいるようにも見える。

ちょうど夕方に私が歩いているとき、まだ農家の人が畑でたまたま仕事をしてしているようだった。道路の片側に軽トラックを寄せていた。その荷台には丸い大きな口の開いたポリタンクも載せられていた。日焼け予防の帽子と手ぬぐいで顔を隠した農家のおばさんがホースを手にしながらそこに腰をのせていた。エンジンかポンプ機の回転する音がする。見たところどうやら農薬を散布しているらしい。

この人の旦那さんはどこにいるのだろうと眼で探すと、畑の真ん中あたりに白い帽子の先が見え、散布するホースから霧が吹き上がっていた。よく見ると旦那さんは白いマスクをして作業をしていた。何か薬を散布しているようだった。マスクをしなければならないということは、直接にその霧を吸い込むと身体によくないということなのだろう。

そういえば、山に私が植えているナスビは、葉っぱがかなり虫に喰われたのか、茎や葉脈だけ残って錆びた金網のようになってしまっているのもある。葉や茎や実を支えるために、農家の人と同じように私も茎を麻紐でつるしてナスビを支えているが、それだけである。だからナスビの花に実がなっても、形はいずれもいびつであるし、収穫の後れたものは、熟れすぎて裂け目さえ見える。

都会の女性の多くが化粧によって容姿を整えているように、マーケットなどに出回っているナスビは、その薬の撒布によって「きれいな姿」が保たれている。撒布しているのはおそらく防虫剤などなのだろうけれども、しかし、マスクをして農作業をしなければならないというのは、吸引すると身体の健康によくないからにちがいない。虫食いのない見栄えのよいナスビでないとマーケットでは売れないからだ。その美意識のために、不健康をも甘んじている。考えてみればおかしなことである。

こうした労働と生産の現実は、単に農家の生産にとどまらないだろう。現代の資本主義的な生産様式に大きな意義のあることは確かである。しかし、そこには多くの矛盾もある。また人間の「生産労働の概念」にかなってもいないようである。だとすれば、それらもいずれは変革されて行かざるを得ないということなのだろう。

 

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hishikaiさんの「都下闃寂火の消えたるが如し」評

2008年07月21日 | Weblog

 

hishikaiさんの記事にコメントしようとしたところ、「内容が多すぎますので208文字以上を減らした後、もう一度行ってください。」という「コメント」がまたまた出てしまいました。
「エキサイトブログ」の社長さん、雄猫と雌猫の愛のエールならとにかく、こんなことでは、まともなコメントも出来ないのではありませんか。

以下コメント
「明治天皇がご病気になられたときに、民衆がとった態度についてhishikaiさんの認識と漱石の認識には食い違いあるようです。果たしてどちらの判断が正しいのでしょうか。

確かに、国民大衆は「官命」に忠実であり、それをhishikaiさんは皇室に対する「民衆の素朴な信仰」心の現れと見られておられるようです。hishikaiさんのその判断も決して間違いであるとはいえないと思います。

しかし、漱石がそのときに「川開きの催し差留られたり。天子いまだ崩ぜず。川開きを禁ずるの必要なし。」と感じた事実も重く見るべきであると思います。
国民大衆の皇室に対する「素朴な信仰」は漱石も認めていただろうと思います。その一方で漱石は当時の「専制的」な「公権力」に問題を感じたのではないでしょうか。明治天皇崩御と同じ年に石川啄木も亡くなり、その前年には大逆事件に関係したとして幸徳秋水ら24名に死刑判決が下されています。

英国の立憲君主制を現地で肌身に実体験していた漱石にとっては、「当局による民業干渉と翻訳することで自らに納得させようとした」のではなく、強すぎる「当局」の公権力行使に対する批判、あるいは、「国会開設や租税問題」で自分たちの意思を十分に実現できないでいる弱すぎる国民の「民権」に対する批判の表明だったのだと思います。
この弱すぎる「民権」が、やがて日米開戦へ、さらに「戦後民主主義」に連なっているのだろうと思います。」

 

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民主党の党首選挙(2)

2008年07月18日 | 哲学一般

民主党の党首選挙(2)

もちろん、何も狂信的に何が何でも「党首選」を実行せよ、と言うのではない。
民主党の幹部が、直嶋正行政調会長が主張するように、本当に圧倒的な多数の支持を獲得できるリーダーで、その能力の評価において衆目の一致するところであれば、対抗馬がなく無投票で選出されると言うこともあり得るだろう。しかし、現在の小沢一郎氏は「民主党」のリーダーとして、真実の民主主義者であるといえるのか。そして、現在の民主党には小沢氏の民主主義者としての体質に異議を唱える論者は一人もいないのか。小沢氏に対抗して真実の民主主義者がどういう者であるのか、日本国民に範を示すために立とうという 覇気のある政治家は民主党の中に誰もいないのか。

現在の小沢民主党党首は、かっては自由民主党の幹事長として、自民党総裁選に出馬表明していた宮沢喜一、渡辺美智雄氏らを事務所に呼んで総裁選の実質的な権限を握るほどに、若くして権勢を振るっていた。小沢氏は故田中角栄氏の弟子もしくは申し子として政治家として成長したのである。その後、自民党を離党したが、また、イギリス議会に倣って国会に党首討論を取り入れたり、また濡れ手に粟のような現在の政党助成金制度の導入に能力を発揮し貢献したのも、この小沢一郎氏だった。

確かに小沢一郎氏は、青臭い書生派国会議員の多い現在の民主党の中では、かっての田中角栄氏を師として仰ぎその薫陶を受け、また大衆の機微をわきまえたいわゆる角栄流に日本的に有能な政治家ではあるだろう。だからこそ管直人氏や鳩山由紀夫氏らの支持を得るとともに、同じ民主党内の前原誠司氏らからは批判を受けている。

民主党と対抗する自民党においては、たとえレトリックにすぎないとしても小泉純一郎氏が、「自民党をぶっ潰す」というキャッチフレーズで登場し、郵政解散総選挙で、事実上自民党内のいわゆる「抵抗勢力」を排除して、曲がりなりも自民党内の道路族をはじめとする党内の利権構造にメスを入れようとした。たとえそれが中途半端に挫折に終わったとしても、自民党は旧来の利権政治家集団から脱して、国民政党に脱皮しようという片鱗は見えていた。それゆえにこそ当時は自民党も国民の一定の支持も集めたのである。そして、政策的にも心情的にも、民主党の前原誠司氏などは、氏の日常の言動から見ても、いわゆるこの「小泉改革」に共感するところが少なくないはずである。

それに対して、現在の民主党の党首小沢氏は郵政解散総選挙で自民党を離党した国民党の綿貫氏らと会談し、「郵政民営化を正すためにも政権交代を実現したい」と選挙協力を確認しあっている。そうした郵政民営化をご破算にする動きや農業の個別所得補償や子育て支援などの「バラマキ政治」に故田中角栄氏の旧自由民主党政治を髣髴させるものがある。だから、いわば前原誠司氏などの政治的な立場からすれば、民主党にあって小沢一郎氏は、故田中角栄氏の旧い自由民主党の政治体質を復元しようとしているようにさえ見えるにちがいない。

さらにまた、かっての戦後間もなくの自民党のボス政治家たちのように、小沢一郎氏がいわゆる「料亭政治家」の体質を抜けきっていないことがある。これは政策以前の政治家の体質の問題で、小さなことであるともいえるが、日本の政党政治は、酒席をはずしたところで、アルコールや酒と無縁のところで運営される必要がある。江戸期の大名や明治の元勲たちのように酒席に女を侍らして天下国家を語るような政治文化の名残から日本の政治は足を洗わなければならない。こうした点も小沢一郎氏が「新しい」民主党のリーダーとしてふさわしいか懸念する点である。

一方で、民主党内にあって小沢一郎氏に対抗する政治家として前原誠司氏らが取りざたされることが多い。この前原誠司氏について少し論及するなら、かって氏が民主党の代表の地位にあったときに、いわゆる「偽メール事件」で永田議員が辞職したときの前原代表の対応に見られたように、何よりも前原氏は戦後民主主義の申し子ともいえる。それゆえ前原誠司氏には戦後民主主義を歴史的に相対化する観点も能力もない。この点では、中途で哀れにも挫折したとは言え、少なくとも「戦後政治体制の脱却」をスローガンに掲げた安倍晋三前首相にすら及ばない。

「戦後日本の民主主義」を日本史や世界史の通史の中に、また、人類の全歴史から見たときに、どのように評価され位置づけられるかという、自己相対化の視点や能力が前原誠司氏にはほとんど欠けている。自己の生きる国土と時代を客観的に把握し相対化できないものには、その時代と国民の限界を克服することはできないのである。

何度も言うように、要は国民全体の民主主義における能力の問題である。民主主義が歴史的にその出自がプロテスタントキリスト教にあるのに、この根本的な事実さえも明確に自覚されていない。

だから、いくら民主党が分裂したからといって、そのことが直ちに真実の「民主主義政党」の誕生にはつながらない。最終的には「人」であり「人材」である。真の民主主義を能力として実行、実現できる人材なくして、いくら看板だけを新しく掛け替えても、その中身は旧態依然のままである。

比較的にも少なくとも国民が全体として真実の民主主義を体現できるようになるためには、その前提としてまず優れた思想家、指導者、哲学者たちによって国民に対して、真実の「民主主義の概念」が明らかにされていなければならない。

続いてその「正しい民主主義の概念」を学んだ教育者、政治家たちが、10年、20年、さらに半世紀、100年と倦まず弛まず国民に対して教育活動を行った成果として、大地に雨垂れが染みこむように、正しい民主主義の精神と方法が国民性や文化の一部としてようやく血肉となってゆくものである。

期待したいのは、現在の小沢民主党が真実の「民主主義政党」に変身して行くことである。しかし、これも砂漠に蜃気楼を見るようなものか。
 

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民主党の党首選挙(1)

2008年07月17日 | ニュース・現実評論

民主党の党首選挙(1)


民主党の動向については、これからの日本の進むべき方向に関心をもつ者は、注視せざるを得ない。かって民主党に結集する政治家たちの「民主主義の能力」を検証してみたことがある。

 民主党四考 

あれから、三年。自民党の体たらくによって、民主党は自民党にとって代わりうる政党と見なされ始めているようだ。しかし、この民主党は本当に日本国民に民主主義を教育し指導する資格のある政党になり得ているのだろうか。

確かに、前回の党首選の時とは異なり、今回は党内からも「小沢一郎代表の無投票三選論批判」も出てきているようである。一方、小沢氏も、福岡市での記者会見で代表選について「われと思わん人がどんどん立候補することは当然でことである」とも述べている。民主党も民主主義政党として前回の党首選の時よりは進歩していると思う。

[渡部民主党最高顧問、党代表選の無投票論を批判]
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080627/stt0806272301004-n1.htm

民主主義的な政党や組織では、党員や構成員の多数決によって党首や政策、議事を決定するが、反対意見の持ち主は、多数決によって決まった政党や組織の決定には規律としては従うけれども、その多数意見に納得出来なければ、自己の意見を変える必要はない。少数意見が多数意見になるように努力して、政党や組織の意見を変えてゆけば良いだけの話である。

組織の規律として多数意見に従うということと、自己の意見がたとえ少数意見であっても、多数意見に改宗する必要はないということがわかっていないのではないだろうか。規律として多数意見に従うということと、少数意見として自己の信念を維持するということが両立する政党や組織でなければ、真実に民主主義な政党や組織とはいえない。このあたりの自明な事柄すらわかっていないのが、日本の自称「民主党」や日本国民の一般的な民主主義の能力水準ではないだろうか。

だから、党首選を激しく戦えば、後で感情的なしこりが残るから党首選は避けようといった意見が出てくるのである。確かに、人間のすることだから、そうした感情的なしこりも当然に残るだろう。しかし、少なくとも民主党と自称して、日本国民に民主主義を教育し指導する立場に立とうと考える政治家たちの集団なら、そうした感情的なしこりをも克服して、党や組織で決定されたことには、たとい自身の個人的な意見とは異なるとしても、努力してそれが次に多数意見になるまでは、その反対意見にも規律として従うという成熟した大人の民主主義の態度をとれるようでなければならない。

日本の民主党の民主主義の能力の水準がどの程度のものであるかは、この政党と政治的に思想的に比較的に似た立場にあるアメリカの民主党やイギリスの労働党とを比較してみればわかる。

アメリカの民主党においても、アメリカの場合もそれは大統領候補の選出に直結しているわけであるけれども、周知のようにヒラリー・クリントン女史とバラック・オバマ氏があれほど激しく長期にわたって事実上の党首選を戦った。けれども選挙後は、彼らはその感情的なしこりを残さないように大人の態度を取り、民主党の団結を守ろうとしている。かってマッカーサーが日本の民主主義は12歳の少年のそれだ語ったそうだが、感情的なしこりを口実に党首選を避けようとする日本の現在の民主党のそれは、日本国民の民主主義の能力水準を象徴しているようなものだ。

 

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幼子

2008年07月11日 | 日記・紀行

幼子

帰りの電車の中で、サラリーマンやOLなどが乗り降りするのに混じって、若い夫婦がベビーカーに子供を乗せて乗り込んできた。それほど混んでもいなかったので、奥さんの方は座席に腰を下ろした。そして、ベビーカーの引き手を押さえながらそのまま立っていたご主人と何かにこやかに話していた。

私の座席からはちょうどすぐ斜め向かいあたりで、ベビーカーの中で気持ちよさそうにすやすや眠っているまだ三つぐらいの男の子の寝顔がよく見えた。
私は電車内のつれづれに任せて、かわいいその男の子の寝顔に惹かれてしばらく興味をもって眺めていた。

確かに私たちは、あまりにも余計な重い鎖を引きずり過ぎている。この子のように天真爛漫に受け入れるのでなければ神の国には入れないのだ。

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市街地眺望

2008年07月09日 | 日記・紀行

市街地眺望

山に登る。高いところから眺望するのは好きだ。さまざまな思いに浸れるから。キュウリが食べきれないほどなっていた。ヨナのとうごまのように一夜にして育つ。トマトもはじめてもぎ取って食べた。少し早すぎたようだ。まだ青臭い。もっと真っ赤に熟れてからだ。
みんなと草を刈っているとき、アンナ・カレーニナの隠れた主人公であるレヴィンが農夫たちと草刈りを競う場面を思いだした。

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hishikaiさん

2008年07月07日 | Weblog

hishikaiさん、あなたに頂いたコメントにお礼とお返事をしようと思ったら、「内容が多すぎますので、946文字以上を減らした後、もう一度行ってください」という表示が出てしまいました。面倒なので新しい投稿記事にしました。


hishikaiさん

今日は暑かったですね。hishikaiさんのお住まいの地方はどうでしたでしょう。
とは言え暑いからこそ夏なのでしょうが。あなたのブログも折に触れ訪問させて頂いています。

ところで私のブログも少し真面目すぎるかなと感じています。もう少し、ユーモアや冗句もあってもいいかなという反省もあります。「哲学のユーモア」か「ユーモアの哲学」も気にかけて行こうと思うのですが、どうしても地が出てしまうようです。

hishikaiさんにコメント頂いたのですが、今回の記事で、戦後半世紀以上も、この日本国を支えてきた「平和」憲法の核心を根本的に批判しているはずですのに、ほとんど何の反響もないのも少しは寂しく残念な気がします。無名で平凡な一市井人のつぶやきには、誰も真剣に耳を傾けないのでしょう。

無視を決め込んでいるか、問題提起にも意識が掘り起こされるということもないのでしょう。本当は「平和」憲法を養護する憲法学者たちの意見を聴きたいのですが、皆さん、政府の審議委員などのお偉方できっとお忙しいのでしょう。非哲学的な国民のことですから、このあたりが妥当だろうと思っています。

hishikaiさんはコメントで「本文では「非哲学的な日本国民」を平和主義者を自認する人々に絞って用いているように読めます」とありますが、そんなことはありません。

哲学における国民性の資質と能力に――それは、宗教などに規定される面も大きいと思うのですが、私は希望は持ってはいませんから。どんな国民にも得手不得手はあるから仕方はありません。ただ、国民と国家の哲学が深まらないかぎり、国家や国民に本当の「品格」は生まれて来るはずはないとは思いますが。

また、hishikaiさんは「これからの我国では左右両翼の対立に代えて、真に対立軸とすべきは、この哲学的思考の有無でなければならない」ともおっしゃられていますが、この認識をもう少し具体的に進めて言えば、この「哲学的思考の有無」は「ヘーゲル哲学に対して自分はどういうスタンスを取るか」、あるいは、とくに国家論で言えば、「ヘーゲルの「法の哲学」に対して自分はどのような立場を取るか」、ということになるだろうと思います。

しかし、残念ながら国立大学の憲法学者たちですらこの教養の前提がなく、したがってそうした問題意識すら生まれてこないのが現状であるようです。そうして、こうした憲法学者が、日本国民に憲法を「教授」しているのです。

 

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