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荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

遊子水荷浦の段々畑ー4

2017年06月10日 | 散文
段畑の頂上を過ぎて、峠の反対側の農道を歩いています。
見えるのは、やっぱり宇和海です。
ここは宇和海に突き出した岬です。


農作業の機器がありますが、日当たりが悪い北側なので、耕作地は疎らです。


切り干し芋生産の最盛期には、こちら側にも段畑があったと思います。


実は、初めての土地で、不安げに歩いています。
地図を持たないで農道を歩いています。
どのくらい時間が掛かるか分からないまま歩き始めたものの、道は不案内だし、誰にも行き当たらないし・・・。
左手には宇和海です。


右手には耕作放棄された段畑が続きます。


道々桑の実や木いちごをつまみ食いしながら歩いています。
懐かしい味です。子供の頃摘んで食べた思い出を供に歩きます。


右上から、放置されたマネキン案山子がこちらを見ています。
不気味です。


林間から耕作している段畑が見えました。


覗き込むと民家と、反対側(出発地点側)の海も見えました。
ほっとしました。


改めて段畑を注視します。
段畑の移動は梯子で行っているようです。

厳しい環境です。

海岸に出ました。
正面の段畑から小1時間掛けて岬を回ったようです。


先ほど林間から覗き込んだ段畑です。


養殖器具と段畑が共存する景色です。


海越しに段畑を見ます。


穏やかな宇和海がたゆっています。


私の暮らしとは全く別世界の集落です。


帰り道、トンネルを抜ける毎に現実世界に戻されていきます。


長らくのお付き合いありがとうございました。

コメント (2)
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遊子水荷浦の段々畑ー3

2017年06月10日 | 散文
四国各地にある落人の隠れ里と違ってこの集落の来歴ははっきりしています。
そしてその歴史の栄枯盛衰は驚嘆に値します。
(遊子水荷浦段畑ガイドHP参照)

江戸時代の初め、宇和島伊達藩(初代藩主秀宗、伊達政宗長男・庶子)の指導により、鰯漁を行う集落が宇和海の浦々に興りました。

沿岸部には稲作に適した土地が無い為、漁師は山の斜面を開墾して畑を拓き、雑穀を栽培して暮らしていました。

当初は麓周辺での畑作でしたが、人口が増加した江戸末期に山の斜面を段々畑として開墾して行き、この頃伝わったサツマイモを植えるようになりました。

江戸末期に始まった段々畑は徐々に増えて、明治10年にはこの水荷浦で8900枚を数えるようになりました。

この頃はまだ石垣ではなく土岸だった段々畑は、明治末から大正に始まった養蚕業により変化していきます。

サツマイモに代わって蚕の餌になる桑の木の栽培を初めました。
養蚕で得た収入で畑の石垣化や家屋の改修を行いました。

しかし、この養蚕景気も昭和初期には終わりを告げ、ここ水荷浦も大きな負債を抱えます。

再起を賭けて始めた鰯網漁が当たり、村は好景気を取り戻して石垣の負債を完済します。

この頃から、働き盛りの男は漁に、女性と老人が段々畑ヘの仕事の分担が始まります。

段々畑では再びサツマイモが栽培されるようになりました。

そのサツマイモが戦後の食糧難にマッチし、切り干し芋景気となって収入を底上げしました。

生食だけでなく澱粉や酒用アルコールの原料として切り干しの需要が旺盛となって、切り干しが米と同値になります。

サツマイモの耕作地を増やそうと畑の石垣化に拍車が掛かります。
しかし、昭和27年に切り干しが大暴落します。

昭和30年代は、切り干しの暴落と不漁、ネズミの大量発生により、村の経営は苦しいものとなります。

この際、サツマイモの農閑期(冬から春)にジャガ芋を栽培したところ、予想外の収穫を得ます。

ジャガ芋は驚く程の高値で売れ、水荷浦地区には大阪からの貨物船が横付けされるようになりました。
しかし、昭和39年に生産過剰でジャガ芋が大暴落します。

周辺の集落では柑橘類の栽培に切り替えましたが、水荷浦地区の環境は柑橘類の栽培には不適切で、ジャガ芋の栽培を続けながら真珠やハマチの養殖を試みます。

やがて全国屈指の養殖産業地区として発展していきます。

30ヘクタール以上あった段々畑が2ヘクタールまで縮小しました。

養殖産業に陰りが見えはじめた現在は、景勝地として段々畑が見直されて畑の回復が図られており、5ヘクタールまで回復して年間2万人の観光客が訪れる迄になっています。


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