ていうか
これはいけません
さすがのワルさだ
石川啄木
気の毒な
金田一京助言語学者
画像は気の毒な
京助青年の方です
◇
そもそも
金田一家の
祖父、父、息子、
三代に渡る
日本語学での
貢献
なんだか
『国家の備品』
みたいになっている
ご一家
なんですけど
◇
その祖父
金田一京助が
あの!石川啄木の
近しい盛岡の上級生で
菊坂の下宿で
同居までした親友だなんて
知らなかった
◇左が京助右啄木です
しかし
この啄木が悪い
これでは
『石もて追われる』
のも仕方ないなあ
故郷全員に
嫌われるって
それなりの
理由が
やっぱりあるんだ
◇
26才でなくなった
とあれば
まあすべて
赦しても
しかたないような
気もしますが
でも
若くして
今で言う30万余の
給料もらって
全部遊興しちゃって
『はたらけど、はたらけど
我が暮らし楽にならざり
ぢっと手を見る』
の歌は違うでしょう
と言われてます
◇
なくなったとき
借金二千万円で
薬が買えず
『僕は生きられる命を
金が無いために絶たれるのだ』
と京助か牧水に
嘆いたという訳ですが
まあ仕方ない
気もします
◇
読んで分かる
短歌、俳句は
一茶、啄木、後代の俵まち?
だけのような気もします
子規には
わるいが
子規も若干意味わかんないです
バショーは
分かるな
読んで意味の分かる
日本語で書いてある
◇
まあそんなのに
取り付かれて
気の毒な
京助は
アイヌ叙事詩の研究の
言語学者の大家で
息子の春彦も
長い事テレビで
視聴者のために
日本語解説してくれました
ざんねん
なくなって
それでもう
解説してくれる人は
終わりかと
思ったら
三代目
秀穂氏が登場
こんなに
必要とする場所に
いつの時代も
いてくれるなんて
まこと金田一家は
『国家の備品』のよう
◇
それで今回の
『金田一家三代の物語』
のテレビ番組内で
秀穂氏が
故郷盛岡の
金田一記念館を
訪れたら
なつかしい
おじいさん京助の
書斎が移築
されていて
子供の頃
いつも遊んでいた
この唐紙の前に座って
こうやって
ここにあってと
テーブルを
正しい位置に引っ張って
思い出を語ってくれました
◇
そしたら
この画面右
半分の顔で
この直後
お父さん春彦の
思い出で
ブハッ
と泣きましたよ
◇
この泣き方を
テレビでしたのは
早坂秘書だけだ
田中角栄の
◇
若い秀穂氏が書いた
論文を褒めて
さかんに感心し
さらに
それだけじゃなく
自分の名前で
この論文を出したい
と言ったそうです
それって
最高の褒め言葉ですよね
と言って
秀穂氏は
ブハッ
と言って
絶句したのでした
◇
春彦お父さんは
92まで健在で
それでなくなったのだから
もうこれ以上と
いう思いは
秀穂氏にもないんだ
だけど
思い出すんだ
ウカツにも
テレビ番組の中で
急に
◇
これだけで
一家三代の
ドラマを見たような
気がしました
見てよかった
◇
しかし
こらー
たくぼくー
そりゃ薬は
買えないワ
観念
したまえ
◇