きっとそうだと
思うんです
◇
この画像を見ると
◇
アドリア海の
トリエステの
イリー社の珈琲
エスプレッソを発明した
イリー社の紹介の
番組で
ハプスブルグ家
すなわち
オーストリアの
ウィーンの人々にとって
トリエステこそが
海に開いた
港であって
物資の集積地
◇
その名残りと言うか
仕組みはまだあって
ドイツ民族
ウィーンの物資は
まだここに
積まれている
◇
そういうことだと思う
◇
遠くジャパンから
見ているのと違って
現地では
ウィーンドイツの
人々にとって
トリエステ
クロアチア方面は
地球の裏の日本から
思っているより
ずっとずっと
重大な場所なんだ
◇
だから当時
帝国全盛の頃は
あーん
帝国の人々からすると
領地は
今のオーストリア&ハンガリー
だけでなくて
それと同じくらい
北イタリア
フィレンツェ、ミラノ、トリノ
それから
今回の画像では
範囲に入ってないけど
占有目標としては
長靴の太モモの上の位置の
トスカーナあたりまでが
ハプスブルグ帝国の
正式な
まっとうな
領地
という意識だったのだと
思う
◇
イタリア人の方の気持ちは
ともかく
征服者
皇帝一家としては
◇
まあローマ以南は
入らないと
思うんですが
いちばんイイトコ
北イタリア
ロンバルディアは
自分たちの
基盤領土
だったんじゃ
ないかなあ
◇
ついでに
スペインにも
息子を入れて
支配したわけですけど
北イタリアは
本家の分
みたいな
◇
だっから
そのイリー社の
エスプレッソを
トリエステに行って
カフェで味わえば
文化
すぐそこに
ウィーン
だと思うんだ
◇
勉強しないと
分らないもんだ
◇
メデセデ・ベンツや
アフファロメオで
走る
ほんの数時間の
距離なんだなあ
きっと
◇