ガレット デ ロア 1
今月のお菓子は ガレット デ ロア です。
上の ガレット デ ロア はフランス流に少し「薄め」です。生徒さんから薄いと言われたので念のため申し添えておきます。
ガレット デ ロアについて述べようとすると、古代ローマにまで遡らなければならないようです。これはほかのお菓子には見られない特異な例です。他のお菓子とは違う特別の理由がありそうです。
古代ローマでは、サートゥルヌス神(農耕神、時の神)を祝ったサートゥルナーリア祭(Saturnalia;農神祭は、12月17日から12月23日まで(ローマ暦およびユリウス暦で)を開催していました。
その期間、紀元300年頃は、大きな、太陽に似せた、金箔を貼ったケーキを作ったそうです。奴隷が一日だけご主人になって食事をすることができたといいます。間違ってはいけないが、このころの奴隷は今の感覚でいうところの奴隷ではないことです。すでにローマ帝国は滅びの時代に入っていて、ちょうど今の時代に似て、ゲイもいれば、性倒錯者もいる。それらの人々が市民権をもって大っぴらに大通りを闊歩している時代です。もちろんローマ市民よりも金持ちの奴隷もいれば、ローマ市民を束ねてこき使っている奴隷もいる。なんでもありの時代です。学校の先生も奴隷ならば、お巡りさんも、辺境の地を守る兵隊さんも奴隷です。お手伝いさんも、料理人も、ローマ市民以外は奴隷です。そんな中でサートゥルナーリア祭の日には、奴隷がご主人になって(正確に言えば、ご主人役になって)、料理を食べたのです。しかしがんとした、社会の底流を流れる決まりは守られていました。奴隷が料理を食べた後には、その頃を見計らってご主人の料理は別に奴隷が用意していたのです。
古代ローマ時代に書かれた料理書、アピキウスの中にサートゥルナーリア祭に作ったというケーキが紹介されていますので、ここに引用しておきます。プラセンタという名のケーキです。名前から平たい円盤状の形を思わせます。焼いた石の上で焼いたオムレツ、ホットケーキ様のものという説明がありました。
ガレット デ ロア 2
マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス( Marcus Porcius Cato Censorius、BC.234-149,共和政ローマ期の政治家 ) の農業論(Cato: De Agriculture, BC.160 )の中にもサートゥルナーリア祭のことが取り上げられています。「サートゥルナーリア祭とラレースの祭り( Lares Augusti、5/1)の日には一人当たり3 1/2 congii ( 3.4 L ) のワインが支給された。」とありました。
サートゥルナーリア祭とは、12月末にかけて、年間の農業労働が終わった季節に、一種の収穫祭として祝われ、奴隷とその主人がこの期間だけ表面上役割を入れ替えて振舞ったのです。繰り返しになりますが、ローマ社会では奴隷はいなくてはならない存在で、いなければ社会が成り立たなかったのです。
この日は、奴隷にとっては一日だけですが、"king of a day" ( 一日限りの王様 )であったわけです。
ローマ人は太陽のように金色の大きな丸いケーキを作っていたのですが、300年末になると教会はこれらの異教徒の祭りを禁止し、400年になると教会は(1月6日)のエピファニーの日、即ち公現祭;キリスト教的な祭典(ミルラ、香、金の3つの贈り物を持ってきた三人の賢人、メルキオル、ガスパードとバルタザールの訪問を記念する日)に置き換えたのです。
マタイによる福音書から、
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
遅くとも紀元85年ごろまでには成立したと考えられている新約聖書のマタイ伝の、上の内容に無理やりサートゥルナーリア祭で食べられてきたお菓子を結びつけようとしたのです。お菓子になんとも腑に落ちない名前(王様のお菓子)が付いているわけです。Galette de Roi の Roi とは「誰のことなのか?」という疑問です。
お菓子の中のフェーヴがキリストをあらわしていてこの豆が王なのか、
それとも占星術師でヘロデに使わされた三博士のことを指すのか?
皆様はもうお分かりですよね。ご主人に代わった奴隷であることを。
ガレット デ ロア 3
右手に鎌を持って、冬のマントで頭を覆うサートゥルヌス ( Sāturnus、ローマ神話に登場する農耕神 ) ポンペイのディオスクリの家のフレスコ画から、ナポリ考古学博物館蔵
英語名サターンは、土星の守護神とされるローマ神話の農耕神サートゥルヌスに由来しています。農耕が時を刈り取るという意味を持ち、農耕神、時の神として扱われていました。農作物の種を蒔く、草を刈る、収穫するなどの農作業には時を正確に知ることが重要であり、農耕神は時を司る神としても扱われたのでしょう。
サートゥルヌスを祭る神殿は、国庫、法文や元老院決議が保管されるなど、政治的にもきわめて重要な神殿で、サートゥルヌスの祝祭はサートゥルナーリア(Sāturnālia)と呼ばれ、毎年12月17日から7日間執り行われました。その間は、奴隷にも特別の自由が許され、楽しく陽気に祝ったようです。
お話は変わりますが、ミトラス教徒は太陽神ミトラスが冬至に(短くなり続けていた昼の時間が冬至を境に長くなっていくことから)「再び生まれる」という信仰をもち、冬至を祝ったのです。
マリノのフレスコ画から;ミトラと生贄の牡牛。流れる牡牛の血は生命、地球を肥やす動物を意味しています。
農耕、時間を司るサートゥルヌスは一体何に由来しているのでしょう。ギリシア、ローマ時代を支配したミトラ教に基づくようです。太陽神ミトラスを主神とする密儀宗教(ミトラ教、Mithraism)についてはよく分から無いことばかりです。それは、後にローマ国教となったキリスト教がミトラ教を徹底的に破壊したのが理由のようです。ミトラの記憶が消されたのです。
コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認し(313年)、死に際してキリスト教の洗礼を受けて以降、ミトラス神殿がキリスト教徒によって襲撃されました。オスティアの神殿、ローマのサンタ・プリスカ教会の地下から発見された大神殿などには破壊の跡が残っています。
信仰に対する強制力を待たない、言葉を換えれば、政治性を持たない、自然をあがめることだけで成り立っている宗教は非常に脆いところがあります。世界中のかつてのどの宗教を見てもそう言えるでしょう。今の時代は、ケルト、アイヌ、アメリカインディアン、アボリジニーが心の内に感じていた自然を崇める姿勢を再び、少し形は変えてはいますが、回帰しようとしているように感じます。
キリスト教は十二使徒を、十二星座の代わりに夜空に振り分けようとしたのですが、自然、特に星座を頼りに生活をしている人達、農夫、航海士、旅人達に受け入れられることはありませんでした。キリストの誕生を12/25に決め、冬至の日を境に長くなる昼間の意味にその誕生を結びつけようという企みは脆くも崩れたのです。少し言い過ぎかな? しかし支持されなかったことは事実でしょう。夜空にはメソポタミア起源のみずがめ座、ふたご座、しし座などの12星座が輝いています。
サートゥルナーリアを公現節にすることには、かろうじて成功したようですが、Galette de Roiの「王様」とは誰のことなのかまでは説明がつかなかったようです。
言い忘れていましたが、マタイ伝はおおよそ紀元85年ごろに書かれたといわれていますので、キリスト教は250-300年かけてその内容を公に認めさせたということができるでしょう。
完
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