宗教改革のメモ書き。
グレゴリウス7世をはじめ、ローマ・カトリック教会は両剣論というのを説いていた。
この世は、聖と俗の二つの権力に支えられている、という考えである。
これに対して、ルターは両国論というのを主張した。
教会は天の国に属しているべきで、法制度を必要とする地上の国に教会は属さない
というものである。
ローマ・カトリック教会では、洗礼によって人間の原罪は消えて、個人の犯した罪が残る。
個人の犯した罪は聖職者が命じる善行を果たすことで許され、天国行きが約束される。
これに対して、ルターは、洗礼によって、天国行きの可能性が開かれるだけで、
天国行きが可能かどうかは、人には知ることができないと言う。
人間はとことん堕落していて、天国行きが可能になるのは、神の一存に掛っている。
聖職者はその橋渡しなどできるはずがない。
地上は罪と死の国であり、腐敗と堕落に満ちている。
けれども、そんなこの世と人間を創ったのも神である。
人間のなかには、「隠れた神」がそなわっている。
だから人は神の命ずることを地上の国で実現すべく尽力しなければならない。
そのうえで、神が天国行きを決めてくれるのを願うしかない。
このような考えが、ルターの神学の教えであった。
教会に罪を清める権利なく天国行きは神の御こころ
グレゴリウス7世をはじめ、ローマ・カトリック教会は両剣論というのを説いていた。
この世は、聖と俗の二つの権力に支えられている、という考えである。
これに対して、ルターは両国論というのを主張した。
教会は天の国に属しているべきで、法制度を必要とする地上の国に教会は属さない
というものである。
ローマ・カトリック教会では、洗礼によって人間の原罪は消えて、個人の犯した罪が残る。
個人の犯した罪は聖職者が命じる善行を果たすことで許され、天国行きが約束される。
これに対して、ルターは、洗礼によって、天国行きの可能性が開かれるだけで、
天国行きが可能かどうかは、人には知ることができないと言う。
人間はとことん堕落していて、天国行きが可能になるのは、神の一存に掛っている。
聖職者はその橋渡しなどできるはずがない。
地上は罪と死の国であり、腐敗と堕落に満ちている。
けれども、そんなこの世と人間を創ったのも神である。
人間のなかには、「隠れた神」がそなわっている。
だから人は神の命ずることを地上の国で実現すべく尽力しなければならない。
そのうえで、神が天国行きを決めてくれるのを願うしかない。
このような考えが、ルターの神学の教えであった。
教会に罪を清める権利なく天国行きは神の御こころ