美術館巡りと古都散策、Jazz & Bossa など・・

スタンダードやボサ・ノバなどを歌って録音したり、美しい景色などを撮影して動画を作っています。美術展にもよく行きます。

ナタリー・コールの訃報

2016-01-06 | Jazz Vocal

ナット・キング・コールの娘としても知られるナタリー・コールが

昨年の12月31日に65歳で亡くなられた。

私にとっては、最も好きな歌手で2011年の来日公演を聴きに

行っていますし、早すぎる逝去だったので、とても悲しかったです。

        

では、ナタリー・コールの経歴を振り返りたいと思います。

ナット・キング・コールと、デューク・エリントンの楽団歌手だった

マリア・コールのあいだに生まれ、幼い時から音楽家たちに囲まれて

育った影響もあって、11歳から本格的に歌うようになった。

「ナット・キング・コールの娘」ということでジャズの道を進む

ことが期待されましたが、アレサ・フランクリンやジャニス・

ジョプリンの影響を受け、R&Bやロックに傾倒するようになり、

1975年に『Inseparable』でR&Bシンガーとしてアルバム・デビュー。

デビューアルバムの中の1曲「This Will Be」がヒットし、26歳の

時にグラミー賞の最優秀新人賞などを受賞し「ニュー・アレサ」など

と呼ばれるなどその実力が認められるようになった。


翌1976年にはセカンド・アルバム『Natalie』に収められたディスコ・

タッチの「Mr. Melody」が東京音楽祭でグランプリを受賞。さらに

1977年のサード・アルバム『Unpredictable』からカットされた

ブルージーなバラード・ナンバー「I've Got Love On My Mind」は、

ビルボード・シングル・チャートで5位に輝いた。その後も『Thankful』

(1977年)、『I Love You So』(1979年)とヒット・アルバムを連発する。

しかし、80年代に入るとドラッグに手を出すようになり、かつての勢いを

失っていった。

再び脚光を浴びたのは、1987年に発表したアルバム『Everlasting』に

収録されたブルース・スプリングスティーンのカヴァー「Pink Cadillac」が、

じわじわとチャートに上りスマッシュ・ヒットした事。


このヒットによりアルバム自体もビルボードのR&Bチャートで8位まで上昇。

さらに1989年のアルバム『Good To Be Back』からカットされた

「Miss You Like Crazy」も全米で7位、UKでも2位という大ヒットを記録。

そして極めつけは、これまでコンサート等でも父ナット・キング・コールの

曲のカバーを要求されても断ってきたナタリーが、1991年にリリースした

アルバム『Unforgettable:With Love』。

亡き父親に捧げた本作では、プロデュースにトミー・リピューマやデヴィッド・

フォスターを迎え、アレンジャーにミシェル・ルグラン、ジョニー・マンデル、

マーティ・ペイチといったベテランたちが大集結。

素晴らしいジャズ・ヴォーカル・アルバムに仕上がっており、グラミー賞で

最優秀レコード賞と最優秀トラディショナル・ポップ・パフォーマンス賞、

そしてアルバムは最優秀アルバム賞を獲得し、全米だけで700万枚以上を

売り上げる自身最大のヒット作となりました。

大きな話題を呼んだデュエット曲「Unforgettable」は、父親が40年前に

録音した音源に、レコーディング技術を駆使して斬新なデュエット曲に

蘇らせています。


その後の2006年にはダラス・オースティンをプロデューサーに迎え、

久々にR&B~ソウル色を打ち出した『Leavin’』を発表したほか、

2011年にはトニー・ベネットのグラミー授賞作『Duets II』に参加。


2013年には全曲スペイン語で歌ったラテン・ポップ作品

『Natalie Cole En Espanol』をリリースするといった意欲的な姿勢を

見せていました。


自叙伝の中で過去にドラッグを使用していたことを認めている

ナタリー・コールは、2008年7月にC型肝炎であること、また

腎臓の病気も患っていることを発表し、2009年には腎移植手術を

受けていた。こうした健康事情から、2008年頃からは病気等を理由に

ツアーや公演をキャンセルすることが度々あり、2008年6月の来日公演

では車椅子でステージに上がるなど以前から体調が心配されました。

その後ふたたび元気な姿をステージで披露していたが、2015年10月には

また体調が悪化し、11月と12月に予定していた公演を全てキャンセル。

現地時間で2015年12月31日の夜、ロサンジェルスの病院にて

「長年の健康問題による様々な要因が重なった結果」亡くなったと、

遺族が発表しました。

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