雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 8月9日(土)の2 少し風雨が強くなってきました

2014年08月09日 21時52分43秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月9日(土)の2 少し風「雨が強くなってきました

 今午後10時、雨が少し強くなってきました。三重県では記録的大雨ですが静岡県はそれほどでもありません。

 風も少し強くなってきました。今夜は赤旗の配達なので大変です。長靴履いて、カッパを着て完全装備でやらないといけないかも。

 

 


雨宮日記 8月9日(土)の1 長崎原爆の日ですが台風がかなり近付いています

2014年08月09日 09時14分13秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月9日(土)の1 長崎原爆の日ですが台風がかなり近付いています

 今日は長崎原爆の日ですが、もうかなり台風が近付いていて、風が強くなっています。

 いま午前9時20分、まだ雨は降っていませんが樹木はかなりしなっています。

 ベランダの物を中にしまいました。

 則子さんは夜勤からもう帰ってくるころです。

 


雨宮日記 8月8日(金)午後 「5・21大飯判決効果」と「7・1閣議決定効果」

2014年08月08日 19時20分40秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月8日(金)午後 「5・21大飯判決効果」と「7・1閣議決定効果」 

 今日は、午後、浜岡原発永久停止裁判静岡県西部の会の役員会でした。暑かったです。

 そこで、西部の会の会員にある教員夫妻が年会費20口(2万円)を出してなってくださったということを聞いて、これはやはり、世の中全体が揺れている、いい方向に、ということを思いました。

 5月21日の大飯原発福井地裁判決のように、ぼくたちの行動を後ろから押してくれる「順風」もあるし7・閣議決定のように、ぼくたちの行動を前からマイナスに吹き付ける「逆風」もあるけれど、それら全てが、ぼくたち、いやみなさんの思考と行動を駆りたてるのだと思う。

 願わくは、他人に、あなたの思考をゆだねることを拒否しよう。それがだれであれ。

 いま、平和年表を作っていて、そのための資料整理をしていたら、則子さんの「1993年12月18日 意見書」が出て来た。これは組織に提出した文書だが、ぼくも、もちろん夫婦の義務として作成に協力した。

 いま読んでも、かなり強烈な文書で、保育における一方的な、「宗教的」崇拝を痛烈に批判している。こんな文書を2人で21年前に作ったんだと思うと、20年前のぼくら夫婦のレベルも、まんざらではないと自己確認できます。

 結婚して15年目くらいです。

 「どんなことも2人で論議して、2人で決める」ということを最初に夫婦で決めて生きてきて、15年目。ここまで来ました。

 この、とんでもない文書、A4で14ページの文書、読みたい方はあげます。メールください。

 たぶん、みんな、「同僚に、ここまで言うのか」と感じると思います。

 でも15年前のぼくたちの結論は「たとえ決裂しても、このことを言わなければ、私たち(中谷夫妻)は腐敗する」という結論だったと思います。

 どうして、こういう結論に至ったかという過程を、これから考えます。

 こういう、とんでもない、仲間仲良しごっこ主義からはかけ離れた思考が基礎にあって、初めて、6年後、1999年、則子さんの「衆議院8区補選、候補者立候補」ができただなあ、と思います。自伝で詳しく語りますので、こうご期待!

 

 

 


雨宮日記 8月7日(木) 毎週来る「おうちコープ」を受け取り

2014年08月07日 19時10分29秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月7日(木) 毎週来る「おうちコープ」を受け取り

 則子さんがゴミ出しはしてくれるので、木曜日は午前10時過ぎに確実に来る「おうちコープ」の荷物を受け取る。いなければ白いボックスに入れて玄関前に置いて行ってくれる。便利だが、1週間分、過剰に則子さんが注文すると、冷蔵庫に収納するのが大変だ。

 今日は7ケースあった。

 則子さんがいなければ、お昼の準備をして(残り物で)、夕食をつくるのもぼくの仕事。

  ☆

 今日は則子さんが朝6時出勤で午後3時までの超早番なので、夕食はつくってくれる。

 則子さんが隣の支部の分10部を配達している分を共産党の事務所に取りに行き、ついでに缶ビールを買ってくる。

 夕方のお風呂の掃除はボクの役目。

  ☆

 資料整理をして浜松市平和委員会の機関紙、ぼくが編集長をずっとしていた『青い地球』の第1号(1980年10月)から第324号(2004年5号)「までを並べる。まだ全部揃わないが、全部そろえるつもり。ということは24年間、編集長をやったことになる。最初は手書きで、途中からワープロ化、いちばん苦労したのは写真の印刷ですね。

 平和年表の編集に全力投球をしているので、当分、「雨宮ブログ」は後回しになります。すみませんが、よろしくお願いします。現在、戦後編だけでB4かA3見開き(つまり


雨宮日記 8月6日(水) 広島原爆の日です

2014年08月07日 18時59分45秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月6日(水) 広島原爆の日です

 朝8時15分にサイレンが鳴り、次女が「何?」と飛び込んできたので、「広島原爆の落ちた時間」というと「ああ」と納得しました。

 来年までに、「お寺の鐘を鳴らす運動」を浜松市原水協に提案しようと思います。

 お昼12時から午後1時までの浜松市原水協の「夏の署名行動 3日間」の1日に則子さんは出かけました。暑い中、ごくろうさま。

 画像は今日の夕食


雨宮日記 8月4日(月)の2 宮崎からマンゴーの実を送ってもらいました

2014年08月07日 18時57分21秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月4日(月)の2 宮崎からマンゴーの実を送ってもらいました

 写真は、食べる前に則子さんが描いた絵手紙。宮嵜のHさん夫妻に送りました。

 マンゴーは中が黄色くておいしいかったです。ありがとうございます。


雨宮日記 8月4日(月) 則子さんは朝、原水禁世界大会参加者の送り出しに

2014年08月07日 18時53分49秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月4日(月) 則子さんは朝、原水禁世界大会参加者の送り出しに

 則子さんは、今朝、浜松駅へ新幹線で広島へ向かう、原水爆禁止世界大会参加者を「いってらっしゃい」するために出かけました。

 参加者は6日夜に新幹線で浜松駅へ帰ってきます。ごくろうさまです。

 写真はわが家の百合の花。


雨宮日記 8月3日(日)の3 則子さんは長女夫妻の町の花火へ行きました

2014年08月03日 19時48分41秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月3日(日)の3 則子さんは長女夫妻の町の花火へ行きました

 午後7時半、東で花火の音がしました。長女夫妻の住む中田町から間近の「天王神社」の花火です。

 次女も行く予定でしたが、「仕事が忙しくて帰り遅くなる」ということなので、則子さんだけで、宮崎の知人から送ってくれた「マンゴー」も届けに、長女宅へバイクで出かけました。

 今、午後8時前。ときどき花火の音がします。

 天王神社の花火は、去年は直接見に行きましたが「手筒花火」が披露されて、すごくおもしろいです。あぶなそうですけど。

 


雨宮日記 8月3日(日)の2 歴史の事実と真実は書かないと雲散霧消してしまう

2014年08月03日 19時39分44秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月3日(日)の2 歴史の事実と真実は書かないと雲散霧消してしまう

 戦争と平和年表と平行して、①ぼくと則子さんの自伝「青い地球とオレンジの花」、②それに附属する客観的浜松の戦後史、を準備しているのですが、たとえば、ぼくたちと対立した人たち、松本澄美子さんとか、袴田忠司とか、ネットで検索してもほとんど出て来ません。

 松本さんや、袴田さんの客観的役割はともかく、主観的には、浜松の労災運動史・学習運動史からみれば、正当な評価がきちんとなされていないことは明白です。

 彼らが正しかったということではないですよ。詳しく、則子さんやぼくの体験も含めて書きたいと思いますが、そこに没頭した人々の主観的なy役割はきちんと評価したいと思います。

 同時に、その客観的な役割、その過去性も、客観的に見つめ直したいと思います。なあなあの。仲間ぼめが多すぎます。

 「Aさんを事務局長にしないなら、私は支持できない」と則子さんに玄関で宣言したBさんのリアルな言葉は今でも心に響いています。

 なんなんだ、こいつは?!

 


雨宮日記 8月3日(日)の1 今日は平和年表づくりで雑紙ごみをたくさん出しました

2014年08月03日 19時34分36秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月3日(日)の1 今日は平和年表づくりで雑紙ごみをたくさん出しました

 いよいよ本格的な「戦争と平和の年表」づくりにかかり、奥の2部屋にある資料を持って来て、見ながら捨てる物は捨てる。残す必要のある物はデジカメで撮影してファイルにして。紙は捨てます。今日は段ボール箱で2箱も捨てたので、則子さんは、すごく嬉しそうです。

 それにしても、40年前の学生自治会時代の文書なんて、自分でも思うけど、よくとってりましたね。相模原闘争の報告文書です。

 


戦争と平和の本 2 こうの史代さん著『この世界の片隅に 上』

2014年08月03日 11時52分43秒 | 戦争と平和

戦争と平和の本 2 こうの史代さん著『この世界の片隅に 上』<アクション・コミックス>、双葉社、2008年2月12日第1刷~2009年8月10日第8刷、定価648円+消費税


 戦争中の広島、海苔をつくる家で育った、絵の好きな主人公・浦野すずさんの少女時代からの物語マンガです。
 昭和9年1月の設定の「冬の記憶」に始まり「大潮の頃」「波のうさぎ」と少女時代を描きます。
 
 昭和18年12月から「この世界の片隅で」が始まり、すずさんは、広島から30キロの呉市の北条周作さんに嫁ぎます。
 戦時下ではあるけれど、上巻では、夫と両親、義姉と娘の幸せなくらしが続きます。
 
 戦時下の非常食用の草花をすずさんはスケッチして書き付けます。
 「たねつけばな 辛い」「たんぽぽ にがい」「かたばみ 酸い」「はこべ 甘い」
 「楠公飯」というのも、しんどいというか、切ないですね。
 
 こうの史代さんの、優しい描線、ほのぼのとした感じが好きです。
 けなげな主人公のすずさんは、こうのさんの性格の投影でしょうか。

 少女編の「波のうさぎ」も切なくて好きですね。
 すずさんの同級生の水原さん(男性)の兄が海で水死します。

 美術の時間、校外で絵を描けというテーマに、海岸で座り込んでいる水原さん。

 水原「うさぎが跳ねよる。正月の転覆事故の日もこんな海じゃったわ」
 すず「いまのんはどういう意味?」
 水原「えっあ 言わんか?ほれ白い波が立っとろう。白うさぎが跳ねよるみたいなが」

 すずさんは、水原さんの代わりに海の絵を描いて、その絵に、たくさんの波ウサギを描き込みます。
 その結末が最高にいいですね。
 
 こうのさんの『夕凪の街 桜の国』は、映画化もされましたが、ぼくは原作マンガの方が好きです。

 (ミール)
 

雨宮家の歴史36 雨宮の父の自伝史「『落葉松』第4部 Ⅱ-35 中村住宅226号」

2014年08月01日 19時01分16秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史36 雨宮の父の自伝史「『落葉松』第4部 Ⅱ-35 中村住宅226号」

  「白百合寮」へ着いた午後、室積へ買物にバスで出かけた。当座に必要な生活用品を求めるためである。室積は漁港を持つ漁師町として発達した所であったから、一応商店も揃っていた。細い露地が曲がりくねっていた。

  五右衛門風呂もおばさんが沸かしてくれて、旅の疲れを取り、夕食を済ませて一服していると「こんばんは」と女の人の声がして、ぞろぞろと、いつも風呂を借りにくる家政学院の生徒たちが,台所の入口より入って来た。今夜は特別で、全員お揃いのようである。お目当ては無論私たち新婚夫婦である。いやがる妻を彼女らに紹介しておいたが、白百合寮も一時的で(二人には広すぎた)、私が最初に入った中村住宅に、その後入った採鹹科長と交替して、十日程して、中村住宅に移った。

   二二六号であった。採鹹課長は浜松高工の化学科を出て、台湾高雄の旭電化工場より引き揚げて来た人である。一男一女があった。

  住宅は六帖、四帖半、三帖の三室と台所で、二軒一棟となっていた。風呂場が、流れているせせらぎのすぐ反対側にあった。

  裏隣りの国鉄光分工場に出ている衣川(きぬがわ)さんの奥さんが、西も東もわからぬ妻を何くれとなく面倒をみてくれた。彼女がいなかったら、妻は何も出来なかったであろう。祝島(いわいじま)の出身というから、実家は漁師だったかも知れない。

  隣保は五,六軒で武長(たけちよう)(土地の人は昔の武田長兵衛商店のことを、いい易い武長さんと呼んでいたことは ページの通りである。私共も武長さんで済ましていた)の人が工場長、薬剤部長、若い人も三人いた。彼等もバスで通っていた。薬剤部長はいつも、厚い革カバンを下げていた。武長には、蒸留水を貰いにいったり、いろいろ世話になっていた。塩業の人も、この住宅にはバラバラであったが四人入っていた。営業・会計・機械設計の人たちであった。

  せせらぎの流れ出ている北の山の上は焼場(やきば)であった。焼場といっても何もなく、市から配給される薪を使って自分で焼かねばならない。専門の係員がいたが、一晩かかって、翌朝骨上げに行くのである。会社の同僚が亡くなった時、雨の中を棺をかついで山へ上った。どうも、ここでは死ねないなと思った。

  雨が降っても傘がなかった。朝鮮の工場で少年工たちが、雨の中を傘無しで来た現実が、今度は私たちに廻ってきた。妻の嫁入り道具の中に蛇の目傘があったが、宴会ではないので蛇の目傘で出社する訳にはいかない。ボロボロになりかけた軍隊合羽に軍用かばんを肩から掛けて行くしかなかった。工廠の島田門と正門は、山を崩して軍用道路を通したので、家は無く夜道は暗かった。しかも、山の上は墓場だということである。

  ある雨の夜半、遅くなってその道を帰り,急いでいた。ふと、上を見た時、光が道の上を横切るように動いていくのが見えた。「ほう、珍しく流れ星が見える」と思った途端に。背筋に寒気をブルブルと感じて、私は一目散に走り出した。雨が降っているのに、流れ星が見える訳がない。山の上の墓場からの、人魂だと思ったのである。島田川の端を渡り、やっと家並みの続いた浅江の通りに入って落ち着いた。墓場は土葬だというから、骨から出た燐が燃えたものであろう。翌日、夜勤の人から人魂は工場内に落ちて消えたということを聞いた。相当大きかったらしい。私の人生でたった一度の貴重な(?)経験であった。

  インフレ時代で物価は上がるのに、国に収める塩の価格は一定していたので、会社の経営は苦しかった。その頃、手取り一万円ぐらいだったが、二、三千円程度の分割支給であった。住宅の入口の八百屋に掛け売りで入金の度に支払っていた。

  家の傍に公設市場があり、魚屋が自転車に荷を積んで売りに来ていた。内海なので小魚が多く、ある日「ハモ」を買った。ハモと言えば、京都ではお盆の祇園祭の時の最高の御馳走である。ハモの骨切りと言って固い骨が多い。

  妻は料理の仕方が分らないので、衣川さんへ毛抜きを借りにいった。毛抜きで骨を一本、一本抜こうとしたのである。後になって大笑いとなり、魚屋が来ると「ハモの奥さん」になってしまった。

  使い古しであるが、タンスが届き、その包装の木箱で炬燵を作り、机替わりにもした。

  ある日曜日に広島へ出かけた。家計の足しにでも、本を持って行った。広島駅の近くに古本屋を見つけ、割合よい値段になった。一万円くらいか、『化学英和辞典』があったからである。

  主人は腕をまくって原爆のケロイドの跡を見せてくれた。まだ原爆の落ちた産業陳列館はそのままであった。

  主目的の化粧台を買うため、福屋デパートへ行った。復興した現在の広島には三越はじめデパートは揃っているが、当時は、この福屋が昭和十三年、地上八階地下二階の全階冷暖房設備を持った白亜の殿堂であった。爆心地に近い福屋は原爆で廃墟となった。福屋は爆心地から六八〇米しか離れていなかったのに、ここの市電停留所で己斐(こい)(西広島)行の電車を待っていて、即死しなかった人がいる。

  「「ピカッと、とても大きな稲妻が光ったと思ったの、それから何もわからなくなっちゃったの、福屋の前で…」。閃光と共に、猛烈な爆風で歩道に叩きつけられ、肩と腰に打撲傷を負い、露出していた顔と両手両足を火傷して意識を失った。建物か人間の陰に偶然入っていたか、殆どの人が着物まで焼けて死んだのに、奇蹟的に助かった。救助隊に保護されて収容所で手当を受けたが放射能を浴びたので血を吐きつづけ、八月十九日の夜永眠した。原爆症であった。」(小倉豊文著『絶後の記録』中公文庫、より)

  建物はそのまま残ったので、救援と腹腔の中心となった。「37 台風」でも述べるが、戦争が終わった翌九月の枕崎台風で広島は浸水し、福屋も地下が水に埋もれてしまったのである。

  しかし徐々に復興し、私たちの行った時は、二階まで営業していた。三階への階段は、まだコンクリートのむき出しのままであった。化粧台は鏡だけを持って借り、他の部分は送ってもらった。


本と映像の森 309 実写映画「のだめカンタービレ」TV上映

2014年08月01日 18時35分47秒 | 本と映像の森

本と映像の森 309 実写映画「のだめカンタービレ」TV上映

 いまTVで実写映画「のだめカンタービレ」のTV毎日上映をやっています。マンガで断片的に読んでいて、主人公の「野田め」(野田めぐみ)は少し知的障害気味の聞いたメロディを完璧にピアノで再現できて音楽センスのある音大の女子学生、その「先輩」千秋は,才能はあるがセンスと音楽を楽しむ感覚のないピアニスト・指揮者ということはわかっていました。

 これにからむのが竹中直人が扮する異才のフランス人指揮者です。

 非常におもしろいです。

 とくに、秀才の「Aオケ」と競い合わされる、落ちこぼれの「Sオケ」。音楽を楽しもうとする彼らは、演奏スタイルも異色。

 Sオケと「野田め」から千秋は何を学ぶのか?!これが日本編の焦点ですね。

 4巻くらいから聞きましたが、オケ編で最初にべートーベン7番、そしてラフマニノフ第2番がいいですねえ。

 とくにのだめが千秋とピアノ連弾で弾いたでたらめな改変2番は傑作。こういうジャズ的自由なラフマニノフ2番も楽しいですよ。

 まだTVは来週も続きます。午後遅めの時間。見てください。たしか、これからヨーロッパ留学編。

 


雨宮日記 8月1日(金)の3 2014年7月1日は1960年6月18日に

2014年08月01日 18時20分16秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月1日(金)の3 2014年7月1日は1960年6月18日になるか

 もちろん成らないでしょうけど。六十年代安保闘争を知らない(9才でした)ボクは、先輩諸氏から「なぜ安保闘争のように戦えないのか」と、激励とも愚痴ともつかない苦言を散々聞かされて、「バカじゃないの」「無理に決まってる」と思っても口には出しませんでした。

 時代・戦う組織・前提・理論・決意が違う。それらが同じでも、偶然性が何割も占めてしまい(おそらく8割くらいかも)同じには成りません。だからこそ繰り返さない、人間社会の「歴史」なのです。

 繰り返すのだったら,昆虫みたいになってしまう。

 2014年7月1日の安倍内閣のクーデター的暴挙が岸内閣のクーデター的強行採決と似たようなものであるなら、歴史は「繰り返して」、7月1日が「戦後日本社会」の革新的転換点になる可能性を十分持っているからです。

 その前提を、僕たちは2011年3月11日以降の「反原発」「脱原発」「原発ゼロ」「非原発」の大きな流れで自ら体験しました。体験しなかったあなたにも、ぜひ考えて欲しいです。

 止められるかどうかは、時の運。

 まず自分1人でも「止めよう」と始めること。そして目的を同じくする人々と共同すること。

 そこだけに未来があると思います。

 この運動に、指図する人・支配する人・上から目線の人は、いりません。有害です。