雨宮家の歴史36 雨宮の父の自伝史「『落葉松』第4部 Ⅱ-35 中村住宅226号」
「白百合寮」へ着いた午後、室積へ買物にバスで出かけた。当座に必要な生活用品を求めるためである。室積は漁港を持つ漁師町として発達した所であったから、一応商店も揃っていた。細い露地が曲がりくねっていた。
五右衛門風呂もおばさんが沸かしてくれて、旅の疲れを取り、夕食を済ませて一服していると「こんばんは」と女の人の声がして、ぞろぞろと、いつも風呂を借りにくる家政学院の生徒たちが,台所の入口より入って来た。今夜は特別で、全員お揃いのようである。お目当ては無論私たち新婚夫婦である。いやがる妻を彼女らに紹介しておいたが、白百合寮も一時的で(二人には広すぎた)、私が最初に入った中村住宅に、その後入った採鹹科長と交替して、十日程して、中村住宅に移った。
二二六号であった。採鹹課長は浜松高工の化学科を出て、台湾高雄の旭電化工場より引き揚げて来た人である。一男一女があった。
住宅は六帖、四帖半、三帖の三室と台所で、二軒一棟となっていた。風呂場が、流れているせせらぎのすぐ反対側にあった。
裏隣りの国鉄光分工場に出ている衣川(きぬがわ)さんの奥さんが、西も東もわからぬ妻を何くれとなく面倒をみてくれた。彼女がいなかったら、妻は何も出来なかったであろう。祝島(いわいじま)の出身というから、実家は漁師だったかも知れない。
隣保は五,六軒で武長(たけちよう)(土地の人は昔の武田長兵衛商店のことを、いい易い武長さんと呼んでいたことは ページの通りである。私共も武長さんで済ましていた)の人が工場長、薬剤部長、若い人も三人いた。彼等もバスで通っていた。薬剤部長はいつも、厚い革カバンを下げていた。武長には、蒸留水を貰いにいったり、いろいろ世話になっていた。塩業の人も、この住宅にはバラバラであったが四人入っていた。営業・会計・機械設計の人たちであった。
せせらぎの流れ出ている北の山の上は焼場(やきば)であった。焼場といっても何もなく、市から配給される薪を使って自分で焼かねばならない。専門の係員がいたが、一晩かかって、翌朝骨上げに行くのである。会社の同僚が亡くなった時、雨の中を棺をかついで山へ上った。どうも、ここでは死ねないなと思った。
雨が降っても傘がなかった。朝鮮の工場で少年工たちが、雨の中を傘無しで来た現実が、今度は私たちに廻ってきた。妻の嫁入り道具の中に蛇の目傘があったが、宴会ではないので蛇の目傘で出社する訳にはいかない。ボロボロになりかけた軍隊合羽に軍用かばんを肩から掛けて行くしかなかった。工廠の島田門と正門は、山を崩して軍用道路を通したので、家は無く夜道は暗かった。しかも、山の上は墓場だということである。
ある雨の夜半、遅くなってその道を帰り,急いでいた。ふと、上を見た時、光が道の上を横切るように動いていくのが見えた。「ほう、珍しく流れ星が見える」と思った途端に。背筋に寒気をブルブルと感じて、私は一目散に走り出した。雨が降っているのに、流れ星が見える訳がない。山の上の墓場からの、人魂だと思ったのである。島田川の端を渡り、やっと家並みの続いた浅江の通りに入って落ち着いた。墓場は土葬だというから、骨から出た燐が燃えたものであろう。翌日、夜勤の人から人魂は工場内に落ちて消えたということを聞いた。相当大きかったらしい。私の人生でたった一度の貴重な(?)経験であった。
インフレ時代で物価は上がるのに、国に収める塩の価格は一定していたので、会社の経営は苦しかった。その頃、手取り一万円ぐらいだったが、二、三千円程度の分割支給であった。住宅の入口の八百屋に掛け売りで入金の度に支払っていた。
家の傍に公設市場があり、魚屋が自転車に荷を積んで売りに来ていた。内海なので小魚が多く、ある日「ハモ」を買った。ハモと言えば、京都ではお盆の祇園祭の時の最高の御馳走である。ハモの骨切りと言って固い骨が多い。
妻は料理の仕方が分らないので、衣川さんへ毛抜きを借りにいった。毛抜きで骨を一本、一本抜こうとしたのである。後になって大笑いとなり、魚屋が来ると「ハモの奥さん」になってしまった。
使い古しであるが、タンスが届き、その包装の木箱で炬燵を作り、机替わりにもした。
ある日曜日に広島へ出かけた。家計の足しにでも、本を持って行った。広島駅の近くに古本屋を見つけ、割合よい値段になった。一万円くらいか、『化学英和辞典』があったからである。
主人は腕をまくって原爆のケロイドの跡を見せてくれた。まだ原爆の落ちた産業陳列館はそのままであった。
主目的の化粧台を買うため、福屋デパートへ行った。復興した現在の広島には三越はじめデパートは揃っているが、当時は、この福屋が昭和十三年、地上八階地下二階の全階冷暖房設備を持った白亜の殿堂であった。爆心地に近い福屋は原爆で廃墟となった。福屋は爆心地から六八〇米しか離れていなかったのに、ここの市電停留所で己斐(こい)(西広島)行の電車を待っていて、即死しなかった人がいる。
「「ピカッと、とても大きな稲妻が光ったと思ったの、それから何もわからなくなっちゃったの、福屋の前で…」。閃光と共に、猛烈な爆風で歩道に叩きつけられ、肩と腰に打撲傷を負い、露出していた顔と両手両足を火傷して意識を失った。建物か人間の陰に偶然入っていたか、殆どの人が着物まで焼けて死んだのに、奇蹟的に助かった。救助隊に保護されて収容所で手当を受けたが放射能を浴びたので血を吐きつづけ、八月十九日の夜永眠した。原爆症であった。」(小倉豊文著『絶後の記録』中公文庫、より)
建物はそのまま残ったので、救援と腹腔の中心となった。「37 台風」でも述べるが、戦争が終わった翌九月の枕崎台風で広島は浸水し、福屋も地下が水に埋もれてしまったのである。
しかし徐々に復興し、私たちの行った時は、二階まで営業していた。三階への階段は、まだコンクリートのむき出しのままであった。化粧台は鏡だけを持って借り、他の部分は送ってもらった。