馬糞風リターンズ

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「時代劇を斬る」・・・映画・ドラマ・小説の時代考証

2013年07月21日 | 映画
毎朝、喫茶店で新聞と週刊誌を読むのが日課になっています。新聞も週刊誌もここ1週間ほどは参議院選挙予想一色です。もう結果が分かっているなら大騒ぎして投票などしなくてもいいのにと思うてしまいます。そんな中で目に付いたのが週刊ポスト2013年7月19・26日号「時代劇を斬る」と言うコラムです。筆者・安田清人は月刊誌『歴史読本』編集者を経て現在「時代考証学ことはじめ」などの歴史関係の著作やBS11「歴史のもしも」の番組構成と司会を務めるなど、歴史に関わる仕事をしているそうです。
「時代考証」といえば稲垣史生で、司馬遼太郎が「唯一の先達の仕事」と敬意を表した人で、時代考証というジャンルがあるとすれば稲垣が確立したと言っても過言でない存在です。
 週刊ポストの「時代劇を斬る」では稲垣史生に先駆けて現在の「時代考証」の仕事をした森銑三の紹介と司馬遼太郎の国民的ベストセラー「竜馬がゆく」の逸話が書かれていました。
森銑三といえば「博覧強記」の「知の巨人」で、彼自身「時代考証」と言う言葉を一言も言っていませんがその著作のどれを読んでも興味深々、時間を忘れる面白いものです。
ご存じ国民的ベストセラー「竜馬がゆく」第一巻立志編に「安政諸流試合」と言う一項があります。
「龍馬がまだ江戸の桶町千葉道場で剣術を学んでいる時分、各道場を代表する剣客が一堂に会して腕を競う剣術大会が開かれた。後に維新の元勲となった長州の木戸孝允がすさまじい腕前を披露し連戦連勝。土佐の武市半平太は、木戸に敗れれば師匠や道場の名誉を傷つけると立ち合いを躊躇した。そこに、郷里の後輩である龍馬が現れ、平然と木戸と立ち合い、激戦の末に大殊勲を挙げた」(「時代劇を斬る」より)
「青年龍馬の「凄味」を象徴する場面として描かれている。しかしこの場面、実は『竜馬がゆく』が新聞に連載された昭和37年より20年近く前の昭和18年に、雑誌『伝記』に森が寄稿した「坂本龍馬」という文章に描かれているのだ。
 根拠となった史料は、龍馬の勝利を喜んだ武市が国元に送った手紙だという。このくだり、明治16年に新聞記者の坂崎紫瀾(しらん)が執筆した龍馬の代表的な伝記小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』をはじめとする数々の龍馬伝記には出てこないので、おそらく司馬は森の文章を参考にして、このエピソードを小説に盛り込んだのだろう。」(「時代劇を斬る」より)

と言うことで早速手持ちの「森銑三著作集」(十二巻・別巻 中央公論新社)を調べてみました。所が雑誌『伝記』(昭和18年)掲載の「坂本竜馬」は収録されていませんでした。どうしてもこの一文を読んでみたくなり、あちらこちらと調べたり探したりしましたが一向に見つかりません。神田の古本屋に「出てくれば知らせるように」と依頼でもしようかと思っている時に大阪市立中央図書館から「国会図書館にそれらしきものがある」との連絡がありました。ネットで国会図書館蔵書目録を検索したり情報を集めていると、大阪府立中央図書館に復刻版の合本があることが分かりました。
 森の一文は三千文字ほどのごく短いものでした。森銑三は武市半平太が故郷の小南五郎左衛門に試合の顛末を浮世絵風の挿画を添えて書き送った書簡を基に「小説風」に紹介しています。
所が「昭和54年刊の『坂本龍馬のすべて』のなかで、土佐藩研究で知られる歴史家の平尾道雄は、この試合の日時には龍馬も木戸も、そして武市さえも江戸にはいなかったことを検証し、武市が送ったとされた手紙は偽書であると結論付けた。つまり、森はまんまとこの偽書に騙され、司馬もまたその間違いに乗っかってしまったということになる。江戸学の祖も歴史小説の大家も、ときに間違いを犯すこともある。」(「時代劇を斬る」より)
 このことで司馬遼太郎は「歴史を捻じ曲げた」と憤慨する歴史ファン・竜馬ファンが沢山いるようで、この件をネットで検索する数百ヒットします。しかし、もともと「竜馬がゆく」は小説でフィクションの世界ですから、目くじら立てて非難する方が「おかしい」のではと思います。
 ただ、司馬遼太郎と言う人は徹底した史料集めと取材をする作家として知られているので、読者の中には妄信する人も多いようです。その典型が、自らは「空っぽ」のチンピラ政治家が「維新だの平成の竜馬だの」と吹聴しているヤカラでしょう。

 なお、武市半平太から小南五郎佐衛門に宛てられたというニセの書簡は「谷岩太」と言う人物が所蔵しているそうです。





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