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安倍晋三総理、岩手県で選挙演説。ルーツは安倍貞任?????

2013年07月16日 | 歴史
安倍晋三自民党総裁が「貞任の末裔が私となっている。ルーツは岩手県。その岩手県に帰ってきた」と参議院議選挙の遊説先岩手県北上市で演説したそうです。北上市は「生活の党」小沢一郎代表の本拠地・衆院岩手4区です。小沢一郎の威光はすっかりかすみ、各陣営は票の上積みに向け「小沢票」の切り崩しにやっきだそうです。貞任は、平安時代奥州で活動した武将・安倍貞任(あべのさだとう)のことで、演説の「つかみ」で親近感を強調したかったようです。安倍晋三総理が古代奥州の俘囚長を称した安倍氏の末裔であるかどうかの真偽は分かりませんが、恐らく代々安倍家に伝承された話ではないかと思いますので、何らかの真実を含んでいるのではと考えられます。
 安倍貞任伝説は、東北関東に数多く伝承されているのは当然ですが、研究者の調査によると貞任伝説の分布は広く西日本から九州の及ぶそうです。

大和朝廷の東北地方経営は、古くは坂上田村麻呂と阿弖流為などの話があります。この関東から東北に勢力を持って大和朝廷と対峙した「エミシ」と呼ばれる俘囚が、大和民族とは異なる異民族なのか?また、現在のアイヌ民族とかかわりがあるのか未だにハッキリとしない難問です。
しかし、大和朝廷に「まつろはぬもの」に安倍氏 (奥州)、出羽清原氏、奥州藤原氏などがいました。その中でも阿弖流為に並び武勇を称されたのが安倍貞任です。
 高校で日本史を専攻した人は「前九年の役」「後三年の役」や「奥州藤原三代」などを習った記憶があると思います。
貞任は背丈は六尺を越え、胸囲は七尺四寸という容貌魁偉な色白の風体であったと伝えられています。

康平5年(1062年)、厨川柵の戦いで敗れ深手を負って捕らえられた貞任は、巨体を楯に乗せられ源頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ったという。その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた(この故事に倣い、後年源頼朝によって藤原泰衡の首も同様の措置がされた。平泉の中尊寺に現存する泰衡の首には、釘の跡が残っている)。
 衣川柵の戦で源義家と和歌の問答歌をしたとされる逸話が有名です。
「古今著聞集」によると「伊予守 源頼義の朝臣、貞任・宗任たを攻むる間、陸奥に十二年の春秋を送りけり。 鎮守府を立ちて、秋田の城に移りけるに、雪、はだれに降りて、 軍の男どもの鎧みな白妙になりにけり。 衣川の館、岸高く川ありければ、盾をいただきて甲に重ね、筏を組みて攻め戦ふに、 貞任ら耐へずして、つひに城の後ろより逃れ落ちけるを、一男八幡太郎義家、 衣川に追ひたて攻め伏せて、「きたなくも、後ろをば見するものかな。 しばし引き返せ。もの言はむ。」と言はれたりければ、貞任見返りたりけるに、  衣のたてはほころびにけり と言へりけり。貞任くつばみをやすらへ、しころを振り向けて、  年を経し糸の乱れの苦しさに と付けたりけり」
 厨川柵の戦で敗れた安倍貞任の弟・宗任は源義家(八幡太郎義家)の家臣として義家に仕えることとなります。家臣となった安倍宗任と八幡太郎義家が二人きりで狩りに出た時、義家は宗任に背を向けて空穂(うつぼ)=矢筒に矢を入れるように命じたと言います。このことを聞いた他の家臣たちは「危険で心配」と忠告したが、義家は宗任に全幅の信頼を置いていたと伝わっています。

 源頼義には三人の男子がいました。長男は八幡太郎義家、二男は加茂二郎義綱、三男は近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称しました。この新羅三郎を祖とするのが甲斐源氏で、その本流が甲斐国巨麻郡余戸郷に土着した「甘利氏」です。戦国時代武田軍団で「鬼」と恐れられた甘利備中守虎泰が有名で小説「天と地と」などにも登場します。
 安倍内閣の内閣府特命担当大臣(経済財政政策)甘利明はこの甘利備中守虎靖泰の直系の子孫です。安倍晋三と甘利明は「お友達内閣」の象徴と揶揄されますが、思えば平安末期の源氏と安倍氏の因縁が続いているのかも知れません。

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3 コメント

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Unknown (Unknown)
2013-12-31 05:43:07
素敵な記事ですね。面白かったです!
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阿弖流為の塚 (萬年青年)
2014-09-21 17:50:43
ご存じとは思いますが、阿弖流為の墓だと伝えられる塚が枚方市の牧野にあります。
牧野公園で、紅葉が綺麗です。
阿弖流為は私も少し関心があります。
今は昔、私が学生時代思いを寄せていた彼女の卒論のテーマでした。
ふと其の頃が懐かしく想い出され、40年の歳月の流れに心惑う一瞬でした。
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安倍晋三の父は死に際に告白したそうです。 (背乗り意味はお調べ下さい)
2017-06-20 21:39:57
「私は朝鮮(人)だ」--。

日本の安倍晋三新首相の父親、安倍晋太郎(1991年死亡)元外相が普段からこのように言ったと、世界(セゲ)日報が日本の「週刊朝日」を引用して報道した。

この週刊誌は10月6日付カバーストーリーで「安倍晋三研究-家政婦が見た安倍、岸3代」という見出しで安倍首相家門の内側を特集報道した。

岸と安倍の家門で家政婦として40年を過ごした久保ウメさん(80)は、週間朝日とのインタビューで安倍首相の父親、安倍元外相が告白した家庭の内部を比較的詳しく伝えた。

久保さんは「パパ(安倍元外相)は誰にも言えないことを私には言ってくれた」とし「(安倍元外相死去直後)入棺のとき、この人の骨格を見ながら本当に日本人の物ではないと思った」と説明した。それとともに「頭からつま先までまっすぐに横になっていたが、完全に韓国人の体形だ。(安倍元外相)自らも『私は朝鮮(人)だ。朝鮮』と言っていたが、この人は朝鮮人だと思った」と回顧した。また「(政治家として周辺に)人気が高く、よってもう少し元気に活動する時間があれば、北朝鮮問題も解決したと思う。安倍元外相の死は国の損害だった」と惜しんだ。

この雑誌は安倍元外相は生前に安倍家の起源は10世紀くらいまで韓半島北で中国大陸にかけて存在した渤海(パルヘ)国に始まったという考えを持っていたが、日本での安倍家の起源は明らかではないと報道した。安倍家の起源について久保さんは「安倍家の本流は青森県だ。安倍元外相が朝鮮だと言ったが、これは今の北朝鮮ではなく、その北と吉林省の下側にあった渤海」と「11世紀平安時代の武将だった安倍が今の安倍家の祖先と一致する」と説明した。

安倍晋三首相の母方の父である岸信介元首相も安倍首相を非常に惜しんだと付け加えた。

久保さんは安倍首相が生まれる前から東京の岸元首相の自宅で家政婦として過ごし、今はそこを出て東京に住んでいる。

1924年生まれの安倍元外相は毎日新聞記者時代の1956年当時、外相だった岸元首相の個人秘書となり、その娘の洋子さんと結婚、1991年5月、首相(自民党総裁)を目前にして病気で死去している。
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