馬糞風リターンズ

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北海道、ジャガイモ、男爵

2018年10月05日 | 歴史
ジャガイモは2,000品種もあるそうです。北海道では40品種以上栽培されていると云われています。今年は「キタアカリ」と「メークィーン」の2品種を十勝の農家さんから送ってもらうようにしました。
 でも、当ブログにとってはジャガイモといえばやはり「男爵」です。
2011年10月に「男爵資料館」と「ニッカウヰスキー余市蒸留所」に行ったときのブログを再度UPします。
NHK朝ドラ「マッサン」が始まりました。ニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝とその妻リタのお話だそうです。
当ブログが2011年10月に北海道を旅行した際、余市のニッカウヰスキーなどに行った際の見聞記を記事としてアップしました。

「ニッカウヰスキー余市蒸留所」を見学しました。ニッカウヰスキーと言えば創業者であり「日本のウイスキーの父」と呼ばれている竹鶴政孝(明治27年~昭和54年)です。
竹鶴政孝は大阪と随分縁の深い人物です。出身は広島県竹原市で、生家は造り酒屋だそうです。この造り酒屋は現在の「竹鶴酒造株式会社」の前進だそうです。
 家業を継ぐため大阪高等工業学校(現在の大阪大学)で醸造学を専攻し、摂津酒造(後に宝酒造株式会社と合併)で純国産のウイスキー造りを始めることを計画します。スコットランド・グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学ぶため単身留学します。
 帰国後、寿屋(現在のサントリー)の要請により山崎に製造工場を建設します。一時期、アベノにある桃山学院で化学の教師をしていた事もあるそうです。また、妻のリタも帝塚山学院で英語を教えたそうです。(太田夫人からの情報です)
竹鶴政孝はスコットランド・グラスゴー大学留学中に一生の伴侶となるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と恋に落ちました。竹鶴は周囲の反対を押し切って恋を成就させました。ジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と終生、中睦まじい夫婦であったそうです。

「男爵資料館」・・男爵は靴職人(2011年10月23日)
トラピスト修道院に隣接した所に「男爵資料館」があります。
男爵とは川田龍吉・安政2年~昭和26年(1856-1951)のことです。川田男爵が導入したじゃがいもが「男爵」です。
この品種は「アイリッシュコブラー」と云うもので、敢て日本語訳すれば「アイルランドの靴屋」とか「アイルランドの靴職人」と云うそうです。
 資料館は「キング式型」と言われる大正時代に建てられた牛舎を改修したものです。展示品は当時としては大変珍しかったアメリカ製農機具や生活用品など貴重な資料が展示されています。日本にただ一つ現存する木製サイロなどここでしか見られない貴重な資料も数多くあります。
 日本のオーナードライバー第1号といわれる川田男爵が愛用したアメリカ製のロコモビル蒸気自動車も展示されています。明治33年(1901)に川田男爵が購入したもので、当時の姿のままで保存されています。国内はもちろん世界でも現存するものは極めて少なく、貴重な歴史資料として注目されています。
 ジャガイモが日本に伝わったのは、16世紀にオランダ人によって長崎に持ち込まれたとされています。オランダの商船がインドネシアのジャカルタ経由で日本にもたらしたので「ジャカルタいも」→「ジャガイモ」となったそうです。当時は観賞用だったようで食用として栽培されだしたのは明治になってからだそうです。
 北海道のジャガイモの歴史は、幕末に最上徳内が北千島から持ち帰り函館付近で僅か乍ら栽培したロシア経由のじゃがいもが始まりです。
明治になって開拓使が導入した品種はすべて北米のもので、特に「アーリーローズ」「スノーフレーク」は道民の初期の主食代用品となりました。大正時代には澱粉製造業の需要が大きくなり、北海道の主作物の一つとなりました。
 しかし、明治二十年代から全道的にじゃがいもの病虫害が発生、特に萎縮病の被害は甚大であったそうです。
田川男爵はこの病害騒ぎを知り、外国から取り寄せた農業専門書を読みあさって居ると「北米マサチューセッツ州のアイリッシュ・コブラーの農場でアーリーローズ種の突然変異により新種のじゃがいもが出来た。粒大にして味も良く、病虫害に不死身なほど強い」という記事を発見しました。男爵はは早速アイリッシュ・コブラーの名の新種を取り寄せ、四年間の試作実験を重ね、病害に強いだけではなく、生育も早くて夏の短い北海道に適し、味も良いという品種の優秀性を実証しました。伝え聞いて入手の希望者が増え、不作に苦しんだ道内のじゃがいも農業は安定の道を歩んだ。此のためアイリッシュ・コブラー種を男爵の 功をたたえて『男爵いも』と呼ぶようになり、昭和三年には道から優良限定品種として指定登録を受けました。
 川田竜吉男爵は土佐の人で、父・川田小一郎氏は岩崎弥太郎の親友で三菱財閥の創業に尽力し、その後第三代の日本銀行総裁となって日清戦争の戦費調達に貢献した功績で、民間人として珍しく男爵となった財界人です。
 世襲により竜吉が男爵となり、七年間のヨーロッパ留学、特にグラスコ大学で「造船学」を学び、その経験を生かして経営不振の函館ドックの社長として函館に来ました。そして、十年間を費やして会社の建て直しに成功した。
  男爵は函館ドックの再建後も東京に帰らず、上磯の農場清香園でいもづくりに精を出し、又ヨーロッパ型農業を目指してトラクター・洋式牛舎・サイロ等の農業設備の導入につとめました。
男爵は昭和二十六年九十五才で亡くなりました。敬虔なクリスチャンであった男爵は92歳の時にトラピスト修道院で洗礼を受け、3年後に生涯を終えました。
 男爵の死後、金庫の中で大切に保管されていた金髪と90通にも及ぶラブレターが発見されました。これはイギリス留学時代の恋人ジェニーとの間でやり取りされたものです。結婚は親の反対で成就しませんでしたが、生涯心の妻であった様です。しかし、生前ジェニーの存在を知る人は誰もいなかったため、ジェニーについては何も分からないそうです。

 奇しくもスコットランド・グラスゴー大学に留学した2人の日本人青年、竹鶴政孝と川田龍吉。そして、この2人は同じく彼の地の女性と恋に落ちます。竹鶴政孝とリサは周囲の反対を押し切り当時としては珍しい国際結婚をし恋を成就させ一生仲睦まじく暮らしたそうです。一方、川田龍吉とジェニーは周囲の反対を押し切ることができず恋は成就できませんでしたが、川田龍吉の心には生涯ジェニーは生き続けていたようです。





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