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馬糞風リターンズ

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間違っていました。(竹内街道の話)

2009年10月02日 | 地名・地誌
 当ブログ「大道」(竹内街道)・・・地名の話(10)の中で、大きな間違いがありましたので訂正します。
隋使・裴世清一行も難波津からこの道を「ワッソ、ワッソ、・・」と掛け声をかけながら京(明日香)まで行進したのです。
この部分は、全くの間違いです。

日本書紀の推古天皇21年(613年)に、「難波から京(明日香)に至るまでに大道を置く」とあります。
隋使・裴世清一行が来朝したのは、推古16年(608)ですから、上の文章は完全な間違いです。
講釈師、見てきたようなウソをつき、そのものです。
 推古16年6月、裴世清一行が難波津に泊まった時、飾り船30艘で江口=淀川の河口の新しい迎賓館に迎えました。
8月初め、舟で大和川を遡り、初瀬川から三輪山のふもと「海柘榴市(つばきいち)で下船、飾り馬75疋にのせて飛鳥小墾田の宮に入った、とありますから「ワッソ、ワッソ、・・」と掛け声をかけながら・・、は嘘です。
以上訂正しておきます。

 なお、調べなおしていた時、竹内峠の大阪側大阪府南河内郡山田村(現太子町大字山田)に「大道」と云う地名がありました。
今でも国道166号(竹内街道)に沿ってあります。
これも明らかに古代官道に因む地名であることは疑う余地がありません。

 

高取町土佐・・・・・地名の話(11)

2009年09月21日 | 地名・地誌
浪曲で「妻は夫をいたわりつ、夫は妻を慕いつつ・・・」という語り出しのお里沢市「壷阪霊験記」で有名な壷阪寺、日本三大山城「高取城」
また大和の「置き薬」でも知られる奈良県高市郡高取町に行って来ました。
歴史は古く古代から交通の要所として栄えた由緒ある街ですが、江戸時代には城下町として大いに栄え、現在もその面影を色濃く残した落ち着いたいい所です。
この高取町の中心に「土佐」と云う所があります。
街道筋に説明板が掲げられており、その説明は以下の通りです。

「土佐の由来」
 六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で、故里土佐国を離れ、この地に召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けられたと思われる。
故郷を離れて生きて行く生活を余儀なくされた人達のたった一つの自由な意志は故里の名を今の場所につけることであった。
「望郷の想いむなしく役夫らの せめて準う土佐てふその名」

 この説明で十分だろうと思います。
特段面白いことも無い地名ですが、地名が移転する良い例だと思います。
北海道には移住元の地名を負うものが珍しくありません。
有名なものとしては「十津川」「広島」「福井」・・・・・等があります。

 地名を眺めていて楽しいのは、その地名の来歴を考える時です。
先ず「古さ」です。この地名は、いつ頃からこの様に呼ばれだしたのだろうか?
古代からか?弥生時代からだろうか?ひょっとして縄文時代かも・・?
地名には、確証はありませんが「縄文古語」が隠れているのでは・・とそれだけでわくわくしてきます。
 地形から付いた地名もあります。古代の政治体制から付いた地名もあります。
古い時代に政府の役所があった事を窺わせる地名もあります。

 そんな事からすると、最近、特に平成の大合併と云われる市町村合併により、伝統ある地名が、消滅しています。
中には古代郡県制以来の由緒ある地名が完全に消滅したものもあります。
W・M・ヴォーリズの建築物が、取り壊されるのも残念な事です。
有志の方々が反対運動をされています。
でも、「地名」はもっともっと古い日本の文化財です。
この貴重な民俗の財産である「地名」を、いとも簡単に消滅させていいものでしょうか。
文化国家日本のありように疑問を持っています。

写真は高取城跡

「大道」(竹内街道)・・・地名の話(10)

2009年09月19日 | 地名・地誌
 当ブログ「トムラウシ・・」で、言葉不足があり、10kmのウォーキングが危険な様に書きましたが、これは失言で取り消します。
本サイト3年4組のHP「耳寄り情報」で「竹内街道散策と史跡めぐり」で参加者を募集している最中に、水を差すような事になり申し訳ない事になりました。
大震災などがあり、交通機関が不能になった時に「自宅まで歩いて帰る」経験をする催しがあるように、10~20kmを障害を避けながら歩けないとサヴァイヴァルできません。その訓練を兼ねて、皆で「竹内街道」を歩きましょう。
現在、太田さんにて参加者を受け付けていますので、早めに申し込んで下さい。

 「大道」=だいどう、おおみち、と呼ばれる地名は全国に散見されます。
那覇市字大道(だいどう)
横浜市金沢区大道
越谷市大道
防府市台道(旧大道村)
徳島市大道(おおみち)
千葉県市原市姉崎大道
他にも沢山ある地名です。
 多くの場合、幹線道路が通っており、それに由来しています。

大阪市天王寺区南部の「大道」(だいどう)という地名
堺市北区金岡町の金岡神社東側に「大道町」という字名があります。
 日本書紀の推古天皇21年(613年)に、「難波から京(明日香)に至るまでに大道を置く」とあります。これが日本最古の官道です。
上記の2つの地名「大道」は、この日本最古の官道に由来するのです。
「大道」と呼び習わしていたようですが、堺から以降を「多治比道」などとも云い
やがて「長尾街道」「竹内街道」と呼ぶようになりました。
余談ながら「○○街道」など「街道」と言い出すのは江戸時代以降のことです。
 隋使・裴世清
一行も難波津からこの道を「ワッソ、ワッソ、・・」と掛け声をかけながら京(明日香)まで行進したのです。
 地名から「日本書紀」の記述が裏付けられた良い例です。

秋の一日を体力作りを兼ねて「竹内街道」を仲間と歩き、日本古代史に触れるのも楽しいですよ。


水戸黄門さんと「潮来」・・地名の話(9)

2009年09月16日 | 地名・地誌
お偉い学者さんの中には「お忙しさん」がいると見えて、大して調べもしないでとんでもない「お説」を発表されることがあります。
その方がBigであればある程、その「とんでもないお説」が真実として定着してしまいます。
 「潮来」は「朝来」の誤写で、「あさご」が訛って「いたこ」になったと、新説を発表した先生がいます。これは勿論全くの思い付きのこじ付けです。

 「潮来」は、和名抄には「常陸国行方郡板来」(原書版では坂、これは板の誤り)、風土記には「・・・板来村、近臨海浜、安置駅家・・」、また郡郷考に「板来、又板久に作る。元禄中、潮来に改めて、訓は旧の如し・・」とあります。
古文書などには「今謂 伊多久之郷・・・」などの表記があります。

 それでは、板来が何故潮来になったのか?
鹿島志に「・・・・潮来の字もとは板来と書たるを「西山の公」鹿島に潮宮ありて常陸の方言に「潮」を「いた」といへる興あることとおぼして、かく書改られたりよ・・」とあります。
要するに茨城(常陸)では「潮」のことを「いた」と云う事があり、そのことから「西山の公」なる人が、従来「板来」と書いていたものを「潮来」と改めたようです。その時期は元禄の中頃と云う事です。
そして「西山の公」とは、西山荘の主、水戸藩主「水戸光圀」こと「水戸黄門」です。既に広く知られているように水戸光圀は、生涯を「大日本史」の編纂に没頭し、TVのように諸国を漫遊等はしていません。
結構、気難しい学者肌であったようです。
 
 写真は、潮来のご当地切手です。

「美木多」と云う地名(地名の話8)

2009年09月08日 | 地名・地誌
 泉北高速に「栂・美木多」と云う駅があります。
和泉が丘駅と光明池駅との間の駅です。
鉄道ファンには特異な駅名として結構有名だそうです。
何故かと聞きましたら、例えば「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」「さくら夙川」のように並列併記の駅名は幾つかあるそうですが ]・[ 中黒と云うそうですが、この中黒表記の駅名は珍しいそうで、その1つが「栂・美木多」なのだそうです。
「栂」をトガと読むのも珍しい読み方で、普通はツガがと読むようです。
栂はさて置き、今回は「美木多」を考えてみます。

 「美木多」地名解
「美木多」=みきた、通常何の疑問もなく耳に入ってくる音ですが、考えてみると意味が分からない地名です。
使われている漢字には何の意味もないでしょう。そうすると音が問題になると思いますが「みきた」とは、どんな意味があるのか?
「美木」「神酒」「三木」「幹」「樹」「御木」「三岐」「見城」「三鬼」・・・などいろいろ考えられますが、後ろの「た」を付けた「みきた」になるとまた数は限られてくるでしょう。
しかし、そうして並べて見ても「みきた」にぴったりの組み合わせはないように思います。
長年、頭の片隅に「みきた」はもやもやと残っていたのですが、ゆっくりと地図を眺めていて気付いたことがあります。

 話は飛びますが「重箱」読み、と云う読み方があります。
即ち、漢字には「音」と「訓」があります。普通漢字を2文字続けますと「新聞」「飛行」などのように「音+音」で読みます。所が「重箱」は「重」=音+「箱}=訓、で読みます。
因みに「湯桶」読みと云うのは、「訓」+「訓」の読み方です。
 美木多は石津川の支流「和田川」に沿ってあります。
この「和田」が重箱読みの典型です。
「和」は、「和魂」=ワコンとも読みますが大和言葉ではニキタマと読みます。
同じように「和物」=ニキモノ、「和布」=ニキメなど「和」の訓は「ニキ」です。
「にき」=「和、熟」おだやか、やわらか、精熟した、などを表す接頭語です。
動詞は「にきぶ、和ぶ」となります。
「和田」=「にきた」と読むのが本来の大和言葉です。
実り豊かな「にきた」が広がっていたこの地区を「にきた」と呼び、それに対応する漢字表記として「和田」を充てたと思われます。
「にきた」が訛って「みきた」となり「和田」本来が忘れられて表記も「美木多」になったと考えると納得がいく地名です。
和田川表記は残り「美木多」は大和言葉の呼び方が残ったことになります。
 このように「思考実験」は、大変面白いお遊びになります。

「馬欠場」は何処にある?=地名の話(7)

2009年09月03日 | 地名・地誌
珍名ランクを見ていましと「馬欠場」と云うのがあります。
「うまかけば」と読むそうです。
豊中に1家族がおられます。電話帳には搭載されていません。
馬欠場さんとお話しをする機会がありました。「電話帳には出ているのですが、字が間違っているのです」と云われました。NTTが馬欠場→駅場と見間違ったようです。
出身は和歌山県新宮市だそうです。彼に依りますと「馬欠場」姓はここだけだそうです。そして「馬欠場」を名乗ったのは、彼の一家だけだそうです。
インターネットで「馬欠場」を検索すると約200件出て来ますが、名簿一覧内を検索して拾ってきたようです。
名前の由来を聞いたら「在所の土地の名前」を苗字にしたそうです。何時頃から名乗ったのかは分かりませんが、明治維新の時ではないかと思う、との事でした。
 地名を名前にする或は有力者の名前を地名にする例は多くあります。
地名を負う名前は、圧倒的に多いので、この場合の「在所の土地の名前」を苗字にしたと云うのは事実でしょう。

「馬欠場」地名解
「欠け」の解釈がポイントです。いろいろの用例及び東牟婁の方言など調査結果から「欠け」=あくびをする。→のんびりとする。などと解釈するのが適当と思います。馬が休憩する場所と解釈しました。
高知県に「奈路」=なろ、「大奈路」と云う特徴的な地名があります。
四国山脈の急峻な地形にチョットした平坦な場所があります。そのような所を高知県では「奈路」と呼んでいたようです。
「馬欠場」も「奈路」と同じような熊野山地の山肌に坪庭のようにある平坦な所、荷駄馬などの休息地にしたのでしょう、そんな所を「馬欠場」と呼んだと想像します。そして地名として定着したのです。
http://www.geocities.jp/tatubou44/oujikumanokikou.html 
「馬欠場」は何処にあるの?
それでは、何処にあるのかと捜査を始めました。
先ず馬欠場さんの出所の新宮市の教えてもらったところに行きましたが、開発が進み大きな道路が付いており、元々の地形は無くなっていましたし、熊野川の氾濫原であり地形的に不適当な所でした。
http://www.geocities.jp/tatubou44/oujikumanokikou.html
地元の人から発心門王子か伏拝王子か祓戸王子あたりにそのような所があったと聞いたことがある、との情報を得て、いろいろ調べましたが、未だにここだ!と確定するまでには至っていません。
角川日本地名大辞典和歌山県の資料編に「小字」集が収録されていますが、何万件あるか数えたことがありませんが、その膨大な小字の中にも今のところ「馬欠場」を発見できません。
 最近は、地元での聞き取り調査が「差別」問題と誤解されて、なかなか難しくなっています。この「馬欠場」は、差別とは全く関係のない調査ですが、役場に行っても先ず詳しい情報が得られません。
「馬欠場」は何処にあるのでしょうか?熊野に行く度に探していますが・・・・
そんなことを20年近くやっています。
楽しいですよ。


「間人」糸口が見つからない・・・・・(地名の話6)

2009年09月01日 | 地名・地誌
 丹後半島北西に竹野郡間人町=現:京都府京丹後市丹後町間人と云う所があります。
「間人」(たいざ)は、日本海に沈む夕日が美しいところで、鳴き砂、温泉、カニで有名な観光地です。
特に「カニ」は、「間人カニ」とブランド化されて冬の目玉商品となりました。

 「間人」地名解
「Wikipedia」には
「聖徳太子の生母・間人(はしうど)皇后が蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後の当地に身を寄せ、後に当地を去るに当たって自らの名をこの地に贈ったものの、住民は「はしうど」と呼び捨てにすることを畏れ多く思い、皇后が退座(たいざ)したのに因み間人を「たいざ」と読み替えた」、との地名説話があります。
最近この説話を基に聖徳太子母子像が建てられたようです。

 間人の地名解は、この地名説話以外に見るべきものが無いのです。
地名説話の多くが「語呂合わせ」的な他愛もないものが殆どです。
間人皇后が彼の地に来たと云う事は「記紀」には記載がありませんし、その様な状況証拠は全くありません。当然、この地名説話も他の地名説話と同様、信用に足るものではありません。
 所が、この「間人」をどう説明するかは、全く糸口が掴めないのです。
京都大学の地名の大先生の論文はある事にはあるのですが、僕には到底納得できるものではありません。
一度だけ、その先生に質問状を出したことがありますが「梨の飛礫」
自然科学では「エビデンスevidence」と云う概念があります。
ここでは「科学的な証拠」位に理解しておきます。
彼の大先生の「論拠」は、地名説話に等しい飛躍があったのですが、返答がないためその後放たらかしです。
今流に言いますと「エビデンス」が全くない論文と云う事になります。
 丹後半島には「伊根の舟屋」「浦島子神社」の様な海洋民族のい遺風を残す民俗があり、間人地区での「葬送儀礼」も独特のものがあります。
これらのことから、海人族との関係を探った事もありました。(ポリネシア系言語)
また、和名抄に「間人郷」の記載があり、古代からの古い地名であることから「縄文言語」かもしれないと思い・・・
 しかし、どれもこれも要は「エビデンス」が無いのです。
全く糸口がつかめない「難解地名」です。
何方か明快な解答を提示してくれませんか。

奈良県香芝市穴虫(地名の話5)

2009年08月19日 | 地名・地誌
 乾さんと太田さんが「竹内街道」を歩いた記事が3年4組のHPにあります。
大阪府と奈良県の境に「二上山」があります。この二上山の南側に竹内峠があり、北側に「穴虫峠」があります。
いずれ乾さんと太田さんが「竹内街道ウォーク」を企画してくれると思います。
その時の「話のネタ」にして下さい。

http://takahira.cool.ne.jp/furuimatiB/kinki3/kasiba-anamusi.htm
http://www.asuka-tobira.com/futakamiyama/futakamiyama.html
大阪府と奈良県境二上山の北側に「穴虫」と云う地名の所があります。
二上山の南側の峠が「竹内峠」で北側に「穴虫峠」があります。
竹内峠を通るルートが、わが国最古の国道「竹内街道」です。
国土地理院の地図をゆっくりと眺めて下さい。http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=51356550
 さて地名「穴虫」をどう理解するかを書いてみます。
例によっていろいろな「穴虫」地名解があります。
一番有力な説と云われているのが、日本地名学会会長谷川健一さん等が唱えている「金属・精錬」関係地名説です。
「穴虫」と「穴師」との関連を論拠とする説で、谷川健一さんの膨大な「金属精錬」関係の民俗調査や一連の著作をベースにしているだけに説得力もあり賛同者も多い説です。ここでは論旨を省略しますが、結構知的好奇心を刺激する論です。
 僕は、大先生のお説はさて置き、「アナムシ」を分解して「アナ」「ムシ」に分けて考えています。
例によって結論だけを書きます。
「ムシ」=「ムショ」→「無所」→「墓所」。漢字の読みは「呉音」「漢音」がありますが「墓所」を「ムショ」と読むのは「呉音」で、仏語は基本は「呉音」で読みます。中世末に編纂された「日葡辞典」にも「墓所」=「Muxo」とあります。
一方「アナ」は文字通り「穴」のことです。「墓穴」です。
兵庫県在地の民俗調査資料などから、土葬であった当時、死体を埋葬する穴(墓)を堀に行く時は「穴を掘る」と一般的に言っていたようです。
 要は「穴虫」=「穴(墓)+墓所」=「アナムショ」→「アナムシ」と訛ったと思われます。
では何故この二上山の北側に「墓+墓所」からなる「穴虫」地名があるのかと云いますと、有名な大津皇子の古墳が有るように、二上山は古代の都のあった桜井市方面の西に位置し、太陽が沈むところです。また、大阪府側には「王家の谷」とも云われる磯長があります。
このように古代この辺りは貴族の墓所であった事実があります。
 兵庫県で「虫」地名を調べた時にも「虫」が「墓所(ムショ)」の訛ったものである例が数多く検出しました。
いろいろなデーターから僕は「穴虫」は「墓所」地名だと確信しています。

大来皇女の歌
「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む」

地名・あまり(地名の話4)

2009年08月11日 | 地名・地誌
 山梨県韮崎市に県立公園「甘利山」があります。
甘利山は、つつじの名所でまた手頃なトレッキングが楽しめる人気の所だそうです。
http://amariyamaclub.or.tv/

この山のふもとの集落に行きますと、甘利小学校(廃校)、農協甘利支所、甘利沢、甘利神社・・と正に「甘利」の大安売りです。
この「甘利」は地名を負っているのです。
この付近は、古代には高句麗からの渡来人が多く住んだところで、後の高麗郡(巨麻郡)と呼ばれた所です。
この高麗郡の一角、塩川と釜無川が合流する当たりを古代には「アマリベノゴウ」と呼ばれていました。(和名抄:甲斐国巨麻郡余戸郷)
律令制では、国、郡、郷(里)と地方行政制度がとられていました。
その内、郷(里)は、原則として50戸を以て1つの郷を編成しました。
所が、山間僻地ではこの原則が満たされることがなく郷が編成されることがありました。正に文字通り「余った戸」で編成された郷ができたわけです。
余戸は「アマリ」「アマリベ」「アマベ」などと呼ばれていました。
高架橋で知られる「アマルべ」も同じ由来の地名です。(但馬国城崎郡餘部郷)
和名抄には「33カ国、102郡」に「余戸」が散見されます。
地名としては、多い方に分類されるものです。
そして、その「アマリ」「アマリメ」「アマリベ」などの地名を氏族名にするものが現れました。
 但馬記には、余戸氏の存在を記しています。同記には「紀伊国海部郡、日高郡、安房国板野郡に余戸郷有り。余戸氏此処より起こる・・」
余目(アマリメ)は、余戸郷より起こり、その地名を負う、とあります。
余目は余部が訛ったのもで、陸前の余目、余部が有力であったようです。
甲斐国甘利荘と云う記録があり、この地名を負ったのが「甘利氏」なのでしょう。




六甲山と云う地名(地名の話Ⅰ)

2009年08月02日 | 地名・地誌

日本地名学会と云う組織があります。川崎市に本部があり「日本地名会館」と云う立派な自前のビルも所有しています。日本では「地名学」が学問として確立しているかと云いますと、残念ながら地名学と云う領域はありますが学問としては未だ揺籃期で、学問としては問題があるように思います。
この分野では「言った者勝ち」と云う傾向が強く、またそれを検証する手立てもあいまいです。ですから「朝鮮語・アイヌ語」起源説が氾濫して、何かにつけ「朝鮮語から来ています・・」とか「アイヌ語から・・」と云う風な仮説が多くあります。
 所が「地名」をやる人が結構多くいて、先の「日本地名学会」の会員の大多数は在野の素人の研究者です。大体「物理・化学・数学・・」などの自然科学ですと原理や定理、公式・・など最低限の基礎知識がなければ話になりません。
ノーベル賞の素粒子論などは、素人には全く手の出せないことばかりです。
しかし、歴史などは「聞きかじり」の単語をつなぎ合わせて、それらしい自分なりの仮説を唱えることができます。一番いい例が「邪馬台国論争」です。
 金は無いが時間のある方は、結構楽しめるのが「地名」です。
興味のある方は、是非「地名」の世界を楽しまれてはいかがでしょう・・。
上記の様な代表的な例として、身近な「六甲山」と云う「地名」が「地名屋」はどの様にこねくり回しているかを示します。皆さんの感じ方は・・・?」

六甲山の地名解:
 通説は、神功皇后伝説。神功皇后の朝鮮遠征の帰路、九州で産んだ王子(後の応神天皇)が帝位を継ぐことを恐れた兄の香坂・忍熊の2王子が皇后一行を襲ったが逆に征伐され、香坂・忍熊をはじめとする首謀者6人の首が兜(=『甲』)とともに山中に埋められた山を六甲山と呼ぶようになった。
そのために六甲山には一ノ岳?など合計6つの高い峰がある。
 しかしながら、六甲山に『六甲』の字が使われるようになったのは江戸時代であるらしく、奈良・平安時代では万葉集などで、「牟古山」・「務古山」・「六児山」などの表記で「ムコヤマ」と呼んだものと考えられ、これに神功皇后伝説をはめ込んだという説も多い。(六=ム、甲=コ)
このムコヤマのムコは、麓の武庫之荘、武庫川などと同様の地名の転化であるとされる。
このムコの由来にも各説あり、支持が多いのは、
 大和時代に大和や難波宮(7世紀頃造営)から見て大阪湾あるいは淀川の「むこう」が「ムコ」、淀川の「こっち」が「河内(かわち)」というもの。
これ以外にも古代日本人のルーツと同系のポリネシア(南方系)、アイヌなどの言葉からマオリ語の 「ム・コウ」、MU-KOU(mu=silent;kou=knob,stump)、「静かな切り株(瘤のような山)」や、アイヌ語の「ムク」という植物が語源であるとする説などがある。

今宮高校の「今宮」てなぜ?

2009年07月01日 | 地名・地誌
大正時代の地図ですが、明治期の方がもっとよく「今宮」が分かるのですが陰影が崩れてしまうので使用できません。「今高史記・百年の歩み」から「明治39年3月9日文部省告示:大阪府立今宮中学校を南区馬淵町350に設置。明治40年南区宮津町に変更。昭和34年戎本町2丁目と改称・・・」とありますが「今宮」は出てきません。ブログでスペースがありませんのでごく簡単に書きます。この辺りは古くから「今宮村」と云われる大字で西は木津村、東は天王寺村、南は勝間村に接した縦長の大きな村だったようです。文献初見は鎌倉時代「源平盛衰記」ですがその歴史は、古くは聖徳太子が四天王寺を建立した頃からの伝承があるようです。
「今宮」である以上「本宮」があるはずですが諸説がありますが、西宮のえびす社を召請した、或いは京都洛北の今宮社の系統と云う2説が有力です。僕は、周辺事情や執り行われている神事などから「西宮社召請説」が妥当ではないかと考えています。そうするとこのあたりを「今宮」と言い出したのは15・6世紀の頃です。