goo blog サービス終了のお知らせ 

馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

信州旅行雑学習得(白馬は「ハクバ」or「シロウマ」?)

2010年09月08日 | 地名・地誌
JR大糸線の「白馬」駅は「ハクバ」駅。行政の「白馬」村は「ハクバ」村。その他施設や地名は全て「ハクバ」と言っているようです。

一方、この白馬村のシンボル「白馬岳」は唯一「シロウマ」岳と言います。
北アルプスの山々に遅い、待ち焦がれた「春」が訪れます。白銀の山肌にいろんな「雪形」が現れます。この「白馬岳」には写真の様な「雪形」が毎年、毎年出現します。地の人達は「代掻き馬」に見立てたと云われています。
白馬岳に「代掻き馬」の「雪形」が現れると、そろそろ田んぼの準備を始め、本当に「代掻き」をしたのかも知れません。
また、今年は「代掻き馬」が遅いので「豊作だ!」とか「不作だ!」、或いは「代掻き馬」は「太っている」「瘠せている」とかで「作柄」「天候」の予想が出来たのだろうと思います。
 この土地の人達は何百年もの間、こうして北アルプスの山々の変化を観察し、自然から多くの事を学び、多くの恵みを受けて生活してきたのでしょう。

「代掻き馬」が「代馬」そして「白馬」と表記しましたが、お山はやはり元々の「シロウマ」です。
その裾野に開ける集落も「白馬」ですが、何故か音読の「ハクバ」となりました。
なぜ、音読になったのかは興味あることです。分かればまた報告します。



 太田君のロッジの台所から真正面に見えるのが「五竜岳」です。
この山に現れる「雪形」は写真のように「菱形」が4つだそうです。
これを地元の人達は「武田菱」に見立てたようです。そして御菱(ごりょう)岳と呼んでいたと言います。「御菱」が「五竜」に変ったものと言われます。

 ただ1説にはこの山が「立山の後」に位置する事から「後・立山」→「後立」(ゴリュウ)と言う人もあるようです。

世の中には「奇を衒う」のを好む人もいて、どうも人と違う事を「言いたがる」ご仁がいるようで、この「後立」説もその様なお方の「妄説」。
また、余談ながら「竜」が付く地名は古代「中国人」の蟠踞した所と、これまたとんでもない「戯言」を云う幸せなお方もいるようですが、それではこの「五竜」は中国人とどの様に結びつけるかお聞きしたいものです。

地名に竜が付く所は、古代中国との関係が深い、と云う事を主張する学者(?)は結構沢山いるようです。

「枯野」「軽野」「狩野」・・・地名の話(17)-2

2010年08月04日 | 地名・地誌

前回、古事記仁徳天皇の記事を引用しました。
「この御世に、兔寸河=(とのきがは)の西に一つの高樹有りき。その樹の影、旦日=(あさひ)に当たれば淡路島に逮(およ)び、夕日に当たれば高安山を越えき。故、是の樹を切りて船を作りしに、甚捷(いとはや)く行く船なりき。時に其の船を号(なづ)けて枯野(からの)と謂ふ。」
「兔寸河」は高石市・JR富木とされ「富木神社」があります。高安山は大阪と奈良にまたがる古代から要害の地で「高安山城」でも知られています。
この記事に関して以前大ブームとなった「知られざる古代」-謎の北緯34度32分をゆくーに「巨木伝説」として取り上げられNHKディレクター水谷慶一の重要な論拠の1つとされました。
 また、同じく前回引用した日本書紀応神天皇紀「枯野」には後日談があり、詳細は省きますが「武庫水門(むこのみなと)や新羅から船大工の集団が渡来し猪名部などの事が書かれています。
何れも日帰りコースで楽しめる「古代史探訪」の地です。一度、行かれてみてはどうでしょうか。



茂在氏に戻ります。
「古代日本の航海術」で「記紀」をポリネシア語での解釈を試みています。
但し、茂在氏は学究として「素人が無謀な意見を差し挟む余地は見出せず、・・・恥をかくのが落ちである」と分限を弁えつつも、「古代の船と航海は・・・学際的問題」とし「歴史にも強く、海洋学にも航海学にも通じ、しかも語学に造詣が深い」人でなければ「仮説」は立てられないと指摘しています。

 記紀には多くの「船」が登場します。
それを「茂在流」に解釈したものを紹介します。(ポリネシア語での解釈)

「アマのイワフネ」→アウトリガー付きカヌーの鳥船。
「アマ」-AMA,カヌーのアウトリガーと云う腕木の先についた浮木。
「イワ」-IWA,軍艦鳥。黒い羽根を持つ大きな鳥。

「鳥の石楠船(トリのイワクスブネ)(古事記)→楠の表面を削って形を整えた船。
「トリ」古代ポリネシア語「トリ」は現代ハワイ語「コリ」
 TOLI、木やミカンの皮をむく。木の表面を薄く削って形を整える。

「堅間小舟(カタマオブネ)→カタマラン=カヌーを2隻並べて縛りつけた双胴船
「カタマラン」非常に古い言葉で、タミール語とされ現代の英語ではCatamaran。タミール語のKattaとmaramの合成語=木を結び合わせたもの=筏が語源。これが「2艘の船を結び合わせた双胴船」と意味が変わった。「カヌーを2隻並べて縛りつけた双胴船」・・。

「無目(まなし)」→不思議な力を持つ釣り船
「マナ」MANA,超自然の、神の力、不思議な力
「シ」SII,釣る、流し釣りする、漁網で魚をとる。

「無目堅間小舟(マナシカタマオブネ)」(日本書紀海幸彦・山幸彦の段)
 「カタマラン型(カヌーの双胴船)の不思議な魚釣舟」

などなど、興味のある解釈をされています。
無論、俄かに賛同はしかねますが、反論の材料も残念ながら有りません。
ただ、過去に「安田徳太郎」のレプチャー語の例もあることですから、・・・。


「枯野」「軽野」「狩野」・・・地名の話(17)

2010年08月02日 | 地名・地誌

伊豆修善寺温泉の近くに「軽野神社」があります。下田街道沿い、狩野川の右岸に鎮座する「式内社」です。
この「軽野」や「狩野」、また「枯野」「苅野」の語源は「カヌー」であるとする学者がいます。
 東京大学水産学科や東京商船大学の教授だった「茂在寅男=もざいとらお」氏です。工学博士号の肩書を持つ自然科学者ですが、古代史などの著作も多く、独自の視点から記紀や邪馬台国論争にも多くの提言をしています。

 「古事記」仁徳天皇の段、「この御世に、兔寸河=(とのきがは)の西に一つの高樹有りき。その樹の影、旦日=(あさひ)に当たれば淡路島に逮(およ)び、夕日に当たれば高安山を越えき。故、是の樹を切りて船を作りしに、甚捷(いとはや)く行く船なりき。時に其の船を号(なづ)けて枯野(からの)と謂ふ。
枯野は日本書紀応神天皇所で「軽野」と表記されています。
同じ日本書紀応神天皇紀に「伊豆国に科(ふれおほ)せて、船を造らしむ」とあり、その場所が冒頭の「軽野神社」付近で造船用材を切りだし、狩野川を利用して運び出したとされています。

 「軽野」「狩野」「枯野」「苅野」のどの地名は、全国に分布しており「常陸風土記」「相模風土記」にも散見されます。そしてその関連記事は「造船」に関わるものです。
所で「是の樹を切りて船を作りしに、甚捷(いとはや)く行く船なりき。時に其の船を号(なづ)けて枯野(からの)と謂ふ。」とありますが、何故、甚捷く行く船を「枯野」と号けたか? 従来の一般的な解釈は「はやく走る船なので枯れた野原と名付けた」と字面通りで、特に注釈などは有りません。しかし、速く走る船が何故枯れた野原なのか?考えると不思議なことです。

 茂在寅男さんは「枯」と「軽」とは同種で「カラヌ」「カヌー」「カノー」「カルノ」から「枯野」「軽野」を当てた、と解釈しています。
そして、当時「カノー」と云う言葉が、その船とともに存在していたと論じています。

つづく


「地名」という「地名」・・地名の話(17)

2010年03月16日 | 地名・地誌
2~3日程度のドライブ旅行先を探していました。静岡県寸又峡に向かう「大井川鉄道」に「地名」と云う駅がありました。
早速、国土地理院の地図を広げて見ました。国道1号線「金谷」からR-473,大井川に沿って北上し、寸又峡との中間くらいのところに「地名」と云う集落があります。
現在の行政区分では「静岡県榛原郡川根本町地名」です。

 「地名=じな」と読むそうです。
手元の資料で調べましたが、史料上は「中世以降」に現れる地名です。
地名解については「目ぼしい」ものはありません。要は「分からない」と云うことです。

昭和43年(1968年)2月、寸又峡事件(金嬉老事件)と云うものがありました。恐らく日本最初の「劇場型犯罪」だと思います。
ライフル銃を抱いて、体に「ダイナマイト」を巻き付けた姿、そんな姿にそぐわない寸又峡の雪景色が印象的でした。機会があれば一度は行きたいと思っていました。

 「地名」の地名解ができれば楽しいだろうから、これを機会に40年来、行きたかったところへドライブしてみようかと思っています。


「帯広・オベリベリ・オペレペレケプ」・・・地名の話(16)続き

2010年02月15日 | 地名・地誌
「帯広・オベリベリ・オペレペレケプ」・・・地名の話(16)の続きです。

何の疑いも無く「帯広」は「オペレペレケプ・オベリベリ」が「帯広」表記になったものと思っていました。
 音韻変化としては「チョットおかしい」とは思いながらも納得していました。

昨年「帯広図書館」で明治期の史料を大量にコピーしたことを当ブログで紹介しましたが、現在、史料を分析中です。

今回、当ブログを書くに当たり、もう一度資料に目を通したところ、そう簡単な問題でない事実が幾つも出てきました。

 現在、各方面に資料の依頼や問合わせ中ですから断定的なことが書けません。
しかし、簡単に問題点だけを紹介しておきます。

帯広の前段階の地名「オベリベリ」は、明治15年頃、晩成社が十勝に関心を示した頃からの資料に現れる「地名」です。

明治3年、十勝が「一橋・田安」の領地であった頃の史料に「下帯広」表記が既にあっるそうです。
また、明治6年製の地図に「下帯広村」の表記があります。(この地図は、コピーを持っています)
そうすると「帯広」表記は明治3年には既にあったということになります。

信じて疑わなかった「オベリベリ」→「帯広」は間違い、と云うことになります。
また、迂闊なことですが「晩成社事業報告書」に「下帯広村オベリベリ」と云う記述もあります。

 「帯広市史」はじめ「北海道史」などの地域史にも、この部分についての記述が極めて曖昧に書き流しています。
何故、明治3年の「下帯広」が、「帯広」地名の初めと云わないのかが分かりません。
素人の悲しさで「分かり切った事」、帯広地名を語る上で「基本的な知識」でいまさら言うまでもない事実を僕が知らないのかもしれません。

 ただ、これらに関する資料が「帯広市立百年記念館」に全くないこと、学芸員も「関心」がなく「道庁」に聞いて欲しい、と云うだけなのが残念です。

また、「北海道開拓記念館 学芸部」(近代史担当)に問合わせても、応対は丁寧であっても「地名」が専門でありませんので、との回答です。

 どうも「一橋家文書」を捜しあてなければ解決しないようです。

「下帯広」を「ポン・オペロヘロフ」と読ませていたようです。

写真は中島公園内にある拓聖「依田勉三翁」像:中島みゆきの祖父中島武市の寄付により建立されました。

 

アイヌ語を和語で表記すると・・・・・・

2010年02月08日 | 地名・地誌
当ブログ「十勝の地名(回答編)」をご覧ください。
 北海道・蝦夷地に関心が集まりだし、探検・探査が行われ、様々な報告書や記録が残されました。その時の「地名・人名」は全て「カタカナ」で表記されています。
「地名」「人名」は「アイヌ語」の発音に「似た」或いは「より近い」和音で著しました。
例えば「yam wakka pira」=「冷たい・水・崖」とアイヌ語で呼ばれていた土地を「ヤム・ワッカ・ビラ」と表記しました。
 その後、明治政府の支配が北海道全土に及ぶと、行政書類上「カタカナ」表記が「漢字」表記に統一されます。
「ヤムワッカ」は「止若」、「マクンベツ」は「幕別」、「チロット」は「白人」と云う風に書き改められました。

 今から2千年ほど前にこの列島で同じようなことが起こりました。
中国の史書にこの列島のことが書かれだしました。
当然、当初は「地名・人名」が中国語で書き表されました。
有名なものでは俗に云う「魏志倭人伝」の「邪馬台国」や一連の30国ほどの国名(地名)や「卑弥呼」などの人名・官職名などがそれです。

 この列島の人たちは、「漢字」と云う「外国語」を様々な工夫を加えて「日本語」にしてしまいました。「音」と「訓」、万葉仮名の発明、読下しの工夫、仮名(真仮名・片仮名)の発明などなど・・・・。今は、これらの事は省略します。

「用字」の違いは意味がない、「音」が重要である、と言われます。
これは「本居宣長」以来の長い研究の成果の結果で、間違いのない事実です。
算数の「1+1=2」と云うのと同じ基本知識です。

 古事記と日本書紀で、特に「地名・人名・神名」の表記が違っています。
例えばイザナギ・イザナミは、伊耶那岐・伊耶那美 (古事記) 、伊弉諾尊・伊弉冉尊(日本書紀)と云う風に表記されます。
「用字」に意味はない、と云うのは、このイザナギ・イザナミの「音=読み方」が重要であり、使われている「漢字」は「どの様に発音するか」を表す為の手段に過ぎません。

 これはアイヌ語を「カタカナ」で表記するか「漢字」で表記したかの差に過ぎません。
古事記は「序」で太安万侶が述べているように「日本風」を如何に表現するかに腐心しました。白川静が「古池や 蛙とびこむ 水の音」を「漢文」で表現できない、と指摘したように太安万侶の苦労は其処に在った訳です。
一方、日本書紀は、天武天皇が秦の始皇帝に倣ったこともあり、始皇帝が統一した度量衡はじめ多くの秦の制度を導入しました。
当然、始皇帝が統一した「漢字」も公式に採用しました。秦は西安を拠点としましたので、この「漢字」は、今までの「漢字」の「音」と大きく異なったものと云われています。
 古事記が使用した「漢字」の「音」と日本書紀の「漢字」の「音」は全く違っています。
要は古事記、日本書紀で使われた「漢字」の「音」が違ったために表記が違ったのです。

 所がこの表記の違いから「楽しいファンタジー」を作り出す人たちがいます。
藤原不比等が「何らかの」「政治的意図」から古事記を抹殺するため、日本書紀では全て地名・神名を書き換えた、と云う風な「都市伝説」が流布しています。この「藤原不比等歴史改竄」物語は、どうも「種本」があるようです。と云うのは、この不比等改竄ストーリの構成は、非常にレベルの高い研究成果の歴史事象の配列からなっています。そこいらの歴史お宅が創作できるレベルではないのです。その「種本」の聞きかじりが「歴史お宅」に流布して「都市伝説」が生まれたようです。
 しかし、どの様に「難しい」理屈を並べ立てても「出発点」が「間違って」いれば、前提が崩れており、結果事実の解明からは程遠いものです。

 現在では、日本書紀は駢体文(べんたいぶん)で書かれ、その原典も其々確認され
またメインの執筆者は「中国人捕虜」で「雄略天皇紀」から書き始めた、など詳しいことが解明されつつあります。日本書紀編纂に「太安万侶」が参加していたこともほぼ確実視されています。やはり「不比等」の歴史改竄物語は、説得力に欠けるようです。

 今から1千年後、明治政府は徳川政権を否定するために、北海道の地名表記を「カタカナ」から「漢字」に変えた、などと云う「楽しい人」が現れるかもしれません。
その時、不比等に代わるのは「大久保利通」だろうか・・・。


「帯広・オベリベリ・オペレペレケプ」・・・地名の話(16)

2010年02月04日 | 地名・地誌
帯広の地名の由来は、アイヌ語「オベリベリップ」と言われています。
十勝帯広が脚光を浴びる切欠は、明治13年から18年にかけてこの地域を「発生源」とする「飛蝗(トノサマバッタ)」の大発生です。
 この「飛蝗」は、しばしば小説や映画で紹介されたのでご存知の方も多いと思います。
一時期「イナゴ」と言われていましたが、最近は流石に「イナゴ」と云う人はなくなり「バッタ」と云うようになりました。

 江戸時代後期、例えば「松浦武四郎」などの「蝦夷地探査」の報告書などでは、現在の帯広市付近は「オペレペレケプ」」と記載されています。
明治になり先ほどの「飛蝗調査」で十勝に入った開拓使の報告書(明治一五年一月 開拓使札幌勧業係発行の「北海道蝗害報告書」)やその後当地に入植した「晩成社」の事業報告書、また入植者の日記などでは、「オベリベリップ」となり、その後「オベリベ」に変化しています。
 「オベリベ」の初見は、明治15年晩成社・依田勉三が「十勝外4郡戸長役場」に提出した「地所御下付願」に「十勝国河西郡オベリベリ」と記したものです。
しかし、当時の記録を保管していた「大津役場」が、明治31年、大正4年と2回の火災で資料を焼失しており、地名変遷の顛末がはっきりとしませんでした。

 「オペレペレケプ」から「オベリベリップ」更に「オベリベリ」に変化したようです。
この間の経緯を解明したのが郷土史家「井上壽」さんです。
井上壽さんは、わが母校の第1期卒業の大先輩です。
農業技官として主に病害虫の研究をされる傍ら十勝や道東の歴史・文化・民俗の研究に多大な成果を挙げられた大先輩です。
(写真は、帯広地名解で井上先輩が新発見をした事を報じた「十勝毎日」のもの)

 4年前に「飛蝗」関連の資料を大量に譲り受け、研究を引き継ぐように激励をされました。
昨年帯広を訪問した時、ご挨拶に上がらなければならないところ失礼をしてしまいました。
今年は「年賀状」が届きませんでしたので、ご高齢でもあり心配しています。


「オペレペレケプ」とは、現在一般的に(帯広川)の川尻が帯のように分かれている、という意味と解説されています。
しかし、この地名解は「すこし違い」ます。

 アイヌ地名「オペレペレケプ」(陰部・いくつにも裂けている・者)即ち(川口がいく条にも分かれている川)」と云うのが本来の意味です。
更に云うならば、娘(少女)をオペレケプ(o-perke-p 下の処が・割れている・者)とアイヌ語辞典にあります。

 あまりにも直接的な表現のため、承知の上で「改竄」した地名解にしたものと思います。
これは、十勝の大樹町 「大樹」地名解と同事情と思います。

 「オベリベリ」が「帯広」に変化する過程は次回にします。




十勝の地名(回答編)

2010年01月31日 | 地名・地誌
帯広市   拓成(たくせい) 基松(もといまつ)
足寄町
 大誉地(およち) 愛冠(あいかっぷ) 茂喜登牛(みきとうし) 螺湾(らわん) 鷲府(わしっぷ) 芽登(めとう)
池田町
 様舞(さままい) 美加登(みかど) 信取(のぶとり) 近牛(ちかうし)
浦幌町
 貴老路(きろろ) 川流布(かわりゅうふ) 昆布刈石(こぶかりいし) 十勝太(とかちぶと) 瀬多来(せたらい) 幾千世(きくちせ) 留真(るしん)
音更町   長流枝(おさるし) 武儀(むぎ)
上士幌町  居辺(おりべ)
更別村   勢雄(せお)
鹿追町   瓜幕(うりまく)
清水町   人舞(ひとまい) 美蔓(びまん)
新得町   屈足(くったり)
大樹町
 晩成(ばんせい) 振別(ふるべつ) 萌和(もいわ) 生花苗(おいかまない) 芽武(めむ)
豊頃町
 育素多(いくそた) 安骨(あんこつ) 牛首別(うしゅべつ) 打内(うつない) 背負(せおい) 旅来(たびこらい) 十弗(とうふつ) 長節(ちょうぶし) 農野牛(のやうし) 湧洞(ゆうどう) 礼作別(れいさくべつ)
広尾町
 音調津(おしらべつ) 豊似(とよに) 茂寄(もより) 楽古川(らっこがわ)
本別町
 押帯(おしょっぷ) 勇足(ゆうたり) 負篩(おふいびら) 追名牛(おいなうし)
幕別町   軍岡(いくさおか) 白人(ちろっと)
芽室町   雄馬別(おまべつ) 毛根北(けねきた) 渋山(しぶさん)
陸別町
 小利別(しょうとしべつ) 勳祢別(くんねべつ) 作集(さくしゅう) 日宗(にっしゅう)


摂津国と播磨国の境 須磨公園

2009年12月30日 | 地名・地誌
30日急遽明石市江井ヶ島と云う所に行く用事が出来ました。
久し振りに未だ日が昇らない内に家を出ました。

 29日「田舎暮らしの物件探しPart 2 岡山県備前市鶴海」で書こうかと思いましたが本題と離れるので見合した事があります。

JR赤穂線に「備前福河」と云う駅があります。
「備前」を冠しているようにこの集落は旧国「備前」に属します。
兵庫県はこの備前を含めて「播磨」「但馬」「丹波(一部)」「摂津(一部)」「阿波(淡路島)」「伯耆(東南の一部)」の旧7国で構成されています。
これは他の都道府県を圧倒しています。(千葉県が旧国5ヶ国)
現在の都道府県の体制は云うまでもなく明治維新の「廃藩置県」から始まります。
その線引きは律令時代の「国」をベースにしています。
1国1県=奈良県などは分かりやすいのですが、複数の旧国、しかもその一部を割って構成された県などがあり、複雑な成立過程があります。
1国1県=奈良県でも一時期、大阪の東部・南部と一緒に成り「堺県」を構成したこともあります。

 「福河」集落は岡山県(備前国)和気郡福河村でしたが、1963年9月1日に兵庫県に編入されました。このため、駅名に「備前」という名残がのっています。 電気は赤穂市鷆和(天和駅)までは関西電力の管轄で、福浦(備前福河駅)は中国電力の管轄だそうです。
この場合、兵庫県が「旧国7国」と云うのは明治の廃藩置県とは縁が無い様ですが全国各都道府県の成立を調べるのも「知られざる逸話」が沢山あり面白いものです。

 「摂津国」は、神崎川で分割されて大阪府と兵庫県に分かれました。
この摂津国と播磨国の境は現在の神戸市須磨区と垂水区になります。
山陽電鉄「須磨浦駅」と「山陽塩屋駅」との間です。
そこに見落とすほど小さな川が流れています。「境川」と云う川ですが、この川を境として古代の昔から「摂津国」と「播磨国」の国境に成っています。
現在は「須磨区」「垂水区」との境です。

 現在、関西では「三都」といわれ「神戸」「大阪」「京都」と性格の違う大都市があります。
しかし、「神戸」「大阪」は元々「摂津国」に属し、しかも神戸などは山麓から浜辺までが500mほどの狭い所にあった貧しい寒村でした。
だから「神戸気質」などと云うものはここ150年ほどの間に出来上がったものです。
「神功皇后伝説」の「武庫」、「源氏物語」の「須磨寺」、平家物語」の「福原遷都」「一の谷」「敦盛」なども全て「摂津国」での出来事です。

 そんな思いで明石市江井ケ島から国道2号線でゆっくりとドライブしながら帰ってきました。
年末と云うのに帰省ラッシュもなく穏やかな須磨界隈でした。
そう云えば公園に「敦盛塚」がありました。

 


「そこが問題ないなべ市」・・・・・地名の話(15)

2009年11月25日 | 地名・地誌
「そこが問題ないなべ市」
この文は①「そこが問題な、いなべ市」②「そこが問題ない、なべ市」と読むことができます。
①だと「いなべ市」②だと「なべ市」となります。
「いなべ市」は在りますが「なべ市」は在りません。

 日本語は、名詞を助詞などで切れ目なくつなぐ「膠着語(こうちゃくご)」であるので、名詞を「ひらがな」書きするとよく起こる事です。

 「ひらがな」地名は「むつ市」位しか思い浮かばなかったものが、平成の大合併以降、雨後のタケノコよろしく全国に「ひらがな」地名が誕生しました。
「うるま市」(沖縄県)あさぎり町」(熊本県)「まんのう町」(香川県)・・・
「むかわ町」(北海道)、中には日本初「南アルプス市」(山梨県)カタカナ地名まで登場しました。

「いなべ市」はそんな風潮の中登場した「ひらがな」地名の1つです。
「いなべ市」は、三重県員弁(いなべ)郡内の「北勢町」「員弁町」「大安町」「藤原町」の4町が平成15年に合併してできた市です。

 員弁(いなべ)郡は三重県の最北端にあり岐阜県と境を接しています。
古代から幾多の歴史の舞台となった由緒あるところで、古くは「猪名部」「猪奈部」などと表記されていましたが、和銅6年(713)「国名、郡名を良い字を用いて、2字で表記」せよ、と云う「好字二字令」により、かなりの無理がある表記「員弁」となりました。以来難読地名のリスト入りの栄誉に浴しています。
「員弁」と云う伝統のある表記があるのですから、なにもわざわざ「いなべ市」と平仮名にしなくとも「員弁市」とすればいいようなものですが、「北勢町」「員弁町」「大安町」「藤原町」の4町合併となると「「北勢町」「大安町」「藤原町」が「員弁町」に吸収された印象が残るということで「いなべ市」表記になったそうです。

 三重県員弁郡大安町には、昭和42年、僕が初めて就職した養鶏場がありました。「(株)日本○○○原種農場」と云うところです。
アメリカ・○○○社がパテントを持つブロイラーの「grandmather」を生産する養鶏場です。ここで日本各地の孵卵場に雛を供給します。孵卵場から供給される雛を飼育したものが市場で流通する「ブロイラー」になる訳です。
 当時の日本の養鶏界はやっと大規模経営がボツボツ出現していましたが、ほとんどが100~200羽程度の規模で、教科書も「リンゴ箱」に金網を張った庭先養鶏レベルのものしかない時代でした。
 僕のいた農場は規模こそ10万羽程度ですが、原種農場ですから有精卵を採集しなければなりませんから、ブロイラー農家の規模との比較は無意味ですが、100万羽規模の設備が必要ではないでしょうか。
 全てが「アメリカ方式」で自動給水、自動給餌、自動排糞、ウインドレス鶏舎・・飼育方式も完全マニュアル化され、毎日のようにアメリカから技術情報が送られてきます。鶏病の知見も国内では学ぶことのない最先端のものでした。
特にワクチネーションや臨床所見などは素晴らしいものでした。

 世間知らずの「バカ者」の僕は、この恵まれた職場が「いやでいやで」で仕方ありませんでした。
それと初めて「あれをやっておけ」と云う「指示」「命令」をされた事がショックでした。
やりたくもない事を「他人様」に「やておけ」と言われるのは「我慢」出来ない事です。
 何とか2年辛抱をしましたが、人間関係がうまくいくわけもなく、誰からも惜しまれることなく退社しました。
 辞める少し前に初めて中古の「キャロル」を7万円で購入しました。
自慢にもなりませんが、当時、僕は免許書を持っていませんでしたが、会社を辞めてこの愛車「キャロル」で北海道まで行ってきました。
途中で道が分からないときは、平気で交番で道を聞いていましたが、今思うによく無免許で捕まらなかったことだと思います。

 会社を辞め、無免許で北海道を放浪している「バカ息子」を親は大変心配したようです。
北海道でもすることもなく、実家に帰った時の親の落胆ぶりは「悪い事」をした、との実感が湧きました。
気まずい日が1~2週間ほど続いたある日、自宅前にタクシーが止まりました。
「XX飼料畜産(株)」の取締役神戸工場長何某と名乗る人が、秘書の人と2人訪ねてきました。
「日本○○○養鶏場」に勤めていたキャリアーが、「是非、XX飼料に来てください」となったようです。
 詳しい話も聞く暇もなく「安堵の顔」の父親を見ると、「お願いします」と返事をしました。

 三重県員弁郡大安町は平成の大合併で「いなべ市」となってしまいましたが、僕の実社会の原点で、ここの「いやでいやで」仕方なかった「毎日の業務」が、社会で生きていく術を獲得したのに気付いたのは、つい最近の事でした。




科長神社(竹ノ内街道ウォーク余談)Ⅲ・・・・・地名の話(14)

2009年11月10日 | 地名・地誌
webで磯長小学校のHPを見つけました。校歌に読まれた風景・民俗がなかなかいい雰囲気なので紹介しておきます。

「磯長」地名解
[シ」→{科」「磯」「息」、「ナ」→「長い」即ち「シナガ」→「息が長い」と解釈されています。
風の通りである二上山頂に「風の神」である「科長神社」を祀り、その後神社が現在地に遷座し、その地一帯を「磯長(シナガ)」と呼ぶようになった。
また、遷座地に元の神社に祖神社があり「祖神社の祭神は息長宿禰、葛城高額媛となっている。 この辺りは古くから科長(磯長)の里と言われており、息長はシナガとも読めることで、息長氏の支配地だったとの説もある。現に、神功皇后=息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)の降誕の地とする古伝承もあるとのこと。

 上記が一般的な「磯長」地名解です。
所が、当地即ち「磯長」と「息長氏の支配地」「神功皇后の降誕の地」との関係は考古学的にも史料としても全く痕跡がありません。

 僕は、二上山から河内側を「シナガ」と呼び、神名として「科長神社」地名として「磯長」と使い分けたのであり、一般に言われているように「科長」から「磯長」と時間的な経過があったとは思いません。
このような例は、和泉の「大鳥神社」と地名の「鳳」のように多くみられる事例です。
「息」→「シ」と読むことから「息長」→「シナガ」となり、後世に「神功皇后伝説」が付加されたと解釈するのが適当と思います。

 それよりも「シナガ」=「風の神」で注目すべきは「金属精錬」との関係です。
古代においては「谷間を吹き抜ける風」は「鞴=ふいご」の役割を果たし、各地に「金属精錬」に関わる「遺跡」「伝承」が散見できます。
(天一目神など谷川健一「青銅の神々」に詳しい)

「科長神社」と金属との関わりについても『本殿の裏を流れる小川が金気を帯びたものであり、川床には長年の作業の結果できたような窪みも認められる』ことから、一般に言われている通り、川の流れから砂鉄を採集し、二上山から吹き降ろす「風の力」を利用して金属の加工も行っていた可能性もあるようです。
また、手水舎は八精水と言われ、当麻鍛冶の湯に用いられたそうだ。

◎当ブログで「地名の話」の時のアクセス数が減少します。
 自分で書いていても「こんな事読んでも面白くないだろう」と思います。
 「Inuiさん!ブログ読んでる?」

科長神社(竹ノ内街道ウォーク余談)Ⅱ・・・・・地名の話(14)

2009年11月09日 | 地名・地誌
「シナ」地名及び「風の神」が出てきた以上は、「信濃」に触れなければなりません。
詳細は省きますが、日本神話では「風の神」と「信濃」とは深いかかわりがあります。(持統天皇記、伊勢古風土記などなど・・)
「信濃」表記は「好字二字」に依った平安以降で、古代には「科野」「科国」「級野」「級国」・・などと表記されていました。
また、科野には「科(シナ)」の付く地名が沢山あります。
「更科・更級」「仁科」「倉科」「我科」「駄科」「妻科」「蓼科」「保科」「明科」「埴科」「前科」・・・・・などがそれです。

国名「シナノ」の地名解は、例によって百花繚乱「言ったもの勝」の状態です。
有力な説は後で紹介しますが、「よくここまでこじつけるなア」とか「すかたんもいい加減に・・」と思われる説が横行しています。
アイヌ語説、韓国語説・・・はたまたシュメール語説と「何でもあり」です。
 真面目なものは、①神話に出る「風の神=級長津彦(シナツヒコ)」に由来を求める古典的なもの。
②「科(シナ)の木」が多いため「「科の国」とする説。
③「級(シナ)坂」→信濃は山国なので「級(シナ)即ち段丘または崖錐地形を指し全国的にも例が多い地名。
 ②が一般的に有力な説です。

写真は「上太子駅」付近から望む二上山

科長神社(竹ノ内街道ウォーク余談)・・・・・地名の話(14)

2009年11月06日 | 地名・地誌
竹ノ内街道ウォーキングも無事終わりました。
楽しかった様子は「3年4組HP]をご覧下さい。
第3回目のコースは「磯長谷」(シナガタニ)と呼ばれる所です。
二上山西麓の丘陵に挟まれた盆地で、大和の飛鳥(遠つ飛鳥)に対して近つ飛鳥と言われる所です。古事記や延喜式諸陵寮等によると
敏達天皇・・・・「河内磯長中尾陵」
用明天皇・・・・「河内磯長陵」
推古天皇・・・・「磯長山田陵」
孝徳天皇・・・・「大阪磯長陵」
聖徳太子・・・・「磯長陵」
など古墳後期後半~終末期の古墳群があり、俗に「王陵の谷」とも云われています。(当ブログ8月19日を参照

 「磯長」を「シナガ」と読むのは一寸難しい読み方ですが、日本書紀神武即位前記に「磯」を「志」(シ)と訓ずることが書かれていることから、古代より「磯長」を「シナガ」と読まれていたものと思われます。

 一方、延喜式神名帳石川郡9座に「科長神社」があります。
当社は「山田」「春日」「葉室」を氏地とし、まさに「磯長谷」の地にあります。
石川郡には9ツの式内社があります。石川郡9座と云う事は、各神社の祭神が1ツと云う事です。
(近隣にある杜本神社は2座で、2柱の祭神が鎮座しています)
科長神社の祭神は、現在18柱祀っていますが本来は1柱です。
結論から言いますと「級長津彦命」(シナツヒコノミコト)を祀る神社だったはずです。
級長津彦命と云う神さんは、風神のことです。
科長神社は創建当時は二上山頂にあったとされています。二上山付近は大和川沿岸(※1)と同じく河内から大和に風が吹き抜ける通り道として知られており、その場所に風神である級長津彦命を祀るのは古代信仰として当然と思われます。
現在地に遷座したのは鎌倉初期歴仁元年(1238)の事とされています。
現在科長神社の末社である「恵比須神社(土祖神社)」が、二上山頂から遷座してきた場所と思われます。
 この恵比須神社の祭神は「息長宿禰(オキナガノスクネ)・葛城高額媛(カツラギノタカヌカヒメ)」と云う神さんで、神功皇后の両親に当たります。
古伝にこの谷合を神功皇后の降臨の地と云い、この周辺を息長氏の支配地だと主張する研究者が居ます。

科長神社と指呼の所に「小野妹子」の墓があります。

この項は続きます。

※1 河内と大和を結ぶ奈良街道沿い奈良県生駒郡三郷町に龍田大社がある。風神(風神)として古くから信仰を集める。

写真は科長神社社頭。


北海道広尾郡大樹町・・・・地名の話(13)

2009年11月02日 | 地名・地誌
 北海道広尾郡に大樹町があろます。
大樹町の町の様子は公式HPをご覧下さい。
また、当ブログでも大樹町に関わる記事を何度か紹介しました。(7月19日10月26日

 町名の由来は町史やHPなどでは{アイヌ語で「大木が群生するところ」を意味する「タイキウシ」からつきました。}と紹介されています。
実はこの説明は例によって「間違い」「嘘」です。
アイヌ語の「タイキウシ」は「蚤の多い処」が本来の意味だそうです。
町名として「蚤の多い処」とはイメージとしてあまり良くないと言う事で、和語の発音通り「タイキ」=「大樹」とストレートな地名解を付したようです。
この改変は町関係者の大方が承知しており、由来が分からなくて「間違い」を犯している訳ではありません。
しかし、もう2~3世代を経ますと現在の地名解「タキキ」=「大樹」が定着してしまうでしょう。

 一般的に北国の生物界は、種類が少ないが個体数が多い。一方南国では種類が多様で多いが個体数が少ない、と言われています。
北海道の昆虫もその例外ではなく、特に吸血昆虫である「カ、アブ、糠蚊、ノミ、シラミ・・」もその個体数は想像を超えるもので、北のパイオニア達を大いに悩ましたそうです。
シラウ(虻)・・人のみならず馬にも集り、時として虻も数が多くて馬の血を吸いつくし貧血のため馬が死ぬと言う事もあった、との記録があります。

「開墾の作業の苦しさは、全てが苦しみの極度であった。しかし作業上の苦しみは休養ということがあったがどうすることができなかったのが、野虫、ブヨ、蚊、虻などの来襲であった。また糠蚊、ミジンなど目に見えない程の小さい虫で、これに食われると皮膚が腫れ上がり、かゆさが烈しく、それに数が多くて曇った日などは目先が見えない程来襲して、作業ができない程であった。・・」
「また、被害は農業ばかりではなく鉄道工事などは吸血昆虫の来襲が激しい間は(虻休み)と称して作業が中止され、郵便配達も休み」と云うほど酷いものでした。

 写真は「開拓民の虫除け」の姿で、笠からぶら下がっている縄は、ボロ布にヨモギを織り込み、火縄としています。この火縄は、腰にもぶら下げ、口にもくわえて来襲する吸血昆虫を防いだとあります。
この防御服は行動を制限し、唯でさえ重労働の開拓作業の大きな負担となっています。

 大樹町→タイキウシ=蚤の多い処。
 白老町→シラウオイ=虻の多い処
 羅臼町字キキリベツ→キキロベツ=虫の多い川)
など吸血昆虫に関係のあるアイヌ語地名が道内各地に残っています。

 因みに僕が所属する昆虫教室の同窓会は「キキリ会」と云います。

何故「五月山(池田市)」と言うの?・・・地名の話(12)

2009年10月07日 | 地名・地誌
「五月山」地名考
「どうして五月山と言うのですか?」

池田市にある馴染みの喫茶店で、常連客に聞いてみました。
好事家でもない人々に、あまりに唐突な問い掛けは返答に窮する、と云うよりもその場に似合わない白けた雰囲気を醸し出してしまいました。
それでも心優しいゼントルマン諸氏は、多少の戸惑いと怪訝な心持ちをその眼差しに浮かべながらも「皐月が仰山あるからでしゃろ」と応対してくれました。
小林一三翁が池田町に日本で初めての分譲住宅なるものを造った時に、彼の天才的商才で産み出したキャッチコピーに類する地名、と私もその程度に理解していました。

「五月山」は、既に江戸時代の絵図に見られる。
 江戸時代の絵図(摂津国名所舊跡細見大繪圖)には、はっきりと「五月山」が描かれており、またそれに連なる隣の峰を「秦山」とあります。
五月山のある池田市一帯は、「和名類聚抄(和名抄)」によると豊嶋郡に属していました。
 豊嶋郡は「秦上、秦下、駅家、豊嶋、余部、桑津、大明」の七郷(流布本により異同あり)に区分されていますが、池田地域はその内の秦上、秦下、豊嶋の三郷に比定されています。
秦上、秦下は、元々は秦郷であったのが、郷の繁栄に伴い上下に分けたと考えられます。
秦郷は、古代最大の殖産渡来氏族「秦氏」に由来していることは周知の事です。
池田地域での秦氏の繁栄は、今でも池田市内に秦野、畑、西畑、東畑などの地名にその名残を窺い知ることができます。
先程の秦山もその左証でしょうが、「池田町史」には秦山の名は昭和になるまで残っていたらしい、とありますが、先程の喫茶店の常連客で東畑在住の人にお聞きすると「今でも秦山と云っている」とのことです。
秦氏の渡来時期と豊嶋郡へ進出時期は、五世紀頃とするのが有力です。
そうすると池田市域に点在する「秦」地名は、大王家が河内に進出し巨大古墳を造営した時期にまで溯る可能性があります。

「五月山」はじめ箕面、池田、川西の山々は全て「爲奈山(坂根山)」と呼ばれていた。
 五月山と云う呼称が、少なくとも江戸時代から在ったことは明らかになりましたが、それでは「秦」地名の様に来歴を語る材料はないものでしょうか。
 「住吉大社神代記」に「川邊、豊嶋両郡の内の山を惣て爲奈山と號く。別號は坂根山」とあります。「住吉大社神代記」は、元慶3(879)年に書かれた書物で、日本書紀や古事記とは異なる歴史を記録しています。
住吉神社神代記によると神功皇后の時代には五月山を含む川邊、豊嶋郡の山全てを爲奈山或いは坂根山と呼称していとのことです。

 爲奈と云う地名は、古くは万葉集にも詠まれ、延喜式には爲那都比古神社が登載されており、和名抄には河邊郡に爲奈郷があるなどの古代地名で、稲、新稲、稲津、猪名川、稲野などが現存しており、現在でも「イナ」を広域地名として使用することがあります。
「イナ」の領域は、吹田市、箕面市、豊中市、池田市、川西市、伊丹市、尼崎市にまたがる広範囲であったと云われています。

「五月山」は「城邊山」である。
 同じく「住吉大社神代記」に「豊嶋郡の城邊山」とあり、そこには五月山近辺の事が記述されています。
「元、偽賊土蛛(にしものつちぐも)、この山の上に城(き)と塹(ほり)を造作(つく)り居住(すまひ)し、人民(ひと)を略盗(とりこに)す。(略)山の南に広大な野在り。意保呂野(おぼろの)と號(なづ)く。山の北に別に長尾山在り。(略)城邊(きのへ)山と號く由(ゆえ)は、土蛛の城塹(とりで)の界に在るに因りてなり」
城邊の音は、現在の木部(キベ)町である木部が元々「キノベ」と言っていたのに通じます。
「山の南に広大な野在り。意保呂野と號く」は、五月山から池田市街を見渡した情景の描写に外なりません。
また、池田市街に宇保と云う地名があり、意保呂野はなんとなく似ていて関連があるように思えます。

「五月山」は「佐伯山」か?
 俗説として「五月山」は「佐伯山」が転訛したものである、と言われています。
「SAEKI」→「SATUKI」への音韻変化には無理がありますが、音では「え」と「つ」の一音が違うだけと言えば有り得る事かも知れません。
ただ残念なことには、「五月山」を「佐伯山」とした明確な史料は存在しません。
しかし、五月山の地名の由来を解き明かすには、俗説であってもその信憑性を確かめる必要があります。
「日本書紀」仁徳天皇紀に「莵餓野の鹿」の説話があります。
話の概略は、天皇と皇后が莵餓野の鹿の鳴き声を楽しんでいたのに、猪名縣の佐伯部が贄としてその鹿を献上してしまった。
知らぬ事とは云え、天皇が愛していた鹿を捕らえた佐伯部は、天皇の機嫌を損ね安芸国淳田に移住させられた、と云うものです。
仁徳天皇が難波宮を営んだ頃に、猪名縣がありそこに佐伯部が居住していたことになります。そして、佐伯部は苞苴を獻上していたことが分かります。
また、後の時代の史料「西大寺資財流記帳・宝亀11(780)年、大和西大寺文書・建久2(1191)年」にも「豊郡嶋佐伯村」の記述があり、豊嶋郡の何処かに佐伯村が古代から少なくても中世頃まで存在していたことは確かです。

佐伯部の出自と性質

 「日本書紀」景行天皇五一年八月の条に「日本武尊が伊勢神宮に献上した東国の蝦夷を播磨、讃岐、伊豫、安藝、阿波の五カ国に住まわせ、これがこの五カ国の佐伯部になった」とあります。
そして佐伯部は、大王家に平定された蝦夷だったと云われて、兵力としてしかも最も危険な前線の先兵の役割を担っていたと云われています。
「さへき(さへく)」とは、小鳥などが鳴く様を「さへづる」と云い、本来は「意味不明の言葉を騒がしく喋る」ことと説明されています。
或いは「さへく」を「塞ぐ(まつろわぬ)」と解釈する学者もいるそうです。
 これらの説を裏付けるのが「常陸国風土記」茨城郡(うばらのこうり)の条に「山の佐伯、野の佐伯、自ら賊(あた)の長(おさ)と為り、徒衆(ともがら)を引率(ひきい)て、国中を横しまに行き、大(いた)く却(かす)め殺しき」との記載があります。
 この様に佐伯部とは、日本武尊の国内統一説話や倭の五王武の上表文にみられる国内平定の戦いで、大王家に服属しなかった集団の人々が、被征服民として奴隷的性格を負わせれ、主に戦闘要員として各地に配置されたと思われます。
 難波の津を擁し、河内、大和と云う大王家の拠点の地の豊嶋郡に佐伯部が居住していたことは寧ろ当然の事と思われます。
戦闘のない平時には、佐伯部は「狩り」をして戦闘員としての資質を高め、同時にその狩りの獲物を苞苴として献上していたと思われます。

 そのことを物語るのが仁徳紀の猪名縣の佐伯部の説話です。
これらのことを斟酌すると、佐伯部の居住地は少なくとも農耕地や邑里ではなく、山間僻地と考えざるを得なくなります。
そうすると猪名縣の佐伯部は、結果として北摂のどこかの山に居住を許されていた、と云うことになります。
また、後の豊嶋郡佐伯村も恐らく山際にあったものと推察されます。

「豊嶋郡の城邊山」は「佐伯山」
「住吉大社神代記」の「豊嶋郡の城邊山」の一文と「常陸国風土記」茨城郡の条の内容が、奇しくも非常に似通っているとは思われませんか。
そのことは、神代記の偽賊土蛛を佐伯に、風土記の佐伯を土蛛に置き換えれば、それで充分です。猪名縣の佐伯部が住んでいた北摂のどこかの山は、景行天皇の時代に、まだ大王家にまつろわぬ土蛛が占有していた城邊山、そして大王家が河内に進出し、国家統一が進み、まつろわぬ民を次々に平定し、被征服民とし支配態勢に組み込み佐伯部として傘下に組み入れられ、仁徳天皇の時代には城邊山は完全に大王家の支配下に入り、佐伯山と呼称されるようになったのです。

現在、五月山に「がんがら火」で有名な愛宕神社が祭られています。

この神社の招請自体はそれ程古いものではなく、江戸時代中期とおもわれますが、この神社には招請地に連綿として残る土着の痕跡、この土地の古代の記憶があるのです。

驚くことには、この愛宕神社は、祭神として「佐伯部祖神」を祀っています。

部の祖神を祀っていることはから、佐伯村はこの五月山近辺にあったと考えても大過はないと考えられます。

「佐伯山」から「五月山」

 上記の事柄を整理してみます。
私たちが住まいするこの北摂の地は、遠く太古の昔から人々が住み着いていましたそれは、考古資料によると旧石器時代にまで溯ります。
(池田市;宮の前、伊居太神社参道。豊中市;蛍池北、桜塚。箕面市;櫻池、宮の原、稲田。吹田市;吉志部。川西市;加茂など)
縄文時代の遺跡も各所に散見されます。(池田市;宮の前、古江、五月山公園、畑、奥、神田北、豊島南、横枕、京中、伊居太神社参道。 豊中市;野畑春日、新免、穂積、原田西、柴原、山の上、小曽根など。
箕面市;粟生間谷、粟生奥、新稲、白島、瀬川など。吹田市;吉志部など。
川西市;加茂、花屋敷、小花など。伊丹市;荒牧、口酒井、小坂田など。)
 そして、これらの遺跡のうち晩期に属するものの中で、伊丹市の口酒井遺跡では炭化米や石包丁がまた、池田市五月山山麓池田城跡の下層横枕遺跡からは籾痕のついた縄文晩期の土器が出土しており、新しい弥生時代を受容するかのようなものもあります。
 弥生時代の最大の特徴は、稲作農耕と金属器を持ったことです。
そして弥生の文化は、よく言われるように「人ともの」がセットで伝わった、と言うことです。即ち、縄文人が稲作農耕や金属器製作の技術を獲得して弥生時代を築いたのではない、と云うことです。
勿論、混血や同化されて行った縄文人もあったでしょうが、文化の先進性と波状的に渡来する数の勢いに、縄文人は弥生人に圧倒され、山へと追いやられました。
列島を模式的に云うならば、縄文人は北海道から沖縄に薄く広く分布していました。
その列島に朝鮮半島から弥生人が北九州から瀬戸内海を経由して近畿地方に流入しました。
縄文人は、関東以北や南九州・沖縄そして弥生人の生活の場でない山岳部に残った状態になりました。
俗説ですが、沖縄の人とアイヌの人の風貌が酷似しているのはその名残と云う人もいます。
極めて大雑把に云うと、東北・北海道の蝦夷、南九州の隼人・熊襲、そして彼らを含めて平定された山の民・佐伯部は縄文の遺児達なのです。
 古代国家での蝦夷、佐伯部と同様隼人もまた、被征服民として国家儀礼の場で「隼人舞」として屈辱的な扱いをされていたことからも理解できます。

 この様な経過からまつろわぬ縄文の民が住処としていた、現在の五月山を「佐伯山」と呼ぶようになるのは、大王家がこの地域を完全に制圧してからのこになります。
それは大王家が大和から河内に進出して来たころ、そして豊嶋に秦氏が住み着いたころ、即ち五世紀以降のことと思われます。
 弥生時代には、数多くの大陸からの渡来がありました。それは波状的に繰り返され、古代国家成立に大きく関係していました。
当然、初期の渡来人と今来の渡来では、この列島での立場、役割などに差があります。
池田市地域で一番早く稲作が開始されたのは、木部遺跡がある一帯とされています。
一般的に弥生の共同体国家の規模は、律令の村或いは郷程度と云われています。
早い時期に渡来して列島に散らばり、開墾をし風土に馴染んで土着した集団が、各地に弥生の国を作りました。
その村は、銅鐸の祭りを行い、村を守る原初的な神社を祭祀していました。
 北摂地域の銅鐸出土は、吹田市吉志部、豊中市原田神社、箕面市如意谷、伊丹市中村、川西市栄根、多田満願寺などがありますが、この銅鐸出土と原初的な神社の祭祀がセットで関連づけられるのは箕面市如意谷しかありません。
 豊嶋郡、川邊郡内の式内社は、豊嶋郡では垂水神社、為那都比古神社、阿比太神社、細川神社、川邊郡には、伊佐具神社、高売布神社、鴨神社、伊居太神社、多太神社、小戸神社、売布神社があります。
 神社が拝殿をなどの建物を持つのは、仏教伝来以後のことで、寺院の堂宇を真似てからのことです。原初的神社は、山丘(大神神社)そのものや巨岩奇岩(花の岩窟)、神木、湧水などを依代、招代として祭祀していました。
個々の論証は省略しますが、上記の式内社の中で原初的祭祀形態を残しているのは為那都比古神社だけです。

 私は曾て「為那都比古神社と猪名の古代史」でこれらの事柄を論考しましたが、簡潔に要点を述べますと、為那都比古神社の元々の鎮座地は、現在は廃社となった大宮神社(箕面市白島)で、その地は如意谷銅鐸出土地と指呼の位置にあり、向背の山麓には古代祭祀跡とされる奇岩「医王岩」があるところです。

 為那、猪名、為奈などと表記される「イナ」は、池田市史によると「鄙の地」の「ヒナ」が転訛して「イナ」となった、としています。
しかし「上代日本語の文法の研究」(橋本増吉)によると為那、猪名、為奈などは「ヰナ」であり「イナ」ではない、として「ヒナ」が「ヰナ」に転訛することはあり得ないとしています。
 考えてみれば「鄙の地」は全国何処にでもある訳だから、「ヒナ」「イナ」地名が全国に分布していているはずであるが、実際は限られていることから、池田市史の説を肯首する訳には行きません。私は、密かに「ヰナ」を縄文古語ではないかと思っています。
 だから「ヰナ」の意味するところは分かりません。それはまさしく縄文人が「ヰナ、ヰナ」と「さえく(き)」のを聞いても、我々大王家と同じ出自の現代日本人には「意味不明の言葉を騒がしく喋る」だけで理解できない訳です。

 その「ヰナ」の土地に弥生人が定着して弥生の村を営みました。
その規模は、律令の郷或いは村程度であったと思われます。
その程度の弥生の村が、あちらこちらにできました。
彼らは、銅鐸をシンボルとする祭りを行っていました。
北・西摂の銅鐸は、一定の距離で出土していますが、それは当時の村落の規模と分布に関係しているのではないでしょうか。

「イナ」と云う地名の分布が、吹田市から尼崎市に及ぶ広範囲になったのは、「イナ」と云う村落共同体が近隣の村々を、その勢力範囲に入れて行ったのではなく、別の事情でそのように拡大して行ったものと思われます。
 即ち、銅鐸をシンボルとする弥生の人々とは異なる今来の弥生人の流入があったと思われます。
彼らは、鏡と剣と勾玉をシンボルとする集団でした。
 銅鐸と銅鏡の戦闘が始まりました。
先進的で征服王朝の性格を持つ銅鏡集団が、西から大挙して攻めて来たのです。
神武東征軍とナガスネヒコとが生駒山山麓で対峙したころのことです。
魏志倭人伝では倭国大乱としたころです。
銅鐸の村々は、連合して防衛に当たりました。
北・西摂の銅鐸の村々の連合の盟主になったのが「ヰナ」で、攻防戦は明石海峡で待ち伏せ、会下山で決着しました。
この時埋められたのが、会下山の銅鐸群です。
銅鐸の村々の敗北です。
銅鐸は、これを境に地中に埋納され、忘れ去られてしまいます。
勝利した側から見れば、吹田市吉志部、豊中市原田神社、、伊丹市中村、川西市栄根、多田満願寺の銅鐸の村々も、一様に盟主の「ヰナ」でしかありません。

 そのような見方から、勝利者側から北・西摂地域は広く「ヰナ」でしかなかったのです。
そして、この北摂の地に多くの今来の渡来人が、蟠居しました。
池田市には、主に秦氏が勢力を伸張させ、秦郷と呼ばれるようになりました。
彼らは、自らの祖神を祀る神社を五月山山麓に作りました。
後の秦上社の始まりです。
箕面市には、物部氏の一派が勢力を培いました。
彼らは、地元慰撫のために、自らを物部氏と名乗ることを避け、土着の伝統と信仰を棄損する事ないように、氏族名を猪名と名乗り、土地の聖地をそのまま受け継ぎそこに氏族の守り神為那都比古神社を奉祭しました。

 池田市は、この間「秦上・秦下」と呼ばれていましたが、鎌倉時代初期のころに渡来氏族漢の系統で河内の土師氏の一族、坂上氏が開発領主として池田市に入って来ました。
坂上氏は、穴織・呉織の伝承を持つ漢氏の後裔のため、秦の地は「呉庭の里」と呼ばれるようになりました。
坂上氏は、自らの守護神を「呉庭の里」に創建しました。
それが呉服神社(秦下社)で、秦氏の奉った五月山山麓の神社を穴織社とし、氏族の伝承を根付かせました。
 やがて、南北朝の動乱で「呉庭の里」に北朝の勢力強化のために美濃国から池田氏が来援して来てやがて土着しました。
池田氏は、塚口村にあった式内社伊居太神社を領地に移すに際して、より歴史の古い五月山山麓の秦上社を選定しました。
延喜式で伊居太神社が川邊郡に登載されているのは、このような経緯があるからです。
 この南北朝と戦国時代の動乱のため、歴史に錯乱が起こり、古代からの佐伯村も何時しか消滅して人々の記憶から消えてしまいました。

この頃、「佐伯山」は「五月山」と呼び慣わすようになったと思われます。
 この様に見て行くと「五月山」は「佐伯山」が転訛した俗説が、案外俗説ではなく歴史の真実かも知れないと思いました。