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ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

行雲流水録⑭       「言葉」探検行

2007年01月29日 | 中学受験 行雲流水録
中学受験も終わって一段落。寸暇に大学時代にチョット囓った松岡正剛氏の日本文化論を読み返してみました。それは、久々に考えることの面白さを味わうことのできたひと時でした。

「あ い う え お」の五十音図ができたのは、いつごろだと思われますか?「いろは歌」は空海の作と言われています。しかし、五十音図はイメージとして明治以降(教育が制度化された頃)かというふうに思われがちです。ところが、これが中世のころにはできあがりつつあったそうです。やはり、空海と同じ僧侶達によって。インドから伝わった経典が、まず中国語に翻訳され、それを日本人が読みあげる。それを、日本語としてテキスト化するために、音を文字にするシステムが考えられたのだとのこと。

私たちは、ごくあたりまえに日本語を話しますから、ひらがなもカタカナも(漢字は中国から来たとして)すうっと自然に出てきたように思いがちですが、それらが形づくられるためには、長年にわたる発音を区別し整理して、文字に当てはめるという僧侶たちの研究があり、それは気の遠くなるような作業だったことでしょう。

ひとつ心に留まった文章があります。『日本では、「読む」とは「声を出す」ことです。「分かる」とは、「声を自分の体で震わせる」ことです。「分かる」は、「声を分ける」ことなのです。』「分かった?」と聞いているのは、「分けられた?」なのです。なーるほどなぁ。悟りが啓けました。(ホンマに啓けた?)

よく、保護者の方からご相談として寄せられることに「うちの子は、なんだか、たどたどしく音読していますが、あれで意味が分かっているのでしょうか。」というのがあります。親御さんとすれば心配でもあり、不満でもあるのでしょう。

しかし、ご安心下さい。それらは全て「分かって」いるのです。思い返してみて下さい。私たちは、はじめて何かの言葉を使うとき、戸惑いながらも勇気を出して、ある気持ちや考えに言葉をそわせるのではないでしょうか。トンチンカンなことになって笑われたり、気まずくなったりもするけれど、素晴らしい威力を発揮した新しい言葉を手中にしたとき、胸を張り次の言葉へ挑みます。

『門前の小僧習わぬ経を読む』ということわざがあります。このことわざを聞くと「養育環境の大切さ」だとか、「継続の成せる業」だとか、さまざまイメージが浮かんできます。けれども、これは本来「分かる」ということの本質を示している情景なのではないでしょうか。音読では、納得の行く流暢なものかどうかを吟味してもなんにもなりません。私は、そんなことよりひとつひとつ言葉が「分けられ」心のなかで響いていくさまを見守り、励ましていくことの方がずっと要と考えます。

「分かる」という一つの言葉の全体像が少し分かってきました。言葉の持つ意味のはじまりに迫っていくと、いつもこんなワクワクした探検家の気持ちを味わうことができます。この探検行に終わりはありません。みなさんもぜひ一歩踏み出してみて下さい。

澪標
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