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「授業でいえない世界史」 3話 古代中国 戦国~前漢

2019-01-25 11:06:09 | 旧世界史1 古代中国

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【戦国時代】
 古代中国、戦国時代の続きです。中国の紀元前500年あたりです。今から2500年ぐらい前、時代は戦国時代です。日本にも同じ名前がありますがもともとは中国の名称です。
そこで戦国の七雄が、お互いに覇を競う。オレが全国統一にむけて一番の名乗りを上げるんだとして相争う。そういう時代です。


【貨幣】 中国では、すでにこの時代お金なるものが出てきます。それまで各地方がバラバラに発行していたものを最初に統一しようとした国が、七雄の中では一番西のはずれにあった田舎の国、です。これが最初の統一国家をつくっていく。
 お金を統一しようとして、決めたお金を半両銭という。ここからお金の統一事業というのがまず始まっていく。その結果、その国の国家の統一事業に成功していきます。ただこのあたりの因果関係はまだよく分かっていない。ただお金は要注意です。

※ コインは、小アジアで生み出された「刻印貨幣」と、中国で生み出された「鋳造貨幣」の二つのグループに大別される。前者は金または銀という貴金属の価値を保証する刻印を支配者が刻んだお金であり、多くの文明がそうした立場に立つ。後者は青銅、銅などを地金とし、さほど価値を持たない素材を、神の代理人とされる皇帝の権威によって価値づけたお金であり、抽象度が高い。前者は交易の中で作られたお金、後者は政治的に作られたお金とみなされる。中国のお金は、統治者の信用に依存する。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ 春秋戦国時代に都市が成長して商業が盛んになると、各都市の商人が取引を円滑にするために地方ごとに刀、クワなどの形の異なる青銅製のお金を発行し、秦の統一とともに皇帝の権威・権力とお金が結びつけられた。中国ではお金の価値については政府が責任を持ったが、実際にコインを鋳造したのは地方であり、時代によっては有力な私人だった。そのために偽造されたお金が多く出回ることになった。(宮崎正勝 お金の世界史)

 その時の中国を支配したのが、戦国の七雄です。斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙の七雄です。七雄の一番西のはずれ、これがです。一番はずれの一番勝ちそうにない国が勝っていく。その秦がいち早くやっていたのが通貨の統一です。

▼戦国時代の中国


【万里の長城】 中国は農耕民ですけれど、その北方には遊牧民がいます。この時代は匈奴ですけど、これが名前をコロコロ変えてきた。実体は変わらないけど、時代によって名前がコロコロ変わっていきます。
 中国はこの遊牧民と農耕民の争いなんです。それでグジャグジャになっていく。
 それをどうにか防ごうとした痕跡が、人工衛星から唯一肉眼で見える建造物、これが万里の長城です。この時代にはまだ国ごとにつくっています。今の万里の長城はこの時代から作り始めています。ただ目的は一貫している。匈奴対策つまり遊牧民対策です。
 そういう中国で、戦国の七雄の時代から現れてくるのが、国家を統一するためには、同じ考えで国を統一するという作業です。


【諸子百家】
 考え方が変わってくるんです。思想なんて役に立たないではない。ある考え方をみんな共有できた時に国が固まっていく。この時代にはいろんな考え方が出てくる。その中でナンバーワン思想になっていくのが儒教です。仏教ではありません。
勘違いの1点目、日本の仏教は日本思想である、これは基本的な間違いです。次の勘違い、仏教は中国思想だ、これも間違いです。仏教はインド思想です。儒教と仏教は中国では対立する思想です。


【儒教】 中国思想は儒教です。国語の漢文で扱う論語は、孔子という人が言った教えです。ここに国の統一につながる考え方が現れます。
 1番わかりやすいのが、天下を平和にするためには、まず修身です。これは各人が努力して身を修めるということです。そして各人が独立するということです。次は家です。
 身を修め、家を治め、国を治めれば、おのずから天下は平らになる。「修身、斉家、治国、平天下」という考え方です。ポイントは家です。
 儒教の核には「」があります。親孝行の孝です。これは日本にも定着しています。親を敬う、生きている親だけではなく、死んだ親まで敬う。そうすると何になるか。これが祖先崇拝です。
 この考え方は日本人に非常に近い。一回忌、三回忌、7回忌、13回忌、33回忌、50回忌で弔い上げとか日本人はします。50回忌まで行うのは、すでに孫の代です。私も何度か親戚の法事の50回忌に出席したことがあるけど、少なくとも50歳以上でないと故人のことは知らないんです。40代ではまだ生まれてないから。
 親を大切にして生きている親だけではなく、死んだあとまでその親を敬う。それが「孝」です。これが家族道徳の基本になる。家族がしっかりしていれば、国がしっかりし、天下は平和になる、という考え方です。社会の核は家です。
 ヨーロッパはちょっと違う。中国に比べればヨーロッパの家族関係は希薄です。個人重視です。
 中国では家族が国までつながっていく、という考え方があります。
 儒教の底には、親が死んだ後まで敬う、という宗教観があります。そうなると祖先崇拝になっていく。それが強い前に言った家族意識、血縁意識、一族意識を生んでいきます。
 祖先崇拝は日本人にもわかりやすい。簡単にいうと墓参りですよ。
 これをもっと大々的に行うのです。父方の一族で構成される「宗族」というのがあって、50~60人、場合によっては100人超えて盛大に祖先の法事を行う。
 ただこの祖先崇拝をするときの条件は、赤の他人がやってはダメなんです。これは血を受け継いだ直系の子孫の仕事なんです。それも父方の子孫でなければならない。娘はダメです。男の仕事です。そうでないと祖先の御霊は喜ばない。だから祖先の霊を呼び戻すことができない。
 ホントですかと聞かないでください。ホントかどうかという話をしていません。中国人はそう信じてきた、そしてこれが社会を動かすエネルギーにまで高まってきた、ことを言っています。
 このことを守っていれば、自分もいずれは死んで、ご先祖様になってもちゃんと祀ってもらえる、という安心感になる。これが死に対する不安を解消してくれる。ちゃんと祀ってもらえる、という安心感につながる。祀られない魂は成仏できない。祀られて初めて、死んだあと幸せになれる。
 現代人はそうは思わないかも知れないけれど、昔はそうではない。そのことを軽く見ると歴史は分かりません。歴史は小説と同じです。登場人物の気持ちにならないと面白くない。


【霊魂】 エジプトの古代人を見ても、死んだあとの世界のためにどれだけのエネルギーを費やしたか。そのことがピラミッドです。
 今のブルドーザーやトラックを持ってきても、あれだけのものはつくれない。日本の大手の建設会社でも、あんなものをどうやって作ったのかわからない。そんなものを何千年も前に作っている。あれは死後の世界とつながっています。そのことが分からないと、なぜ古代人がこれほどのエネルギーを注ぎ込んだのか分かりません。死後の世界のためにエネルギーを費やすのは、古代人にとっては何の不思議もないことです。考え方としては、生きているのは一瞬で、死んだ後のほうがダントツに長いんです。
 我々は死ねば終わりで、あとどうなってかまわない、と思うかも知れませんが、彼らはそうは考えない。というよりも、何万年もの間、人間はそういうふうには思ってきていないのです。人生のメインは生きたあとの後生です。そうでないとピラミッドを作った発想は理解できない。
 だから、中国ではその祖先崇拝の儀式を行うための神主・・・これをシャーマンといって霊を呼ぶ人です・・・そういう技術を持った人たちの力を借りながら祖先の霊を呼びます。
 宗教も一つの技術です。そういう技術を持った人の存在が、もともと儒教の核にあります。


【法家】 その孔子の教えを請いに弟子たちが集まって来ます。この弟子が大きく二つに分かれます。一人は孟子という。彼は人間は善だという。
 しかしもう一つの考え方があって、それが人間はもともと悪だという考え方です。

 徳という考え方があります。これは人徳の徳です。徳そのものが何なのか、これは説明しにくいですけど、人徳という言葉があります。人柄がみたいなものです。
 人間が善だとすれば、人間は修行を積んで努力をすれば、天から与えられた徳を持つことができる。人格を高めることができるんだ。そういう発想です。こう考えた人が孟子です。
 それに対して人間はもともと悪だという発想がある。これは筍子という人です。人間は悪だ。ほっておけば悪いことをする。だから礼儀作法を教えないと、とんでもないやつになる。もともと悪だから。そういう教えです。
 この二つのうち、中国に根付くのは人間は善だという性善説です。これは徳を大事にし、徳治主義の考え方を生みます。
 しかし、中国初の統一国家である秦は、逆に人間は悪だという性悪説を採用します。人間は悪だから、厳しく礼を教えなければならないと。
 これが発展して、秦では法家というのが力をもつ。決まりをつくって、それを守らせる。礼は自発的なものですけれど、これがもっと発展していくと、こうしなければならないという決まりになる。それを国が制定する。それに違反したら厳しく処罰をする。
 これを大成した人物が、秦の家来であった商鞅という人、それともう1人は韓非という人です。
 国を治めるには、礼から発展した礼儀作法をしっかり教えて、その決まりつまり法をきちんと理解させて、それにしたがって人を動かすことだ。この考えをこの後、中国初の統一国家の秦が採用する。
 このように中国という国は性悪説で完成しますが、庶民が求めるロマンは性善説です。その食い違いがずっと残ります。



【秦】
 約500年もの間ごたごた戦ったあと、やっとが国土を統一することに成功します。紀元前221年のことです。
 秦の王は政さんだった。しかし王になった時に、自分のことをこれからは始皇帝と呼びなさいと言った。これが彼の名前になる。初めて皇帝という言葉を使った。これが秦の始皇帝です。

▼秦・前漢時代の中国


【チャイナ】 中国のことをチャイナというのは、この秦のなまりです。秦はCHINです。日本は戦前まで中国のことをシナといっていた。CHINAです。こっちほうが実際の発音に近いです。
 英語は書かれていない発音をよく入れる。CHINAは文字通りに読めばシナです。英語はなまりだらけです。だから英語流のチャイナはシナのなまりです。秦を英語流に読むとチャイナですが、もともとの発音はシナです。
 秦が潰れた後に、漢が登場します。地図の外側のラインが漢の領域です。漢が一気に西の方の砂漠や異民族の領地まで領土を広げます。
 この時代にも、やっぱり騎馬遊牧民は虎視耽々と中国をねらっています。それが匈奴です。ここには別種の騎馬遊牧民、いろいろ部族があって、鮮卑とかもいる。いろいろな騎馬遊牧民がまだ渾然一体となっています。


【易姓革命】 この法家の思想の一方で、人は善だとする性善説はどうなったか。人間は徳がないといけない。徳は努力して得ることができる。皇帝であればなおさらだ。徳のない人間が皇帝になっても国が治まるわけがない。そんな人間つまり徳のない人間は絶対に王になるべきではないんだ。もっと言うと、そんな人間が王になったら潰していい。殺していい。国を潰していい。
 これが中国の革命思想です。易姓革命と言います。姓が易(かわ)って、天命が革(あらた)まる、という意味です。そのときに革命が起こります。こうやって中国は、このあと何度も王朝が崩壊しては、新しい王朝が出現します。
 だから王朝がいくつも分立して、中国がバラバラになっていきます。しかし中国がすごいのは長い動乱のあとには、必ず国が統一されるということです。
 このことは、ヨーロッパとは対照的です。ヨーロッパはローマ帝国の崩壊のあと、それに変わる帝国は登場しません。今に至るまでそうです。逆に今でも小さく分裂していく傾向が見られます。
 ただドイツを中心とするヨーロッパ連合(EU)は、この動きに歯止めをかけて、再度ヨーロッパを統一しようとしているのかも知れません。この試みが成功するかどうかは未知数です。今も揺れています。ドイツに対するアメリカの動きも不透明です。イギリスはEUから離脱しようとしています。

 日本は儒教によってこの易姓革命の考えを知っていましたが、それを受け入れませんでした。それと違って、独自に万世一系の天皇によって国を維持するという方法を選びます。万世一系の天皇と易姓革命は両立しません。
 よく武家政権である鎌倉幕府樹立によって天皇は滅んだと思っている人がいますが、そんなことはありません。天皇家はその間もずっと続いています。天皇家は世界最長の王権です。 
 易姓革命を唱えた中国に起こることは、度重なる農民一揆です。農民が王を殺します。コロコロと農民が国を倒していく。


【農民反乱】 中国の農民反乱は半端ではありません。日本の江戸時代の百姓一揆どころではないです。本当に国を潰していく。何回も何回も。中国は激動です。
 徳のない人間は許さない。徳のない人間が王になって権力を振るったら徹底して潰す。それが易姓革命です。
 これは徳のない人間は天の神様も許さないから、と考えるからです。神様は、天命をその人から引き上げてしまうからです。徳がないからです。そういう人間は王であっても潰していい。
 そんな時は別に徳のある人間が、新たに王になっていい。徳さえあれば農民だって王になっていいわけです。そして本当に農民が皇帝になったりする。
 日本で農民から天下人になったのは豊臣秀吉だけです。しかも秀吉は農民反乱によって天下人になったわけではありません。どこまでも天皇の権威のもとで天下人になります。
 中国では王朝も交代は当たり前です。しかしその代償は、大乱が起きて多くの人間が死ぬということです。




【天命】 王の上に天がある。天が与えた徳を身につけるかどうか、そこがポイントです。だから天命を重視しない人間は徳がない。徳がない人間は殺される。権力を持った人間ならなおさらです。
 中国社会はもともと父親方の血筋がきいている社会だから、強い父方の血縁組織があります。そこに天命の思想が発生して、その天が与えた徳を身につけているかどうかが加わります。
 この二つが条件です。血縁と徳です。
 徳とは人柄みたいなもの。徳とは何かを言葉でいうと難しいけど、人徳の徳として、日本語にもなってます。徳がある人というのは、ものすごい褒め言葉です。徳があるという言い方は・・・残念ながら私は言われたことないけれども・・・素晴らしい言い方なんです。
 地位も権力も金で買えたりするけれど、徳だけはお金で買えない。お金で徳を手に入れた人はいません。


【皇帝】 その皇帝も徳があって初めて皇帝になれる。では皇帝という言葉の意味はなにか。皇帝の皇は下が王です。下は王、上は白です。王の上に白く輝くものがある。こういう人でないとダメです。これが徳です。
 では帝はなにか。これは神を祀るときのその儀式の台座です。これがないとうまく儀式ができない。権力だけではダメだ。
 こういうことで従来からの父方の血統を否定することなく、血統の上にさらに天の徳が付け加わる。この二つを持たないと皇帝にはなれない。
 この血統があるから、このあと王様は世襲ルールはオーケーです。世襲とは親から子、子から孫へと王位が受け継がれていくことです。古代の王権はだいたいそうです。日本の江戸時代の将軍様も世襲制です。
 世襲の襲は字が難しいですが、考え方はそんなに難しいことではありません。親が偉くても子どもはぼんくら、孫の代になるとプータロー、そういう人間が王になると国が行き詰まる。
 ここで天が出てくる。天がおまえは首だという。そうすると国が潰れて、徳を備えた新たな王が生まれる。そうやって新たな国ができる。そういうルールが確立していく。
 でも王朝の滅亡は本当は人間がやるんです。そういう人間の合意ができれば国が滅びるということです。


【郡県制】 秦の始皇帝がやったことを見ていきます。中央の力を強くして郡県制というのをやる。郡や県は日本にもある。県というのは中央の支配下にある地方組織です。
 その独立性は非常に低い。この県を治めるのは中央からやってくる役人です。彼らは地元民の言うことは聞かないです。王様の言うことしか聞かない。
 今の日本の県とはちょっと違います。今の日本の県知事は首相の部下が県にやってきているんではない。日本の県知事は県民から選ばれた人です。これは戦後そうなったんであって、戦前の日本では中央の官僚が地方に県知事として来ていました。
 だから今の県と昔の県では県のとらえ方が違うんですが、「県」という言葉をそのまま使っています。
 戦前の日本の県と同じように、この時代の中国の県は王が選んだ。俺の言うとうりにやれ、と。


【度量衡】 こういう強い力で、始皇帝は度量衡も統一します。度量衡は、長さ、体積、重さ、です。度量衡の統一は、強い政治力がないとできないことです。基準の変更は、最初は庶民は嫌がります。一時混乱しますから。しかし長い目で見ると必要なことです。
それから以前から行っていた半両銭の統一も、全国的に推し進めます。


【中央集権】 こういうのが中央集権です。中央の力が強いのが中央集権です。この言葉もよく出てくる。中央が強いか、地方が強いか。
 中央集権の反対の言葉はなにか。これも政治用語として覚えておいたほうがいい。中央が強いのは中央集権です。日本は県の独立性が強まったとはいっても、今度は財政面で独立できていないから、今でも中央集権的です。
逆に地方が強いのは地方分権という。アメリカの州というのは、日本よりも強い地方組織です。中央集権を目指すのか、地方分権を目指すのか、というのは今の政治でも大きなテーマです。


【思想統制】 次に、郡県制という強い中央集権体制によって、法家思想の徹底をはかろうとします。
 秦が採用したのは法家思想ですから、中国の始皇帝は法家思想によって全国を統一しようとします。秦は徳が嫌いです。つまり儒教が嫌いです。儒教の書物を焼いて、儒教の学者を埋める。これを焚書坑儒という。
 そういうふうにして、国民に人気があった学問、儒教を無視した。秦がたった20年で滅びたのはこれが原因だと言われる。
 秦は短命です。儒教を無視し、法律で決まりをつくって、あまりに厳しいことを守らせようとした。
 そこには徳がない、徳がなかったら潰れろ、ということで、すぐ農民反乱が起こる。これが紀元前209年の陳勝・呉広の乱です。そして紀元前206年に滅びます。武力では勝てても、思想面では儒教に勝てなかったということです。
 日本では農民反乱は百姓一揆といってすぐに鎮圧されますが、中国では農民反乱が起これば最後、国が滅びます。


【匈奴】 その農民反乱が起こる前に、秦は北方の騎馬遊牧民族である匈奴(きょうど)、これを撃とうとした、追い払おうとしています。匈奴征討を行った
 匈奴のことは前にちょっと言いましたが、200年ごとぐらいにそのグループ名が変わる。共通しているのは、馬に乗った北方の騎馬遊牧民です。
 しかしこれが強すぎてうまく追い払えない。中国の農耕民軍隊よりこっちが強いです。
 最初に馬に乗った男というのは、たいがい荒くれ男か、運動神経がよかった人だろうと思う。馬の後ろ足で蹴られたら内臓破裂で一発です。馬の後ろ足の破壊力は人間の100倍、蹴られただけで内臓破裂です。ヘビー級のボディブローどころじゃない。
 そんな馬の横から馬にまたがってその馬を操って走らせる。そしてこれを民族みんなでやる。すごいことです。
 そしてこれが世界中に広がる。つい100年前の日露戦争のときまで、日本の陸軍は馬に乗れることを将校の条件にしていた。馬に乗れない陸軍将校なんてつい100年前までいなかったんです。
 強い匈奴だから征討はうまくいかない。だから万里の長城というのをここから本格的に作り始めた。それまであった各地の長城をつなぎ始めた。
 今の長城が一瞬でできたわけではありません。このあと何百年もかけて作り続けていくんです。それだけ中国には騎馬遊牧民の脅威が続いた。
 紀元前3世紀にはモンゴル高原などの今のモンゴル共和国には匈奴がいて、それまで分散していた民族を統一した人物が出た。彼を冒頓単干(ぼくとつぜんう)といいます。
 これ本当の発音はなんというかわからない。これも中国がこう呼んだだけで、中国流に漢字を当てただけです。宛て字です。しかも漢字に意味はありません。
これに苦しみます。

 さらに秦は法家思想が強すぎて、おまえには徳がないから潰れろといわれて、すぐに農民反乱が起こった。これが陳勝・呉広の乱です。それであっけなく20年で滅んだ。



【前漢】
 しかし秦が初めて中国を統一したということが受け継がれて、次に成立するのがです。紀元前202年成立です。これは前に200年、後に200年、途中で一旦滅びるから、二つに分けてここでは前漢といいます。
 ここで使われていた文字が漢字になる。我々が今も使っている漢字です。これが日本に入ってくる。この漢の都が長安です。今はちょっと寂れて西安といいますが、今も大きな都として生き残っている。
 世界史上で、捨てられて死んだ都はいっばいあります。土を掘り起こして、穴を掘らないと出てこない都市は。でもこの長安は名前を変えて生き残っています。
 陳勝・呉広の乱、これは農民反乱です。そこからいろんな人たちが抗争していって、最終的に生き残ったのもやはり農民です。
 それが農民出身の劉邦です。中国人で劉さんというのは、日本の鈴木さんとか田中さんみたいにありふれた名前らしい。普通のそこら辺の農民は劉さんです。名前は邦さんです。
 それと戦ったのが有力軍人であった項羽。劉邦と項羽が戦う。ふつうは有力軍人が勝ちそうだけど、中国は農民が勝つんです。
 そして皇帝になる。これが漢の高祖です。この高祖の悩みの種が匈奴です。この匈奴は強いんです。秦の始皇帝でも勝てなかった匈奴に圧迫され続けます。


【武帝】 この代には無理だったけれども、その後、武帝が紀元前141年に即位すると、これが前漢の武帝ですが、匈奴討伐を何回も行い、匈奴を挟み撃ちにしようと画策する。
 そのための手段が、西の方に別の遊牧民族で大月氏というのがいるんですが、これも大きい月とかそういう意味ないですよ、匈奴の言葉を中国語の漢字に当てただけでもともと何と発音していたのか分からない。
 その大月氏に、部下の張騫を西方に派遣して、挟み撃ちにしようとする。これはうまくいかなかったけれども、それほど大規模な軍隊を率いて、今まで勝てなかった匈奴を追い払う。


【匈奴の西遷】 この匈奴は逃げてどこまで行くか、西へ西へと逃げて、よく分からなくなる。
 しかし数百年後に、ローマ帝国に侵入してこれを滅ぼしている。ヨーロッパに現れたときには、ヨーロッパではフン族になったと言われる。
 名前が違うじゃないかと思うかも知れませんが、この当時ヨーロッパ人と中国人はお互い全然知らないから、もともと何なのかはお互いに分からない。今2000年経ってこれを歴史的に見ると、東の匈奴と西のフン族は同じ民族じゃないかといわれています。
 ヨーロッパではフン族となって、ローマ帝国に侵入していく。または東から来た匈奴に追い出されてローマ帝国に侵入したのがフン族だったのではないか、と言われています。
 何千キロも100年間で移動していく。遊牧民は移動民族だから移動は速い。速いと言っても、100年間で1000キロぐらい行きます。
 200年前に、こんなに東にいたのが、いま何でこんな西にいるのか、自分の代、親父の代、爺さんの代の3代かければ、1000キロぐらい簡単に移動していきます。
 このようにして国は移動する。彼ら遊牧民の考え方は、国は土地ではないのです。人の移動したところが国になる。土地はどこでもいい、オレたちがいるところがオレたちの国だという考え方です。
 フン族は誰でもいいのですが、遊牧民が西から押し出されて東に移動したということが大事です。
 こういう遊牧民の西への移動は、このあとトルコ人の移動に見るように、歴史を貫く一本の柱として続きます。


【大土地所有制限】 紀元前7年、哀帝は大土地所有の制限を目指して限田法を制定します。これは大土地所有者の反対が強くて実施されませんが、古代の中国で、大土地所有をどうするか、そのことの裏側にある小農民の保護をどうするか、ということは、このあとも一貫して現れてくる課題です。小農が本気で腹を立てると国が滅んでしまうからです。
にもかかわらず大土地所有は進みます。お金はお金のあるところに集まります。それと同じように土地も土地を持つ者のところに集まります。これは中国独自の現象というよりも、資本の論理です。
しかし中国はこれを食い止めようとしていきます。ほおって置くと貧富の差が拡大するばかりで、多くの農民が潰れていくからです。
だから大土地所有を制限し、農民の土地を保護するばかりか、農民へ国家自ら土地を分配しようとしてきました。
それがのちの西晋の占田・課田法であり、北魏の均田制です。その均田制は隋・唐の時代に完成されて、日本にも取り入れられ、奈良時代の班田収授法となります。
日本では山上憶良の貧窮問答歌により、奈良時代の農民の貧困にあえぐ姿が強調されますが、もともとこれは大土地所有制度を防ぎ、農民の生活を保護するためのものだったのです。
そしてそれはヨーロッパのような奴隷社会ではなく、家族が成立しその家族のもとに農業経営を行う小規模な自作農が、社会の基礎になっている社会だからこそ、目指されたものなのです。



【新】
 約200年経って漢は途中一旦潰れます。そこで新しい国です。たった十数年ですけど。これがです。紀元8年の建国です。
 始皇帝の秦と発音は一緒ですけど、漢字が違う。別の国です。シンという国は、このあとも漢字を変えただけで、同じ発音の国がよく出てきます。
 中国人はシンという国名にこだわりがあるのでしょう。建国者は王葬という人。


【外戚】 ポジションは、漢の外戚です。王葬という名前よりも、この外戚という言葉が大事です。皇帝の嫁さんを皇后といいますが、この皇后の親戚が力を持つんです。これが外戚です。
 なぜか。中国の女性は結婚しても姓を変えないことはすでに言いました。ということは、嫁ぎ先よりも、生まれた育った実家の方との縁がずっと強い。
 そうすると嫁さんの実家グループが、お嫁さんの親戚という立場で、旦那の王様一族を乗っ取っていく。外戚一族が国を乗っ取っていく。夫婦別姓とはこういうことです。
 男のAさんと、女のBさんが結婚して、男3人子供が生まれたら、子供はみんなAさん、Aさん、Aさんです。嫁さんだけがBさんでA一族には入れない。姓は別だからです。結婚しても自分の子どもとグループが違う。
 政治争いになると、子供を殺す母親が出てくる。我が子が王になると、B一族の力で我が子を殺す母親が出てくる。夫婦別姓というのはこんな社会です。息子と母親は別の一族だからです。
 でも最近の日本では人気があるんです。特に女性に人気なんです。私はこれがよくわからない。知っているのかな、中国の夫婦別姓がどういう家族を生んでいくのか、夫婦が別の姓を名乗るというのはどういうことなのか、本当に知っているのかな。
 夫婦別姓にしても家族は今までどおり融合する、そんなに都合のいい家族形態があるんだろうか。一族が違う、権利も違う、財産相続もできない、そこには父と母の、そして母と子の厳しい利害の対立が生まれます。

 新の建国がちょうど紀元前後ごろです。この時代にインドから伝わった宗教が仏教です。中国からさらに日本に伝わるのは、このまた500年ぐらい後です。
この新もまた、18年に起こった赤眉の乱という農民反乱で滅びます。その5年後の23年のことです。
これで終わります。ではまた。




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