1本のわらしべ

骨肉腫と闘う子供とその家族とともに

看護婦さんのこと

2007-11-02 00:52:16 | Weblog
看護婦さんには本当にお世話になりました。
今となっては感謝の気持ちしかありませんが、入院時にはやはり小さな葛藤がありました。
娘は愛想の良いほうではありませんし、自分の殻に閉じこもっていたこともあって看護婦さんも扱いにくかったと思います。体中痛いところだらけで、うっかり触ってしまって怒鳴られた看護婦さんも少なくありません。
それでも徐々に看護婦さんに心を開いてくれて、ほっと一安心でした。
看護婦さんは大変な仕事だと話には聞いていますが、実際入院して1日看護婦さんを観ていると頭が下がります。
人手不足もその忙しさに拍車をかけていて、夜は二人で数十人の患者さんを看なくてはなりません。そこに手術後の患者さんが加わろうものなら他の患者さんは看護婦さんが来てくれるのを首を長くして待たなければなりません。

お世話になっていて思ったことは、「看護師の適性」です。
ちょっとした仕草に患者さんに対する思いやりが感じられる。一言声をかけながら
処置をする。最後に「大丈夫?」と確認する。
これは新人、ベテラン関係ありません。かえって新人さんのほうが自分の力不足を自覚している分、患者さんに優しいかも知れません。
生まれつきの適性があるとするならば、それを持ち合わせていない人は常に自覚して、努力するべきだと思います。
もう一つ思ったことは「知識が邪魔をする」ことです。
うちの娘のように特殊な症例には常識が当てはまりません。
床ずれができたときも娘は「痛い」と訴えていました。「そんなはずはない、ずっと寝ていれば痛いのは当たり前」。もっと早く対処していればあれほど酷い床ずれにはなっていなかったと思います。その床ずれのせいでリハビリは進まず、さらに床ずれを悪化させました。
人工間節が外れたときも、そうでした。娘は「股関節が痛い」と訴えていましたが「動いていないのだから、外れるはずがない。」
手術の後、尿の管が外れていたときもそうです。「尿がちゃんと容器に溜まっているのだから管が抜けているはずがない。」でも娘は「オシッコがしたい。管を抜いて欲しい」といいました。確かに医師が不在時に尿管を抜くことは危険が伴いますが、娘の言葉に耳を傾けて欲しかったです。素人の私がみても尿管の導入口に尿が出てきているのがわかりました。
このように「ありえない」事でも、患者の訴えに耳を傾けてほしいのです。何か原因があるはずです。医師が患者に会うのは回診のときだけです。一日中、患者の様子を見ている看護婦さんが気づいてくれなければ誰が気づいてくれるのでしょう。


長い入院生活の間にはいろんな事がありましたが、看護婦さんには言い尽くせない感謝の気持ちでいっぱいです。




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1 コメント

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Unknown (R)
2007-11-03 08:13:43
看護婦さんについて思ったことがありました。
患者さん個人と気が合う・合わない。適正がある・ない。本当に難しいことです。看護婦さんは皆強い志ときびしい労働に立ち向かう意志と勇気を持っている方々だと思います。でも、彼女が心開いていた看護婦さんは彼女の名前を呼んでくれていました。ナースコールで来たときも「Aちゃん、どうした?」と入ってきてくれます。しかし、他の方は入ってくるなり「どうしましたか?」ということが多かったように思いました。確かにナースコールで誰がボタンを押したか明確ですが、名前を呼ばれるという些細な事は看護婦さんと患者さん個人を近づけているような気がしました。ナースコールは助けを呼ぶコールです。あなたの所にきたんだよ言う表現として、患者さんの名前を呼んでみてほしいと思いました。
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