2011年5月19日(木) 快晴
会津の峠テクテク会5月例会の日。昨年11月で野外活動を終え、今年2月に総会。3月講演で4月から野外活動の計画であった。しかし、今回の大震災で計画の変更をせざるをえなかった。講演はガソリン不足の最中で福島市に居られる講師も来若が難しいので中止。4月例会は福島の花見山と信夫山の散策だったが原発事故発生で中止した。
活動再開を会員は待っていた。お天気は最高。新緑の木立の中をマイナスイオンを胸いっぱい吸い込んで心地よい汗をかく。
会員32名中27名の参加。途中講師も乗ったので中型バスは補助いすを使って満席。
訪ね歩いた峠は「軽井沢銀山・銀山峠」。この峠については担当班長が作成してくださった資料を下記に載せます。
「永禄元年(1558)村民松本左文次の発見したもの。翌年から採掘が始り、閉鎖される明治29年までの340年の間、閉山・再開を繰り返し、実際採掘されたのは200年間ほでだった。本格的に採掘したのは、会津三代藩主松平正容の時代で、良い鉱脈にあたり最盛期には、従業員宿舎だけでも1000軒余もあったそうである。」
明治12年大島高任、古河市兵衛らによって再会された。採鉱・製錬技術の進歩で算出量も向上した。明治20年には昼夜三交替体制での稼働であった。その電力は、湯八木沢の水力発電でまかなった。会津盆地の各地から、西部山地に突如現われた不夜城の閃光」に見物人まで現われたそうである。
銀山峠は、湯八木沢から田代・松ヶ下に至り、高尾嶺の北鞍部(620m)を越え軽井沢銀山に下る峠をいう。(笹川 寿夫著「新編会津の峠」下より抜粋)
ガイドは「銀山峠を復活させる会」の会長の佐等さんにお願いした。昨年から道の整備をし農作業の忙しい所を案内してくださった講師に会員一同感謝している。
~閉山し 残る廃炉の 無常かな~
会津の峠テクテク会5月例会の日。昨年11月で野外活動を終え、今年2月に総会。3月講演で4月から野外活動の計画であった。しかし、今回の大震災で計画の変更をせざるをえなかった。講演はガソリン不足の最中で福島市に居られる講師も来若が難しいので中止。4月例会は福島の花見山と信夫山の散策だったが原発事故発生で中止した。
活動再開を会員は待っていた。お天気は最高。新緑の木立の中をマイナスイオンを胸いっぱい吸い込んで心地よい汗をかく。
会員32名中27名の参加。途中講師も乗ったので中型バスは補助いすを使って満席。
訪ね歩いた峠は「軽井沢銀山・銀山峠」。この峠については担当班長が作成してくださった資料を下記に載せます。
「永禄元年(1558)村民松本左文次の発見したもの。翌年から採掘が始り、閉鎖される明治29年までの340年の間、閉山・再開を繰り返し、実際採掘されたのは200年間ほでだった。本格的に採掘したのは、会津三代藩主松平正容の時代で、良い鉱脈にあたり最盛期には、従業員宿舎だけでも1000軒余もあったそうである。」
明治12年大島高任、古河市兵衛らによって再会された。採鉱・製錬技術の進歩で算出量も向上した。明治20年には昼夜三交替体制での稼働であった。その電力は、湯八木沢の水力発電でまかなった。会津盆地の各地から、西部山地に突如現われた不夜城の閃光」に見物人まで現われたそうである。
銀山峠は、湯八木沢から田代・松ヶ下に至り、高尾嶺の北鞍部(620m)を越え軽井沢銀山に下る峠をいう。(笹川 寿夫著「新編会津の峠」下より抜粋)
ガイドは「銀山峠を復活させる会」の会長の佐等さんにお願いした。昨年から道の整備をし農作業の忙しい所を案内してくださった講師に会員一同感謝している。
~閉山し 残る廃炉の 無常かな~
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