会津の重ちゃん日記

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 会津藩 軍事顧問 ヘンリー・スネル

2014-01-26 16:46:10 | 地域情報
2014年1月25日(日)晴・雪 4.6℃~-1.6℃

 可月亭の近くに幕末の会津藩軍事顧問をしていたヘンリー・スネルの屋敷跡がある。屋敷跡は市自然景観指定緑地になっているが現在は私邸で公開はしていない。

 ヘンリー・スネルは戊辰戦争時、会津藩軍事顧問(砲術指南)であったプロシア人です。スネルは外国人でありながら鶴ヶ城の城下に屋敷を持ち、ちょんまげを結い「平松武兵衛」と名乗っていました。彼はもともとはオランダ公使館に勤務していましたが、新潟に移って、弟のエドワルドとともにスネル商会という武器を扱う会社を設立しました。幕末に長岡藩家老の河井継之助に武器を売り込んだのもスネル兄弟です。その後、会津藩も河井継之助の紹介でスネル商会から武器・弾薬を購入したことから、兄のヘンリーは会津に住むようになったということです。藩主の松平容保からも信頼されるほどで、彼と会津藩との間には深いつながりがあったことがわる。


 スネルは、日本女性と結婚し子供ももうけ、材木町の屋敷に住んでいました。近くの大工伊藤文吉・お菊の長女が「おけい」は、スネル邸で子守りをしていました。

 会津藩の敗戦後、スネルは藩主松平容保に、ゴールドラッシュにわくカリフォルニアの話をして、藩士らで金鉱を探し、アメリカでの農場経営を勧めました。その了解を得て、明治2年、スネルらの移民団はチャイナ号で横浜を出航した。カルフォニア州に会津若松の人々約40人と共に移住し、サンフランシスコの北東にあるゴールドヒルに土地を購入し「若松コロニー」という名の開拓地を建設した。しかし、日本から持ってきた茶や桑などが育たず、1年ほどで若松コロニーの経営は行き詰まった。明治3年(1871年)、ヘンリーは金策のために日本に戻ったとされるが、その後コロニーに戻ることはなかった。資金難からコロニーは解体、移民団はちりぢりとなりました。
 子守りのため、スネル一家とともに移民団にいた18歳のおけいは、ビーア・カンプに引き取られます。利発なおけいは、家事を手伝い、かわいがられました。しかし、翌年、突然高熱に襲われ、19歳で亡くなります。亡骸(なきがら)は、入植地が見える丘に葬られました。

  ⇒スネル邸跡への交通
西若松駅より徒歩で5分程度。
福島県会津若松市材木町

 追記≪おけい≫アメリカ移民日本女性第一号
 
大正4年(1915)、カリフォルニア在住の記者竹田文治郎は、日本人の少女の墓が残されていることを知ります。墓は、ゴールドヒルの丘にひっそりと立ち、「OKEI」と刻まれていました。  近くに住む農場主ビーア・カンプから、1869年に来た日本移民団の少女の墓であると聞きます。文治郎はこの日本人最初の移民を、アメリカの日系新聞の記事にし、以後日系人から大きな関心を集めました。 日本移民百周年記念碑  人種差別が色濃く残るアメリカで、太平洋戦争中、多くの日系人が強制収容され、非人道的に扱われました。戦後解放された日系人は、おけいら移民団を苦難の先駆者としてたたえ、昭和44年(1969)ゴールドヒルに「日本移民百周年記念碑」を建立しています。 旧藩士 桜井松之助  十数年後、同じ移民団の桜井松之助らによっておけいの墓碑が建てられます。松之助は旧藩士で、同じくカンプ家に引き取られ、67歳で亡くなっています。  会津若松市には、昭和32年に同じ墓が建てられ、今も背炙山(せあぶりやま)から故郷を見つめています。 ◎参考…山本一洋「若松コロニーの跡を尋ねて」

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