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会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

戊辰150年 その13

2018-06-12 18:53:04 | Weblog
2018年6月12日(火)曇 23.2℃~16.6℃
「新政府軍の侵攻と作戦」

下記の侵攻図は、古城研究会会長石田明夫氏の講演資料よりお借りしました。


 8月17日、新政府軍参謀の伊地知正治(薩摩)と板垣退助(土佐)が二本松で作戦会議。勝者の進軍方針を巡って対立→伊地知案(石筵口を進む)に決まる。伊地知案は石筵口に精鋭の主力(薩摩、長州、土佐、佐土原、大村、大垣)を集中。一方ではその他藩兵が諸口に陽動作戦をかけるというもの。
→8月21日に母成峠が破られ、猪苗代危急の知らせが新撰組土方歳蔵から、会津藩の内藤介右衛門と小原宇右衛門にあったが、新政府軍の陽動作戦のため、中地口や御霊櫃口の会津兵は動けなかった。各地に分散している会津兵は大群で押し寄せる新政府軍には太刀打ちできなかった。
 伊地知案でなく周辺の藩を攻め(二本松藩 福島藩、米沢藩、仙台藩など)てから、会津藩へという案だったら、どう展開しただろうか?
 冬に成り雪が降る時期までずれ込んだならば、ロシアが侵攻してきたナポレオンを撃退したようなことになっていたかもしれない。
 もし、・・たらは考えてもしかたがないことだが・・・・。


 戊辰戦争で使われた暗号
 列藩同盟軍も新政府軍も諸藩の連合軍であるため、軍装だけでは区別がつかなかった。夜間ならなおさら!しかも、重右衛門や金蔵のように民間の協力者も出入りしているので、その中に新政府軍が放った探索者(スパイ)が紛れ込まないようしなければならない。
会津藩ではいくつもの暗号を使っていた。その一部が資料として展示されている。