越谷ウォークの〈つづき〉です。
天嶽寺を出たあと、しばらく元荒川の堤防を歩きました。
前日、新潟と福島ではゲリラ豪雨がありました。と、いうことは、関東の山岳部でも雨があったと思えるのに、この川はどこでどの川と繋がっているものかわかりませんが、まったく静かで、水の濁りもありませんでした。
この日の朝の天気予報では、越谷付近には大雨警報が発令されていました。庵を出るときはカンカン照りだったので、必要はないだろうと思いながらも、予報で大雨警報が出されているのを知って、折り畳み傘を鞄の中に忍ばせていましたが、結局は無用の長物となりました。ずっと歩いていると、折り畳み傘一本とはいえど、肩にズシリズシリと響くようになるのです。
天嶽院から十分歩いて、東福寺に着きました。文永年間(1264年-75年)創建の真言宗豊山派のお寺です。開山は咸尊和尚、開基は岩槻渋江氏の流れを汲む須賀若狭守といわれています。
東福寺本堂。本尊は虚空蔵菩薩。
薬師堂があったので覗き込んでみましたが、いかような薬師如来がおわすのか、まったく見えなかったのでわかりません。
再び元荒川土手に戻って、この日の最後の目的地・大聖寺を目指します。土手に桔梗が咲いていました。
元荒川と葛西用水の合流点に架かるしらこばと橋です。「しらこばと」を漢字で書くと「白小鳩」で、国の天然記念物。越谷市の市の鳥でもあり、埼玉県の県の鳥でもあります。
東福寺から大聖寺まで、元荒川沿いを歩いて三十分。大聖寺(真言宗豊山派)には背後から入る形になりました。
お賓頭盧様がありました。
神仏に対しては、現世はむろんのこと、後世も御利益は願わないことを信条としている私ですが、歩き過ぎが要因か、加齢によるコンドロイチンの不足か、このところ膝が痛むようになってきたので、お賓頭盧様の両膝を撫でておきました。
大聖寺本堂。本尊は不動明王です。
寺伝によると、天平勝宝二年(750年)、不動坊という人が、奈良東大寺の良弁僧正自作の不動明王像を祀って造立した一宇が始まりとされています。
中世には不動院と称し、岩付城主・太田資正(1522年-91年)や北条氏繁(1536年-78年)の尊信を受けて栄え、天正十九年(1591年)には当寺に泊った徳川家康から寺領六十石を賜って、このときに大聖寺と改めたといわれています。また、慶長五年(1600年)には、関ケ原に向かって下野小山(栃木県小山市)から引き返してきた家康が、戦勝を祈願して太刀一振を寄進したということも寺伝に記されています。
本堂の右手前にあった椨の木(タブノキ)です。
成長の暁には、樹高20メートルにも達する高木なので、まだ若い樹だろうと思ったら、なんと樹齢五百年(推定)とありました。
境内に「虹だんご」を売る茶店がありました。
この日は土曜日だったのに参拝客の姿もなく、この店も客はいないようでした。硝子戸も閉まっていたので、休みかと思って通り過ぎてしまいました。
帰ったあと、インターネットで調べてみると、店の名は虹屋といい、ホームページがありました。「虹だんご」とは、みたらし団子のことでした。
こんな店のあるお寺が近くにあったら、私は毎日のように参拝方々暇潰しに出かけるでしょう。
大聖寺の山門(仁王門)と山門に掲げられた扁額です。「真大山」という山号は老中時代の松平定信の揮毫といわれます。
大聖寺を出て地図を見てみると、越谷駅は遙か彼方になっていました。武蔵野線の南越谷駅はさらに遠く、歩いて行けば、悠に三十分以上かかります。
一番近いのは越谷レイクタウン駅。ここも三十分はかかりますが、バス停がどこにあるのかわからず、わかってもどこへ行くバス便があるのかわからないので、気を取り直して歩いて行くしかありません。
大聖寺から歩くことまたまた三十分。気息奄々となって越谷レイクタウン駅に辿り着きました。
→この日一日の行程です。蒲生駅から越谷駅までは電車を利用。