傳通院を出て白山方面に足を向けると、善光寺坂と呼ばれる緩い下り坂です。
すぐ慈眼院があります。門前の石柱が示すように、ここには澤蔵司(たくぞうす)稲荷が祀られています。
江戸時代初期、傳通院の学寮に、澤蔵司という修行僧がいたそうです。わずか三年で浄土宗の奥義を極め、元和六年(1620年)五月七日の夜、学寮長だった極山和尚の夢枕に立って、
「そもそも余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。いまよりもとの神に帰るが、永く当山を守護して、恩に報いよう」
そう告げて、暁の雲に隠れた、ということです。
澤蔵司は傳通院の門前のそば屋に、よくそばを食べに行ったそうですが、 沢蔵司がきた日の売り上げをしらべてみると、必ず木の葉が入っていた、ということです。
慈眼院の隣は善光寺。浄土宗鎮西派の寺院。本尊は阿彌陀如来。
寺伝によると、本尊の阿弥陀如来は家康の母・傳通院殿の守り本尊で、亡骸を傳通院に埋葬すると同時に一宇を建立。守り本尊を安置して善光寺如来堂と称したのが起源である、ということになっています。
善光寺坂という坂の名は途中にこの善光寺があるので、寺の名をとったということです。
白山通りに出て、北上すると、浄土宗厳浄院がありました。
最初に創建されたのは本郷田町(現在の文京区西片一丁目)で、寛永五年(1628年)のことでした。承応三年(1654年)、傳通院の敷地だった現在地に移転。ここも本尊は阿弥陀如来。
境内には俳人・山口素堂(1642年-1716年)の墓とあまりにも有名な「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句碑があります。
素堂は松尾芭蕉より二歳年長です。
厳浄院の北隣は日蓮宗蓮華寺。
白山下の交差点を渡り、浄心寺坂に差しかかると、天台宗圓乗寺の石柱が目に入ってきます。そこを左に折れると、圓乗寺です。本尊は釈迦如来。創立は天正年中(1573年-92年)。
江戸三十三観音の十一番札所ですが、この寺を有名たらしめているのは、そんなことより八百屋お七です。
圓乗寺境内にある八百屋お七の墓。
圓乗寺前の浄心寺坂(別名・お七坂)は上って行くのに連れて結構急な上り坂になりました。
文京区教育委員会の説明板が建てられていて、坂の名の由来は浄心寺が近くにあるので、この名がつけられた、とあります。「近く」というのが引っかかりましたが、出先なので、浄心寺そのものがどこにあるのか、調べることも叶わず、歩いているうちに、疑問が頭に引っかかったことを忘れてしまいました。
帰ったあと、思い出して調べてみると、坂を上り切ったところはT字路になっている突き当たりで、突き抜けることはできませんが、そこから浄心寺の入口までは直線距離で100メートルちょっとあります。
ところが、下に掲げた江戸切絵図を見ると、❸→の圓乗寺に隣接して描かれています。
浄心寺にはホームページがあって、その中の「縁起」を視ると、創建は元和二年(1612年)で、場所は現在地ではなく、湯島妻恋坂でした。八百屋お七の火事で焼け、現在地に移転と記されていますが、尠くともこの江戸切絵図(尾張屋板)が刊行された当時(小石川絵図の刊行は1854年)は現在地ではないところにあったはず。触れてはならぬいわくでもあるのでしょうか。
上に掲げた絵図は参考まで。❹→がこのあと訪ねる大圓寺です。
浄心寺坂を上り切ると、道は旧中山道に突き当たります。
都立向丘高校裏の小径を入って、ほうろく地蔵で知られる大圓寺に着きました。我が曹洞宗のお寺です。
創建は慶長二年(1597年)、創建の地は神田柳原(現在の岩本町あたり)です。開基は石河(いしこ)勝正(1577年-1659年)。半世紀後の慶安二年(1649年)、現在地に移転。
石河勝正は美濃加賀島(かがしま)城主・石川光政の次男です。小早川家の家臣でしたが、同僚を殺害して関東に逃れ、徳川家康のはからいで秀忠の近習となり、信濃上田城攻め、大阪の陣などに従いました。寛永十八年、石川姓から石河と改姓したという。
大圓寺にある齋藤緑雨(1868年-1904年)の墓。幸田露伴がつけたという戒名は春暁院緑雨醒客。
同じく大圓寺にある高島秋帆(1798年-1866年)の墓。
高島流砲術の創始者。一説では、四十五歳の天保十三年(1842年)、密貿易をしているという鳥居耀蔵の讒訴によって投獄され、高島家は断絶という憂き目を見ました。
どなたのお墓か存じあげぬが……。離ればなれにあった別々のお墓のかたわらに桔梗が植えられていました。
中山道に戻って潮泉寺を訪ねました。浄土宗寺院。創立は慶弔元年(1596年)。本郷丸山にありましたが、明暦の大火後、現在地に移転。小説家・武田泰淳さんの生家です。
徳性寺。浄土宗寺院。元和元年(1616年)の創立。湯島妻恋坂にありましたが、ここも明暦の大火のあと、現地に移りました。
白山上の交差点を挟んでジグザグと歩き、大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)の東京別院に着きました。本山へは行こう行こうと何度も「願」を立てながら、行く機会のないまま今日に到っています。お目にかかりたと思っていた本院・最乗寺の十八世・余語翠巖禅師(1912年-96年)はすでに示寂されて十数年、本院参拝が叶わなければ、せめて別院なりとも、と考えていたので、こうしてくることができると感慨深いものがありました。
最乗寺の別院は箱根(強羅)にもありました。観光旅行のついでで、そこにも行って、なんと温泉があるので、ちゃっかり湯浴みをしています。しかし肝心要の別院参詣はせぬままに帰ってきてしまっていたのです。
最乗寺別院の門前、道を挟んで墓地があったので、てっきり最乗寺の墓地かと思ったら、同じ曹洞宗の妙清寺の墓地でした。慶長十一年(1606年)に南翁玄舜大和尚により開山されました(慶長五年の説もあり)。
本尊は薬師如来。江戸駒込、鶏声ヶ窪の薬師寺として名高く、多くの参詣人を集めそうです。
鶏声ヶ窪というのは、江戸時代、このあたりには下総古河藩の下屋敷がありましたが、その藩邸内から夜ごと鶏の声が聞こえたため、地面を掘ったところ、金銀の鶏が現われたという故事に基づいてつけられた地名です。現在の行政区分は本駒込ですが、旧町名は駒込曙町。この曙も鶏の声から名づけられたということです。
再び白山上の交差点に出て、千駄木駅に向かいます。
浄土宗瑞泰寺。
天正十七年(1589年)、神田明神下に桂芳院として創建されたのが始まりです。慶安元年(1648年)、現在地へ移転。京極丹後守高知が開基となり、江戸時代を通して、京極氏の菩提寺となっていたほか、江戸六地蔵(東都歳時記)の第一番の銅造地蔵があったといいます
この瑞泰寺と最後の二か寺は、駒込の吉祥寺を訪ねたとき(ブログ掲載は五月二十七日と二十八日)に寄るつもりでいたのに、端折ってしまったお寺です。
浄土真宗常瑞寺。
源義経の家臣だった黒部伊勢三郎義盛が天台宗寺院として現在の愛知県海部郡に開創。元和六年江戸に出府、芝金杉に常瑞寺を創立、明治二十八年の区画整理により、翌二十九年、当地へ移転。
浄土宗栄松院。教蓮社順誉上人が開山となり、天正十七年(1589年)、神田に創建、慶安元年(1648年)、当地へ移転しました。
→この日歩いたところ。本郷三丁目から千駄木駅まで。
最新の画像[もっと見る]
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 5ヶ月前
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 5ヶ月前
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 5ヶ月前
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 5ヶ月前
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 5ヶ月前
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 5ヶ月前
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 5ヶ月前
- 2024年五月の薬師詣で・豊島区 6ヶ月前
- 2024年五月の薬師詣で・豊島区 6ヶ月前
- 2024年五月の薬師詣で・豊島区 6ヶ月前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます