二十一日は東京湯島にある検査センターへ通院の日でした。
今回は検査はなく、診察と処方箋をもらうだけだったので、家を出たのは十時でした。本当なら十時半に出れば充分であったのですが、通院前に寄りたいところがあったので、三十分早く出ました。
検査の結果は貧血の症状がわずかながらも改善されていると出ましたが、「わずかながらも」ですから、拍手喝采とはいかず、通院生活はまだまだつづくようです。
先月の通院の日(六月二十三日)、帰りは小石川の伝通院へ行こうと思っていたのに、診察を終えたあとはなぜか気乗りがしなくなっていて、まっすぐ帰ってきてしまいました。
診察の結果が悪かったとか、気に懸かるようなことがあった、というわけではありません。持ってくるべきものを忘れていて、忘れていると気づいたときには、行ってはいけないような気持ちになってしまったのです。
忘れたのはお線香とライターです。
伝通院に行こうと思ったのは、単なるお寺巡りではなく、お線香をあげたい人がいたからなので、肝心なものを忘れていたわけです。
とはいっても、私が自家で使っている線香はなんら特別なものではありません。お寺によっては大香炉の前に用意されていて、お賽銭代わりの百円を出していただくような、ごく普通の線香です。
湯島から伝通院へ歩く間に仏具店があるかもしれないから、そこで贖えばいいか、と自問自答して、一旦は向かう気になったのですが、あるかもしれないということは、ないかもしれないということでもあるので、結果的に手ぶらで参上ということになるかもしれない。線香を置いているコンビニもあるようには思うのですが、仮に仏具店に置いてあるのと同じ品だったとしても、スーパーやコンビニで買うのはどうもそぐわないような気がする、ということで帰ってきてしまったわけです。
昨日二十日は台風6号が関東地方に近づいていました。翌日の今日は東南にそれて行くという予報でしたが、ともかく速度が鈍い。ために、天気はスッキリしません。
いつもなら電車の最後部に乗り、湯島駅の3番出口の階段を上って行くのですが、この日は通院前に、三組坂(みくみざか)を上って行こうと思ったので、5番出口から出るために最前部に乗りました。
三組とは徳川家康が隠居して駿府に行くときに連れて行った、中間、小人、駕籠者という三つの組の者たちにまつわる名前です。
家康が死ぬとお役ご免となった彼らは江戸に戻り、この地に屋敷を与えられたので、最初は駿河町と呼ばれ、のちに三組町と呼ばれるようになったのです。
何日か前、「江戸切絵図(近江屋板)」の「本郷谷中小石川駒込図」を眺めていたら、湯島天神近く、現在の湯島二丁目あたりに霊雲寺というお寺があったことに気づきました。
いまは何になっているのだろうかと現代の地図を見ると、いまでもお寺のままです。どんなお寺なのか、寄ってみようと思ったのです。
三組坂を上り切ってしばらく歩いたところに、予想外に大きな山門(惣門)が見えたので愕かされたかと思うと、さらに予想外に巨大な本堂(潅頂堂)が見えたのでまた愕かされました。
周辺は十階建てほどのビルが林立しているので、視界はほとんど利きません。地図によればこのあたりだが……と思ったところで、ビルがなくなったかと思うと、いきなりこんな巨大な伽藍が目の前に現われるので、びっくりしてしまうのです。
ここは真言宗霊雲寺派の総本山です。
開山は覚彦浄嚴という人で、元禄四年(1691年)の創建。浄嚴には柳沢吉保が深く帰依していました。山門も伽藍も巨大なので、境内が狭く感じられます。江戸時代はきっと広かったのだろうと思われますが、堂宇は関東大震災、第二次世界大戦で消失。昭和五十一年に再建。本堂の広い石段に隠されている部分が一階に当たり、石段の下に寺務所や書院があります。
霊雲寺の西門を出て春日通りに向かう道を歩いて行くと、正面に春日局の菩提寺の麟祥院が見えてきます。
通院の日はいつも春日通りを歩き、道路の向こう側に麟祥院を見ながら通り過ぎます。いつもなら帰りは湯島駅へ引き返すので、また麟祥院の前を通りますが、この日は引き返さないので、道路を渡って境内に入りました。
麟祥院を出て、検査センターへ。
診察を終え、薬をもらったら、ちょうど十二時になりました。
本郷三丁目の交差点は昼休みの勤め人と学生たちで混雑していました。
七年前の誕生日に東京を離れ、千葉県人になってから、すっかりおのぼりさんになってしまった私は、横断歩道からはみ出さんばかりに行き交う人混みに臆するような気分になりながら、本郷通りを渡りました。いつも近くまできているのに、本郷通りを向こうへ渡るのは初めてです。
横断歩道の向こうにこんな山門と提灯が見えたので、くぐってみると……。
前方にあったのは本郷薬師堂でした。
この御堂が建っているのは、かつて真光寺というお寺のあったところで、「江戸切絵図」にも載っています(最上部中央の赤線で囲まれた区域)。右の加賀中納言殿と書かれた広いスペースが現在の東京大学。その左が麟祥院。さらに左斜め下が霊雲寺です。
寛文十年(1670年)に建てられましたが、戦災で焼失。お寺は世田谷に移転したものの、薬師堂は本郷薬師として親しまれていたからかどうか、移転することなく昭和二十二年の改築を経て、五十三年に新築されたものです。
御堂前の説明書きによると、毎月八日、十二日、それに二十二日は薬師如来の縁日で、植木、雑貨、骨董、飲食店などが出て、おおいに賑わったと記されています。
春日通りに戻って西進します。三分ほど歩くと、真砂坂上の交差点です。
真砂坂を下ると、白山通りと交差する春日町の交差点です。
春日通りは右にカーブしながら真砂坂を下って行くので、実際は通りの左側にある二十六階建の文京区役所が真ん前に見えます。その下に押し潰されそうになっているのが講道館です。
春日町を過ぎると再び上り坂。今度は富坂です。200メートルで伝通院前の交差点。右に曲がると正面に伝通院の真新しい山門が見えました。
伝通院前の通りのちょうど真ん中あたり、右側に日本指圧専門学校があります。創設者は浪越徳治郎(1905年-2000年)で、浪越指圧治療センターが併設されています。
週刊誌の記者をしていたとき、浪越さんに会いにここへきているはずですが、周辺の風景は当時と変わったものかどうか、まったく記憶にありません。
検査センターを出てからおよそ二十分で伝通院に着きました。山門は新築工事中で通れませんでした。
本堂前の参道も工事中でありました。
伝通院というのは徳川家康の生母・於大の方(1528年-1602年)の法名です。墓参にきた目的の人のお墓を捜す前に、境内を一周します。
於大の方の墓。
家康の孫・千姫(1597年-1666年)の墓。
杉浦重剛(1855年-1924年)の墓。明治・大正時代の国粋主義的思想家であり、教育者です。
ようやく見つけた柴錬(柴田錬三郎)さんのお墓です。
墓所の入口には見取り図があって、柴田錬三郎(1917年-78年)さんのお墓の場所が示されていましたが、於大の方や千姫はもちろん、杉浦重剛も墓前に案内板が建てられていてすぐわかるようになっているのに、柴錬さんのお墓の前にはなんの案内もなかったので、捜すのにちょっと手間取りました。
さらに柴田という姓はペンネームで、本名は斎藤さんというのです。
私はうっかりしていて本名を知りませんでした。見取り図をみるために、二度も行き来して、ようやく特徴のある墓石を見つけました。よくよく見れば、愛煙家であった柴錬さんに煙草のお供えがありました。
少し前の六月三十日が祥月命日です。亡くなったのは昭和五十三年なので、いつか墓参を……と気にかけながら、三十年も過ごしてしまったわけです。
されど、親族でもなく、親しくおつきあいさせてもらったわけでもないので、ちょうどよいかと思ったりしています。〈つづく〉
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