桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

京都東山清閑寺

2009年12月23日 22時07分52秒 | 歴史

 年の瀬も押し詰まってきました。
 永年考えていて、今年こそ果たそうとして果たせなかったことがあります。再訪してみたいお寺があったのですが、とうとう行く機会がありませんでした。
 それは京都東山にある清閑寺(せいがんじ)というお寺です。有名な清水寺から近いのですが、京都の人でもこんなお寺があると知っている人は少なく、訪れる人はほとんどありません。
 私が行けなかった代わり、京都で仕事をしている友人に代参してもらいました。ここで使った写真は友人が撮って送ってくれたものです。

 私が清閑寺を知ったのはまったくの偶然でした。
 もう十年以上も前ですが、私的旅行で京都へ行ったときのことです。真夏の二日をかけて、高山寺、広隆寺、清水寺、銀閣寺、金戒(こんかい)光明寺と巡りました。
 金戒光明寺を除けば、観光寺院として著名なところばかりです。
 広隆寺の弥勒菩薩を見てあまり感動せず、なぜに感動しなかったのだろうと首を傾げながら清水の舞台にやってきましたが、こちらも人ばかりで、うんざりしていました。
 舞台から南の方角を眺め下ろすと、木立に囲まれた子安塔が見え、こちらは人影もなく、静かそうです。一緒にいた相棒に「行ってみないか」と誘われ、人混みから逃れたい一心で舞台の下に降りました。

 鄙びた山蔭の径という風情の小径を歩きました。いまは墓地の造成工事の最中みたいですが、当時はただただ静まり返っていて、人の姿もありませんでした。子安塔への入口を通過し、その先に何があるとも知らずに歩を進めました。



 分かれ道にきました。この道標は記憶にあります。
 左が清水寺から清閑寺に到る、昔からの山径です。ここで初めて清閑寺というお寺がこの先にあることを知りましたが、どんなお寺なのかはまだ知りません。

 
 


 清閑寺に到る直前、木立に覆われていた山径が開豁として開け、二つの天皇陵がありました。清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)と後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)です。
 清閑寺陵は第七十九代六条天皇(1164年-76年)、後清閑寺陵は第八十代高倉天皇(1161年-86年)を祀っています。

 この陵は元々は清閑寺の寺域で、法華三昧堂という御堂があったそうです。
 高倉天皇が通称池殿と呼ばれた平頼盛(清盛の異母弟)の館で亡くなったとき、遺体は六波羅から程近いこの法華三昧堂に葬られ、その縁からここに陵が造成されたようです。
 その十年前に亡くなった六条天皇も御堂の名は未詳ながら、清閑寺の小堂に葬られた、と記録にあります。

 六条天皇の父は二条天皇、祖父は後白河天皇です。
 わずか二歳で即位。二歳といっても当時は数えですから、実際は生後七か月。在位三年(1165年-68年)足らずで、高倉天皇に譲位。
 高倉天皇の父は後白河天皇。二条天皇の弟に当たります。六条天皇にとっては叔父です。年下の甥から叔父に譲位されたという、ちょっと妙なことになります。

 二歳で即位した天皇が五歳で退位。そのあとの天皇も、退位したときこそ二十歳になっていましたが、即位したのはわずか八歳のときです。
 このあたりを見るだけで、キナ臭さがプンプンと漂ってきます。

 背後でうごめいている二つの影があります。後白河と平清盛です。
 清盛は天皇の外戚たらんと欲し、後白河は武力という後ろ盾がほしかった。本心では互いに毛嫌いしながら、見出された妥協点が清盛の娘・徳子を高倉天皇の中宮に迎えることでした。
 当然皇子の誕生が期待されたわけですから、皇子誕生と同時に、高倉天皇の命脈も尽きる……という手筈です。
 このとき、徳子は十七歳、高倉天皇は十一歳でした。
 六つも年上の姐さん女房です。徳子は政略結婚だということは充分に承知していたのでしょう。父の期待に応えて、入内後七年、二十四歳で安徳天皇の母となりますが、仲睦まじい夫婦生活などは最初から諦めていたフシがあります。それは高倉天皇も同じ。

 


 ここに小督(こごう)という女性が登場します。二つの画像は清閑寺内にある小督の供養塔と掲示板です。供養塔はレプリカで、お墓は高倉天皇の陵内にあるそうです。

 小督(1157年-?年)は桜町中納言と呼ばれた藤原成範(1135年-87年)の娘です。本名は不詳。
 たぐい稀なる美貌の持ち主で、琴の名手でもあったそうです。高倉天皇に見初められ、その寵姫となりますが、自分が天皇の祖父にならんとしていた清盛にとって、こんな忌々しい存在はありません。

 清盛の怒りを恐れて、一度は出奔して嵯峨野に身を隠します。しかし、高倉帝の命を受けた北面の武士・源仲国に捜し出され、再び宮中に連れ戻されます。
 小督にも帝の寵愛がひとかたならぬものとわかったのでしょう。めでたく懐妊。坊門院範子内親王(第二皇女)を出産します。
 この出産が清盛の杞憂を現実的なものとさせ、ますます怒りを募らせることになります。小督の子が皇女であったからよかったものの、皇子を産まれてはたまらないからです。産後、無理矢理髪を下ろされ、出家させられてしまうのです。清盛の怒りを怖れて、みずから出家したとも。

 ところが、小督を帝に薦めたのは、誰あろう后の徳子だという説があるのです。

 高倉天皇には先に葵の前という女童がおりました。「平家物語」によると、徳子についてきた女房に仕える少女だったということです。天皇は頭越しの徳子の入内に反発して徳子を避けること甚だしく、逆に葵の前への傾倒は深くなって行きます。

 葵の前がどのような女性であったのか明らかではありません。身分が違う、と記録にはあるので、公家の娘でなかったことはもちろん、武家出身でもなかったのでしょう。
 身分が違っていることが要因となって宮中を去り、やがて死んだと伝えられています。高倉天皇の落胆はいかばかりであったでしょうか。
 それを見かねた徳子が帝を慰めようと小督を召し出したというのですが……。
〈つづく〉


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