#26 10ヶ月児とのアイコンタクト 2003.6.23
電車の中に入っていくと2人席の一つが空いていたが、窓際の席には若いのが大きく足を広げていた。
もう少し先を見ると女性の横が空いていたのでそちらに座った。
座って気がつくと彼女は赤ちゃんを膝に乗せていた。足元には大きなカバンとリュックが置いてあり、
隣の席にはみ出さないようにつつましく縦に積んである。
彼女の足がようやく下におろせるくらいの大きな荷物だった。
そんな荷物なので孫を見せに実家に里帰りした帰りかなと思いながら、座っていると、
窓の外を見ながら子供に小声でひっきりなしに話し掛けている。「あっチョコレートの看板や、
お菓子の工場かなあ。反対側の電車が来たよ、あれに乗るとオジイチャンの家に帰るんやけどね」
赤ちゃんはおとなしく膝の上にだかれて立とうとしているがまだつっぱるだけで立つことは出来ない。
冷房は入っているが汗かきのボクには利きが悪いので、夏の必需品の扇子を
後ろのポケットから出して扇いだ。
しばらくすると「あれ扇子やよ。うちわと違う動きが面白いんかしら」という声が聞こえた。
横を見ると赤ちゃんがこちらに向き直って扇子の動きをじいっと見ている。
つい「パタパタ」「パタパタ」と言いいながら赤ちゃんの顔にも風が行くように扇いでみた。
真っ黒な前髪が風にあおられて少し動いた。そして赤ちゃんがニッコリ笑った。
「ごきげんさんやね。ぐっすり眠ったあとかな」とお母さんに言うとそうなんですと言った。
何ヶ月ですか、10ヶ月です。うちも娘が二人いて、こんな時もあったはずやけど、おおきなると
そんな時代があったこと忘れてしまって。そんなもんなんですか。
赤ちゃんは二人の話を静かに聞いている。何回もパタパタをしてあげるとその都度ボクの
目をじっと見上げてうれしそうに笑う。
黒い瞳の可愛い男の子だった。しばらくこの子と目を合わせた。彼はまったく視線を外さない。
気持ちよさそうに風を受けてボクをじっと見つめる。
生まれて10ヶ月の赤ちゃんと昨日東京で退職の行事をすませたばかりの61歳の男の二人が
お互いじっと目を合わせる。涼しい風って気持ちいいねえ。ほんとやねえ、おじさん、と
言っているように思えた。
乗った電車が芦屋に近づき、新快速は自分の下車駅の六甲道には停まらないので普通電車に
乗り換えようと準備を始めたら「おじさん降りられるみたいやねえ」と母親が子供に話し掛けた。
「丈夫な子オに育ちや~」と行って席を立つと「ありがとうございます」と彼女が言った。
先に動き出した普通電車をすぐに新快速が追い越しかけたが、向こうの窓からこちらに気がついた
彼女が軽く会釈したのが見えてボクもあわてて頭を下げた。電車は速度を上げて通過していった。
生まれて10ヶ月目の赤ちゃんと、楽しい出合いがあって、何となく明日からの毎日が
楽しくなりそうで、少し弾んだ気持ちで六甲道駅の改札を出た。
出会ったとさ。
('04.2.11の神戸新聞[文芸欄]エッセ-・ノンフィクション部門に「小和田 満」の筆名で入選・掲載されたエッセイです。
男の子に出会ったのは'03.7月の第一週でした。あの男らしくゆったりした子は、
どんな14歳の子になっているのか一度会って見たい気がします。)
#27霞ケ浦と九十九里浜から来た小父さん達 2003.7.10
霞ケ浦編
ある日、勤め先の神田から流山市(千葉県)の社宅に帰ると、夕食に焼いた
ワカサギやゴリやハゼ、川エビの佃煮が出てきた。
好物なのですぐに食べてみたら、とてもおいしい。どこで買ったのと相方に聞くと今日
自転車の荷台に箱を乗せた小父さんがやって来て、アパートの一軒一軒を回った。
味見をしてみたらおいしかったので買ってみた。ねえ、おいしいでしょうという。
小父さんにどこから来たのと聞いたら、霞ケ浦から来た。これからも買ってくれるなら
時々寄るよと言ったので寄って下さいって頼んでおいたわよ。
とても凄い茨城弁で言葉は半分くらいしかわからなかったけど、仲間が霞ケ浦で取った
魚を自分で加工してそれを常磐線の駅毎に下りて行商していると言っていたわ。
小父さんはその後、ほぼ定期的に寄ってくれるようになり、スーパーで買うのとは違い
取ってすぐの加工で、新鮮で化学調味料も入ってなく、おいしくて子供も喜んで食べた。
私の通勤最寄り駅の南柏から会社のアパートへ来るまでに、途中のお客さんに殆ど売れてしまい、
残り物しかない日もあるので、来客の手土産や神戸に帰省するときの土産にする時は、
小父さんの自宅の電話番号を聞いておき、あれを300g、これを200gとか頼むようになった。
顔を見て話すぶんにはなんとか理解出来るけど、電話で本物の茨城弁を聞き取るのは
ホント大変と言っていた。 茨城県の言葉が東北弁のエリアに入るのはそれまで知らなかった。
ある日、帰宅すると子供達がバケツを覗き込んで騒いでいた。
今日は小父さんが、生きたドジョウを持って来ていたのでアナタが柳川が好きだから
明日の休日の晩に柳川鍋をしようと思って買った、と言う。
突然、何かで読んだか聞いた料理法を思い出した。鍋に汁と豆腐とドジョウを一緒に
入れて火にかけると、まもなく熱くてたまらないドジョウがいっせいに豆腐に頭を
突っ込んでドジョウ豆腐が出来る。それがとてつもなくおいしいと。
翌日、相方はそんな料理法は聞いたことないと半信半疑だったが、強引なダンナに
負けてトライしてくれた。
台所は修羅場になった。ガスをつけてしばらくするとガタガタという大きな音がして
蓋を押しのけて必死のドジョウ達が鍋から飛び出した。
コンロの上の鍋から落ちたドジョウが台所の床を這い回る。
子供達はキャアキャア言って逃げ回る。
そこら中水浸しで、鍋の中の豆腐はカタチがないほどグチャグチャだ。
無言で冷ややかにこちらを見る相方の目を外し、必死でドジョウを捕まえた。
結局その晩はドジョウを捌いて、相方の当初レシピどうり柳川鍋に落ち着いたが
食べおわったのは随分遅かった。水浸しの床掃除は当然、自分以外誰もやってくれなかった。
その騒ぎとは無関係に子供が飼ってみたいというので、ベランダで一匹だけ小さな
バケツに別にしていたドジョウは、一週間後、幼稚園児の長女がつかんで遊んでいた時
手からスルリと抜け出し、あっという間にアパートの四階から下へ落ちた。
あーツ、お父さん、ドジョウが落ちたヨという娘の声で4階から下へ一気に階段を駆け降りた。
ドジョウは芝生の上で何もなかったように動いていた。
ドジョウを掴んで上がって来ると心配顔の娘達は大喜びだった。
その後、このドジョウは餌をもらい丸々と太り、長くベランダのバケツに住み着いた。
しかし相方は小父さんからドジョウを買うことは2度となかった。
10年くらい経って神戸に住むようになり、元町商店街の外れに泥鰌料理専門の
小さな店をみつけ、二人で柳川鍋をつついた時、相方がアナタは時々とんでも
ない事をおもいつくからと当時を思い出して笑った。
そして、今思い出したけど、ドジョウ豆腐はたしか落語のネタのどれかにあったんじゃないと言った。
#28 セロリ栽培・日本はじめて物語 2003.7.14
戦前、日本では野菜のセロリ(celery/和名・オランダ三つ葉)は
殆ど知られていませんでした。
☆ 日本が太平洋戦争に敗けた後、米軍(英、豪州軍も)が日本各地に占領軍として
数多く駐留しました。
昭和20年の占領初年から、この8月15日で丸58年が経過し、彼らは名前が変わって
同盟軍として58年経つ今も、継続して駐留してくれています?
占領軍のトップであるゼネラルマッカーサー始め米軍将兵は生の野菜をサラダで
常食するのでその材料の調達が毎日毎日必要でした。
しかし日本に新鮮な野菜はありましたが、生で食べる事が出来る野菜は
調達出来ませんでした。
なぜなら、当時の日本では、殆どの野菜農家は日本列島太古からの伝統リサイクル
黄金肥料(早い話が人糞肥料)もかなり使っているのがわかったからです。
戦前の日本では今の中国、台湾人と同じで野菜を生で食する習慣は
一般家庭では殆どありませんでしたし、日本人は昔から低コストで資源の
有効活用をしていたのです。
止むなく占領軍の調達部は日本政府に命じ、清潔な環境で化学肥料のみを用いて
野菜を作らせるようにしました。
米軍調達部”野菜栽培Cord”で作らせた野菜の中には、ジャガ芋、ニンジン、
キャベツ、玉葱、などに交じって彼らの好物ではあるが、それまで日本では
あまり栽培された事が無い種類がいくつかありました。
その一つにセロリがありました。
当時の農林省は、アメリカ本国でセロリを栽培している土地の気候風土を調べたところ、
寒冷地が適地であり、朝夕と昼間の気温差が大きく、カラッとして湿度が低い土地に
良質のセロリが育つという事がわかり、北海道や長野県で試験栽培しました。
長野県で栽培されたのは八ヶ岳の麓の高地で、現在の茅野市や
今ペンション村で知られる原村あたりがその中心です。
色々と試行錯誤の結果、アメリカで取れるセロリ並みの品質のものが出来るようになり、
苗の生育、成長途中、取入れ、洗浄、梱包、輸送と米軍検査部門の厳密な検査にパスし
関東、中京地区の米軍駐屯地へ出荷されるようになりました。
その輸送箱にはわざわざ「清浄野菜」というラベルが貼られて出荷されました。
日本の普通の八百屋(日本にスーパーが出現する10数年前の時代です)で売られて、
我々の親や我々が日々食した野菜は、彼らにとっては清浄ではなかったのですね。
☆ 中学校の夏休みに母の里の八ヶ岳山麓の地区へ四日市から遊びに行って、
始めてセロリに 出会ったとき、セロリが積んである土間へ入ると、あの独特の匂いが
漢方薬の匂いのようだと思いました。ただしその後長い間セロリは四日市の家の
近くの八百屋では見かけませんでした。
そして時代が下って、セロリも徐々に人に知られるようになり、関西でも万博以降
マーケットにも少しづつ出回るようになり、今ではどこのスーパーでも売られている
野菜になりました。
茅野の私の母方の従兄はもう何十年もセロリ専業農家をやっていますし、
また諏訪地方ではセロリは、ごく普通のポピュラーな野菜として味噌汁の具や
漬物にも使われて良く食べられています。
洗ってマヨネーズをつけて一本そのままバリバリ食べるのと、
漬物にしたセロリの浅漬けは私の大好物の一つです。
諏訪・茅野地区は寒天や凍豆腐(高野豆腐)の産地でもあるほどの寒冷地なので、
お米の単位あたりの収穫量は良くない土地ですが、セロリは東京という大消費地へ
出荷が出来る夏季の有利な近郊野菜として栽培が長く続いています。
恐らく今でもセロリの出荷額では日本の中では長野県がトップだろうとおもいます。
*最初に農林省から試験栽培を言われた農協の一つの組合長を
していた母の兄である伯父と一緒に、日本で最初にレタス栽培導入に携わり、
今も専業でレタスを作っている従兄から今回の前半の話を聞きました。
♪ところで昭和20年代後半の朝日新聞に連載された「ブロンディ」という
アメリカ家庭漫画があり、亭主のダグウッドが会社で弁当を食べる場面で、
紙袋からパンとは別に、白くて長いものを出してかぶりついている場面がよくあり、
あれはなんだろうと長年思っていたのですが、あるとき
「ひょっとしてセロリじゃないか」と思い当りましたがどうなんでしょうか。
#29 今年も月下美人の花を食す 2003.7.27
家に[月下美人]の鉢植えが二つあります。元々は母が育てていたもので恐らく20年以上家にあるものでしょう。
昔から毎年花をつけるのでウチでは毎年咲くのは当然の鉢なのですが数年前までよく新聞に「月下美人が花をつけた」と
写真入りで報道されることがあり、よそさんでは、花が咲くのがそんなに珍しいことかいと思っていました。
①月下美人はサボテンの一種だと思いますが、普段は乾燥種の葉が茂るだけで何の面白味もありません。
ところが一年に一度だけ強烈な芳香と共に真っ白な大輪の花をつけます。
花は夕方に開花すると明け方にはしぼんでしまいます。今夜は開花すると見当をつけて見ていないとサカリを見逃します。
たった一夜しか咲かないはかない花で、しかも夜間にだけ開くということからナルホド[月下美人]と名付けられたんやと納得する花です。
今年は合計6つ開きました。ファイル#0078は19日時点での蕾です。後の二つのファイルが本日27日の23時頃開花した満開の写真です。
いま、何とも言えない生臭い花の匂いの中でこれを書いていますが、この匂いは恐らく乾燥地帯の中で花粉を仲介する
虫か鳥を呼び寄せるための必死のシグナルなんだと思います。
②広島の単身赴任から戻った3年前から、家の中の鉢植え管理はどうせ家の事は何もしないんだからそれくらいやったらと、
事前打合わせもなく、知らないうちにボクの仕事になってしまいました。鉢の冬期の水遣りは結構神経を使うだけに、
今年も月下美人がつぼみをつけたのに気がついた時は内心「やったね」と快哉を叫びました。
花は二回楽しめます。夜間、花を目と鼻で楽しむのが一つ。朝それを摘んで、夕食にさっと湯を通したあと
三杯酢にして食べるのが月下美人開花の2番目の楽しみです。
今年は一回目の開花4輪を既に三杯酢で冷酒と共にやりましたが、明晩は今咲いている2輪をもう一度楽しみます。
匂いと舌触りはホヤに少し似ているかもしれません。
8年前のあの大震災が1月だったお陰で、水をやらなくとも何とか生き延びたウチの月下美人に今年も
「よっ、いつまでも美人やねぇ、来年も頑張りや」と声をかけ、ちょっと肥料もやって養生して一年後を期待して水遣りを続けます。
開いたあと食ったとさ
#30 九十九里浜から来た小父さん 2003.8.04
あらっ、この人あの魚屋の小父さんじゃないかしらと夕刊を見ていておもわず大声を出した。
えっどうしたのとテレビを見ていた二人の娘が、相方の両脇から頭を突っ込んで一緒に記事を読んだ。
「九十九里浜の海水浴場で水泳監視人が死亡」と出ていた。<これより遊泳禁止>の旗を無視して遠くへ泳ぎ出した高校生二人が、
共に溺れかけ地元のボランティアの監視人が泳ぎだして二人を助けたが、二人目を岸に連れ戻したあと心不全で亡くなったという記事だった。
昭和55年の秋、南柏の会社のアパートを出て取手市の隣りの藤代町に家を買って引越した。
JR取手駅からバスで10数分の戸建住宅ばかり900戸ほどの住宅地だった。
*1(今年の選抜に茨城県代表で出た県立藤代高校へは光風台というその宅地の入り口から10分ほどのところにある)
引越挨拶で近所をまわったとき、数軒の奥さんがその場で色々教えてくれた中に土曜日に魚屋さんが小型トラックで来て、新鮮な魚を買えるわよ、
そのトラックは前からお宅の家が建ったところの前に停まるからって教えてくださった。
家は住宅地の入り口にあるバス停まで歩けば10数分かかるという奥まった場所で、日常の買物はまわって来るスーパーの小型バスに乗るか
自転車で行くしかなかったが、自転車では結構距離があり難儀だった。
土曜日になると「魚屋だよ、魚屋だよ」と大きな声がして家の前にトラックが止まり近所の奥さん方が集まった。
取手駅のイトーヨーカドーまで行けばサカナは買えたが、この小父さんの毎週の行商のおかげで新鮮なイワシやサンマ、カツオなどが
手に入りうちもご近所も皆助かっていた。この小父さんに7年ほどお世話になった。
相方が小父さんといろいろ雑談する中で、小父さんは50歳代中頃で九十九里浜で漁師をしながら民宿を始め、
民宿シーズン以外はこうして行商をするようになったと言うことがわかった。
夕方のNHKのローカルニュースでも放送され小父さんの顔写真が映された時、相方と子供達は声がなかった。
特に3歳で引越して、小父さんが来ると毎回、相方について出ていた次女は、彼とは7年間近く毎週会っていた。
次女は生まれて初めて身近に知っている人が死ぬという経験をして、今でもあの時の事は忘れられない、
特に人の命を助けて自分が死ぬ事をする人がいるんだと忘れられないと言った。
毎月の家のローンと夫の呑み代・麻雀などの遊び代で手いっぱいで子供のおやつ代にまわる金はなく、
おやつは母親手作りのジャムやオカラと人参のケーキ、きなこ飴などしかなかった子供には小父さんが無造作に
ビニールを破ってハイといつも手渡してくれるヤクルトは本当においしくて毎週土曜日が楽しみだったと言う。
それからもう魚屋さんは来なくなり、その事に慣れ出して2ヶ月くらいしたら「魚屋だよ、魚屋だよ」と女の人の声が聞こえた。
外に出てみたら、あの見慣れた車の側に初めてみる女の人とその息子らしい若い人がいた。
予想どおり、あの小父さんの奥さんと長男で「これから引続きまわってきますので、ウチのお父さん同様よろしくお願いします」と挨拶された。
あの日の事を聞いてお悔やみを言った。
その秋に神戸に引越したので、そのあとどうされたか分からないけど、7年も毎週顔を合わせていたあんなに気風のいい人が、
ああいう亡くなり方をするなんていまでも忘れられない。海から遠く離れた土地で牛久沼の鰻やフナや鯉なんかはいつでも手に入る所だったけど、
あの小父さんのお陰で海の新鮮な魚も食べる事が出来てあの7年間は本当に魚には不自由しなくて済んで、ありがたい人だったと相方は言った。
いつものように飲んで麻雀をして終電で深夜1時過ぎに帰ったら相方が、今日大変なことがあったのと小父さんが亡くなった話をした日のことは私も覚えている。
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