
2025/07/02 06:05
■「曽根遺跡」ボーリング調査で判明
諏訪市の諏訪湖底にあり、日本で最初に発見された水中遺跡の「曽根遺跡」について、縄文時代中期から後期にかけての約千年間にわたって地上に露出していた区域があったとみられることが、新潟大理学部の葉田野希(のぞみ)准教授(前長野県環境保全研究所技師)らの研究グループによる湖底の堆積物の調査で分かった。諏訪湖の水位の変動が要因とみられる。
同遺跡が水中にある理由を巡っては、地上にあった遺跡が地滑りで湖に流入したとの説もあるが、今回の調査では、地滑りによる地層の乱れは確認できず、考古学関係者らからは、地上にあった同遺跡が湖の水位上昇により水没した―との説の実証につながる発見との見方が出ている。
■堆積物を採取
研究グループは昨年10月、同遺跡を巡る地質学的な調査としては初となるボーリング調査を実施。湖に流入する千本木川河口(諏訪市湖岸通り)の南西約300メートル、水深約2メートルの地点で約2・6メートル分の地層を採取した。遺物が多く出た場所からはやや離れた場所という。堆積物は放射性炭素年代測定や蛍光エックス線分析を用いて調べた。
■水位が上下、縄文期の1000年は地上に露出?
着目したのは、水中の植物プランクトンの量と比例する二酸化ケイ素の濃度。縄文時代中期以降の層で上下を繰り返していたことなどから、一帯は水没と地上への露出を繰り返していたと推測。堆積物の放射性炭素年代測定の結果、地上に露出していたのは約4200年前の縄文中期から約3200年前の縄文後期にかけての約千年間だったことも判明した。葉田野准教授によると、水位が上下した背景には降水量の増減や、流入河川の水量の変動が考えられるという。
同遺跡は後期旧石器時代から縄文時代草創期にかけてのものとされてきた。今回採取した地層はより新しい年代に堆積したものだが、葉田野准教授によると、諏訪湖の水位は、後期旧石器時代などを含め、比較的短期間で上下を繰り返していたとみられる。
■「地滑りの痕跡見られず」
葉田野准教授は「(遺跡)全体状況を把握するには、別の場所の堆積物も調べるなどさらなる調査が必要」とした上で、「採取した堆積物の状況を見る限り、地滑りをうかがわせる痕跡はみられなかった」とする。「今後は遺跡のより中心に近い地点で堆積物を採取し、地質の解明を進めたい」と話している。
考古資料の調査研究に取り組む一般社団法人大昔調査会(諏訪市)の三上徹也副理事長によると、同遺跡からは、今回のボーリング調査の結果と一致する、縄文時代中期のものとみられる土器の破片も出土している。三上さんは「積極的な土地利用があったわけではないかもしれないが、(縄文時代中期ごろに)地上に露出していた可能性はあるのではないか」と指摘。今回の調査結果について、「考古学的な積み重ねの大きな後ろ盾になる」としている。
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[曽根遺跡] 高島尋常小学校(現上諏訪小学校)教員だった橋本福松(伊那市出身)が1908(明治41)年、諏訪湖底で矢尻2個を発見。以後、南北350メートル、東西210メートルのエリアで矢尻や黒曜石のかけら、土器片など推定1万点以上が出土した。水中にある理由を巡り、「湖底にくいを立てて生活していた」「陸地だった部分が地滑りを起こし湖底に沈んだ」といった「曽根論争」が起きた。諏訪市出身の考古学者藤森栄一(1911~73年)は湖周辺に点在する遺跡の標高調査を基に、諏訪湖が縄文期に拡大、縮小を繰り返し、曽根遺跡は水位上昇で水没したとの説を65年に専門誌で発表した。
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