名言、珍言。
「経験の一つ一つが、
随分時間の経った今頃になってひょいと帰ってきて、
私を勇気づけてくれる。」
(植村 直己 登山家、冒険家)
植村 直己(うえむら なおみ、1941年(昭和16年)2月12日[1][2] - 1984年(昭和59年)2月13日[注 2][2])
1984年4月19日、国民栄誉賞を受賞した
「同1984年2月12日午後6時50分[注 138]、世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たした[405]。この日は、ちょうど植村の43歳の誕生日であった。しかし、翌2月13日午前11時に行われた軽飛行機[注 139]との、登頂に成功したこと、現在位置が20,000フィート[注 140](6,096m) であることを伝える無線交信[注 141]を最後に連絡が取れなくなり、消息不明となった[409][389]。2月15日、軽飛行機[注 142]が標高2,900mの氷河上に、植村がクレバスへの転落防止に使用した竹竿があるのを発見した[410][411]が、ベースキャンプや登山ルートに植村の姿は発見できなかった[410][411]。最後の交信から3日後の2月16日、軽飛行機のパイロット[注 143]が、標高4,900m地点の雪洞で植村と思われる人物が手を振っているのを視認した[412][注 144][注 145]。デナリ国立公園管理事務所は、軽飛行機2機、高度5,000mまで飛行できるヘリコプター[注 146]1機で広範囲の捜索を展開した[419][420]。2月20日、同公園管理事務所による捜索活動に参加していた2人の登山家[注 147]が標高4,200m地点の雪洞で、植村の日記[注 148]、カメラ、フィルムなどを発見した[423]。
また、
2月25日、標高4,900m地点の雪洞[注 149]でも植村の所有物を発見したが、
植村本人は発見できなかった[注 150][423]。2月26日、デナリ国立公園管理事務所は、「植村の生存の可能性は100%ない[425]」として捜索を打ち切った[425]。
その後、明治大学山岳部OB「炉辺会(ろばたかい)」によって捜索が行われた[426][注 151]が、植村は発見できず、3月6日、標高5,200m地点の雪洞に残された植村の装備を発見する[428][429]に留まった(標高5,200m地点から山頂までの間は捜索できなかった。)。
3月8日、炉辺会による捜索も打ち切られた[430][431]。
植村と最後に無線交信できた2月13日が命日となった[注 152]。享年43。
2011年5月、パーク・レンジャーにマッキンリー(現:デナリ)山中で遺体を発見したとの通報があり[注 167]、付近一帯の捜索が行われたが、発見されなかった」
勝手な解釈
そうだろうな。経験と、その行為が、後々出てくる。
害と、徳の行為か。
変な事も、残るのだ。その行為と思考。
正しく、整えないと。勘違いで、老人なり、過ち、続ける。
マッキンリーの山に、眠っているのかもしれない。
今だ。
そういえば、何年だろう。遺体見つからないのだろう。
残るは、行為、その後、自分か、遺体か、出てくるものだ。
不思議なものだ。
天罰は、あるものだ。
ーー
38年前は、知らない人は、知らない。
「随分時間の経った今頃になってひょいと帰ってきて、
私を勇気づけてくれる」
これは、本当かもしれない。自分の行為が、残る。
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名言、珍言。
「渡る世間に鬼はない
(わたるせけんにおにはない)」
(わたるせけんにおにはない)」
世の中には無慈悲な人ばかりではなく、
困れば助けてくれる情け深い人もいるということ。
人の情けにふれれば「渡る世間に鬼はない」と感動し、
手痛い目にあえば「渡る世間は鬼ばかり」と人間不信に陥るのが、
人の常。
鬼もいれば仏もいるというのが、この世の実相であろう。
勝手な解釈
あのドラマではなく、本当に意味は、地獄に落ちても、救われものがいる。
人は、最後は、どこでも、救いの人、地蔵がいるものだ。
地獄と、極楽に行くことできる、お地蔵さん。
また、蓮を見る度、蜘蛛の糸、思う。
そして、あの名言も、
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名言、珍言。
「情けは人の為ならず」
情をかけておけば,それがめぐりめぐってまた自分にもよい報いが来る。
人に親切にしておけば必ずよい報いがある。
補注:情をかけることは,
かえってその人のためにならないと解するのは誤り。
勝手な解釈
今や、難しい。
問われるは、不正のゆると、不正が拡大。
本当に、情をかけるとみていることかもしれない。
なんでも、すると、不正が、拡大、ダメは、止めるも、大切。
情は、かけすぎると、乗っ取られる。
変な人、団体に支援すると、破滅。
覚悟して、支援か、見ているも、必要。
子供も育てるも、見ているのが必要。
自立は、親に頼らないのが難しい。