■■■■■
「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義
今では埋もれ木のように朽ちた和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観で聞き直せば蘇える。
藤原定家の父俊成は、「歌の言葉は、浮言綺語に似た戯れであるが、(そこに歌の)深き旨も顕れる」という。この「深き旨」は、煩悩の表出であり歌に詠めば菩提(悟りの境地)であるという。これは平安時代の歌論と言語観の到達点である。藤原定家は、上のような事柄を当然踏まえた上で、「百人一首」を撰んだのである。
藤原定家撰「小倉百人一首」 (十二) 僧正遍昭
(十二) あまつ風雲の通ひ路ふきとぢよ をとめの姿しばしとどめむ
(天つ風、雲の通い路吹き閉じよ、天女のような・舞姫の姿、しばしの間、此処に・留めておきたい……あまつ風、乙女心に煩悩の・雲の通う路を吹き閉じよ、乙女の、清き姿・澄んだ心、あとしばし、留めておきたい)
言の戯れと言の心
「あまつ風…天の風…あまの心風…女の心に吹く風」「つ…の」「雲…空の雲…心に煩わしくも湧き立つもの…情欲・色欲など…広くは煩悩」「通ひ路…通り路…言の心はおんな」「をとめ…乙女…未婚の少女」「姿…容姿…からだ…す形」「す…洲…巣…言の心はおんな」「む…意志・希望の意を表す」
歌の気高き姿は、天つ風、天の通い路吹き閉じよ、天女のような舞姫たちよ、しばらくは天女のままでいてほしい。
言の戯れに顕れる趣旨は、純心無垢な乙女たちの、煩悩の通い路、吹き閉じよ、今しばらくはそのままでいてほしい。
「雲」が人の心に煩わしくも湧き立つものであることは、すさのおのみことの御歌に始まる。人の世になった時、すさのおのみことが、人の心の雲について人はどのように対処すべきかを示された歌のようである。若き頃、乱暴狼藉をはたらき、姉の天照大神を大いに困らせたが、出雲に来て、妻を娶り、宮を造る時に、詠まれた歌である。
八雲立つ出雲八重垣妻籠に 八重垣造るその八重垣を
(八重の雲が立つ出雲、八重の垣根を造り、妻の住む宮殿を造るぞ、先ずその・八重垣を……いつも・数多く煩わしくも心に湧き立つ雲、愛しい妻を籠もらせるように、八重垣を造るのだ、その・心雲のための、八重垣を)
「煩悩」という言葉の未だ無かった時代の歌である。それは、八重垣の内に愛しい妻のように籠もらせておこうという。「煩悩を断て」という教えとは異なる。
古今集仮名序には、次のように記されてある。
「人の世となりて、すさのおのみことよりぞ、みそ文字あまりひと文字は詠みける。かくてぞ、花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれみ、露をかなしぶ心、言葉多くさまざまに成りにける」。
「はな」「とり」「かすみ」「つゆ」、さまざまなものとは、人の心の雲(ごう・ぼんのう)を言い出す時に、「寄せる」あるいは「付ける」ものなのである。言いかえれば、「心に思う事を、見る物、聞くものにつけて言ひだせるなり」の見聞きする「もの」のことである。
これは、貫之をはじめ古今集撰者たちの歌についての共通の認識であろう。したがって、公任が優れた歌には、「深い心、清げな姿、心におかしきところが有る」という認識も当然のことである。