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「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義
平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌である。近代以来の短歌や国文学の和歌解釈に慣れてしまった人々には理解困難な歌論だろう。江戸の国学も近代の国文学もこれを無視して、新たなに和歌を解く方法を創り上げた。「序詞」「掛詞」「縁語」の修辞法で表現されてあったと言うのであるが、平安時代の文脈から見れば、奇妙な捉え方である。こちらの方を無視して、百人一首の和歌の奥義を紐解く。
藤原定家撰「小倉百人一首」 (三十一) 坂上是則
(三十一) あさぼらけありあけの月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪
(朝ほのぼのと明けるころ、残月の明りかと、まさかと・思うまでに、吉野の里に降った白雪よ……浅ほらけ、のこりのつき人おとこが、まさかと思うまでに・まさかと見るまでに、好しのの、さ門に、降った白ゆきよ)
言の戯れと言の心
「あさ…朝…浅」「ぼらけ…ほのぼの…ほがらほがら…洞け…空洞・虚し」「ありあけの月…明けの空に残る欠けた月…努め終えた尽きひとおとこ」「見る…思う」「見…覯…媾…まぐあい」「までに…(状態などの)限度を表す…(情態などの)限度を超えていることを表す」「吉野の里…土地の名…名は戯れる。良し野の里、好しののさ門、よきおんな」「里…家…言の心は女…さ門…おんな」「白雪…白逝き…白ゆき…体言止め、余情がある」「白…果ての色…おとこのものの色」
歌の清げな姿は、明け方の残月が照らすかと見えるほどに、映える里の白雪。
心におかしきところは、あさましく虚しい、残りのつき人おとこ、見る限度を超えてまで、好しののさ門に、ふった白ゆきよ。
古今和歌集 冬歌。詞書は「大和のくにゝまかれりける時に、雪のふりけるを見てよめる」とある。裏を返せば「大いなる和合の山ばに出掛けて行った時に、おとこ白ゆきの降ったのを見て詠んだ」歌。
この歌の次に置かれてある詠み人知らずの歌は、返歌ではないけれども、並べ置くのに相応しい歌である。女の歌として聞く、
題しらず よみ人しらず
消ぬがうへに又もふりしけはるがすみ たちなばみ雪まれにこそみめ
(消えない上に又も降り敷け、春霞が立てば、お雪見るのは稀になるでしょうから……消えない上にまたも降りしいてよね、情の・春が済み、絶たれれば、身ゆき、稀に見ることになるでしょうから)
「はるかすみ…春霞…春が済み…春情が澄み」「たちなば…立ちなば…立春ともなれば…断ちなば…絶ちなば」「みゆき…御雪…身ゆき…おとこ白ゆき」「み…見…覯…媾…まぐあい」「め…む…推量の意を表す」
男は複数の妻の許へ訪れるのが普通の世の中だったので、この詠み人知らずの女の「心は深い」のである。歌は「清げな姿」がある。「心におかしきところ」が愛でたく添えられてある。歌の内容は是則の歌の次に並べ置くのに相応しい。