帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (二十七) 中納言兼輔 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-01-27 19:37:48 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であると言う。近代以来の短歌や国文学の和歌解釈に慣れてしまった人々には理解困難な歌論だろう。江戸の国学も近代の国文学もこれを無視して、新たなに和歌を解く方法を創り上げた。「序詞」「掛詞」「縁語」の修辞法で表現されてあったと言うのであるが、平安時代の文脈から見れば、奇妙な捉え方である。こちらの方を無視して、百人一首の和歌の奥義を紐解く。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (二十七) 中納言兼輔

 

 (二十七) みかの原わきて流るるいづみ川 いつみきとてか恋しかるらむ

(みかの原を、分けて流れる、いづみ川、あの景色・あのひとの姿、何時見たというのか、どうして恋しく思われるのだろうか……身かの腹、湧きて流れる井津身かは、何時見たと言うのか・見てもいないのに、乞いしい、どうして求めるのだろうか)


 言の戯れと言の心

「みかの原…土地の名…名は戯れる。見彼の腹、身かの腹」「わきて…分きて…別きて…湧きて」「いづみ川…川の名…名は戯れる。何時見かは…井津身かは」「かは…川の言の心は女・おんな…疑問の意を表わす…反語の意を表す」「みき…見た…眺めた…見かけた…垣間見た…関係をもった」「見…覯(詩経の言葉)…媾…まぐあひ…みとのまぐあひ(古事記にある言葉)」「恋し…乞いし…求めたくなる」「らむ…推量…原因理由を疑問として提示する…人の本能だけど、なぜかわからない」

 

新古今和歌集 恋一にある。題知らず。


 歌の清げな姿は、少年が大人になるころ、何時か見かけた少女が、なぜか無性に恋しくなる春情のめばえ。

心におかしきところは、女の身の川を見たこともないのに、求めている、どうしてだろうか。

 

歌は、深い心がある。清らかな川のような姿をしている。心におかしきところが、程良く添えてある。

 

藤原兼輔は、紀貫之ら古今和歌集撰者たちの有力な支援者だったようである。承平三年(933)歿。貫之は土佐国赴任中に、この人の悲報を聞く。悲嘆、落胆の大きさは、紀貫之撰「新撰和歌集」の序文に表われている。ほぼ次のようなことが述べられてある。


 醍醐天皇の御時、紀貫之等は、勅撰集の「古今和歌集」の撰進を果たした。数十年後に貫之は、改めて秀れた歌を抽出するように勅命を受け、土佐国守に赴任中、政務の余暇に、ようやく秀歌の選定成ったものの、帝は既に崩御。勅を伝えた中納言の藤原兼輔もまた逝去された。

土佐より帰京した日(承平四年二月)、献上しょうとした「妙辞」は、空しく文箱の中にあり、独り落涙する。もしも貫之逝去すれば、歌は散逸するだろう。この「絶艶の草」が、またも鄙びた野の歌に混じってしまうのは恨めしい、故に、来るべき代に伝えようとして公にする。

撰んだ歌は「花実相兼」なるもののみで、「玄之又玄」である。唯に春の霞や秋の月を詠んだ歌にあらず、「漸艶流於言泉(言葉の泉に艶流しみわたる)」ものである。 皆これらを以って、天地、神祇を感動させ、人倫を厚くし、孝敬を成し、上は歌でもって下を風化し、下は歌でもって上を風刺するのである。

ここで、貫之の云う「妙辞」「絶艶の草」「花実相兼」「玄之又玄」「漸艶流於言泉」などという言葉を実感として、和歌に感じることはできないのは、和歌の国文学的解釈が、近世、近代、現代にかけて長年に亘って間違った方向に進んでしまったためである。

 

言葉は、その時代のその文脈で通用していた複数の意味を孕んでいる。その厄介な言葉を逆手にとって(利用して)、普通の言葉では言い表すことのできない人の生々しい心根を、清げな景色や物で包むように表現する高度な文芸であったと考えられる。とすれば、「絶艶」とか「艶流」は、「玄之又玄」なるところに秘められてある。貫之の和歌に関するすべての言説は、ないがしろにせず、この時代の和歌解釈の助けとすべきだろう。