帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

古今和歌集の歌の秘儀(二)

2013-03-04 06:01:16 | 古典

    



               古今和歌集の歌の秘儀(二)

 
古今和歌集の歌の多重の意味は、鎌倉時代に秘伝となって、やがて下の心は埋もれ木となった。国学と国文学が解き明かすのは歌の清げな姿のみである。
  「
心におかしきところ」という下の心を蘇えらせるために、意味が秘義となる以前に帰って、平安時代の人々は歌をどのように享受していたかということからやり直そう。



 二条の后の春のはじめの御歌


 巻頭の一首は思春期を迎えた少年のとまどいの歌であった。少女の早春の日の青春の歌は、古今和歌集春歌上の第四首目に置かれてある。聞きましょう。


  二条の后の春のはじめの御歌

雪のうちに春はきにけり鶯の 凍れる涙いまやとくらむ

二条の后の(季節の春のはじめの御歌…春の情の初めの御歌)

(雪の降るうちに立春は来たきことよ、鶯の凍っている涙、いまごろ、とけているでしょうか……ゆきのうちに、春はきたことよ、女の凍っている涙、いま、とけるのでしょうか)。


 言の戯れと言の心

「ゆき…雪…白…おとこ白ゆき…男の情念」「はる…季節の春…情の春」「うぐひす…鶯…春告げ鳥…鳥の言の心は神世から女」「こほれる…凍っている…心に春を迎えていない…こ掘れる」「こ…小…接頭語」「ほる…井掘る…まぐあう」「らむ…見ていない事を推量する意を表す…事実を推量の形で婉曲に述べる…事実を詠嘆的に述べる」。


 鳥は女であること

鳥が女であるなどとは、根拠の無い、実証できないことである。もとより言葉の意味にいちいち根拠などない、くわえて、とりとめもなく戯れるものである。この国では神代から鳥の言の心が女として用いられてきたためである。『古事記』を開けば、鳥は女であったことがわかる。要約して示す。


 賢しくて麗しい女がいると、お聞きになった八千矛の神は、さよばい(娶り)にお出ましになって、おとめの寝る板戸を、押しゆるがして、「我が立たせれば、あを山に、ぬえは鳴きぬ、さ野つ鳥ききしはとよむ、庭つ鳥かけは鳴く、うれたくも(腹立たしくも)鳴くなる鳥か、この鳥も、うち止めこせね(さっと止めさせろ)――」とお詠いになられた。

賢しこく麗しい沼河姫、未だ戸を開かずお詠いになった。「八千矛の神のみこと、(われらは)ぬえ草の女にしあれば、わが心、浦渚の鳥ぞ、今こそは我鳥にあらめ、後は汝鳥にあらむを、命はな死せたまひそ(命まではとらないでね)――」。


 鳥は御仕えする女たちであり、沼河姫自身のことである。これを比喩とか擬人法と捉えるよりも、鳥の「言の心」は女であると心得るのである。


 雪は男の情念であること

「雪」が男の白い情念であることは、二条の后の御歌の前後に置かれた歌で普通に通用している事である。その歌を聞きましょう。


  古今和歌集 春歌上第三首目 題しらず、よみ人しらず、

春霞たてるやいづこみ吉野の よしのの山に雪はふりつゝ

(春霞が立ち始めたのは何処、みよしのの吉野の山に、雪は降り続いているのに……はるが済み、絶つたか、出づこ、見好しのの好しのの山ばに、白ゆきふりかさねつつ)。


 言の戯れと言の心

「春…季節の春…情の春…張る」「立つ…絶つ…断つ」「いづこ…何処…出づこ」「こ…おとこ」「山…山ば」「雪…おとこ白ゆき…男の情念」「つつ…繰り返す…反復を表す…続く…継続を表す…(時に詠嘆の意を含む)筒…空」。

 

同 第五首目 題しらず、よみ人しらず、

梅が枝にきゐる鶯はるかけて 鳴けどもいまだ雪はふりつゝ

(梅の枝に来て居る鶯、春告げて鳴いても、未だ雪は降りつづく……男花の枝に、気入る女、はるを告げて泣けども、いまだ雪はふりつづく)。


 「梅…木の花…男花…おとこ花」「枝…身の枝…おとこ」「鶯…鳥…女」「春…季節の春…情の春」「かけて…告げて…声に出して」「鳴く…泣く」。「雪」と「つつ」は上の歌に同じ。

 

このように、大人の歌には性愛にかかわる艶なる「心におかしきところ」がある。現代語のエロチシズムのあるのが普通である。元方の歌と二条の后の春のはじめの御歌のように純真無垢な感じがする歌は稀で貴重なのである。


 仮名序に「今の世の中、色に尽き、人の心、花になりにけるより、あだなる(徒な…婀娜な)歌、はかなき言のみ出で来れば、色好みの家に埋もれ木の、人知れぬ事となりて、花薄、穂にい出すべき事にもあらずなりにたり」とあるのは、古今集編纂時の歌の現状が、上のような歌の氾濫となっていたことを述べている。


 このような歌についての国文学の解釈は、清げな歌の姿を解くだけである。「歌の様」を知らず、「春」を季節の春と決めつけるなど「言の心」心得ないためである。