帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

古今和歌集の歌の秘儀(三)

2013-03-05 06:03:46 | 古典

    



            古今和歌集の歌の秘儀(三)



 古今和歌集の歌の多重の意味は、鎌倉時代に秘伝となって、やがて下の心は埋もれ木となった。国学と国文学が解き明かすのは歌の清げな姿のみである。「心におかしきところ」という下の心を蘇えらせるために、意味が秘義となる以前に帰って、平安時代の人々は歌をどのように享受していたかということからやり直そう。


 紀貫之の春たちける日の歌


 古今集の第二首目の歌を聞きましょう。この歌も、置かれた位置から、立春の日の歌であると同時に春情の初めの歌であると推定される。古今集撰者紀貫之は、それをどのように詠んでいたのか聞きましょう。

袖ひちてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらむ

(袖を濡らして手で掬った水が凍っているのを、春立つ今日の風、とかしているだろうか……そでぬらし結んだをみなが、心に春を迎えず凍っているを、春たつ京の心風、とかしているだろうか)。


 言の戯れと言の心

「そで…袖…衣の袖…端…身の端」「ひちて…浸して…濡らして…ぬれて」「むすぶ…手で掬う…結ぶ…ちぎりを結ぶ…結婚する」「水…女…水草、水鳥、沼、川、滝、泉、など、なぜか言の心は女」「こほれる…凍っている…水ぬるむ春ではない…心に春を迎えていない…こ掘れる…まぐあう」「を…対象を表す…感動・詠嘆を表す…お…おとこ」「春…季節の春…春の情…張る」「たつ…(季節などが)始まる…起つ…立つ」「けふ…今日…京…山の頂…極まったところ…感極まったところ」「かぜ…風…心に吹く風…春かぜなど」「らむ…現在の事実について推量する意を表す…(新妻の心の内を)推量する意を表す」。


 歌は上のような言の戯れを全て踏まえられて、用いられてある。意味が三層に重なっていることがわかるでしょうか。


 藤原俊成は上のような言の戯れの内に顕れる意味を、当然聞きとった。『古来風躰抄』で、次のように評する。

この歌、古今にとりて、心もことばも、めでたく聞こゆる歌なり(この歌は、古今集の歌として、心も言葉も、愛でたくなる程すばらしと、聞こえる歌である……この歌は、いにしえも今でも、心におかしきところも、吟味され用いられた言葉も、愛でたいと聞こえる歌である)」。


 歌が色好みに堕落したのを嘆いた人の歌である。色情の表現は適度に抑えられてあって、二重に包まれて、絶艶とか妖艶とは言えないが、心におかしきところが「玄之又玄」なる処にあるのは、今の人々にもわかるでしょうか。


 俊成の子、定家は、貫之の歌について、『近代秀歌』(秘々抄とも云われる)で、次のように評している。

昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、ことば強く、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の躰を詠まず。それよりこの方、その流れうくるともがら、ひとへにこの姿におもむく」。そして、「花山僧正、在原中将、素性、小町が後絶えたる」という。それは、「余情妖艶」な歌のことである。


 「妖艶」とは文字通り、女があやしく身をくねらせるるようななまめかしさをいう。小野小町の歌の「余情妖艶」なさまを味わってみましょう。


 小野小町の花の色の歌


 古今和歌集 春歌下。定家が百人一首に撰んだ歌。

花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに

(わが花顔の色香は移ろうたようね、いたずらにわが身、世に経てもの思いに耽っていた間に……お花の色情は衰えたようね、いたずらにわが身、夜にふる、ながめしていた間に)。


 言の戯れと言の心

 「花…草の花(なでしこ・おみなえし等)…女花…花顔(楊貴妃の顔など女の美しい顔)…木の花(梅・桜など)…男花…はかなく散るおとこ花」「色…色彩…色香…色情…かたちある無常なるもの…おとこ」「み…身…見…覯…まぐあい」「世…夜」「ふる…経る…振る」「ながめ…眺め…見る…もの思いに沈む、耽る…長めののまぐあい…長雨…淫雨」「見…覯…まぐあい」。


 余情の「心におかしきところ」は言の戯れに顕れている。「深き心」は、有れば、直接、心に伝わるでしょう。


 草の花と木の花は「言の心」が異なる。この歌では両方の意味に戯れている。それを、花は桜と決め付けて女の容姿のたとえとし、小町が我が容姿の衰えを詠んだ歌とのみ聞けば、小町の歌にあるという「余情妖艶」が聞こえない。定家以降、この余情妖艶なところが秘義秘伝となってゆく。