帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (255)おなじ枝をわきて木の葉のうつろふは

2017-07-16 19:04:16 | 古典

            

 

                       帯とけの古今和歌集

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下255

 

貞観御時、綾殿の前に、梅の木ありけり。西の方にさせり

ける枝のもみぢ始めけるを、殿上に侍ふ男どものよみけるつ

いでによめる。                藤原勝臣

 おなじ枝をわきて木の葉のうつろふは 西こそ秋のはじめなりけれ

(貞観の御時、綾綺殿の前に梅の木があった。西の方にさし出た枝がもみぢし始めたのを、殿上に侍う男どもが詠んだ、ついでに詠んだと思われる・歌……清和天皇の御時(859876)、綾綺殿の前に梅の木(男木)があった。西(丹肢)の方にさし出た肢が、厭き色に変わったのを殿上に侍う男どもが詠んだ。その機会にさりげなく詠んだらしい・歌)、藤原勝臣(この頃まだ若く、殿上人ではなかった)

(同じ木の枝なのに、特別に、木の葉が、色づき枯れゆくのは、西方こそ、秋の始めだったのだなあ……同じ人の身の枝なのに、別けて、男の身の端の色情衰えるのは、丹肢こそ厭きの始まりだったなあ・嬪が肢ではなく)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「枝…木の枝…身の肢」「を…なのに」「木…言の心は男」「葉…端…身の端」「うつろふ…移ろう…悪い方に変化する…秋色変わる…色情衰える」「西…にし…丹肢…赤土色の身の肢…おとこ…(東…ひんがし…嬪が肢…おんな)ではない」「秋…飽き…厭き…も見じ」。

 

同じ木の枝なのに、特別に西の枝の葉が秋色になるのは、やはり西方から、秋が来始めるのだなあ。――歌の清げな姿。

人の厭きは、にし(丹肢)から始まるようですなあ・天の摂理かも、ひんがし(嬪が肢)に厭きが来るのは何時の事やら。――心におかしきところ。

 

 殿上人たちは、通う妻の嬪が肢の、厭きの遅さに悩む歌を詠んでいたのだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)