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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。
歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (251)
秋の歌合しける時によめる 紀淑望
もみぢせぬときはの山は吹風の をとにや秋をききわたる覧
(秋の歌合した時に詠んだと思われる・歌……あきという題で歌合した時に詠んだらしい・歌) 紀のよしもち(真名序の作者)
(紅葉しない常磐の山は、吹く風の音に、季節の・秋を聞き知っているのだろうか……も見じしない・厭きない、常磐の山ばは、吹く心風のおとにかな、おとこの・厭きを感じつつ、見ると・乱れているだろう)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「もみぢ…秋の木の葉の色…厭きの色情…も見じ(もう見ない)」「見…覯…媾…まぐあい」「ときは…常磐…常と変りなし…盤石の」「石・岩の言の心は女」「山…山ば」「風…心に吹く風…厭き風など」「をと…音…おと(こ)」「秋…飽き…厭き…もう見ない…気が進まない」「きき…聞き…感じ」「覧…見…覯…まぐあう…らん…らむ…だろう(推量を表す)…乱…乱れる」。
紅葉しない常緑の山は、吹く風の音に、秋を感じているのだろうか。――歌の清げな姿(歌に着せた鮮衣)。
も見じしない・厭きを知らない、常磐の・おんなの山ばは、おとこに厭きを感じ続けるだろう・みだれて・まだ見ると。――心におかしきところ。
「女の身の端には、厭きはなかったなあ」という文屋康秀の歌の趣旨をそまま、別の視点と表現で女の性(さが)を詠んだ歌である。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)