帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (251)もみぢせぬときはの山は吹風の

2017-07-12 19:06:45 | 古典

            


                          帯と
けの古今和歌集

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下251

 

秋の歌合しける時によめる       紀淑望

もみぢせぬときはの山は吹風の をとにや秋をききわたる覧

(秋の歌合した時に詠んだと思われる・歌……あきという題で歌合した時に詠んだらしい・歌) 紀のよしもち(真名序の作者)

(紅葉しない常磐の山は、吹く風の音に、季節の・秋を聞き知っているのだろうか……も見じしない・厭きない、常磐の山ばは、吹く心風のおとにかな、おとこの・厭きを感じつつ、見ると・乱れているだろう)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「もみぢ…秋の木の葉の色…厭きの色情…も見じ(もう見ない)」「見…覯…媾…まぐあい」「ときは…常磐…常と変りなし…盤石の」「石・岩の言の心は女」「山…山ば」「風…心に吹く風…厭き風など」「をと…音…おと(こ)」「秋…飽き…厭き…もう見ない…気が進まない」「きき…聞き…感じ」「覧…見…覯…まぐあう…らん…らむ…だろう(推量を表す)…乱…乱れる」。

 

紅葉しない常緑の山は、吹く風の音に、秋を感じているのだろうか。――歌の清げな姿(歌に着せた鮮衣)。

も見じしない・厭きを知らない、常磐の・おんなの山ばは、おとこに厭きを感じ続けるだろう・みだれて・まだ見ると。――心におかしきところ。

 

「女の身の端には、厭きはなかったなあ」という文屋康秀の歌の趣旨をそまま、別の視点と表現で女の性(さが)を詠んだ歌である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)