帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 64 難波めの釣りする人に

2014-02-28 00:06:52 | 古典

    



                帯とけの小町集

 


 小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも直に伝わるでしょう。

 


 小町集 64

 

(井手のやまぶきを)

(山城の井手の山吹の花を・詠んだ……山ばの吹き出しを・詠んだ

 難波めの釣りする人にめがれけむ 人もわがごと袖やぬるらむ

 (難波の女が、釣りする男にみすてられたのだろう、この人も、わたしと同じように、それで袖を濡らしているのでしょうか……いなかの女が、つりする男にめ離れされたのでしょう、この女も、わたしと同じように、山吹のお花なくひとり・身の端濡らすのでしょうか)。


言の戯れと言の心

「難波め…難波の国の女…田舎女…何は女…知らない女」「釣り…漁…猟…女あさり」「めかれ…目離れ…女離れ…おんな離れ」「そで…袖…涙で濡らすもの…身の端…おんな」「ぬる…濡る…(舟こぐ女の袖が波飛沫に)濡れる…(悲しみの涙で袖が)濡れる…(ひとり身の端が)濡れる」「る…自然にそうなってしまう…自発の意を表す」。


 

歌は「清げな姿」だけではない、「心におかしきところ」がある。そこに小町のエロス(性愛・生の本能・煩悩)が顕れている。


『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり同じではない。

 


 以下は、歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 

古今集真名序には「彼の時、澆漓(軽薄な)歌に変わり、人々は奢淫(おごって・淫らな)歌を貴び、浮詞は雲と興り、艶流れ泉と湧く、歌の実皆落ち、その華独り栄える」とある。彼の時は、小野小町等が歌を詠んだ時代のことである。

 

紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。

 

貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、歌に詠まれたそれは、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。

 

清少納言の言語観は『枕草子』(3)にある。「同じ言なれども、聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉」。同じ言葉でも、聞く耳によって異る『意味に』聞こえるもの、それが我々の言葉であるという。

 

上のような平安時代の言語観と歌論を無視して、江戸時代以来、国学と国文学によって、歌集や歌物語の歌の注釈と、「清げな姿」のみから憶測する解釈が行われてきたけれども、それらは根本的に間違っている。