帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 43 ひぐらしの鳴く山里の

2014-02-03 00:24:11 | 古典

    



                帯とけの小町集



 小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも直に伝わるでしょう。



 小町
43


(とあるかえし)

 ひぐらしの鳴く山里の夕暮れは 風よりほかに訪ふ人ぞなき

「貴女のそでに溜まらない白玉は、合い見ても飽き足りることのない、をんなの涙だったのだなあ」などと言われた返し、

 (ひぐらし蝉の鳴く山里の夕暮れは、秋風のほかに訪れる人もいない……日暗し・背身の泣く、山ばのさ門の果て方は、心に吹く風のほかに訪う者ぞ無き)。


 言の戯れと言の心

「ひぐらし…初秋に鳴く蝉の名…名は戯れる。日暮らし、陽暗し、斜陽、ひくらし背身」「鳴く…泣く…なみだを流す」「山…山ば」「さと…里…女…さ門…をんな」「夕暮れ…陽の果て方」「風…心に吹く風…飽風…厭風…ひややかな風」。

 

わたしに、このような、あきの悲哀を感じさせるのは、おろそかで、あさはかな、おとこのさがの所為でしょう。これが「人を見ぬ(おとこを飽き満ちるまで合い見たことがない)」と嘆く女の言い分である。

 


 『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり、同じではない。



 以下は、歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 古今集真名序には「彼の時、澆漓(薄ぺらい)歌に変わり、人々は奢淫(おごって・淫らな)歌を貴び、浮詞は雲と興り、艶流れ泉と湧く、歌の実皆落ち、その華独り栄える」とある。彼の時は、小野小町等が歌を詠んだ時代のことである。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、歌に詠まれたそれは、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。