帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 春 (二)

2012-10-16 00:03:01 | 古典

    



            帯とけの金玉集 



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。


 公任の撰した『金玉集』には「優れた歌」が選ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、心におかしきところが明らかになるでしょう。

 


 金玉集 春(二)壬生忠峯

 春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞みて今朝は見ゆらむ

 (立春だと言うだけでかな、み吉野の山も春霞にかすんで、今朝は見えているのだろう……張る立つというだけでかな、身好しのの山ばも、目もかすんで、今朝はみているだろう)


 言の戯れと言の心

 「春立つ…季節の春がくる…暦の立春となる…張る立つ…膨張し直立する」「ばかり…ほど…だけ」「にや…であろうか」「み吉野…吉野の美称…見好しの…身好しの」「山…山ば」「かすみて…春霞にかすんで…ぼんやりとして…疲労のためか目がかすんで」「見…覯…媾…まぐあい」「らむ…原因・理由など推量する意を表す」。


 歌の清げな姿は、立春の日の吉野山の想像的景色。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、昨夜から今朝もつづく男女の情況を想像させるところ。


 絶艶とは言えないけれど、性愛は間接的表現に加えて清げな姿に包まれてあって、「玄之又玄也」といえる歌でしょう。


 歌の様を知らず言の心を心得ない人は、()()の歌を、叙景歌とか自然詠と名付けたくなるでしょう。そのよな一義な言説はもとより歌ではない。公任の「優れた歌の定義」からわかるように、清げな姿、心におかしきところが
一つの言葉で表されて、時には、深い心があるのが和歌である。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


 『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。