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帯とけの金玉集
紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。
公任の撰した『金玉集』には「優れた歌」が選ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、心におかしきところが明らかになるでしょう。
金玉集 春(二)壬生忠峯
春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞みて今朝は見ゆらむ
(立春だと言うだけでかな、み吉野の山も春霞にかすんで、今朝は見えているのだろう……張る立つというだけでかな、身好しのの山ばも、目もかすんで、今朝はみているだろう)。
言の戯れと言の心
「春立つ…季節の春がくる…暦の立春となる…張る立つ…膨張し直立する」「ばかり…ほど…だけ」「にや…であろうか」「み吉野…吉野の美称…見好しの…身好しの」「山…山ば」「かすみて…春霞にかすんで…ぼんやりとして…疲労のためか目がかすんで」「見…覯…媾…まぐあい」「らむ…原因・理由など推量する意を表す」。
歌の清げな姿は、立春の日の吉野山の想像的景色。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、昨夜から今朝もつづく男女の情況を想像させるところ。
絶艶とは言えないけれど、性愛は間接的表現に加えて清げな姿に包まれてあって、「玄之又玄也」といえる歌でしょう。
歌の様を知らず言の心を心得ない人は、(一)や(二)の歌を、叙景歌とか自然詠と名付けたくなるでしょう。そのよな一義な言説はもとより歌ではない。公任の「優れた歌の定義」からわかるように、清げな姿、心におかしきところが一つの言葉で表されて、時には、深い心があるのが和歌である。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。